語り得ぬものについては沈黙しなければならない。 -6ページ目

どうせ海に流す汚染水なら今すぐ流せば?

僕はニュースと『あまちゃん』くらいしかテレビを見ないのだが、なんだかテレビが連日連夜「東京でオリンピックやってほしい」プロパガンダをしているのがとても気持ち悪い。

要するに、テレビ局は国内でオリンピックが開催されれば放送して数字を稼げる。民報なんか結局のところ単なる営利企業であるわけで、まあそういうことだわな。

と言いつつも、僕は生まれも育ちも東京で、爺ちゃん婆ちゃんも、母方は品川区、父方は中野区で、要するに江戸っ子なわけさ。
で、もちろん僕も東京でオリンピックなんてやめてほしいと思っているし、僕の周りの江戸っ子で東京オリンピック賛成派なんて聞いたことがないぞ。
「オリンピックをやれば経済がよくなる」議論については、そもそも「経済がよくなるってなによ?」という根本問題があるのだけれど、長くなるのでここでは触れない。
それはともかく、日本中のマスメディアが「オリンピックは東京で」キャンペーンを張っているようで、本当に薄気味悪い。

やめてくれ。
来ないでくれ。
いい迷惑だ。
東京湾はセシウムでたっぷり汚染されてますよ!

震災後の「絆」キャンペーンにも似た気持ち悪さ。
小泉政権の時の大ブームもそうだった。
「みんなが一体となって盛り上がろう」的なキャンペーン。
いちばんの問題は、メディアの「現場」が、自分ではなにも考えずに「空気を読んで」キャンペーンに荷担していることだ。
震災後、「絆」にみんなが反応したら、「そうだ絆だ絆だ!」と言い始める。最初はびくびくしながら人々がなんというか気を遣っていたくせに、次第に空気が読めてくると、「誰も異を唱えるはずがない」という論調に変わる。
電波(ラテ)の場合が特にひどいのだが、上から命じられたわけでもないのに、現場が局内の空気を読んで自主規制したりする。
震災直後、御用学者を呼んで「メルトダウンはしない」報道を続けたお前たち報道現場のことだよ。

オリンピック開催地決定に当たって東京のいちばんの問題点は、当然のことながら福島第一原発だ。
海外の記者などから「大丈夫なのか?」と問われて、安倍、猪瀬を始め全員が「大丈夫だ」と語っているのだが、当然のことながら全然大丈夫ではない。

あのさ。
今、溜まる一方で、一部海に流れ出ている汚染水は、この先も増え続けるのですよ。
仮に地中にダムを作って地下水を食い止めることが出来たとしても、事故った原子炉は水で冷やし続けなければならないわけだし、そうすると、「溶けた核燃料」に直接触れた汚染水がどんどん出てくる。
それを溜めているボルト式の貯蔵タンクから汚染水が流れ出たって言うので、「ボルト式はやめて溶接式の頑丈なものにします」と言うけれど、それでも汚染水が増え続けることに変わりはない。

汚染水から放射性物質を取り除く「ALPS(アルプス)」を増設・改良し、新型も作ると国は言っているが、ここで間違えてはいけないのは、たとえ「ALPS」が放射性物質を取り除いたとしても、それは、比較的綺麗な水が排出されるというだけで、つまり放射性物質が存在しなくなるというわけではない。「ALPS」によって、もっともっと濃~~~い汚染水が大量に出来上がるだけだ。

いったい、どうしようというのだろうか?

(水冷ではなく空冷にすれば汚染水は増えないと言っているようだが、メルトダウンして溶けた核燃料がどこにどんなふうに存在するのかわからないのだ。コンクリートを突き破って地中に溶け出しているかもしれない。水冷の水は引力で下に行くが、風は自由に方向を変えたりしない。空冷はちゃんと管理された核燃料に対してなら有効かもしれないが、福島第一原発で通用するとは僕には思えない)

で。
ここからが大事。

結局のところ、汚染水は増え続ける。
そして、溶接式タンクを何段積み上げようが、いずれ収容能力の限界が来る。
そのとき、何をしなければならないのか?

海洋投棄である。
汚染水を、(仕方なくではなく自らの判断で積極的に)海に流す。
これしか方法はなくなる。
物理的に限界が来るのだからね。
「ごめんなさい、お手上げなので海に流します」
ということだ。
漁業者とかが反対しても、もうどうしようもない。
最悪の事態だが、そうなることはもう目に見えている。

僕はものすごく怒っているのだが、
「なぜ、テレビのニュースはそれを言わない?」

みんな、汚染水を海に流すなんてやってはいけないと思っている。
もちろん僕もそうだ。
しかし、どんなに目を背けたくとも、そのときはやってくるよ。
マスメディアはそれをちゃんと言えよ。
この先どうなるのかについて言及しないマスメディアの姿勢は、無根拠に恩赦を信じる死刑囚の夢物語と同じだ。恩赦なんかない。

誰も現実を直視しようとしない。
既定事実を追認するだけだ。

僕は思うのだけれど、いずれ海に流してしまわなければならない汚染水であるのなら、今日明日流れ出てほしい。
それで東京オリンピックが潰れたほうが、「垂れ流しの国、ニッポン」で開会式を迎えるよりもよっぽどマシだと思う。

クランクアップ

先々週(だったかな?)、被災地のロケが終わりました。
詳細はまだ秘密ですが、ドキュメンタリー映画を作っているのです。

低予算なので数人でロケに行きます。
でね、
被災者の話を聞いたりすると、これが当然辛い話が多くて、撮ってるスタッフも思わずもらい泣きしてしまったりする。
でも僕は泣きません。
画面に映るレポーターであれば、泣いたほうがいい。素直に感情を解放したほうが良い。
しかし、画面に映らない作家は泣いてはいけない。感情移入の前に、「このカットをどう使えるか」を考えながらインタビューを続けなければならない。作品のために冷徹であるべきだと僕は思うわけです。

今回の作品では、被災地東北はもちろん、九州のほうまでロケに行きました。ずいぶんたくさん日本中を動いた
でも、被災地ロケでも決して泣かなかった僕が、都内のホテルで撮影した、震災後初めてある人とある人に会ってもらうというものすごいシーンがあって、そこではさすがに涙を抑えられなかった。…あ、一滴ですよ。一滴。
そうすると、その夜の飲み会で監督のOさんが嬉しそうに「鹿島さん(僕だ)も泣きましたね」とか言うわけですよ。
(この作品はOさん監督作品。現場ではOさんがメインカメラを回して、僕がインタビューする。僕は「構成」としてクレジットされます)
なんだか僕は、現場では「泣かない男」になっていたらしい。

ところが僕は、じつはすぐ泣くのです。

僕は朝ドラなんかまったく興味がなかった。視聴率50%超えの『おしん』だって一度も見たことがない。
それでも『あまちゃん』は、たまたま早起きして見た日から気になって仕方がなく、先週だったか、主人公の念願の初ライブ日が『2011年3月12日』と書いてあった時点で、その日付を見てなにかこみ上げてきてしまい、今朝じゃなくて昨日だな、いよいよ2011年3月11日のシーンでは、まあ泥酔で編集作業で完徹ということもあったのだけれど、ドラマの中で誰かが死んだわけでもないのに、なんかボロボロ泣いてしまった。

「作り手」として自分が作品を作っているときには冷徹でありたいと思う。
テーマが震災であれなんであれ、下手に感情移入してはいけない。
けど、「受け手」になった瞬間に、「2011年3月」と言われただけで僕の涙腺はぐずぐずぐずと崩れていくのでした。

2011年3月。
テレビで津波の映像を見て、どれだけ悔しい気持ちがしたか。原発の爆発を見て、どれだけ自分を恥じたか。

「受け手」として震災関連番組とか見て泣くわけだけれど、泣いてすっきりさっぱりではいけない。
「作り手」として鉄面皮になり、涙を見せずに津波や原発と対峙し続けなければならない。
そう思う。

