道埋るまで雪はふりつむ | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

道埋るまで雪はふりつむ

あけおめなのだが、昨年父が亡くなったのでそれは言えないから、まあよろしくなって感じだ。

久しぶりに紅白なんか見ちゃってさ、ていうのも、天野アキ&足立ユイ、さらに天野春子、そして鈴鹿ひろ美が歌うということだったので、これだけは見ねば、ということで見ました。はい。

『あまちゃん』については、最終回のあとに書いた記事( http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11624596748.html )に書いたとおり。
2011年3月11日という、何百年先でも日本史の教科書に残らなければならない日(敢えて言えば、忘れることは許されない日)。
このドラマは、それと対峙し、格闘していた。

面倒だから前に書いた記事から引用だ。

我々はみな、あの日の凄惨な出来事を知っている。
でも、あの日以前も、昔からずっと南三陸市は存在していた。海女がいて、アイドルをめざす少女がいて、海沿いを一両編成のディーゼル気動車が走っていて、みんながそれぞれの生活を続けていた。それを我々はほとんど気にしたことがなかった。
そして、あの日のあとも、「あの日」を乗り越えようと、人々が生活を送っている。それも我々は、少しずつ忘れかけていた。

同じ日付を覚えているからこそ、そんな町と人々の姿に僕らは思わず拍手を送り、どんどん好きになっていく。
ドラマの中で「あの日」が来ることを知っているから、アキちゃんがそのとき何を感じ、どう行動するのか? 町の人々はどうなるのか、どきどきしながら毎朝見てしまう。


最終週の放送で、鈴鹿ひろ美が南三陸市の「あまカフェ」のステージに着物姿で登場し『潮騒のメモリー』を歌い上げたシーンでは、正直泣きましたよ。
薬師丸ひろ子の大女優っぷりを思い知ったのももちろん。

僕は物書きなので基本的には「ことば」で表現するしかないのだが、当然のことながら「ことば」で表現することには限界がある。なおかつ、たとえばテレビドラマのような「ストーリー」を作るとすれば、そのストーリーの本線に沿って、余計な部分は可能な限り切り落としていかなければならない。これは技術論だけれど、余計な贅肉がついていると、見る人は混乱し、ドラマに「乗れない」のです。
なので、特に(テレビドラマでも映画でも)商業作品においては、ストーリーの単純化がマスト条件。

とはいえ、物書きとすれば「俺の言いたいのはそんな単純なことじゃない」「そんなに薄くはない」とか思ったりね。

で、だ。
物書きが単純な「ことば」にしてしまうと薄っぺらくなってしまうところに、厚く肉付けしてくれるのが、役者の芝居だ。

鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)が歌い上げたのは、登場人物の心情だけじゃない。
つまり、アキちゃんやユイちゃん、天野春子やあまばっぱ、南三陸市の人たちの気持ちだけではないのはもちろんのこと、荒巻プロデューサーや水口マネージャーやGMT47の女の子たちなどなど、劇中人物の心情だけじゃない。
ていうか、劇中人物の心情、ではないのです。
鈴鹿ひろ美が歌ったのは、劇中(フィクション)登場人物の心情を超えて、2013年の僕らの心に響く声だった。

これはね、言い始めると長くなるし難しいのでざくっと書くが、劇中人物への感情移入というのはそんなに簡単ではない。
たとえば、劇中に裸足で画鋲を踏むシーンで彼が「痛い!」と言えば、見てる人は「彼が痛いんだろうな」とはわかるけれど、それがわかるだけでは「感情移入」とは言えない。
この「痛い」同様に、どんなドラマであっても、劇中人物が「楽しいんだろうなあ」とか「辛いんだろうなあ」とかは、表情ワンカットだけでほぼ誰にでも伝わる。
だけど、それだけでは感情移入はできない。「他人事」だからだ。

「他人事」ではなく「自分事」として感じてもらうことができるか。
これこそが、ドラマの肝であり、その「肝」を見事捉えたのが、南三陸市の「あまカフェ」で『潮騒のメモリー』を生声で初披露するという、薬師丸ひろ子の芝居だったわけだ。

2011年3月11日については、みんなが多くの思いを持っている。

これまでの生活を根本から覆された被災地の人たちは、怒りやむなしさ悲しさ、苦しみ憤りを感じているだろうし、東京にいても原発は許せないと立ち上がった人、被災地の復興こそが大事だとなにか行動を始めた人もいる。自分の生活は変えられなくとも署名や募金をした人も多い。

みんなの思いはそれぞれ違っている(はずだ)。
でも、それでも、鈴鹿ひろ美の歌は、そんなのすべてを包み込むような奥行きを持っていた。
だから僕らは彼女の歌にその思いを託すことができたわけだ。「劇中のこの人は画鋲を踏んだのだからきっと痛いのだろう」というだけの「他人事」ではなく、「自分の痛み」として、感じることができたというわけだ。

紅白では薬師丸ひろ子が南三陸市でのステージと同じ着物姿で登場した。
かなり涙。
の僕でした。

『あまちゃん』のこと書くつもりなかったのになあ。まあいいか。

いつもブログは酔っ払って書くが、今夜は特に飲み過ぎだ。僕はほとんどアルコール依存症だが、なんとか社会性を保っていられるのは「昼から飲まない」という己のルールを守っているからである。
夕方からは飲む。夜はもちろん飲む。朝まで飲む。でも、昼からは飲まない。(朝は寝ていて飲めないのでカウントしない)
上記規則の例外が、年間数日の「とても楽しい日」、および「正月」だ。

というわけで、大晦日の夜からずっと飲んでいるのだけれども、昨年つまり糞のような2013年に唯一とも言うべきまともな仕事をした作品が、夏前くらいにはリリースされます。
詳細は追ってこのブログでも紹介するけれど、3.11震災関連だ。
僕はやはり、「あの日」のことに対してどう向き合うか、という問いの中で生きていくしかないのだと思う。まあきっと早死にするだろうけれど、それまではずっと、3.11と対峙するしかないだろうと思っている。

冷蔵庫にビールがなくてさあ、泡盛の水割りを4杯くらい飲んで、ワンカップの日本酒飲みながら近所の大鳥神社で初詣して知り合いのアイリッシュパブで越後ビール2パイント飲んで、コンビニで買った南部杜氏『あさ開』720mlがそろそろ空になろうとしている。

吹きあるる
嵐の風の末遂に
道埋るまで
雪はふりつむ


大鳥神社の百円おみくじ。
「中吉」というが、これはほとんど「凶」ではないか?

でもまあ、「この道をゆけ」とか指図されたら最悪で、「雪で埋まって道は見えないよ」というのはずっとマシではあるが。