語り得ぬものについては沈黙しなければならない。 -2ページ目

【安保法制案】 反対を表明しないのは賛成と同じである。

東日本大震災のときの海上自衛隊の災害派遣活動とその後を追ったドキュメンタリー作品『ポセイドンの涙』は、3月の「ヒューマントラスト渋谷」での上映を皮切りに、大阪、広島、長崎など各地を回り、いよいよ9月19日からの二週間、キネカ大森(東京 http://www.ttcg.jp/cineka_omori/ )での上映が劇場公開の最後となる。

僕と、大島孝夫さんの共同監督作品だ。9月26日には劇場での登壇も監督登壇も予定されているから、時間があったら見に来てね。( http://www.is-field.com/poseidon/

撮影期間中は海上自衛隊の隊員たちにまさに密着していたのであった。自衛隊のドキュメンタリーはいろいろあるが、居酒屋で酒飲んでる隊員の本音を撮影したような作品はほとんどないぞ。

この作品では海幕広報に全面協力していただいた。だから市ヶ谷の防衛省にもたびたび足を運び、空港のようにX線による手荷物検査と金属探知機を受けてから重要施設にも出入りしていた。各地の基地でカレーライスも食べたし、艦内での撮影では機密とされる計器類などが映らないようカメラアングルも考えた。(軍事に機密事項があるのは当然である。だが、為政者の好き勝手に秘密を定め、しかも未来永劫開示しないというのが特定秘密保護法の問題である)

というわけで僕は自衛隊が、というか自衛隊員の人たちが好きなのだ。

みんないい人だったよ。
海幕広報の担当者Sさんや共同監督の大島さんは、撮影現場で隊員たちの話を聞くたびに泣いていたが、作品至上主義で冷徹無比な僕にしてみれば現場で泣くなんて考えられなかった。
ところが最後の撮影で恥ずかしながらついに泣いた。隊員たちの災害派遣活動に、ほんとうに心打たれるものがあったからだ。
まあそんな気持ちがどこまで伝わるかはわからないけれど、ぜひ見に来てね。9/19~キネカ大森( http://www.ttcg.jp/cineka_omori/ )で最後の劇場公開だ。

と、宣伝を行ったのも、僕の考えていることをあらためてきちんと伝えたほうが良いと思うからである。

馬鹿なネトウヨとかがさ、「安保法制に反対するのは自衛隊嫌いなサヨク」とか、もっとひどいのになると「支那の手先」とか、愚にもつかないくだらないことを言っているが、お前らもうちょっとちゃんと考えろ。

昨日は参院の公聴会で「SEALDs」の奥田君がまさに的確な発言をしていたのだが、ニコ生中継を見ていたら、馬鹿どもが「中国に帰れ」とか言っていた。ほんとうに糞のような連中だ。他人の悪口言うのなら自分の名前も晒せよな。

僕は奥田君とかの父親のような年齢だが、SEALDsに賛同し応援したくて、7月からは皆勤賞で国会前のデモに参加している。
ていうか安倍晋三君の安保法制案は、まるでお話にならないからである。

これはいろんな人が言っているので今更書かないが、安倍晋三君のやろうとしていることは民主主義、立憲主義の否定であり、独裁そのものだということだ。
国際政治学者とか名乗る安倍晋三君のお友達連中は、中国の脅威とかを持ち出して「現実を見ろ」と言う。まるで安保法制案に反対するのは現実が見えていないかのごとき物言いだ。
しかし、はっきり言っておきたいが、安倍晋三君が目指しているのは「現実の独裁」だよ。中国に対抗するためには独裁政治も許して良いと言いたいのだろうか?

僕は、安全保障の議論はきちんとすべきだと考える。憲法9条は素晴らしいが、国民投票の結果改正するのならそれも良かろう。
だが、安倍晋三君が目論む卑怯な解釈改憲は断固許されない。

『ポセイドンの涙』の撮影で多くの自衛隊の人と話をした。階級もさまざまだ。人間的に素敵な人、人格者がたくさんいた。
彼らは、万が一日本が不当な武力攻撃を受けた場合には、命がけで闘ってくれるだろう。
津波や洪水と言った自然災害でも身の危険を顧みず救助に当たるだろう。
僕は、自衛隊員のメンタリティは、そんな人道主義だと信じている。それが、これまで60年、誰ひとりとして殺すことのなかった、世界に誇る日本の自衛隊である。
だからこそ、安倍晋三君やその極右仲間の利己的国粋主義で、自衛隊員を戦地に送るな、と言っておきたい。

さてと。
酔っ払ってきたのでそろそろ本題を書かねばなるまい。

安倍晋三君の身勝手な安保法制案は今日(16日)にも参院委員会で強行採決されようとしている。
すべての世論調査で圧倒的過半数が今国会での成立は駄目と言っているにもかかわらずだ。

でね。
言いたいのはこれだ。

みんな、反対なら態度で示してくれよ。

気持ちは反対だけれど何も言わない何もしないというのは、結果的に現状追認、つまり賛成としてカウントされてしまうのだ。

僕は、政治的な問題のすべてに国民が意志表示すべきだとは考えない。政治家や役人に勝手にやらせたほうが良い問題が大半だ。
しかし、国のありかたの根本に関わる問題は別である。
安保法制がまさにそれだ。

自民党が選挙で勝ったからと言って、国民は「全権委任」「白紙委任」はしていない。

だから、自民党支持者や公明党支持者であっても、「景気のことを考えて投票はしたけれど、安保法制案は違うんじゃない?」と思うのならば、きちんと表明しなければならない。
それをしないと賛成だと見なされるぞ。心の中で「反対」と思っているだけでは駄目なのだ。

デモに参加するのもいいし、SNSで「いいね!」するだけだって良いのだ。

思ったことは堂々と口にできる。それが日本という国の素晴らしさではなかったのか。

馬鹿で卑怯な安保法制答弁~分析なき「総合的判断」の非論理性

安保法制案はそもそも違憲なのだが、それをさておいても悪法である理由のひとつは、まるでザル法だからだ。歯止めというものがまったくない。

安倍政権の嘘や馬鹿っぷりは戦後最悪であるが、仮に彼らが言っている「自衛隊員のリスクは増大しない」とか「米国の戦争に巻き込まれることはない」とかを信じるとしよう。
ところがどっこい、この法案が通ってしまうと、未来の政権が何をしでかすかわかったもんじゃない。

安倍晋三君や日本会議の仲間たち、あるいは法案に賛成な人たちはそのことを理解しているのだろうか?
今はいい気になっている安倍政権だが、安保法案、TPPの失敗、改善しない景気、消費増税、進まない被災地復興、戻らない拉致被害者、原発再稼働、普天間新基地問題などなどで、実は虫の息だ。長くは続かない。
ヒロイズムに酔っているだけのアタマの悪い裸の王様、安倍晋三君は気付いていないのだろう。君は、自分にだけでなく今後成立するあらゆる政権に、好き勝手を許そうとしているのだよ。いつの日か極左政権ができるかもしれないが、安倍晋三君は、誰であれ未来の権力者に「戦争の自由」を保証しようとしているのだ。

昨夜はNHKスペシャル「緊急生討論10党に問う~どうする安保法案採決」を見た。
自民党からは高村正彦君が参加していたのだが、民主党や共産党に細かいことを突っ込まれると、国会審議同様に「総合的に判断して云々」を繰り返している。