と同時に、僕は幸いにしてフリーランスのインチキ野郎なので「震災絡みの仕事」と言われればさっと手を挙げて、その結果この二年半、何度も被災地を訪れた。瓦礫ばかりで魚臭く道もなかった被災地が少しずつ綺麗になっていく様も見た。
とはいえ、被災地で生活しているわけではない。ずっと東京に住んでいる。
にもかかわらず、こんな僕でさえ「2011年3月」と言われただけで涙腺が緩むような、ある種の「軽いトラウマ」を背負ってしまっているのである。
現実に津波に遭ってしまった人や、原発事故で家を追われてしまった人はどうだろう?
僕になんか到底想像も出来ない、深い傷があるはずだ。

作家性とは「想像力」だとよく言われる。
残念ながら僕には、そこまでの想像力はないのだと思う。だから「僕になんか到底想像も出来ない、深い傷があるはずだ」くらいしか、言うことができない。
それを具体的に文字にしたり画にしたりしなきゃいけないのに。

でもまあ仕方ないよな。できることを、無理なく、だらだらとやっていこうと思う。

あとさ。
僕は今夜もこの原稿は泥酔で書いているのだけれど、ときどきそれを信じない人がいる。SAPPORO黒生500ml缶を3本と、氷結グレープフルーツ350ml缶2本、そして菊正宗樽酒720ml瓶が半分空いた。

どうやらここまで。

禁煙馬鹿

馬鹿を相手にしている暇はないのでスルーしていたのであった。

NPO法人日本禁煙学会が映画『風立ちぬ』制作者に出した要望書である。
http://www.nosmoke55.jp/action/1308kazetatinu.pdf

作中の喫煙シーンや、学生が友人に「煙草くれ」というシーンなどを取り上げ
「現在、我が国を含む177か国以上が批准している「タバコ規制枠組み条約」の13条であらゆるメディアによるタバコ広告・宣伝を禁止しています。この条項を順守すると、この作品は条約違反ということになります。」
として、
「誰もが知っているような有名企業である貴社が法律や条約を無視することはいかがなものでしょうか。企業の社会的責任がいろいろな場面で取りざたされている昨今、貴社におきましてもぜひ法令遵守をした映画制作をお願いいたします。」
と言っている。

これが「広告・宣伝」だなどというのは出鱈目な話であって、つまり「広告・宣伝」というのは煙草を売りたい奴(会社)が煙草を売らんがために、(企業活動の一環として)煙草のCMをオンエアさせたりすることを言う。
この映画がそうですか?
「美味しそうに喫煙するシーンがあったらそれは煙草の広告・宣伝だ」などというのは、「美味しそうにラーメンを食べるシーンがあったらそれはラーメンの広告・宣伝だ」というのと同じである。そういうのは広告・宣伝とは言わない。

そんなことはお猿さんでもわかる話で、だからこの問題は、「主義主張に凝り固まったイカれた連中が、滅茶苦茶なロジックでいちゃもんをつけてきた」というだけの、まあよくある話である。
なので、「NPOのくせに『学会』を名乗ったりしてるけど、ほんとうにアタマの悪い連中だなあ」と鼻で笑うだけで、わざわざブログに書こうという気にもならなかった。

でもね、松江市の教育委員会が『はだしのゲン』を市内の小中学校の図書館で子どもに見せないようにしていたというニュースがあって、同じ種類の馬鹿が続々登場するのは見るに見かねん。
と、ちょっと書くことにしたのだったよ。
http://www.asahi.com/national/update/0816/OSK201308160095.html

ご存知のように『はだしのゲン』は広島原爆の被爆体験を中心とした漫画。
戦争を扱っているのだから当然、人殺しのシーンとかが出てくる。そんな暴力的な描写が過激すぎるとして、松江市の教育委員会は、市内小中学校に対して「閉架図書」、つまり自由に見ることができないようにしまいこむよう命じたのであった。

僕も『はだしのゲン』は読んだはずだ。
なにしろ昭和40年代に小学生だ。日教組の強かった東京の小学校では「反戦必読図書」であった。
今でも世界の多くの国で翻訳されて読まれていると聞く。つまり、それだけ力のある作品なのだろう。
けどごめん、僕は覚えてないんだよなあ。
そもそも僕は記憶力がないのと、なんというのかあの画風が嫌いだったのです。子どもだからね、画風が嫌いだと受け付けないのですよ。

だから『はだしのゲン』については、良いとも悪いとも言わん。
『風立ちぬ』もそうで、僕は見ていない。
女子高生の頃から知っていて娘のように可愛い22歳の女の子がいるのですが、この前渋谷の反原発バーで飲んでいたとき、彼女が「すごくいい」と言っていたので今度見ようと思っていたところだ。今度見るね(エロおやじ)。

つまり、『はだしのゲン』にしても『風立ちぬ』にしても、その作品性について僕はなにも語れないのだが、そんなことに関係なく「喫煙シーンがあるからよくない」とか「暴力的だから良くない」などと言って、作者に脅しのような声明を送りつけたり、子どもに見せないようにするというのは、こりゃもう、それこそ暴力的なやり方だと思うのである。

『風立ちぬ』についての見解が日本禁煙学会のサイトに載っている。

「「風立ちぬ」のテーマは、戦争はやってはいけない=命がいちばん大事だ、と言うことだと思います。私たちも心から共感します。」
「風立ちぬ」で喫煙が幾度となく肯定的に表現されていることは、命が最も大事だというこの作品の一番大事なメッセージを損なう、とても残念な点になっています。なぜなら、からだに悪いことがいろいろある中で、タバコは、今の日本で最も人の命を縮めているからです」

http://www.nosmoke55.jp/action/1308kazetatinu.html

まあその他にもいろいろ書いてあるのだが省略だ。

どこが最も馬鹿なのかと言えば、作品のテーマを自分で勝手に決めつけて、「この部分は(自分が勝手に決めつけた)テーマに合わない」などと指摘していることだ。

当然のことながらNPO法人は権力の執行者ではないから、何を言おうと自由だ。
彼らが
「今回の日本禁煙学会の要請を、表現の自由の侵害だと批判する向きがありますが、それはまとはずれです。「表現の自由の侵害」とは、強制権力を持った政府が市民の言論を抑圧することを指すものであり、強制権力のないNPO法人である日本禁煙学会が行う批判活動は、正当な市民的権利の行使に過ぎず、まったく表現の自由の侵害に当りません。 日本禁煙学会が、「風立ちぬ」の表現を批判することも、日本禁煙学会の「表現の自由」です。」
と書いているとおりである。

だからもちろん僕は、表現の自由の侵害だなどと言うつもりはない。
それ以前の問題である。
すなわち、自分たちの凝り固まった主義主張のモノサシでしか作品を見ることができない馬鹿さ加減は恥ずかしくないのか、という問いである。
それはすなわち、作品のテーマを「戦争はやってはいけない=命がいちばん大事だ」などというステレオタイプな文言に貶めた上で、それを前提にして、自分たちの主義主張に沿うような論理展開をこしらえて悪口を言う、なんていう行為には、僕はおよそ芸術性、文学性のかけらも感じられないし、そんな声明を出したら「禁煙だろうが喫煙だろうが、こいつらこそほんとうに作家性の敵だな」と思われるのは当然なのに、それに気がつかない無神経さである。

松江市の場合はもっとひどくて、事実上の検閲(権力行使)。
もう眠いのでこの件は突っ込まない。

ただ、禁煙学会にしても松江市にしても、要するに作品性を馬鹿にしてるのだな。

と。
ここからはかなり酔っ払ったのでスピードアップするぞ。
祈祷を亀頭と誤変換してもたぶん気づかないので注意が必要だ(エロおやじ)。

今夜は、サッポロ黒ラベル500㎜缶が4本と、KIRIN一番搾り500㎜缶が一本、期間限定KIRIN本搾りチューハイ夏みかん&はっさく果汁28%アルコール分5%350㎜缶が二本。
その上で一番搾り500㎜缶を今、開けたわけだが、僕が書きたかったのは禁煙学会や松江市教育委員会の悪口ではないのであった。
そんな馬鹿どもはスルーすれば良いわけで、いちいち悪口を書くほどのことでもないのである。

