都知事選その2~僕はなぜ「反原発候補」に投票しなければならないのか | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

都知事選その2~僕はなぜ「反原発候補」に投票しなければならないのか

恥ずかしながら2011年3月まで、日本で原発事故が起こることなんか考えてもいなかった僕だったが、福島の事故およびその後の隠蔽システム、自己保身しか考えぬ原子力マフィアどもの蛮行を目の当たりにし、恐怖と怒り、憤りに身が震えたのであった。
日本は大好きな国であるが、社会システムは最悪、などということは30年前から考えていたのだけれど、ここまでひどいとは思っていなかった。まさに己の無明を恥じた。

その後僕が考えたあれこれは、2011年3月以降のこのブログ記事を読んでいただければなんとなくはわかってもらえると思うけれど、要するに、反原発というのは、世界のシステムそのものが持つ病巣に対する闘いであると同時に、「生き方」の問題である。

東電の社員や経産省の小役人どもが原発という犯罪に荷担しているのはもちろんだが、全然関係ないように思われるかもしれないけれど、たとえば会社の売り上げや経費削減のためにレストランのメニューを偽装するような連中も、いわば「原発側」である。
つまり、自分の「立場」や会社の経営のために嘘をつく、嘘をつかないまでも事実を隠す、というような奴らは、東電や経産省小役人とまるで同じ精神構造であり、この社会の腐ったシステムを温存させている「原発」共犯者だ。

そう考えるならば、満員の通勤電車に詰め込まれた会社員一式と同様、当然のことながら僕自身も立派な共犯者である。
あらゆる企業は悪であると思っているから会社を辞めたフリーランスで、なるべくいい加減に生きている僕は、ラッシュの時間帯に電車に乗ることなんかまったくないけれど、それでもいろいろな会社からギャラをもらって喰っているし、そんな中で諸々妥協し、それゆえ社会の腐った部分を多少にせよ支えていることは紛れもない事実だからだ。

だけど悪いが仙人にはなれぬ。霞を喰って生きては行けぬ。

でも、だからこそ、自覚的に闘わなければならないと、僕は思う。
つまり、ぼ~~っとしていると、身も心も原発側に染まってしまうぞ、ということだ。

原発ムラの中にも「自分を頼りにしている家族を守るために会社を守る、原発を守る」と考える人もいるだろう。でも彼はその文言を「家族を守るために人を殺す」と同等の重さで受け止めているだろうか?
もちろん、僕は「人を殺す」ことが絶対的に悪だなどとは考えてはいないよ。「人を殺してはいけない」理由など、最終的には存在しないからだ。それでも「じゃあ、嫌いな奴を殺していいよ」と許しを得たとしても、きっととても苦しむだろう。

(「原発を守る」と「人を殺す」がなぜ同等なのかと問う原発擁護論者も多いが、本題ではないので簡単に。わかっている人は読み飛ばしてください
日本政府も拠り所にしているICRP(国際放射線防護委員会)2007年勧告によれば、「1万人・シーベルト」の死者数は565人とされる。これは1万人が1シーベルトを浴びたときの数字だが、放射線被害は閾値なしに確率論的に計算されるので、「1万人・シーベルト」は「50万人・20ミリシーベルト」と等価である。現在政府は「年間20ミリシーベルトで人が住める」などと言っているが、そんな地域に50万人が住んでいれば年間565人は放射線被害で死亡する。(福島の人口は約200万人なので50万人は多い。そこで20mSv/yに住む人が)5万人だとしても56人は死亡する。ちなみにオウム真理教事件では、地下鉄サリンの12人など30名弱が殺害され、当時のオウム幹部らの多くは死刑が確定したが、福島原発では現在のところ誰の刑事責任も問われていない。
また、3.11の地震、津波で亡くなった方は、
岩手県 5642人、宮城県 10483、福島県 1757人
であるが(厚生労働省2012年9月6日発表 http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/kakutei11/ http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/kakutei11/dl/14_x34.pdf)、
直接的に地震や津波、それに伴う建物の崩壊や火災などで亡くなったのではなく、その後の避難生活で体調を崩したりしたため亡くなった「震災関連死」死者数は、
岩手県 417人、宮城県 873人、福島県 1572人
(復興庁2013年12月24日発表 http://www.reconstruction.go.jp/topics/post-68.html  http://www.reconstruction.go.jp/topics/main-cat2/sub-cat2-1/20131224_kanrenshi.pdf
震災の直接的な犠牲者18877人のうち福島県の犠牲者は1割に満たないが、震災関連死で言えば全国の2916人の半数以上を福島県が占めている。岩手、宮城ともに、震災関連死者数は直接的な震災被害者数の1割以下であるのに、福島だけは震災関連死者数が直接的な震災犠牲者数とほぼ同じなのである。
福島県では、死ななくてもすんだ人が原発のせいで殺された、と言わずしてどういう説明ができるであろうか?)