さて。
「総合」の対義語はなんでしょうか?
意外とみんな知らないのだけれど、答は「分析」だ。

でね、「総合」と「分析」の関係の話を始めるとものすごく大変な哲学の話になってしまうので、大雑把に言うよ。

「分析」をする人がなぜ「分析」をするのかというと、どこかで「総合」したいなあと思っているからである。
たとえば、地震のデータを緻密に「分析」している人は、いずれこの「分析」が実を結び、地震のメカニズムの解明や予知といった成果に「総合」されればと願っている。
分析哲学だってそうだ。分析哲学というと「細かいことばっか言いやがって」と思う人もいるが、じつは古くからの哲学の王道中の王道である形而上学と格闘している。
つまりね、広辞苑で「総合」を引くとこう書いてある。
(2)〔論〕原理から出発してその帰結に至ること。公理から出発して定理を証明する数学の提示法はその典型。⇔分析。
要するに究極を突き詰め、そこから総合したい。世界を一気に語りたい。
分析哲学とはそういうことなのだが、まあ、この話に深入りするのはやめよう。

いずれにしても「分析」を語る人は、「総合」を夢見て闘っている。
地震学者の例で言えば、彼は、データを「分析」しながら、どこかに「総合」の糸口がないか考え続けているのだ。
つまり、「分析」と「総合」は、単なる「反対ことば」でなない。我々の知性は、常に両極を思考するが、「分析」なくして「総合」はない。小さな地震のデータまでも詳細に「分析」してこそ、地震のメカニズムや予知と言った「総合」的判断が成立するのだ。
ややこしい言い方をしてごめんねだが、考えてみれば単純なことだよな。これが我々の「論理」の立て方である。

ところが。
安倍晋三君や高村正彦君の言う「総合的に判断」には、それを支える「分析」がまるでない。
もちろん本人たちはいろいろ「分析」しているつもりなのだろう。でも、もしもきちんと「分析」できていれば、何を聞かれようが野党の質問にしどろもどろになったり、答弁が人によって違ったり二転三転することなどないのだ。つまり、「はじめに答えありき」で、まったく「分析」できていないということである。だが、「分析」のない「総合」などあり得ない。彼らの言うことがまるで非論理的で出鱈目なのはそういうことである。

分析なき「総合的判断」というのは、論理性や正当性を無視して「俺たちの判断は正しいのだ」という単なる傲慢な独りよがりだぞ卑怯者め。
ていうか最初の話に戻るけどさ、「法理上は大量破壊兵器も弾薬として運べるが政策上それはしない」とか言ってていいの? 君らがやらなくても未来の政権の誰かがやるぜ。
天下のザル法は自分の首を絞めるかもしれない。それくらいは考えろよ馬鹿。

沖縄ブラックホーク・ダウン~"We got a Black Hawk down"

沖縄県うるま市伊計島沖約14キロで、米軍ヘリが墜落した。
沖縄での米軍機の墜落は、1972年の本土復帰以降43年間で46回目。要するに毎年墜ちるというような状況である。

ちょうど11年前の8月13日には、なんと大学の構内に米軍ヘリが墜落した。沖縄国際大学には今でも、墜落で焼けたアカギの樹が残されている。

沖国大ヘリ墜落現場01

下の写真のように、校舎をこれだけ焦がすほどの事故だったのだ。
沖国大ヘリ墜落現場02

町のど真ん中での墜落事故。民間人に死亡者、負傷者が出なかったのは奇跡的だと言えよう。近くの民家、保育所などにも事故機の部品が落下しているのだ。

で。

ここは日本国内なのだから、当然、日本の警察や消防が駆けつけて、救命、消火、事故調査に乗り出すと思うでしょ。
ところが米軍がそれを阻止したのである。
米軍は、大学関係者も沖縄県警も現場に立ち入らせず、事故機と、さらに墜落現場の土まで掘り起こして持っていってしまった。

このヘリの部品には、放射性物質「ストロンチウム90」が使われている。
放射線はモノを通過する。その通過の影によって(レントゲン検査のように)目には見えないモノの内部がわかる。機体には「ストロンチウム90」の出す放射線でローター(羽)の傷や劣化などを点検する機能がついていたのだ。

軍用ヘリが墜落した場合、軍はただちに機体を回収する。あるいは、敵地などで回収が不可能な場合には機体を爆破する(ヘリには爆破装置がついている)。軍事機密があるからだ。沖縄国際大学ヘリ墜落事件のとき、米軍が機体だけじゃなく墜落現場の土まで持っていったのは、放射線物質が飛散したのを隠すためだ。

市街地にヘリを墜落させて、その上放射能汚染の証拠隠滅を図るなんて、米軍はあまりにも身勝手じゃないか!
と思う人もいるかもしれないが、それより悪いのは日本政府である。
日本は「日米地位協定」によって、米軍のそんな行為を認めているのである。

長くなるので詳しくは書かないけれど、「地位協定」というのは二国間の権利や義務などの地位を定めた協定。
70年前の戦争に負けた日本は、米国が圧倒的に有利な「地位協定」を結んだ。それによって今でも、日本国内での米軍の好き勝手が協定上許されている。

沖縄以外の本土にいるとあまり感じないかもしれないけれど、米軍基地だらけの沖縄ではそんな理不尽が今でも日常だ。

一昨日の米軍ヘリ墜落事件も同様である。
日本の領海内で航空機の重大事故が起きたのだから、本来、海上保安庁が乗り込んでいって捜査すべきことである。これが民間機なら、国交省の出番でもある。

ところが米軍は、とっとと事故機を持っていってしまった。
日本政府は「事故機を見せろ」「現場検証させろ」というような、当然の権利も主張できない。
主権国家として、これはいかがなものか?

第二次大戦の敗戦国と言えば、悪の枢軸、日独伊であった。というわけで、イタリアやドイツも、米国と不平等な地位協定を結んだ。しかしどちらの国もその後協定の改定によって徐々に不平等をなくしている。

ドイツでは、米軍機に対しても他の航空機同様にドイツ国内法が適用され、飛行禁止区域や低空飛行禁止が定められている。イタリアでは、駐留米軍が軍事訓練や演習を行う際には必ずイタリア政府の許可が要る。ところが日本だけは未だに、米軍機はどこをどのように飛んでも良いという不平等地位協定を変えようともしない。
どうしてこんな無様な状況になっているのかというと、政府も国民もずっと「それでよし」としてきたからである。

安倍晋三君は「戦後レジームからの脱却」などというが、ほんとうに戦後レジームから脱却したいのであれば、まずは日米安保条約、地位協定の見直しから始めるべきなのだ。
それをせずに米国との集団的自衛権を認めるというのは、まさに米国の犬になると言うことである。

「国があるからこそ国民がいる」のではなく、「人々が認めてこそ国が成立する」のであるから、僕は誰かに「非国民」って言われたって全然平気だよ。でももし「非国民」ということばを使うとすれば、安倍晋三君こそまさに非国民の極みではないか。日本を米国に売ろうとしているのだ。
「安保法制は日本の安全のために必要だ」と反論する人もいるかもしれないが、米国の下請けになることが日本の安全か?
また、安倍晋三君は単なる行政府の長にすぎない。にもかかわらず全権委任でも受けた気分なのだろうか、立法府を完全に無視し、国会での法案審議前に米国国会で日本国内法の成立を勝手に約束したわけだ。どう考えたって日本の国会が先だろ? こういうのこそ売国奴と言うべきではないか。