で、何が言いたいのかと言えば、僕は禁煙学会を馬鹿だとは書いたが、悪だとは書いていない。

「真・善・美」という西洋的な価値をとりあえず受け入れるとしよう。
すなわち、
「真は価値がある」(真の対義語は偽)
「善は価値がある」(善の対義語は悪)
「美は価値がある」(美の対義語は醜)
というふうに、世界のありかたや人の生き方など、すべての物事について考えていろいろまとめた結果、こんな3つの価値があるんじゃないか、ということになった。
(これは単に歴史的事実であって、決して証明され得るような事柄ではないのだが)

「真」はとりあえずスルーしよう。
科学的な真実とかは、それを認めないともうどうしようもない。(米国には未だに進化論を信じない馬鹿な保守的キリスト教徒がたくさんいたりするのだが、そんなことをここで議論するつもりはない。一方で論理的な「真」については言いたいことはたくさんあるけれど今はやめておく)
まあ、「地球は丸い」とか、みんなが真実と認めるようなことは「真」としておこう。

問題は「善」と「美」である。

禁煙学会の連中は「煙草は悪だ」と考えている(と僕には思える)。
松江市教育委員会は「暴力描写は子どもには悪だ」と考えている(と僕には思える)。

だがしかし、善悪なんてそんなに簡単に言えるのか?

某国立大学の倫理学の教授と飲むことがあるのだが、あるときそんな話になって、僕の理解だと倫理学というのは善悪を問うのであるが、ならば、その考え方の前提となっている「善と悪」という二分法、さらには「二分法」という考え方そのものが疑われなくてはならない。

「ことば」というのは日本語でそう言うとおり「ことをわけていく」。それ自体、たかが人間の思いつきである。
「ことをわけていく」ことによって、認識というのが可能になったのだけれど、それでも、たかが人間の思いつきである。せいぜい、歴史の積み重ねだ。

そんなふうに考える僕は「そもそも論」として「善悪」に疑問を持つのであるが、それでも、ことばで、すなわち「ことをわけて」考えるしか手立てはない。
だから、「善悪」を語らずに「美醜」を語るのだね。

彼(倫理学の教授)に「じゃあ、鹿島さん(僕だ)は、「善悪の問題」を「美醜の問題」に回収するの」と聞かれたのだが、誠に残念ながら他にどう考えろというのだろう。
ほんとうにここは困った問題だ。

現象学とか、大陸系の人たちはエポケーをすうっと受け入れるのだが、ここにこそ大問題がある、と僕は思っている。
たとえばウィトゲンシュタインが確実性の問題として議論した、真偽を問うても無意味なことと、現象学的還元の間には圧倒的な違いがあるように思われるし、「括弧に入れる」などというゆるい考えは、単なる哲学的事なかれ主義にしか思えないのであった。

ごめん脇道にそれた。
飲み過ぎだな。
自分でもよくわからん。

ただね、
もちろん作品性と哲学性(善悪とは、みたいな話)はまったく別なのだが、でも、作家というのは、一行で済むお説教を言いたいがために長い作品を作るわけではない。
いろいろな問いを込めて作品を作る。
「「風立ちぬ」のテーマは、戦争はやってはいけない=命がいちばん大事だ、と言うことだと思います。」
などというのは、他人事ながら作家を馬鹿にするなと言う感じだ。

昔(今でもあるのかもしれないけれど)、社会主義国では、自分たちの主義主張(マルクスレーニン主義がいかに素晴らしいか)を宣伝するための映画がたくさん作られた。
見るに堪えないくだらない作品。
戦時中の日本の大本営の映画もそうだし、米国のくだらない愛国ヒーロー映画は今でもそうだ。
「主義主張」で作品を作るのは馬鹿のやること、という例だ。
と同時に、主義主張で作品を云々するのもよほどの馬鹿だと言うことを知っておかなければならない。

「祈祷」の出る幕がなかったなあ、誤変換してやろうと思っていたのだったが(エロおやじ)。

げっぷ。

サマータイム・ブルース~電力は余っている

なにしろ暑くてまいってしまう。
僕は寒いのは結構大丈夫なのだけれど、暑さは耐えがたい。
「弱冷房車を二両増やしても良いから強冷房車を一両つくれ」と東急電鉄のお客様窓口にメールしたのもほかならぬ僕だ。
一昨年から小出裕章さんにならい、なるべく冷房をつけずに扇風機で暮らそうとやってきた僕だったが、今年は駄目だ。このままでは熱中症で死ぬる。

そんなわけで、省エネなんかまったく考えてなかった頃に作られた古いエアコンをがんがんかけているのだが、しかしみなさんお気づきの通り、「電気が足りないから計画停電するかもよ」などという脅しをこの夏聞くことはない。
知らない人はいないと思うけれど、3.11以前54基あった日本の原発のうち、現在稼働しているのは大飯原発の二基だけなのに、である。

日本列島は、暑さの新記録をぞくぞく更新中。
要するに、これだけの酷暑でも、原発なんか必要ないのであった。

産経は、原発推進派の御用新聞であるから、みんなが「原発なんかいらないじゃん」と言い出さぬようにとプロパガンダに必死だ。

「景気回復で電力需要が増える可能性もあり、節電意識の緩みが電力不足につながりかねない。」
「各社とも、定期点検の先延ばしや老朽化した火力発電所の活用などで急場をしのいでおり、「国民の節電意識に頼っている限り、根本的な解決にはならない」(電力大手幹部)のが実情。」

http://sankei.jp.msn.com/economy/news/130409/biz13040921460027-n1.htm
だってさ。
節電「意識」?

東京電力の場合、震災の前年、2010年8月には最大電力が5000万キロワットを超えた日が18日、つまり一ヶ月の半分以上。最大値は5888万キロワットだった。
しかし、2011年8月に5000万キロワットを超えた日は1日もなく、昨年8月もたった2日だけで最大値5078万キロワット。今年の8月はこれだけクソ暑いのに、5000万キロワットを超えた日は一日しかない。

で、みなさんに聞きたいのだが、家や職場で、節電のために暑いの我慢してますか?

東急電鉄に強冷房車を要望した僕である。暑い外から帰ってきたときには冷凍庫にでも入りたい気分だ。
だから、まったく我慢していないと言えば嘘で、帰宅時の冷房は18度にしたくもなるが、26~27度の設定でも、10分~15分すれば汗も引いて心地よくなる。ていうか、冷房の設定温度下げるより、扇風機に当たったほうがずっと涼しい。

この僕でさえそうなのだ。
我慢しているという人は手を挙げてくれ。

つまりね、産経のいうような「意識」の問題などではないのだ。
産経は、節電「意識」が低くなったら、みんなが無駄に電気を使い始めるとでも言いたいのだろうか? 日本人は未だに、「電気をじゃぶじゃぶ使い放題にするのが幸せな生活だと思っている」とでも言いたいのだろうか?
「意識」ではなく、生活のスタイルの変化なのである。
今、エアコンをはじめ「省エネ」を謳わない家電はまずない。
ハード面でも我々は、なるべく電力を使わない生活スタイルに移行しているのである。

要するに産経は、原発再稼働の口実がほしくて仕方がないので苦しい弁論を展開しているに過ぎないわけだが、電力供給のために火力発電所の稼働率アップや、古い火力発電所の稼働などがあるのは事実である。
だから産経は「火力発電は酷使が続いており、トラブルが懸念される」とし、「大規模トラブルが起きれば電力需給が一気に悪化する可能性」http://sankei.jp.msn.com/life/news/130814/trd13081420530018-n1.htm)を指摘する。

ごもっとも。
確かにその可能性はあろう。
でもさあ、原発を再稼働させて、福島のような「大規模トラブル」が起きる危険性を考えたら、火力発電所の事故と原発事故、どっちがマシかは論を待たないというものだ。

福島第一原発は、今この瞬間も、放射能に汚染された水を大平洋にまき散らしている。
事故った原子炉には近づけないので(近づくと死ぬる)、事故から2年半近く経っても、溶けた核燃料がどこにあるのか、どんな状態なのかはわからない。
なので、これからも、いつ、何が起こるかわからない。
要するに、事故原因の解明どころか、福島第一原発は現状把握さえ出来ていない。

航空機事故でも家電の発火でも、トラブルが起きたとき何をすべきかと言えば、原因の解明と再発防止の策であり、そのためには、たとえばフライトレコーダーを解析するとか、焼けた部品を詳しく調べてみるとか、そういうことが不可欠だ。
ところがどっこい、福島第一原発ではそれができない。核心部分に近づくと人は死ぬるからだ。ロボットにやらせれば良いのだが、そんなロボットは存在しない。まだ研究段階だ。実用化まで何年かかるだろう?

