3年目の3.11。 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

3年目の3.11。

この日ばかりはブログの更新もしようと思って、いろいろ考えていたのでした。

3年前の今日、僕が何を感じたのか。社会的勝者ではない僕にはどこかにハルマゲドン願望があったという懺悔──とか、
「福島の人たちは可哀想」という上から目線は、佐村河内守に対して怒っている連中と同レベルの卑しいルサンチマンだ──とか。
まあいろいろ、4000字くらいは書きかけていたのだったが、まとまらないからやめた。

14時40分には、渋谷のスクランブル交差点にいた。
14時46分に何が起こるか見てみようと思っていた。黙祷くらいはあるだろう。

ところが、何もなかった。
時計を見ると14時50分になっていた。

あとから聞くと、銀座では黙祷の時間があったようだ。都内の他の場所でもあったに違いない。
しかし、「若者の街」代表格の渋谷スクランブル交差点では、みんな、今日がなんの日か忘れているようだった。

銀座線に乗って新橋に向かった。
東電前。ちょうど福島第一原発を津波が襲ったくらいの時刻だ。警察車両が何台か停まっていたが、特に誰かがなにかをしているわけでもなかった。

東電本社の様子を撮影していたら、若い警察官に声をかけられた。
「撮影しているのですか?」と聞くから、「そうです、問題ありますか」と言うと、「いいえ」と答える。それでも彼は質問を続ける。
「建物を撮っているのですか?」
「そうです」
「なぜ、建物を撮るのですか?」
「なぜって…? いけないんですか?」
「いいえ。でも、なぜ建物を撮るのですか? 建物を撮るのが趣味なんですか?」
困った警察官だ。
「建物を撮るのが趣味なのでなくて、東京電力の本社だから撮っているのです」
「なぜですか?」
警察官も仕事だから聞いているのだろうが、もっとマシな質問はできないものなのだろうか。
「今日がなんの日か、知っていますか」と、逆に僕は彼に聞いた。「東京電力の原子力発電所が事故を起こした日なのは知っていますよね」
「…はい。3年前」
「その日だから、どんな様子なのか撮っているのです」
僕は続けた。
「それがわからないなんていうのは、日本人としてどうかしていると思いますが、どうでしょう?」
彼は退散していった。

それにしても、僕の見た限り、東京はなにも起こらない日であった。

報道ステーションで、福島の子どもたちの甲状腺癌について報じていた。
100万人に1~2人と言われる子どもの甲状腺癌だが、事故後の福島では27万人調査して33人。(今後、爆発的に増えるはずだ)
また、甲状腺癌を引き起こす放射性ヨウ素の半減期は8日なので事故後すぐに調査しなければならなかったのに、行政から圧力がかかったことや、福島県立医大が中心となった福島県の甲状腺検査の情報隠蔽体制なども報じられた。

びっくりした視聴者も多いだろう。
でも、そんな話は事故後かなり早い段階でわかっていたのだ。

僕が編集した「原発・放射能 子どもが危ない」 (文春新書/小出裕章・黒部信一)は2011年の9月に発売されたが、その段階ですでに、甲状腺検査の初期初動の遅れは指摘しているし、福島県立医大が「福島の子どもの甲状腺検査はすべて県立医大に回せ」と、情報を牛耳るためのお触れを出していたことも、だいぶ前から聞いていた。
ただ、多くの人たちに最も影響力のある地上波キー局のテレビ番組では報じられたことがなかったのである。(僕がすべて確認したのではないけれどきっとそう)

3年経って、ようやく地上波の電波に乗った。
これは前進と見るべきなのかもしれないけれど、「大々的に報じられていて良いはずなのに全然知られていない」事柄はまだまだたくさんある。

汚染水の問題にしても、量がどんどん増えて困っているということは多くの人が知っているが、メルトダウンして溶けた核燃焼が地面にめり込んでいって地下水と接触しているようだという話はほぼ報じられていない。
事故から3年近く経って、放射能濃度が突然急増した井戸があるのだ。時間をかけて沈んでいった核燃料が地下水に達した。やがて海にも、これまでとは比較にならない高濃度汚染水が流れていくだろう。

一方、あれから3年目の東京では、子どもみたいな警察官がカメラを持ってるだけの人間にくだらない質問をしてくる。

のどかなもんだ。