さてと。

例によって酔っ払って書いているので、文章に脈絡がなくてごめんよ。

一昨日伊計島沖に墜ちた米軍ヘリは「MH-60L」、通称「ブラックホーク」。米陸軍の特殊部隊「デルタ・フォース」の装備である。

"We got a Black Hawk down.
We got a Black Hawk down"

米軍の有名な無線交信だ。
1993年10月3日、ソマリア内戦に介入した米軍は、「デルタ・フォース」など特殊部隊の急襲で敵中枢を捕らえる作戦を実行に移した。

無血の30分で終わるはずであった。しかし「ブラックホーク」二機が撃墜され作戦は失敗。"We got a Black Hawk down"はそのときの交信だ。「モガディシュの戦闘」と言われる市街戦で、米兵18人が死亡。市民の死者は数百人とも千人以上とも言われる。

それを映画化したのがリドリー・スコット監督の『ブラックホーク・ダウン』。
東西冷戦後、国家間ではなく対ゲリラ戦へと様相を変えた戦争の現場だ。


Amazon.co.jp

戦争映画の名作は、極限を描く。だからこそ、観るとほんとうに戦争は御免だと思わされる。
日本の戦争映画は情緒的に軍人の「生き様」を描く作品も多いが、『ブラックホーク・ダウン』はそんな感傷を排して最前線を冷徹に描く。だからこそ怖さが伝わってくる。

安倍晋三君の安保法制案に反対する人を「平和ボケ」とか言う人がいるが、『ブラックホーク・ダウン』を観なさい。「平和ボケ」とは戦争のリアリティを想像できない人のことだ。こんな戦争に加わりたいか?
現状の日米不平等安保体制の中で、地球の裏側まで行ける集団的自衛権を認めるというのは、法理上それを許すと言うことである。いくら「政策上ありえない」と言ったところで、「法」とはそういうものではない。

沖縄でMH-60L「ブラックホーク」が墜ちたと聞いたとき、まっ先に頭に浮かんだのが、"We got a Black Hawk down.We got a Black Hawk down"の交信であり、そして、その後の地獄絵であった。

「安倍晋三キモい!」~女に好かれない安倍晋三君

先週(8/8、8/9)に行われた毎日新聞の世論調査。
http://mainichi.jp/select/news/20150810k0000m010074000c.html

立憲主義もわかっていない、ポツダム宣言もつまびらかに読んでいない、先の大戦が誤りだったとも認めようとしない安倍晋三君が、違憲法案で日本を存立危機事態に陥れようとしているのだから、内閣支持率が第二次安倍政権最低を記録するのは当然だが、やっぱ注目すべきは女性の支持率の低さである。

全体の安倍内閣支持率が32%であるのに対し、女性だけ見ると26%。
安倍晋三君は、圧倒的に「女に好かれない」のであった。

安保法制案反対デモで女の人が持っていたプラカードです。

安倍晋三キモい!
「安倍晋三キモい!」

僕はこれ、かなり核心を突いていると思う。

もちろん、容姿や外見、服装なんかの話ではない。夏でもネクタイしてスーツにシワも入ってないしすごいよね。僕なんか50を過ぎてもTシャツ+腰履きジーンズさ。

では安倍晋三君のなにがキモいのか?
言ってることやってること、態度言動である。

たとえば国会で、野党の追及に対して人を小馬鹿にしたような薄笑みを浮かべたと思えば、突如切れてヤジを飛ばす。米国議会でスピーチしたときには拍手喝采を浴びてヒーロー気分の自己陶酔。

「女は論理的思考をしないから」などと言い出す男もいるかもしれないが、それはちょっと違う。

そもそも安倍晋三君の言っていることが論理破綻しているのだ。にもかかわらず「我こそ正義」というような独りよがり、「我々が提出する法律についての説明はまったく正しいと思いますよ。私は総理大臣なんですから!」( http://lite-ra.com/2015/07/post-1292_3.html )に象徴される自己中かつ無茶苦茶な言い分。

戦争を火事にたとえるような的外れな比喩が成り立たないことなど誰にだってわかるのに、テレビに出れば、幼稚な家の模型なんかを持ち出して人を馬鹿扱いしたような説明をする。( https://www.youtube.com/watch?v=P4UxxpOz07E/

安倍晋三君の頭の悪さ、非論理性を見抜いた上で「ナルシストでキモい」「あんな男に国の大事な問題を任せるのは怖い」と感じている女性が多いのではないか、と僕は思うのだ。

で。

一方、男性の安倍支持率は女性よりも高いわけだが、安倍晋三君を支持する男性こそ、論理性がないのではないだろうか。

ひとつは、「喧嘩上等」風のヤンキー的精神や「国のプライド」への思い込み。
なんかさあ、「国」と「人」をごっちゃにしてるんだよね。

個人が、喧嘩に強くなりたくてボクシングジムに通ったり空手をやったりする。自分の生き方や仕事にプライドを持つ。これはもちろんなんの問題もないのだけれど、「国」は「人」ではないよ。「個人」の気持ちを「国」にスライドすることはできない。
「国」というのは単なるルールなのである。
「国家の品格」のような言い方がされることもあるが、これを「人格」と同種のものとして見なすことなど決してできない。

「人」と「国」は違うなんて当たり前の話だが、ネトウヨみたいな連中からは、どうもその区別がついていないとしか思えない馬鹿な発言が飛び出してくる。
この論理性の欠如は決定的に危険である。

安倍晋三君を支持する男性の気持ちを推し量ってふたつめ。

なんだかんだ言っても日本は現実的に男性社会だ。
ほとんどの成人男性は、正規雇用であれ不正規であれ、会社組織の中にいる。(専業主婦はたくさんいるが専業主夫はあまりいない)

そして会社にいると、どうしても「組織の論理」を教わってしまう。
僕も会社員だった頃はそうだった。「組織を守らなければならない」というのが当然の考えのように思えてしまうのだ。
つまり、自分がそのシステムの中でカネを稼ぎ、エラくなり、部下を持ち…という発想になる。これが当たり前で、その発想自体を疑うことはできなくなる。
本人に自覚がなくても、「システム」を肯定することによって、アイデンティティを確立しているというわけだ。

そんな「会社組織」システムの延長線上にあるのが「国家」システムである。
というわけで、社会システム、国家システムも、己のアイデンティティのベースとして、犯すべきでない、犯すことのできない存在になってしまう。

要するに女性と比べて男性は、システムからの自由度がとても低い。
国のシステムを否定するのは自分を否定することだと無意識に思っていたりするのだ。

あとは、新自由主義的弱肉強食の論理と安倍晋三君との親和性という問題も大事なのだが、今夜は眠いのでもうやめるよ。

全然関係ないんだけどさ、たとえば小泉純一郎とか息子の進次郎とか、考え方の違いはさて置き、女にモテるのがよくわかる。
一方、安倍晋三君に「女にモテた」頃はあったのだろうか?
昭恵夫人はけっこう素敵な女性だと思うのだが…。

