馬鹿で卑怯な安保法制答弁~分析なき「総合的判断」の非論理性 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

馬鹿で卑怯な安保法制答弁~分析なき「総合的判断」の非論理性

安保法制案はそもそも違憲なのだが、それをさておいても悪法である理由のひとつは、まるでザル法だからだ。歯止めというものがまったくない。

安倍政権の嘘や馬鹿っぷりは戦後最悪であるが、仮に彼らが言っている「自衛隊員のリスクは増大しない」とか「米国の戦争に巻き込まれることはない」とかを信じるとしよう。
ところがどっこい、この法案が通ってしまうと、未来の政権が何をしでかすかわかったもんじゃない。

安倍晋三君や日本会議の仲間たち、あるいは法案に賛成な人たちはそのことを理解しているのだろうか?
今はいい気になっている安倍政権だが、安保法案、TPPの失敗、改善しない景気、消費増税、進まない被災地復興、戻らない拉致被害者、原発再稼働、普天間新基地問題などなどで、実は虫の息だ。長くは続かない。
ヒロイズムに酔っているだけのアタマの悪い裸の王様、安倍晋三君は気付いていないのだろう。君は、自分にだけでなく今後成立するあらゆる政権に、好き勝手を許そうとしているのだよ。いつの日か極左政権ができるかもしれないが、安倍晋三君は、誰であれ未来の権力者に「戦争の自由」を保証しようとしているのだ。

昨夜はNHKスペシャル「緊急生討論10党に問う~どうする安保法案採決」を見た。
自民党からは高村正彦君が参加していたのだが、民主党や共産党に細かいことを突っ込まれると、国会審議同様に「総合的に判断して云々」を繰り返している。

さて。
「総合」の対義語はなんでしょうか?
意外とみんな知らないのだけれど、答は「分析」だ。

でね、「総合」と「分析」の関係の話を始めるとものすごく大変な哲学の話になってしまうので、大雑把に言うよ。

「分析」をする人がなぜ「分析」をするのかというと、どこかで「総合」したいなあと思っているからである。
たとえば、地震のデータを緻密に「分析」している人は、いずれこの「分析」が実を結び、地震のメカニズムの解明や予知といった成果に「総合」されればと願っている。
分析哲学だってそうだ。分析哲学というと「細かいことばっか言いやがって」と思う人もいるが、じつは古くからの哲学の王道中の王道である形而上学と格闘している。
つまりね、広辞苑で「総合」を引くとこう書いてある。
(2)〔論〕原理から出発してその帰結に至ること。公理から出発して定理を証明する数学の提示法はその典型。⇔分析。
要するに究極を突き詰め、そこから総合したい。世界を一気に語りたい。
分析哲学とはそういうことなのだが、まあ、この話に深入りするのはやめよう。

いずれにしても「分析」を語る人は、「総合」を夢見て闘っている。
地震学者の例で言えば、彼は、データを「分析」しながら、どこかに「総合」の糸口がないか考え続けているのだ。
つまり、「分析」と「総合」は、単なる「反対ことば」でなない。我々の知性は、常に両極を思考するが、「分析」なくして「総合」はない。小さな地震のデータまでも詳細に「分析」してこそ、地震のメカニズムや予知と言った「総合」的判断が成立するのだ。
ややこしい言い方をしてごめんねだが、考えてみれば単純なことだよな。これが我々の「論理」の立て方である。

ところが。
安倍晋三君や高村正彦君の言う「総合的に判断」には、それを支える「分析」がまるでない。
もちろん本人たちはいろいろ「分析」しているつもりなのだろう。でも、もしもきちんと「分析」できていれば、何を聞かれようが野党の質問にしどろもどろになったり、答弁が人によって違ったり二転三転することなどないのだ。つまり、「はじめに答えありき」で、まったく「分析」できていないということである。だが、「分析」のない「総合」などあり得ない。彼らの言うことがまるで非論理的で出鱈目なのはそういうことである。

分析なき「総合的判断」というのは、論理性や正当性を無視して「俺たちの判断は正しいのだ」という単なる傲慢な独りよがりだぞ卑怯者め。
ていうか最初の話に戻るけどさ、「法理上は大量破壊兵器も弾薬として運べるが政策上それはしない」とか言ってていいの? 君らがやらなくても未来の政権の誰かがやるぜ。
天下のザル法は自分の首を絞めるかもしれない。それくらいは考えろよ馬鹿。