「日本の発展のために原発は必要だ」という人に、今は面倒臭いから反論しない。
けどさあ、たとえばエンジントラブルで旅客機が墜落したとき、「フライトレコーダーはみつかりません。近づけないので、落ちたエンジンのどこがどうなっているかはさっぱりわかりません」という状況で、同じ飛行機にお客さんを乗せて飛ばす会社が許されるのか?

再稼働というのはそういうことをしようというのである。
(そんな欠陥商品を他国に売りつけようとしている政府には呆れたものだ。買うほうも買うほうだが)

ええとね。
8月15日なので戦争のことでも書こうかなと思っていたのだったが、この話はとても難しい。

戦争とはどういうことなのか?
過去、現在の戦争が具体的にどのようなことかについては、資料や証言もある。この時期はテレビの特番も放送されるので僕もときどき見る。で、「人を殺したり人に殺されたりはしたくないなあ」と当然僕も思うのだけれど、書きたいのはそういうことではない。

戦争とは、国と国との闘いである。昔からずっとそうだ、ていうか国と国との闘いを戦争という。

で。
「国のありかた」というのは時代とともに変わってきている。たとえば現代は、グローバル化というのが否応なしにあるわけで、そうなると江戸時代のような鎖国はできない。あるいは、冷戦時代と現在では「東西」の実質的な意味も変化しているとか、そんな現実的な意味も含め、「国のありかた」は変化している。
「国のありかた」が違うのだから、戦争も外交も姿を変える。

という話でもない。

戦争の主体は「国」なのだけれど、「国」の対義語は何でしょう?

みたいなことを考えているのだった。

「国」の対義語は「個人」かな?
でも、「個人」なんていうのは近代以降の概念である。
しかもその概念、あるいはその捉え方は、この数十年の間にも大きく変容しつつある。
(たとえば「個人主義」というのは、ある時代においてはたいへん進歩的な考え方であった。ところが現在では、マトモにモノを考える人が肯定的な意味合いでそのことばを使うことはまずない)
あるいは、「国」の対義語は端的にないのか?

とかね。

僕の出生時の住所は品川区荏原三丁目である。武蔵小山のアーケード街のすぐ脇。活気はあるが都会的に洗練されてはいない、「都内の田舎」である。大好きな街だ。
その街で僕は小さい頃、親の目を盗んでばあちゃんに小遣いをもらってアーケード街のゲーセンで遊んだり、ウルトラセブンの本やおもちゃを買ってもらったりしていた。
「~~してはいけない」という禁止命令をひと言も言わない、孫に甘すぎるばあちゃんだった。
僕が学生になると、そんなばあちゃんも当然のことながら年をとり、いろんなことがおぼつかなくなってくる。
テレビの高校野球でピッチャーの投球を見て、「今、ボールを投げてくれたので受け取って、投げ返した」と言う。
もはや「おばあちゃん、それはテレビの中のことで、実際にここにボールはないよ」などと指摘する段階でもなかった。
そんな頃、ばあちゃんが僕に語った、生涯ただひとつの禁止命令がある。
「潤(僕の名前だ)、戦争に行ってはいけないよ」

ばあちゃんの二十七回忌は昨年だった。


久しぶりに清志郎です。

他人の痛み、作家の抗い。

今夜は原発のことは書きません。震災のことは後半ちょっとだけよ(あんたも好きねえ)。

でね。
まあいろいろあってさ、ビールを3pint飲んだのだったよ。
BASSとKIRINとGuinness。
それから家に帰って唐辛子のウォッカにトマトジュースを入れて痛飲中。やっぱクラマトのトマトジュースのほうがいいなあ、と、さっき思いつきでamazonに注文したところ。

要するに酒飲みながらテレビ見てたわけだ。
週刊文春で、CX月9の視聴率が一桁台目前という記事を読んで、じつを言うと僕はかつてテレビドラマの脚本家になりたいと思って勉強していた時期もあったくせに、ここ10年ばかりは最近のドラマはくだらないとまったく見なくて、案の定連ドラは低迷しており、この前ちらっと見たジャニーズの誰だったかが出てるゴールデンの連ドラも3分と視聴に耐えられず、文春の記事じゃないけれどアイドル頼みにしたって数字は出ませんよ、と呆れていたのであったが、たまたま早起きした日に『あまちゃん』を見たらこれって面白いじゃんかよということになり、ビデオリサーチで調べたら、先週は『あまちゃん』の22.2%を超えて22.9%と視聴率トップだったのがTBS日曜劇場『半沢直樹』であった。
というわけで今夜、『半沢直樹』を初めて見たのである。

う~~~~ん。

僕は最近の企業ものだったらNHKの『七つの会議』のほうが面白かったな。あ、これも一回しか見てないのだけれども、言うならば登場人物の「悩み」「傷」が深い。

たとえば『あまちゃん』もじつは僕は3、4回しか見てないけれど、これって軽いドラマのように見えてじつは「悩み」「傷」は結構深いよ。
僕は、プロデューサーの荒巻太一が大好きで、一見ちゃらんぽらんなギョーカイ人中年男に見えるけれど、じつは深~い傷を負っているのが端々でわかる。キョンキョンや薬師丸ひろ子といった熟女たちもそう。彼らの「傷」があってこそこのドラマは成立している。

雑な言い方をしてしまうと、登場人物は、思っていることと逆の発言や行動をしなければならない。ていうか、逆の発言や行動を、せざるを得ない。思ったとおりのことを言う、思った通りのことをする、なんていうのはドラマの登場人物としては失格なのである。
能年玲奈ちゃんのような若い子はストレートでも許されるのだけどね、やっぱりオトナは、嘘を背負って、嘘を隠してびくびくしながら生きている。

『半沢直樹』は正直者だからなあ。正直者はつまらない。(正直者で正義感が強いのであれば、『斉藤さん』くらい過剰に徹底してほしい)
このドラマの中では、芝居下手だけど壇密が一番良いね(このドラマに限らず壇密は大ラブで是非とも膝枕希望なのだが)。

と。

ドラマの話をしたのは、今、ある映画の仕事をしているのである。
劇映画ではなくてドキュメンタリーなのだが、その構成について、今日も監督とふたりで打ち合わせをしていたのだった。
お盆明けにクランクアップして、来年の春頃劇場公開予定。
詳しいことはまだ秘密だけど、震災関連だ。
それがあって頻繁に被災地に足を運んでいるのであった。

多くの人が傷ついている。
100人いれば100通り、違った体験をし違った傷を負っている。
しかし、他人の歯の痛みをそのまま感じるのが不可能なように、僕が被災者の痛みを直に感じることはできない(原理的不可能性。もしも「他人の歯の痛みが直にわかる」などという人がいたら、それは「他人」ではなく端的に「本人」(自分)である)。
僕らは、表情や動作などで他人の痛みを推し量る。それが、僕らに出来る他人の「痛み」の唯一の共有方法だ。しかしきっと、表情や動作と言った「誰にでもわかる表面的なこと」では掬い上げられないことのほうが、はるかに大きく、深い。

ドラマというのは、「他人の痛み」の共有(の試み)である。(「他人の喜びの共有だ」という人もいるかもしれないけれど、「痛み」あってこその「喜び」だ)
もちろんさっき書いたとおり、動作や表情、あるいはことば(台詞やナレーション、テロップ)だけしか伝える手段はない。でも、ドラマを作る人は、プロフェッショナルとして、なるべく多くの人に、なるべく深く、「痛み」を共有してもらおうとする。そのための技巧や方法論も駆使することになる。

自分の痛み(あるいは「感情」とか「気持ち」とか言っても良い)を100%正確にことばにできる人がいたとすれば、それは人類初の天才かキチガイ、あるいは人間ではなくロボットだ。

ことばにした途端嘘になる。でも、とはいえ、黙っていてはなにも伝わらない。

我々はあまねくそういった矛盾を抱えている。
だからこそ、たとえばそんな矛盾の存在自体を示すためにも、登場人物に「思っていることと逆の発言や行動」をさせるわけで、まあそういった技巧、方法論は演劇の誕生以来伝統的に受け継がれているわけだな。

早い時間から飲み過ぎたなあ。
ウォッカのボトルが半分空いちゃったよ。

なんだったっけ?