ごめん、くだらないこと書いて。

おっと、ひとことだけ付け加えると、僕は日本の安全保障問題に新提案が出てくるのが悪いと言っているわけではないよ。
安倍晋三君は明らかなルール違反、やり方が薄汚いということだ。

「SEALDs」に言いがかりをつける、武藤貴也の「自分中心、極端な利己的考え」

安保法制案に反対する学生たちの集まり「SEALDs」について、自民党の小僧衆院議員、武藤貴也がtwitterで、
「彼ら彼女らの主張は『だって戦争に行きたくないじゃん』という自分中心、極端な利己的考えに基づく」
と難癖をつけた件。

さらに、武藤貴也は「日本国憲法によって破壊された日本人的価値観。」と題する以前のブログ( http://ameblo.jp/mutou-takaya/entry-11937106202.html )で

日本の全ての教科書に、日本国憲法の「三大原理」というものが取り上げられ、全ての子どもに教育されている。その「三大原理」とは言わずと知れた「国民主権・基本的人権の尊重・平和主義」である。
戦後の日本はこの三大原理を疑うことなく「至高のもの」として崇めてきた。しかしそうした思想を掲げ社会がどんどん荒廃していくのであるから、そろそろ疑ってみなければならない。むしろ私はこの三つとも日本精神を破壊するものであり、大きな問題を孕んだ思想だと考えている。


と、「国民主権」「基本的人権」「平和主義」をすべて否定している件については、僕も前回(8/3)のブログ( http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-12057536269.html )で書いた。

その後、この問題は国会で取り上げられ、ニュースにもなったので、いよいよ多くの人の知るところとなったのであった。

(民主党の小川勝也氏が国会でこの問題を指摘したことに対して、安倍政権べったりの産経新聞は、
小川氏はブログの日付を7月23日と紹介。今年と理解するのが自然だが、実際は平成24年7月23日だった。武藤氏は同年末の衆院選で初当選し、ブログを書いた当時は公認もされていなかった。
http://www.sankei.com/politics/news/150804/plt1508040050-n1.html
と、あたかも武藤貴也に問題がないかのように述べているが、ご覧のようにこの発言は「自民党滋賀四区衆議院議員 武藤貴也 OFFICIAL BLOG」として掲載されているのである。つまり、衆議院議員としての武藤貴也の公の発言である。問題視されるのは当然だ)

武藤貴也の平和主義、基本的人権、国民主権否定論
(↑クリックして拡大)

だが、当の小僧はテレビカメラを向けられてもへらへらしているだけで、国会議員としての自分の発言の出鱈目ぶりをまったく理解していないように思われる。

「戦争に行きたくないというのは利己的」という常軌を逸した発言に対しては、さすがに自民党内からも批判の声が上がっているが、武藤貴也は発言撤回しないという。彼が言うには「法案が通っても戦争に行くことはないのに、扇動や間違った情報で若い人がだまされている」( http://www.sponichi.co.jp/society/news/2015/08/05/kiji/K20150805010872190.html )ということらしい。

もしかしたら武藤貴也は、安保法制案に反対する僕らの仲間なのであろうか? 安倍晋三君の足を引っ張るために一肌脱いでくれているのではないか(笑)

ていうのはもちろん冗談で、武藤貴也は安倍晋三君のお仲間の極右団体「日本会議」のメンバーである。彼が誰の扇動や間違った情報で騙されているのか知らないが、マジで「国民主権・基本的人権・平和主義」が諸悪の根源だと思っているみたいだ。

で。

今回は、大炎上した「SEALDs」問題発言についてその後武藤貴也が書いた、最新(8/3 19:11:38)のブログを見てみよう。
http://ameblo.jp/mutou-takaya/entry-12057766363.html

どこで小知恵を授かったのか、ここで武藤貴也が持ち出したのが砂川判決である。
砂川判決(最高裁)とはどんなことかについては、面倒臭いので詳しくは書かない。
ただ、安倍政権が「砂川判決が集団的自衛権の限定的行使を認めている」と主張するのに対し、野党はもちろん、多くの憲法学者が「砂川判決は集団的自衛権については何も言っていない」「集団的自衛権を認めるものではない」としている。

僕はどう考えても砂川判決が集団的自衛権の行使を認めたものだとは思えない。このことは後でまた書くが、興味のある人は、最高裁のウェブサイトに全文掲載されているから読むと良いよ。
http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/816/055816_hanrei.pdf

いずれにせよ武藤貴也は、

まず、読んで頂きたいのは、砂川判決における田中耕太郎元最高裁判所長官の補足意見、以下の箇所です。

とした上で、田中の補足意見を引用している。中でもアンダーラインを引いて強調しているのが

自国の防衛を全然考慮しない態度はもちろん、これだけを考えて他の国々の防衛に熱意と関心とをもたない態度も、憲法前文にいわゆる『自国のことのみに専念』する国家的利己主義であって、真の平和主義に忠実なものとはいえない。

という箇所だ。
その上で武藤貴也はこう述べる。

このように、田中裁判長は自国の防衛を考慮しない態度も、他国の防衛に熱意と関心を持たない態度も、憲法が否定する「国家的利己主義」だと言っています。そしてその上で、真の自衛の為の努力は、正義の要請であるとともに、国際平和に対する義務として「各国民に課せられている」と言っています。
 つまり、「SEALDs」の方が仰る「だって、戦争に行きたくないもん」という自分個人だけの感情で、今議論されている平和安全法制に反対するのは、田中最高裁長官の言うように「真の平和主義に忠実なものとは言えない」と私も考えます。


「戦争に行きたくない」と考えて「安保法制案に反対」するのは真の平和主義者ではない、と言ってのけているのだ。

最初に確認しておきたい。

武藤貴也は「平和主義」ということばを盾に「SEALDs」を攻撃しているが、自身は「平和主義」を肯定しているのか、否定しているのか?

先ほども引用したように、武藤貴也は「日本国憲法によって破壊された日本人的価値観。」と題するブログ(http://ameblo.jp/mutou-takaya/entry-11937106202.html)で、「国民主権・基本的人権の尊重・平和主義」という考えについて

むしろ私はこの三つとも日本精神を破壊するものであり、大きな問題を孕んだ思想だと考えている。

と、「平和主義」を否定しているのだ。

いったいどっちなんだ?