僕は「なぜ人を殺してはいけないのか」というのはとても重要な哲学的問いであると考えるし、理由も考えずに「人殺しは悪だ」と唱える人は愚かだと思う。しかし、「殺していいよ」と武器を渡されても、無抵抗の人は殺せまい。殺さなければ自分が殺される、というような切羽詰まった場合は殺るかもしれぬ。だが、一生そのことを考え続け、毎晩夢に出てくるだろう。

原発を認めると言うことは、それくらいの重さがある。
つまりそれは、明らかに無抵抗の人を犠牲にする、ということだからだ。
これを是とするか非とするか。
そこがまさに「生き方」の問題なのである。

僕は正義漢ではない。どうしようもなく自堕落な駄目人間だ。しかしそれでも、子猫や赤ちゃんをいじめている者を見れば、ブチ切れて向かっていくだろう。正義を語る資格はないし、語ろうとも思わないが、弱い者を犠牲にしようという奴らが許せない、ていうか、それを認める自分自身が許せない。

と、かっこよく息巻いたのだったが、さっきも言ったように、僕もこんな糞システムに乗っかって生きているのは事実だし、大勢の目の前で子猫や赤ちゃんをいじめる奴にはまず遭遇しないが、たとえば会社の中で弱い者を蹴落とそうとするような連中に会うことがあっても、きっと気が小さいので何も言えないだろう。

でもさあ、選挙なのだ。正々堂々と「こいつに入れるぜ」とやればいいのだ。

都知事選の争点は福祉とか災害対策とかオリンピックとか、まあいろいろ言われているわけだけれど、何から何まで僕の思ったとおり、なんて候補者はいない。これは当然だ。であれば、ピンポイントに絞るしかない。
その選択の基準は、と言えば、僕はオリンピックなんか辞退せよ派だし、経済成長なんて馬鹿な夢を見るなといいたい。福祉や災害対策は確かに大事だろう。だけど、今まさに目の前で子猫や赤ちゃんがいじめられているのであれば、とにかく向かって行かなければならない。
それが原発問題である。
つまり、「生き方」の問題としての投票の基準なのだ。

当然のことながら、「原発が人を犠牲にする」というのは健康被害の問題だけではない。
原発は現代日本(あるいは世界)システムの病巣を象徴する。
力の強い者が弱い者を踏みにじるという格差(経済格差、地域格差などなど)の問題であり、また、守銭奴どもの腐った人生観、自己中心的な都会人と閉鎖的な田舎者の偽善、政治家どもの厚顔無恥など、ありとあらゆる小汚い性根が複雑に入り組んだ問題であり、さらに言えば、目の前にぶら下がった人参しか見えず「善」や「美」といった価値について考えることも感じることもできない愚かで凡庸な社会のありかたそのものの問題である。
そんな諸悪の結晶が原発であり、原発に象徴されるこのシステムの中で、多くのマトモな人たちが苦しんでいる。

最初に書いたけれど、僕は3.11まで、日本は結構マシな国だと思ってきた。
昔から言われるように政治は三流だし、経済も駄目。それでも3.11前は、北朝鮮や中国なんかよりはずっと良いと思っていた。
3.11で、突然「愛国的な自分」に気がついた。これはもちろん「体制に奉仕したい」とか「お国のために死んでも良い」とかではまったくない。ただただ、被災地の報道を見るたびに、自分のことのように涙がこぼれるのである。遠い国で戦争に巻き込まれた子どもの姿をテレビで見ることがあっても、ここまで胸は締め付けられまい。

というわけで、白状するとそれまで僕は、自分は非国民で充分と思っていたのだが、3.11を経て、自分は愛国者なのではないかと感じるようになったのだった。
と同時に、国民を守らないこの国のシステム、東電に何兆円も出すくせに、原発事故被災者には厳しいこの国のシステムに猛烈な怒りを覚えたのである。

どうも酔ってるから話が迂回するなあ。

原発が都知事選の立派な争点であることはこの前書いた(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11752384352.html)。
他にも争点はあるが、僕はこの一点、すなわち「反原発」という基準だけで候補者を選ぶ。
なぜならば、それこそが僕の「生き方」に重なる問題だからだ。

僕も一応、30年間も選挙に行っている。棄権は数回しかない。投票の基準は、政策だったり天の邪鬼だったりまあいろいろだったのだけれど、いずれにしても、誰に入れるかは公示前からほぼ決まっていた。悩んだこともあったけれど、そんなときは当日の気まぐれで投票した。

ところが今回だけは大いに悩む。

「生き方」の問題として反原発候補以外は考えようもなく、二者に絞られる。
宇都宮さんのほうが断然筋が通っており、知る限り反原発プロパーの人たちは宇都宮さんに投票が多い気もするが、選挙が社会システム(というくだらない存在)へのコミットメントである以上、社会的な(つまりくだらない)選択においては、一点突破のために悪魔に魂を売る、ていうかあえて妥協して数字という(くだらない)土俵に載るのが正当な筋なのではないか、とも考える。

この話は今度にしよう。
ブログ書くのもなかなか気合いと時間が必要なのですよ。なにしろ書き出すと長いからな。
いろいろ詳しく書けると良いのだけれど、結論を出して期日前投票に行き、「誰に入れました」だけは書くつもり。