たかがことば、たかが映像に、人間を描ききることはできない。(原理的不可能性)
我々はそれを知っている。
だが、それを知っていて、知っているがこそ抗おうとする。
抗おうとしない奴に作家(作品を作ろうとするすべての人)たる資格はない。と僕は思う。
(もちろん、「自分は人間のすべてを描くことが出来る」などという自惚れは三流以下)

我々はどこまで抗うことが出来るのか?
単に作品を見るだけの人には、その抗いは決して伝わらない。これは悪いけど作家にしかわからない。
でも、なぜか「抗った作品」こそ、多くの見る人に響く。

繰り返しになるけれど、たかがことば(たかが映像、画像、画、音などなんでもよい)である。
にもかかわらず、我々作り手は抗ってみせる。
原理的に不可能であるにもかかわらず、見る人に「痛み」を共有してもらおうとする。

そんな姿勢を忘れて、「男性アイドルが上半身を脱げば数字を稼げる」みたいなくだらない発想で番組をつくっても誰にも共感されないし、逆に『あまちゃん』のように一見テンポの速いドタバタドラマだと思われても、人の痛みに真摯に向き合う作家性にテクニックが伴えば、やはり伝わるものは伝わる。

取材で多くの被災者の方々とお話させていただいた。
一回一回、心底疲れる。
出来ることならば、通り一遍の表向きの話ではない本音を引き出したい。しかし、どうしたって他人の痛みは表面的にしかわからないのであって、どんな聞き方が相手に響いて、逆にどんなことばに神経を使わなくてはならないのか。
初めてお会いする人が多いわけで、そうすると余計に気を遣う。
それにね、根本的な問題として、そもそも僕にそんなことを聞く資格があるのか?

ちょっと飲み過ぎでわけわからなくなってきたのでそろそろ幕引きです。

僕は、こうして仕事として(つまり旅費やギャラを出していただいて)被災者の方々と関わることが出来る。
これは、幸せなことだと思う。
心底疲れるけれど、被災地に行くたびに、胸の痛みを感じることが出来る。もちろん何度も言うように被災者の方々の痛みを直に感じてなんかないよ。でも、それでも、毎回胸の中に鉛玉を押し込まれたような重い感じで、自分の駄目さ加減、酔っ払った勢いで書いちゃうけれど、人間としての駄目さ加減、作家としての駄目さ加減を痛感して、帰りの東北新幹線の中でビールを飲む。
この感じをみんなにわかってもらいたいなあ、と、そのときだけはほぼ失われかけている作家願望に火がつくのである。

面倒臭いから推敲しないで記事をアップするぞ。
細かいことは言うな。

自民圧勝。女川と原発。やったぜ山本太郎!

昨日一緒に飲んでた人の中には、自民党が圧勝するようなら亡命したいという人もいたのだが、まあそういう予測は出ていたからね。これはつまり、これまで何十年間も、我々がずっとぼ~~~っと過ごしてきて、小選挙区制の拡大を許してきてしまったからだ。
「地域の一位」だけを選べば自民議員ばかりに決まっているが、「全国の100位」を選べば、投票の分布が反映される。そんなことはわかりきっていたのだ。それなのに我々は、「国会議員を「地域の一位」の集まりにしよう」という動きに荷担してきたのである。
全投票数の中の自民党票の割合、さらにそこに投票率を掛け合わせれば、自民党支持者なんかそんなに多くない。なおかつ、たとえば投票率の低い20代~30代に限れば、選挙に行って投票するような積極的自民党支持者は圧倒的少数かと思われる。

なのに自民党は「国民の信任を得た」「ねじれを解消したいと願う国民の意思」などと言っている。
困ったもんだ。

「ねじれ」はあったほうが良いのだ。
これはつまり、「衆参のねじれ」に限った意味ではなく、「ねじれ」というとちょっと違うかな、各院での議席数の拮抗でも良い。いずれにしても、国会での「政権に対する反対勢力の存在」がなければ、連中の好き放題になってしまう。これは、自民党政権でも民主党政権でも、もしも共産党政権になってもだ。

まあこの問題はここでは書かない。
予想した通りの結果でした。おしまい。

で。

僕は今、津波で壊滅的な被害を受けた宮城県女川町。そこに震災後にできたホテルにいる。
こういう感じ

語り得ぬものについては沈黙しなければならない。-トレーラーホテル

洒落た言い方をすればコテージだな。
その一室に、僕はひとりで泊まっている。

語り得ぬものについては沈黙しなければならない。-トレーラーホテルの室内

だけどじつは、この部屋は「車両」なのである。
法的には建築物ではなく「車両」とされる、トレーラーハウスなのだ。
法律とか規制とかいろんな問題があるばかりではなく、今後どこがどのような形になっていくのか予想しにくい被災地でちゃんとした建築物を建てるのは大きなリスクがある。しかし、復興関連事業の人々の宿泊需要もあれば、多くの人に観光にも来てもらいたい。
そこで、震災前に旅館ホテル業をしていた人たちが中心となって考え出したのが、トレーラーハウスをホテルにすると言うことであった。

詳しくはここね。
http://elfaro365.com/index_pc.php

というわけで、ホテルの話は単なる宣伝。
いろいろ考えて地元で仕事を続けていこうという被災地の人たちがいるんだよ、という一例と、さすがに高級感はないけれど、綺麗で素敵なホテルなのでみんな来てね、ということでした。
昨日は仙台のAPAホテルに泊まったのだが、狭くてぼろいくせに安くない(唯一見るべき点はフロントの可愛い女の子)。女川のトレーラーハウスホテルは安いし、お部屋はとっても可愛らしいよ。

さて。

狭い湾に入ってきた津波は、両サイドが山に挟まれた女川の町をほぼすべて飲み込んだ。町の人に話を聞くと、びっくりするくらいの高さまで津波が来ていたらしい。
駅もビルも店も家も、ほとんど全部、波に流された。

語り得ぬものについては沈黙しなければならない。-震災後の女川

僕が前回女川に来たのは3月か4月で、ほぼ4ヵ月ぶりである。
な~~んにもなくなってしまった土地を見て愕然としていたのだけれど、今日見たら、低い土地のかさ上げ工事が始まっていた。
海抜の低い海沿いの平地に土を盛って、何メートルだか土地を盛り上げるというのである。

夕方、女川の復興に携わるキーマンの方とお話をしたとき、そのことを聞いた。
5~6メートルの防波堤を作るのであれば5~6メートル土地を高くしたほうが良い。
ということで、
これは、まったくもってもっともな話である。
チリ地震の津波くらいまでであれば、ノープロブレムの町にしよう、と言う。
とはいえ、東日本大震災並みの15~30メートルの津波でも何の被害もないように…というのは不可能だ。
だから万一そのときには、家や工場、商店など、「モノ」は流されても、人命は失われないようにしよう、という。そういう新しい町の設計図を考えている。