武藤貴也が張り切って引用した砂川判決田中補足意見では「憲法九条の平和主義の精神は、憲法前文の理念と相まつて不動である」と明確に述べられている。
もしも「平和主義が日本精神を破壊する」と考えるのであれば、「平和主義の精神は不動」という原則に則った田中補足意見の「都合の良いとこ取り」はやめよ。
もしも「平和主義が日本精神を破壊する」という過去の発言が間違いであれば撤回し、仮にも国会議員であるのだから謝罪せよ。

また、武藤貴也はSEALDsの主張を

「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考え」

と言うが、彼自身、ブログ(http://ameblo.jp/mutou-takaya/entry-12057766363.html)の中で

誰もが戦争に行きたくないし、戦争が起こって欲しいなどと考えている人はいないと思います。

と言っている。
「誰もが」というのは、つまりお前だって戦争に行きたくないんだろ?
ではなぜ、自分を棚に上げてSEALDsの発言を「自分中心、極端な利己的考え」と断言するのか? それともお前は「誰もが」の一員ではなく、戦争に行きたいのかい?(であれば「イスラム国」にでも志願すれば良いと思う)
「日本人は戦争に行くくらいの覚悟を持て」と言いたいのなら「嫌だよ」である。そんな極端な利己的な考えに付き合わされる筋合いはない。

僕はSEALDsのメンバーではないのでSEALDsの主張を代弁することはできない。
だが想像するに、「自分が戦争に行きたくない」というのは、「誰にも戦争に行かせたくない」と表裏一体の考え、気持ちだと思う。
自分だけが戦争に行きたくないとすれば、逃げ方はいくらであるのだ。たとえば、武藤貴也のように国会議員になれば、少なくとも徴兵されて戦争の最前線に立たされるようなことはないだろう。

武藤貴也に言われなくても、誰もが戦争に行きたくない。
だが、自分だけが逃げるのではなく「誰にも戦争に行かせたくない」と考えるからこそ、SEALDsのメンバーは、わざわざ時間を作り、自腹切ってまで毎週国会前に集まって声を上げている。

「戦争反対」というのは、なにも自分が戦場に行くのが嫌だからだけではなく、「誰も戦場に行かせたくない」ということだ。
武藤貴也でも、それくらいはわかるだろう。

だとすればそんな考えは、砂川判決田中補足意見の言う

我々は、憲法の平和主義を、単なる一国家だけの観点からでなく、それを超える立場すなわち世界法的次元に立つて、民主的な平和愛好諸国の法的確信に合致するように解釈しなければならない。自国の防衛を全然考慮しない態度はもちろん、これだけを考えて他の国々の防衛に熱意と関心とをもたない態度も、憲法前文にいわゆる「自国のことのみに専念」する国家的利己主義であつて、真の平和主義に忠実なものとはいえない。
 我々は「国際平和を誠実に希求」するが、その平和は「正義と秩序を基調」とするものでなければならぬこと憲法九条が冒頭に宣明するごとくである。平和は正義と秩序の実現すなわち「法の支配」と不可分である。真の自衛のための努力は正義の要請であるとともに、国際平和に対する義務として各国民に課せられているのである。


と、どう矛盾するのか?
まったく矛盾しないのである。

自分だけではなく、「他の国々の防衛に熱意と関心」を持つからこそ、「自分が戦争に行きたくないのと同時に、誰にも戦争に行かせたくない」のである。

また、砂川判決の主文は、「原判決を破棄する。本件を東京地方裁判所に差し戻す。」のみであるが、その「理由」としてまっ先に挙げられているのが

一、先ず憲法九条二項前段の規定の意義につき判断する。そもそも憲法九条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動を反省し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定した

という点に留意したい。
すなわち、憲法前文の述べる

自国のことのみに専念して他国を無視してはならない


という文言についての砂川判決の解釈は、「過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動」への反省であり、「軍国主義の否定」である。
なによりも「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」することを大前提に、砂川判決は成立しているのである。

であるから、田中補足意見もその文脈で読まれるべきであって、そこで言われる「『自国のことのみに専念』する国家的利己主義」とは、『日本こそ正しい』というような自惚れで他国に接し、挙げ句「わが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動」のことである。
(田中の意見は判決の「主文」と「理由」の「補足意見」なのであるから、ここで「理由」に異議を唱えていない以上、上位の「理由」に沿ってそのように解釈するのが当然である)

だからこそ、田中補足意見の言う「真の自衛のための努力は正義の要請であるとともに、国際平和に対する義務として各国民に課せられている」とは、決して他国との集団的自衛権を容認するものではない。
日本が他国の防衛にも協力すべきだと言っているわけではない。

そろそろまとめなきゃなと思いつつ、面倒臭くなってきた。
武藤貴也の言い分があまりにも論理的に破綻しているからである。
「A=B、B=C、ゆえにA=C」レベルの基礎的な論理すら踏まえていない。幼稚園児に般若心経を説くようなものなので、何を言っても無駄な気がするが、二点だけ補足すれば、

まずは、もしも武藤貴也の言い分が成立するとすれば、それは、安倍晋三君の安保法制案が真に平和主義的で正義にかなった場合、そのときのみである。ということだ。

しかし、安倍晋三君の安保法制案は平和的でもないし、正義にもかなっていない。
なので、武藤貴也の言い分はまったく成り立たない。

ていうか、平和的でも正義でもない安倍安保法制案を擁護しようとすれば、武藤貴也の主張する「平和主義の否定」「国民主権の否定」「基本的人権の否定」、そして「戦争に行きたくないなんていうのは自分勝手」というような主張に結びつかざるを得ない、というのが実体だと僕は思う。

つまり武藤貴也は、「自分個人だけの感情で」ムカついて、SEALDsの悪口を言っているにすぎない。安倍晋三君の安保法制案に反対するのはけしからんという「極端な利己的考え」をわめきちらしているのである。

次に、基本中の基本。
政治家には、国民の発言や行動に「自分中心、極端な利己的考え」などと言いがかりをつける権利はないということだ。
明らかに違法な行為であれば許される場合もあるだろうが、憲法で保障された表現の自由に基づく国民の発言や行動について、政治家が文句を述べる筋合いは一切ない。
逆に国民は、政治家の一挙一動に、どのような批判をすることも自由である。
これが立憲主義だ。
そこを理解せずに好き勝手な発言をするのであれば、政治家の資格がないのはもちろん、国家転覆、クーデターを企む単なる危険分子である。

ここからは蛇足。酔っ払ってきた。

その1

武藤貴也は、砂川判決の「主文」および「理由」ではなく、田中耕太郎の「補足意見」のみをことさら重大に取り上げているが、補足意見はあくまで補足意見。「法廷意見」ではなく、単に一裁判官の意見である。
この判決に加わった別の裁判官からは、田中裁判官とは異なる主張が述べられている。たとえば小谷勝重裁判官は「主文」に同調しつつも「上指摘した多数意見一連の判旨には到底賛同し難い」という「意見」が出されており、田中裁判官の「補足意見」と同列に判例に収められている。

その2

前述したように、砂川判決の「理由」として、まっ先に書いてあるのがこれ。

そもそも憲法九条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動を反省(している)

安倍晋三君は衆院質疑で「ポツダム宣言はつまびらかに読んでいない」という前代未聞の馬鹿発言をしたが、馬鹿なのだからほんとうにそうなのかもしれない。
ただ、「砂川判決が集団的自衛権の限定的行使を認めている」と言い張るのであれば、それはすなわち、それほど大事な砂川判決の冒頭で述べられた「過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動を反省」することではないか。

それならば、安倍晋三君は70年前の日本の戦争を「軍国主義的行動であり、日本は誤っていた」と明確に謝罪しなければならない。
誤りは認めるが謝らない、というのであれば、それは論理的には可能といえなくもないが、まさに不誠実としか言いようのない弁解である。
「俺がお前を殴って怪我をさせたのは誤りだったけど、もう謝罪はしない。だってもう何回も謝ったじゃないか!」
そんなのは単なる逆ギレだ。

その3

そもそも砂川事件は、地裁から高裁を飛ばして最高裁という異例のコースを辿ったのだが、それも日本が自らへつらって米国隷属を善しとしたからだ。
米国は愚かな国だが、それでも日本に比べれば多少は民主主義的な情報公開手続きが確保されている。そんな米国の公文書館で見つかった資料についてのNHKの報道がこれ。

NHK報道「司法権の独立揺るがす」資料見つかる

要するに最高裁長官の田中耕太郎は、日本の司法権の独立を踏みにじって米国の傀儡に成り下がっていたのである。
この問題は、今後の日米関係を考える上でも無視できない。

武藤貴也~こんな馬鹿な小僧を国会議員にしたのは誰だ?