その人とお会いするのは二度目で、3.11以降ほぼ一日も休まずに町の復興を考え、行動している彼には、僕は心底頭が下がるし、この町の復興を心から願う。

でも。

土地をかさ上げする工事を見ていて僕は思ったのであった。
写真撮っておけば良かったなあ。ものすごい大工事なのである。
山に挟まれた女川は平地が少ない。だから、津波で全壊した海近くの平地を活用するしかない。
そのために今、山を削って土を運んできている。コンクリートの芯材みたいなのを置きながら、地面を何メートルも高くしようとしている。
これはものすごくお金かかるなあ…。
きっと、防波堤のほうが全然安いんだろうなあ…。
この小さな町に、そんなお金があるのかなあ。

と考えていて、腑に落ちた。

女川には東北電力の原発がある。
原子力の未来を信じて入学した東北大学の学生時代、女川原発反対運動を知った小出裕章さんは、最初は住民がなぜ反対するのかがわからなかったという。
しかし、「都会(仙台)で電気が必要なのならそこに原発を作ればいいのになぜつくらないのか」と問われ、「原発は危険だから都会には作れない」という真実を知った。
つまり、原発というのは、弱い人々、弱い地域を犠牲にするシステムだということである。

僕は小出さんとお会いするたびに、彼の行動はポリシー(政治的な考え)ではなく、美学(宮台真司さんとお話ししたとき小出さんについて彼が言っていたことば)なんだなあとつくづく痛感するのだけれど、「弱い者を犠牲にするのだけは許せない」というのは、その核心とも言える思いである。

札束で頬を叩かれ原発を誘致した福島第一原発立地体の双葉町は原発マネーが減って破綻寸前となった。町にカネが必要だから、福島第一原発7号基8号基を作ってもらおうと考えていた。
まさにシャブ漬け状態である。
原発立地体は、そうして「シャブ」ならぬ「原発マネー」で縛られていく。
まったくその通りである。

でもね。

これは僕が誰かに聞いたわけでもデータを調べたわけでもないので想像ではあるのだが、もしも女川に原発がなかったら、土地を何メートルもかさ上げする、なんていう滅茶苦茶カネのかかる復興プランはあり得なかったのではないか?

僕ら原発反対派は、「原発マネー(交付金とか)で意味のないハコ物(ド田舎の立派な音楽ホールとか)を作っている」と批判する。
だが、女川で海の近くの土地を高くするのは無駄なことなどではなく、むしろ最善の策だ。
しかし、もしも東北電力尾根川原子力発電所がそこになければ、そんな大胆なプランは考えもできなかったんじゃないか、と僕は思ってしまうのであった。

もちろん土地をかさ上げしたところで女川が震災以前の状況に戻れるかどうかはわからない。厳しいんじゃないかなあっていう気もする。
だけど平地の非常に少ない女川では、そうでもしなければ町は存続できない。

そう考えると、女川は原発があって良かった
という気もするのである。

と、反原発の人たちが怒りそうな記事を書く。

ていうのが今回の趣旨でもある。

もちろん「原発に依存しない町を作っていたほうが良かった」が正論だ。
でもさ、今回は三泊で仙台、石巻、女川。次回はたぶん今週後半、気仙沼。その次は8月のお盆前に仙台、石巻。という具合にずっと被災地に来ていて思うのだけれど、問題はそう簡単じゃない。もしも問題が簡単であれば、隣のおばあちゃんとか、ネットの掲示板、市役所の人とかがとっくに解決してくれている。
考えざるをえないから問題が顕在化するのだ。
そしてそれは、考えれば考えるほど「原発賛成」「原発反対」というような二分法では語れない。

僕は反原発で、不在者投票で山本太郎に投票した派だ。
彼が当選したのは画期的な意味がある。民主党の候補や桐島ローランドを押さえ、思いきりクソな「維新」ではあるが顔は知られているそこそこ有名人、小倉淳の倍近い得票になりそうだ。
これは素晴らしい。

山本太郎が当選したというのは、
「原発問題こそが争点である」という国民の意思表示が、定数の多い東京だからこそ、きわめて健全な形で自民党政権に突きつけられた
ということである。

と言う僕だが、一昨日の晩は仙台の居酒屋で、「山本太郎は大嫌い」と公言するそこそこ有名な反中派ジャーナリストと飲んでいたのであった。

まあ要するに、毎晩飲んでいるのだが、昨日は仙台から夕方福島に行って、一緒に飲んだ人の中には、冒頭に書いたように「自民党が圧勝したら脱国したい」と思っている人もいた。
新幹線の終電で仙台に戻り、国分町付近で夜中の3時くらいまで飲んだ挙げ句、今日は東松島、石巻方面を経て女川。
女川のプレハブ商店街「きぼうのかね商店街」の焼肉屋『幸楽』の肉がとても美味しく散々ビールや焼酎を飲んだにもかかわらず、トレーラーハウスホテルに戻ってかも、選挙関連ニュースを見ながらグレープフルーツサワー缶500ml二本と日本酒カップ酒を飲み干して、最後の缶ビールに手をつけた僕だ。

というふうにこれも飲んだくれて書いているのではあるが、そろそろ本題に入りつつある。

・反原発の僕が、「女川は原発があって良かったのかもしれない」と思っている。
・山本太郎に投票した僕が、「山本太郎大嫌い」で日の丸なジャーナリストと楽しく飲み、ところが翌晩はゲリラ的革命論を語っている。
・「熱い奴は馬鹿だ」と心底軽蔑する僕が、被災地で熱く頑張る連中に涙する。

こういうことについて、きちんと整理して書かねばなるまい。

右翼、左翼。
政治、文学。
ことば、気持ち。
ヤンキーと哲学者
被災者と東京人。
政治家の性根と軍人の魂。
思い、論理。
3.11に何を学び、何を捨てるのか?

↑これは昨夜、新幹線の中で書いたメモ書きなのだけれど、こういうふうに、何と何の葛藤なのか、これからちゃんと書こうと思っています。
今喋れと言われれば酔った勢いでいつまでも話すのだけれど、やっぱ書くべきだね。

今夜は飲み過ぎでもう駄目だが、次回以降、現代日本の文化的論点を突く対抗概念群やその哲学的意義、さらに「だったらどうすりゃいいの?」まで、ある程度の体系化をめざそうかなと思っています。

酔い潰れるまで。

キチガイ原子力ムラは今でも健在な件

あのさあ。
僕もぼ~っとして生きているが、それでも、福島第一原発の観測用井戸水の放射線汚染度がここ数日で急上昇しているというニュースを見て「まだ放射能が漏れてるの?」とか言ってる人たちにはびっくりした。

福島第一原発はメルトダウンしたのである。メルトダウンというのは簡単に言うと、溶けた核燃料が外に漏れだしたのである。
で、当然のことながら誰もその詳細を知ることはできない。近くに行ったら死んでしまうからだ。

つまり、
「溶けた核燃料がどこに行ってどのようになっているのか誰にもわからない」
これが、2年前から変わらぬ事実である。(事態は本質的な意味では2年前と比べて微塵たりとも良くなってなどいない)
それから、溶けた核燃料は冷めてはいないよ。まだまだ熱いままだから、注水を続けないと大変なことになる。

だから、溶けた核燃料が地面にどんどん入っていって地下水を汚染する。それが二年以上経ったある日、観測用井戸に届いて数値が急上昇する。
なんていうことは驚くに値しない。2年前から充分に予測できたことなのだ。
「福島第一原発事故が収束した」とかいうのが出鱈目なのはもちろんのこと、「収束に向かっている」というのも嘘だ。井戸水の汚染度が急上昇したことでわかるように、溶けた核燃料は今でも地中でどんどん拡がっている。海の汚染もこれからだ。

あと、ニュースで言えば「敦賀原発2号機直下に活断層がある」という原子力規制委員会の調査結果に対して、事業者の日本原電が異議を申し立てたようだ。
日本の法律では活断層の上に原発を建ててはいけないことになっている。当たり前の話で、そこが地震で大きくずれたりなんかしたら、原発なんかひとったまりもないからね。決して大袈裟ではなく、日本が滅亡するレベルの事故になる。

ここでちょっと話は横道だ。

「敦賀原発2号基の下に活断層がある」と判断した原子力規制委員会というのは、3.11の反省にたって設立されたものだ。
でもその実体は、原発推進派である。
原発を進めてきた経産省の役人連中が横滑りしているのはもちろんのこと、委員長の田中俊一がそもそも断固たる原発推進派なのである。

去年8/6月にブログに書いた文章だけど、もう一度引用するね。

田中俊一というのは

「いわゆる原子力ムラの住人の中でも飛び切りの「エリート」と言うべき経歴の持ち主」(河北新報http://www.kahoku.co.jp/shasetsu/2012/08/20120804s01.htm)、
福島原発事故が起きた昨年も、「複数の原子力関連企業・団体から報酬約29万円を受け取っていた」(時事通信 http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2012080200769

田中俊一は福島原発事故後、被災地に入り自ら除染作業を行うことによって「いい人ぶり」をアピールしていたのだが、彼がなぜ除染に熱心なのかというと、それには別の理由がある。

「日経ビジネス」が昨年9月に掲載した田中俊一のインタビューを見よう。(http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110912/222598/?P=1 無料登録が必要だが、田中俊一の本音を知るためだけにも登録の価値はある)

まあ例によって原発推進派の常套句「100ミリシーベルト以下は大丈夫」「放射能を怖がるストレスのほうが問題」などは相手にしないでおこう。(ちなみに、山下俊一と田中俊一が「ミスター100mSvダブル俊一」)

田中俊一はこう言っている。
「避難している方々は仕事がありません。仕事のない毎日ほどつらいことはありません。除染作業は若干の被ばくを伴いますが、除染を当面の雇用の機会にすべきではないか、と思っています」
つまり、田中俊一は福島の人たちにもっと被曝をさせたいと思っている

「除染よりも汚染された土地を買い取るべき」という意見に対しては
「それは論外ではないでしょうか。公示価格で考えれば買い取りコストは5兆円ぐらいという話を聞いたことがありますが、そんなに安く買い取れるはずがない」

また、環境省が海水浴場における放射性物質濃度の基準として、セシウムは1リットル当たり50ベクレル以下とする案を出してことに対して
「海水浴場で海水を毎日1リットル飲む人がどこにいますか。こういう基準を決めることで、小学校や中学校のプールの除染が難しくなり、除染コストがどれだけ増える(か)考えたことがあるのでしょうか

なおかつ、日本原子力文化振興財団webページでのインタビュー(http://www.jaero.or.jp/data/02topic/fukushima/interview/tanaka_t.html)で言っているのは、
「実際に私たちが除染をしてみますと、国の計算の方式で年間1ミリシーベルトまで下げるということになると、1時間当たりの空間線量が0.22とか、0.23マイクロシーベルトなんですね。ですから、今、私がやっている除染の4分の1とか、5分の1の数値ですね。そこまで下げるというのは、現実には今の段階では不可能だと思います」

(※ここで田中俊一が言う「0.23μSv/h」は、素直に計算すると
0.23×24(時間)×365(日)=2014.8μSv=年間2ミリシーベルト以上
なのだが、田中は「国の計算方式」と言って誤魔化している。
「国の計算方式」とは、素直に計算された数字に0.6を掛けて、放射能被害をことさら小さく見せようとするものである(文科省・経産省などが採用)。
これは、1日のうち外にいるのは1/3だけだとし、屋内にいる16時間については「木造家屋の低減効果係数=0.4」を掛けて計算しているというわけだ。
【一日あたりの線量を「a」として数式化すると
((2/3(16時間/24時間)×0.4))a + ((1/3(8時間/24時間)))a = 0.6a】)

で、「国の計算方式」で矮小化された数値をもとに
「年間5ミリシーベルトくらいでいいのではないか、というのが私の考えです」
と言うのが田中の意見だ。

まとめるとこういうことになる。
「0.22~0.23μSv/h、つまり「国の計算方式」では年間約1mSvだが、素直に計算すると年間約2mSv、まで除染するのは現実的には不可能」
「だから、国の計算方式では年間5ミリシーベルトくらい、つまり素直に計算すると年間10mSvくらいまでは我慢しろ
と田中俊一は言っている。


なぜならば、「除染コストがどれだけ増えるか考えたことがあるのでしょうか」という発言でわかるように、田中俊一にとっては、安全性の確保よりも、賠償コストの増大が心配なのである。

田中本人が賠償コストを請求されているわけではないのに、どうして彼はそんなことを言うのだろうか?
東電を守りたいのか?
あるいは、血税投入に反対なのか?

じつは、どっちも違うのであった。

昨年8月23日の「原子力委員会定例会議」で、田中俊一が正々堂々とこう言うのを聞こう。(内閣府原子力委員会サイト内にある公式議事録 http://www.aec.go.jp/jicst/NC/iinkai/teirei/siryo2011/siryo38/siryo7.pdf

「この状況のままで今後の原子力の再生は非常にもう、個人の考えですけれども、絶望的です。とにかく何らかの形で除染をしてきちっと行い、避難住民が帰ってこられるような状況をつくり出さない限りはこれからの原子力発電も含めてそういったものはどう政策を進めていいかわからないなということがありましたので、私自身はそういう思いもあります」


要するに田中俊一は、原子力を進めたくて進めたくてどうしようもないのだ。
土地の買い上げとか徹底した除染をすればものすごくお金がかかる。
すると当然、原子力はやめようという方向になる。
田中俊一にとってみれば、そんな事態こそが一番の大問題なのであって、だからこそ彼は福島に除染にも向かう。
「原発が爆発したって、ほ~ら、除染したら住めますよ」という話にして、3.11以前のように原発を推進したいだけ。
つまり、住民のためではなく、原子力推進のために除染に励む、心底根が腐った男なのだ。


長い引用すまんね。

まあ、そういう奴だ。

そしてそういう奴ですら、「敦賀原発2号機の下には活断層があるから運転を認めない」と判断したのであった。
にもかかわらず、日本原電はいちゃもんをつけている。

ニュースで聞いていて心底呆れてしまったのは、日本原電の濱田康男社長は、「もしの廃炉になれば、(日本原電の)株主である各電力会社にも影響する」とか言っている。
まるで、電力会社の経営状態こそが日本にとって最も重要な問題だと言わんばかりだし、実際、アタマのイカれた濱田康男はそう信じているのだろう。

でもさ、電力会社の経営状態なんて、だからどうしたの?
他の業界と同じように、駄目な会社は潰れりゃいいじゃん。
日本原電に出資したって言うのも、「出資にはリスクがある」という資本主義のルールを了承して投資したのであるから、電力会社が損をすればいいだけの話だ。

活断層が動いた場合、せいぜい数十メートル規模の大きさの原子炉なんか赤子の手をひねるようにぶち壊される。
福島第一原発は爆発したけれど、不幸中の幸いで、水蒸気爆発ではなく水素爆発による建屋の爆発だった。
水蒸気爆発というのは、制御不能となった原子炉の中で核燃料がどんどん高温になり、原子炉の中の水が気化してその圧力で原子炉そのものが爆発することである。
こうなると、フクシマもチェルノブイリもはるかに超える事故となる。
福島第一原発でも、今でこそそのリスクは減っているが、事故からしばらくは水蒸気爆発のリスクを抱えていた。

水蒸気爆発に限らず、格納容器、圧力容器がベロッと壊れてしまえば、誰も近寄れないくらいの汚染が数キロ~数十キロ規模で拡がることになる。
するとどうなるのかと言えば、たとえ事故が敦賀原発2号機だけであったとしても、放射線量が高いためほかの原子炉にも誰も近づけない。そして、電源がなくなって冷却水が途絶えれば敦賀原発2号基以外の3基もメルトダウンして、水蒸気爆発くらい起こすであろう。
で、あっという間に若狭湾地帯は壊滅。
湾に面した美浜原発、大飯原発、高浜原発、それに「もんじゅ」も制御不能となって事故の連鎖が発生し、関西圏、中京圏は少なく見積もって数百年単位で人が住めない場所となる。