武藤貴也は安倍チルドレンで運良く当選した自民党の衆院議員だが、こんな馬鹿な小僧が国会議員だという事態が、まさに現代日本の三流国家ぶりを象徴している。

安倍晋三君の安保法制案に反対する学生たちの集まり、「SEALDs」に対してtwitterで

SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。

武藤貴也のtweet

と言って、案の定大炎上しているようだが(https://twitter.com/takaya_mutou/status/626788645379280896)、さらに馬鹿の真価を見て取れるのが、オフィシャルブログでのこんな発言だ。

題して「日本国憲法によって破壊された日本人的価値観。」
http://ameblo.jp/mutou-takaya/entry-11937106202.html

おいおい…

日本の全ての教科書に、日本国憲法の「三大原理」というものが取り上げられ、全ての子どもに教育されている。その「三大原理」とは言わずと知れた「国民主権・基本的人権の尊重・平和主義」である。
戦後の日本はこの三大原理を疑うことなく「至高のもの」として崇めてきた。しかしそうした思想を掲げ社会がどんどん荒廃していくのであるから、そろそろ疑ってみなければならない。むしろ私はこの三つとも日本精神を破壊するものであり、大きな問題を孕んだ思想だと考えている。


このように武藤貴也は、「国民主権」「基本的人権」「平和主義」をすべて否定するのである。

たとえば、「基本的人権」について

私はこれが日本精神を破壊した「主犯」だと考えているが、この「基本的人権」は、戦前は制限されて当たり前だと考えられていた。全ての国民は、国家があり、地域があり、家族があり、その中で生きている。国家が滅ぼされてしまったら、当然その国の国民も滅びてしまう。従って、国家や地域を守るためには基本的人権は、例え「生存権」であっても制限されるものだというのがいわば「常識」であった。もちろんその根底には「滅私奉公」という「日本精神」があったことは言うまでも無い。だからこそ第二次世界大戦時に国を守る為に日本国民は命を捧げたのである。しかし、戦後憲法によってもたらされたこの「基本的人権の尊重」という思想によって「滅私奉公」の概念は破壊されてしまった。「基本的人権の尊重」という言葉に表された思想の根底には、国家がどうなろうと社会がどうなろうと自分の「基本的人権」は守られるべきだという、身勝手な「個人主義」が存在している。

ここまで大胆に基本的人権を否定するというのも、勢いだけが取り柄の小僧だからこそだろうが、彼は、親分の安倍晋三君が国会で何を苦労しているのか知らないのだろうか?
安倍晋三君は、「安保法制案は違憲ではない」と強弁するのに必死なのだよ。

つまり、政治家は憲法を守らなくてはならないのである。
だからこそ安倍晋三君は、日本会議関係者を除きほとんどすべての憲法学者が「違憲」と言っている法案について強引に「合憲」と言い張るのだ。

人は何を考え、何を言っても構わない。これぞまさに武藤貴也が「日本精神を破壊した『主犯』」とする「基本的人権」によって保障されたものである。
人は何を主張しても良い。「徴兵制賛成」の人も「米国隷従万歳」の人も、思想信条を根拠に弾圧されてはいけない。
基本的人権が担保されてこそ、武藤貴也のような身勝手で滅茶苦茶な言い分にも言論の自由はある、というわけだ。

だが政治家はちょっと違うんだよ。
日本国憲法を読め。

第十一条  国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

武藤貴也はこれを否定しようとしているが、

第九十九条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

と書いてある。

つまり、武藤貴也の主張そのものが国会議員としての資格なしということだ。当然罷免に値する。国の根幹を否定する危険なクーデター思想だからである。

安倍晋三君が「安保法制案は合憲」と論理破綻した言い訳を続けるのも、それが違憲であれば政治的正当性は一切ないからだ。つまり、安倍晋三君も馬鹿だが、武藤貴也君ほど馬鹿ではない。

武藤貴也は「自分はテロリスト同様、国家転覆を謀る危険思想の持ち主だ」ということを宣言しているわけであるが、まあ、血気盛んな小僧だからそういう若気の至りもあるだろう。

問題は、誰がこんな馬鹿な小僧を国会に送り出し、好き勝手な言動を許しているかと言うことだ。

公正な選挙によって選ばれた政治家が三流であるとすれば、それは国民が三流だと言うことだ。日本国が三流なのはそういうわけだ。それで良いのか?

長渕剛の反戦発言

僕は音楽的には長渕剛はまったく共感したことがない。テレビで流れるヒット曲くらいしか知らないけれど、聞くと「こんな形で情念吹き上げないでくれよ」と痛い気持ちになる。まあ、こういう歌が好きな人はきっとたくさんいるんだろうな、程度しか思っていなかった。

とはいえ、テレビ番組で長渕が安保法制案について語っているというので、youtubeで探して見てみたのだった。

https://www.youtube.com/watch?v=yxl3zOlWixA
(7月19日CX系『ワイドナショー』)

「銃持って(戦争に)行くんですかみなさん? (年長者は)行かないのに、大義で、ここ(スタジオ)で論争してるっていうのがね、心がすごく苦しくなりますね」

「どの時代でも、子どもたちが銃を持って撃っていくんです。そして、その犠牲がどんどんどんどん出ていくんですよ」
「僕らが語るべきは、絶対にそういう風にしないためにどうしたらよいのか、ってことだと思う」

「若き自衛隊員たちが、(東日本大震災のときに)どれだけのことをしたのか? 僕も(自衛隊の)激励に行かせてもらいましたけどね。彼らを死なすのかって。彼らを死なせてしまっていいのか? と言うことだと思うんですよ。今のこの流れで行くと」
「僕は、理屈はわからないんだけれど、感覚論として、戦争が近づいているような気がする」

(日本に向けてミサイルが飛んでくるのではないかという話に対して)「そういう思いでみんな戦々恐々としていることは確かですけれどね、『やったら(やられたら)やりかえせばいいんじゃねえかよ』、これ違うと思うんですよ僕は』」
「ミサイルが飛ぶって、現実に飛ぶことを軽々しく論じていいのかなって」


(主旨を曲げずに言葉尻は若干変えた。詳細は上記youtubeのURLで確認してね。21:22から安保法制案についての話。長渕が喋り出すのは26:53から)

彼を何も知らないくせにごりごりの安倍シンパだと思っていた俺が悪かった。
長渕さんごめんなさい。

彼の言う通りなのである。10代、20代の若者を送り込むのはミサイルや銃弾が飛び交うリアルな(マジの)戦場だ。戦場に行かない年寄りに軽々しく論じる資格はない。

「戦争ができる国」を「フツーの国」と言ったり、軍事力をもって国際社会にプレゼンスを示すべきだと考える人たちがいる。
彼らはよく、憲法9条を「リアリティのない理想主義」とか「お花畑」とか言う。
でもさ、自衛隊がこの70年間、一人の戦死者も出さず、他国の人を一人も殺さずに来れたのは憲法が集団的自衛権を認めなかったからこそだ。

日本が平和なのは米国のおかげではないよ。米国は、大義も正義もない自分勝手な戦争に日本を巻き込もうとしたが、日本は憲法を盾にそれを拒み続けることができた。日本が米国の言いなりになって世界各地の戦争に加わっていたらどうなったと思う?

イラク戦争では米軍兵士4494人が死亡し、32248人が負傷した。率先して米軍を手助けした英国軍兵士も179人が死亡した。( http://web.econ.keio.ac.jp/staff/nobu/iraq/casualty.htm
イラク戦争の大義は「フセイン政権が大量破壊兵器を隠し持っている」だったはずだが、結局、どこをどう探してもそんな事実はなかった。むしろ、戦争でイラクの治安を悪化させ政情を不安定にしたことが「イスラム国」などの過激派組織の台頭を生んだ。

そんな無意味(どころか悪質)な戦争で、若い子たちを死なせて良いのか? 若い子たちに人を殺させて良いのか?

安倍晋三君は、「集団的自衛権は米国の戦争に日本を巻き込むものではない」と強弁するが、たとえば尖閣に不審者、あるいは中国軍が乗り込んできた場合、これに海保や自衛隊が対応することは現行法の中で十分可能なのである(警察権や個別的自衛権の問題だ)。集団的自衛権行使を可能にすることは、自衛隊を米国の手先、鉄砲玉とする以外の理由は考えられない。

安倍晋三君の安保法制案に反対する人を「平和ボケ」と嘲笑する一味がいる。
だがもしも「平和ボケ」ということばを使うのであれば、ほんとうの「平和ボケ」とは、若い自衛官をリアルな戦場に送っても平気でいられる無神経な人たちのことだろう。戦場のリアリティ、つまり流れる血や心の痛みを想像できずに威信や名誉、カネのことしか頭にない人たちのことだろう。

長渕剛の考えについては、僕はきっと、深いところでは絶対に共鳴できない部分があると思う。彼とはやっぱり、なにかが決定的に違う。

だが。
それでも、彼のものすごく核心を突いた発言は立派だと思う。

ほんとうは、「長渕と言えば桑田」ということで、サザンのことも書こうと思っていたのでした。
だけど酔っ払ったからもうやめた。

学問にも及ぶ、安倍晋三君の日本「私物化」の目論見

この前も書いたけれど、安倍晋三君たちは「国立大学から人文系を減らせ」と言っている。

当然のことながら、日本の学術界を代表する機関である日本学術会議が批判声明を出し、それが昨日のニュースで取り上げられた。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150723/k10010163651000.html

で、僕のところにもこのニュースで初めて知ったという人から「国立大から文系なくせって、どういうこと?」という声が上がっているのだった。

安保法制案は誰もが知ってる重大な問題だけれども、こっちも安保法制案に通底する大問題である。だから繰り返し書いておく。

「我々が提出する法律についての説明はまったく正しいと思いますよ。私は総理大臣なんですから」
と平気で国会で言ってのける安倍晋三君は、自分の考え以外はすべて間違っていると思うのだろう。だが、多くの国民は安倍晋三君よりもはるかに賢い。国民を馬鹿にするなと言うことだ。それゆえ安倍晋三君の支持率は急降下している。

安倍晋三君と大の仲良しである文科相の下村博文君は、新国立競技場問題で役人の言うままに2500億円だかを認めた無能政治家だが、そんな下村博文君率いる文科省が、国立大学に対して人文社会科学系の学部の廃止やほかの分野への転換を求めたのであった。

いったい何を言っているのであろうか?

政治からの学問の独立、学問の自由というのは、近現代社会では常識である。ていうか、近現代民主主義の必須条件のひとつである。
それを否定しようとする横暴さは、安保法制案強行採決に見られる現政権の独裁的発想を見事に表している。

つまり、「国民は政府のイエスマンであれば良く、政府に対して根本的で深い問いは必要ない」ということだ。

ちょっとだけ詳しく。

いわゆる「理系」と呼ばれる分野の大部分を占める「自然科学」は、「善悪」を問う学問ではない。
物理学にしても化学にしても生物学にしても、そこで問われるのは「真偽」である。
「この実験結果からこの結論を導き出して良いのか?」「この仮定は正しいのか?」
そういうことが問われている。

日本語で「正しい」というと、「正義」の「正」と「正解」の「正」の二つがあるが、これは明確に分けて考えなければならない。
「正義」の「正」は「善悪」の問題であり、「正解」の「正」は「真偽」の問題である。

自然科学で問題とされるのは「真偽」だ。
みんな知ってるとおり、ガリレオは当時の権力者であった教会が天動説を唱える中、「それでも地球は回る」と言った。
これが、自然科学的な「真偽」の問題である。
だからこそ自然科学は大切だ。権力者が何を言ったとしても「真偽」は譲れないのである。

ところが一方、自然科学では決して「善悪」は語れない。

これは、権力の束縛から自由になったからこそ近代自然科学が誕生したという歴史的な問題でもあるし、だが同時にその時点で「善悪は語りませんよ」という学問として独立したからでもある。

不思議に思う人もいるかもしれないので書いておこう。

確かに、核理論の産みの親とも言えるアインシュタイン自身が核兵器廃絶を唱えたし、こんにちの日本でも、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英京都大名誉教授は率先して、「安全保障関連法案に反対する学者の会」を立ち上げた。
もちろんこれらは素晴らしいことだ。だがこれらは「科学的真実」ではなく「科学者の良心」の問題である。

核兵器の例を見よう。
アインシュタインが唱えた「E = mc2」という「科学的真実」をもとに核兵器が誕生した。
もちろん、この「科学的事実」は譲れない。だが、これを兵器にした米国は広島長崎に原爆を落として大惨事を引き起こした。その後の米ソ冷戦時代で核戦争が起こったら大変なことになる。アインシュタインは「戦争でそれを使うな」ということを、(「科学」ではなく)「科学者の良心」として、「善悪」の問題として訴えたということだ。

では、「真偽」ではなく「善悪」の問題を語り得る学問は何か?

それが、哲学や文学、芸術、人文諸科学である。

みんなも高校の社会科で「倫理」って選択科目があったでしょ。
「倫理学」は「哲学」のジャンルで、「善悪」を問題とする学問。
「道徳」の授業と一緒にしてはいけないよ。日本の現状で「道徳」の授業は「何が良くて何が悪いのか」という「答え」を、上から目線で教えているようだが、「倫理学」はそんな陳腐なものではない。「善悪」とはどう言うことかを「問う」学問である。当然「善悪なんてそもそもあるのか」という問いも検討される。

「善悪」について徹底的に問うこと。
それができるのが文系の学問だ。理系の学問では不可能だ。ていうか理系の学問は「それをしない」ことを前提に成り立っている。

要するに安倍政権が目論んでいるのは、国民に「善悪」を問わせないようにすることだ。国民から文句が出ないようにするために、学問の尊厳を踏みにじろうとしている。

つまりこれも、安保法制案と同様に、安倍晋三君と仲間たちが日本を私物化しようという企てとしか言いようがないのである。

馬鹿国家

「馬鹿」というのは、ルールや秩序がわからない人のことだと思われている。

たとえば、1+1=2がわからないというのは、「1」や「+」、「=」、「2」といったことばの意味、すなわちそのことばの使い方(ルール、秩序)がわからない、ということだ。

これはまったくその通りである。
安倍晋三君やその仲間たちが、戦争のための法案を「平和なんとか法」と呼ぶのと同様の馬鹿さ加減だ。

だが、安倍晋三君のような低レベルの連中のことはひとまず置いて、
1+1=2を数学のルール、あるいは一般的なことばの使い方としては同意しても、もっと徹底的に「1+1=2」とは果たしてどういうことなのか考える人もいる。

「彼こそが現存する最も偉大な哲学者」と言われることも多い天才ソール・クリプキ(Saul Aaron Kripke)は、「68+57=5」という議論を展開した。
この話を突っ込むとそれだけで哲学書になってしまうのでここでは書かないけれど、問題の核心は「ルールとは何か」ということだ。
我々が日常思っているほどルールなんか自明のものではない、ということである。

この話を理系、特に自然科学系の人に言ってもさっぱり伝わらない(逆に文系、特に文学部系の人は意味を取り違えて過剰に反応するのだが)。

で。
何が言いたいのかと言えば、「68+57=5」などというのは我々の日常生活にちっとも役に立たない。ていうかむしろ有害ですらある。そんなこと言い始めたら経済だって成り立たない。
だが、それにもかかわらず「68+57=5」は、我々の思考そのものを根本的に問う鋭い問題提起なのだ。
そういった、凡人には考えつかないような問題提起があってこそ、人々の考えは深まっていく。

政府は国立大学から人文系を減らしたいらしい。
文科省が設置した「国立大学法人評価委員会」の案には

教員養成系、人文社会科学系は、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/kokuritu/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/08/13/1350876_02.pdf
と書いてある。

要するに、「役に立たない根本的な問いはやめろ」ということだ。
学問も、現代日本の資本主義経済に役立たなければならない、という主張である。

これを愚民化政策という。

ほんとうの馬鹿とは、ルールや秩序がわからない人のことではなく、ルールや秩序そのものの存在を疑うことのできない人たちである。

政府が言っているのは「深く考えるな」ということだ。
つべこべ言わずにせっせとカネを稼げと言いたいのだろう。
国民はすべからく安倍晋三君の知能指数に合わせろと言うことかもしれない。

だがこれは学問に対する侮辱である。国家の品格とはこういうところで問われるものなのだ。
ほんとうにそんな愚民化政策を続ければ、日本は1億数千万全員、安倍晋三君程度の知性しか持たない馬鹿国家になってしまうだろう。

奴隷天国

昨夜に引き続き酔った勢いで書きましょうね。

今日読んだのはこの本。

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これを読む限り、著者の信じる価値というのか美意識と言っても良いのかもしれないけれど大雑把に言えば信念は、僕にはとてもじゃないけれど共感できない。(たとえば第9章で述べられている「特攻」について。僕は「特攻」はイスラム国の自爆テロと同じものだと考えており、両者にはいささかの「価値の差」はないと考える)

それでもこの本はとても優れていると思う。
つまり「戦後レジーム」という、安倍晋三君がいつも持ち出すネタではあるが一体全体なんのことを言っているのかよくわからない概念について、それをきちんと暴き出しているからである。

(※2015/06/08追記
ちょっとごめんね。僕は基本的には記事を修正しないのだけれど、あまりにも酔っ払って書いたので舌足らずでした。誤解されるといけないのでこの青色の文字の部分、書き足しますね。
つまり、安倍晋三君の言っている「戦後レジーム」というのがなんのことだか、僕にはよくわからない。彼の爺ちゃんである岸信介が良くも悪くも歴史に残る人物であったので、自分も爺ちゃんのようになりたいという功名心満々なのだけはわかるが、安倍晋三君の頭の悪さは戦後の首相の中でもずば抜けており、とてもじゃないが岸信介の左足の小指の先にも届かない。安倍晋三君の「戦後レジーム」など問い詰めれば本人もなにがなんだかわからなくなるような代物であろう。
ここから先に述べるのは、安倍晋三君の言わんとする「戦後レジーム」ではない。
世界史を見れば誰もが明らかな第2次世界大戦後の国際関係の中での日本の在り方のことである)


孫崎享氏の「戦後史の正体」(http://www.amazon.co.jp/dp/4422300512/)とか、白井聡氏の「永続敗戦論」(http://www.amazon.co.jp/dp/4778313593/)とか、「いわゆる左っぽい」と言われそうな論陣から提起されている「戦後とはどういうことか」という問題はいろいろ話題になっているけれど、「いわゆる右っぽい」論陣も、ほぼ同じ枠組みで現在の日本を捉えているのだ。

それはすなわち、米国隷属である。
日本国民は、自ら進んで米国の奴隷と成り下がっているのである。(唯一と言っても良いほどの例外が沖縄だ。日本国民である以上に琉球人としての誇りを持っている)

衆院憲法審査会では、自民党が呼んだ長谷部恭男・早大教授を含め、招かれた憲法学者3人全員が、集団的自衛権を認める安全保障関連法案を「憲法違反」とした。
自民党は大慌てで火消しに走り、砂川判決といった的外れの論議で違憲ではないと言い張るが、その論理は誰の目から見ても明らかに破綻している。

解釈改憲で集団的自衛権を認めようなどといったインチキ違憲法案を強行に通そうとするのではなく、安倍晋三君は正々堂々と改憲を問うべきなのである。

それがなぜできないのかと言えば「今、9条で国民投票をすれば負ける」という読みがあるのが大きな要因であるのは間違いない。
だが、それ以上に重要なのは、改憲派といわれる人たちの多くも、じつは「日本国憲法を根本的に問われては困る」のだ。

改憲派の人たちは「押しつけ憲法」だという。それは事実だ。日本国憲法の大枠は米国が用意したものだった。
だが、本気でそれを問おうとすれば、「押しつけ憲法」と抱き合わせの日米安保も本気で問われなければならない。
でも、もしもそうなると、米国の「ペス」(ポチではない。メス犬の代表的な名前)である安倍晋三君などは大変困ったことになる。よく考えるとどこまでも米国に尻尾を振り続ける理由などどこにもないからだ。アジアに対しては強気でも米国にすれば「ペス」でしかない安倍晋三君には立つ瀬がない。

だから、国会では誰の目にも明らかなほど滅茶苦茶な答弁を繰り返している。
国会審議の前に米国に行って「夏までに法案を成立させます」と言ってのけた安倍晋三君は、自国民よりも米国の顔色が大事。だからまっ先に米国に約束。これはつまり「日本は米国の属国です」という宣言だ。

それが最優先なので、自分がどんなに破綻したことを言っても意に介さない。(ていうか安倍晋三君は本物の馬鹿なので自分の破綻に気づいていないのかもしれない。逆に、マトモな知性を持ち合わせた中谷元君や岸田文雄君は、自己矛盾がわかっているのでおろおろしてしまう)

長くなっちゃったよ。

「奴隷で良いのか」という話だ。
便宜上僕も「右」とか「左」とか書くが、そんな古い区分けはもはや無効である。
自ら進んで奴隷になって、奴隷に許される範囲の楽しみを求める。──それで良いのか? という話である。
これは、尊厳の問題だ。右翼も左翼も関係ない。

『奴隷天国』~エレファントカシマシ