そんな大袈裟なと思う人は、福島第一原発の事故が、いかに綱渡り的な状況の中の幸運で首都圏全滅を回避できたのかを学ぶと良い。

要するに濱田康男は、関西全滅のリスクよりも自分の会社が潰れたり、電力会社の経営が悪くなる方が問題なのだろう。

僕は正直言って、そんなキチガイ連中がまだ堂々と力を振るっているこの現状に呆れかえると同時に心底うんざりしているわけであって、こういうひとつひとつの問題に関しては発言する気にもならずだらだら酒を飲んで生きているわけだけれど、それでもたまには書いておこうかなと思って今夜はパソコンに向かったのであった。

というわけで今夜はたまたま書いたのだけれど、原子力のキチガイ連中の目に余るキチガイぶりは、じつは今でも、というか奴らにしてみれば多くの人が3.11を忘れかけている今こそチャンスとばかりに、好き放題やっているのである。

いちいち書かん。
でも、気にしてほしいなあと思う。

低能起業家

『週刊文春』は面白い。文藝春秋社ではいろいろ仕事をさせてもらっていて、その関係で毎週送っていただいているのだけれども、だからヨイショするというわけではない。
『週刊誌』っていうと「いかがわしい」って思う人もいるようだが、そんなことはないよ。文春、新潮、現代(講談社)、ポスト(小学館)、朝日など、老舗出版社の週刊誌は、政財界から芸能人、文化人、闇の世界に至るまでかなりちゃんとしたネットワークを持っていて、だから面白いネタが集まってくる。
「興味本位じゃないか!」と言われればその通りだけれど、それでも3.11直後、テレビや新聞が御用学者ばかり登場させひたすら「安全デマ」を煽っていた中、週刊現代や週刊朝日、また週刊文春も果敢に闘いを挑んでいた。

電力会社は広告費を払うことでマスメディアを押さえているわけだが、特にテレビなんかでは、「原発は危険」というのは御法度だった。ここでは詳しくは書かないけれど、あるキー局の報道ディレクターから聞いたのは、業界内で原発はあまりにもずっとタブー視されていたため、あれだけの事故が起きても「政府や、御用学者の言っていることは嘘なんじゃないか」という姿勢で報道することができなかった。報道の精神よりも組織のタブーに気を遣うという、まったくもって駄目な連中だ。

今でこそ、昨日観たTBSの『報道特集』やテレ朝のニュース番組などでは原発批判が行われているが、事故から二ヶ月間くらいだったか、一番大切な時期にテレビは視聴者を、そして被災者を裏切った。これは今後きちんと落とし前つけていただかないと困る、と僕は思っている。(広告費をもらっていないNHKには別の問題があったのだが、面倒なのでここでは書かない)

それに対して週刊誌はよかったなあ。
ちょっと横道だが、雑誌でも、ファッションやコスメ系なんかは、広告売り上げの比重がとても高い。極端な言い方をすれば、雑誌が全然売れなくてもメーカーからの広告費がたっぷり入ってくる、という仕掛けになっている雑誌もある。
でも、週刊誌はそうはいかない。もちろん広告費売り上げもあるけれども、それ以上に駅売店、コンビニ、書店などで読者の興味を惹いて実売数を伸ばすことが大切だ。
広告料金だけに頼っている民報地上波とはまったく違った原理が働くのだ。だからこそ、事故直後「テレビや新聞じゃ言わないけど、原発やばくね?」と思った多くの読者に対して、テレビや新聞じゃ言えない真実を伝えることができたわけだった。

3.11以後の反原発の流れを作ったのはマスメディアではなくインターネットだ、という言う方がある。
たぶんそれが大きいのだろう。でも、マスメディアの中でも週刊誌やラジオは頑張っていたよ、と僕は思う。

ええと。

『週刊文春』の話だった。

今、手元には最新号があるのだけれど、『ワタミ』の創業者である前会長渡辺美樹の欺瞞を追及する記事の第5弾が掲載されている。
渡辺美樹というのは僕的には「今、日本でもっとも鼻持ちならない連中」のひとりなので、だからなかなか痛快な記事だ。

なにが鼻持ちならないのかと言えば、当然のことながら「いかにもネオリベ的な自己満足男」のようであり、「他人に対する想像力が欠如した馬鹿が強大な力を持ってしまった」という、よくある例の典型だからでもある。

ワタミといえば、ネットではかねてよりブラック企業として有名だった。要するに人使いが荒すぎるのだ。
入社わずか二ヶ月後に月140時間を超える残業を強いられ自殺した森美菜さん(享年26)の話は有名だ。

語り得ぬものについては沈黙しなければならない。


こんなノートを残して命を絶った美菜さんに対して渡辺美樹の言い草は「労務管理できていなかったとの認識は、ありません」と、自分の責任を認める気はさらさらないようである。

語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

だけど『週刊文春』の記事によると、渡辺美樹は実際に社外秘の冊子『理念集』で、「365日24時間死ぬまで働け」と社員に呼びかけていたらしい。

でね。

何が問題なのかというと、それは渡辺美樹が「自分は悪いことをしている」とはまったく思っていないことだ。
もしも「そもそも従業員を殺そうと思って雇っている奴」であればわかりやすい。でも、そうではないことがより一層悪い。

彼自身、佐川急便だかで必死に働いて会社を立ち上げたらしい。
それこそ『365日24時間』の勢いで働き続けてきたのだろう。そしてその結果、本人的には納得のいく生き方をしているのだろう。
まあそれは渡辺美樹の勝手だ。
でも、誰もがそんな、そんな「上昇志向」を持っているわけではない。

僕は「上昇志向」なんか今やもうないので、まあ、安いお酒を飲んでだらだら暮らせれば良いのです。一生借家で充分。偉くなりたいとか思わない、ていうかむしろ偉くなりたくなんかない。

ところが渡辺美樹のような上昇志向の塊のような人間は、「誰もが自分と同じような上昇志向を持っている」と信じていて、疑ったことすらないのではないのかな。

ちなみに「上昇志向」を大辞林で引くと
『より上の地位や生活水準を目指すことを優先する考え。』
とある。
ここで大事なのは、「地位」や「生活水準」以外の価値は優先されない、ということだ。

たとえば、素敵な恋とかさあ、素晴らしい小説、映画、音楽に出会うとかさあ、あるいは地味でも幸せな家庭を築くとか。
人生においていろんな「価値」があるわけだけれど、一番大事なのは「地位」や「生活水準」といった恐ろしく俗なモノサシで測れるもの。これしかないに決まってんじゃん。
とまあ、これが、僕の使う「上昇志向」ということばの意味である。

「地位」や「生活水準」を最優先にする人はそれはそれで良いのだけれど、そんなのは別にどうでも良い(あるいはそこそこで良い)という人のことを、彼らは想像することもできない。
一番困るのは、自分が思う以外の価値を持った人については、なんの想像も及ばないという馬鹿さ加減だ。

だから「365日24時間死ぬまで働け」ば自分のように幸せになれるよ、と、なにも悪びれずに言うことができる。本人が「それこそが正しい」と思っているのだからしょうがない。
「仕事で上昇することこそ人生の幸せ」と思っている馬鹿にそれ以上の思慮深さを求めても無駄である。

でもさあ、そういうかなりの馬鹿が現実的な力を持ってしまうんだよね。
困ったもんだ。

『週刊文春』最新号には「待機児童ゼロ」を果たした「横浜方式」に対する、ジャーナリスト猪熊弘子氏からの批判記事も掲載されている。

待機児童問題は深刻なので、「横浜ではそれをゼロにした」ということを聞くとみんな「すごいなあ」と思う。
でも実際はかなりの歪みも出ているというわけだ。

一番の問題は、会社組織に保育を任せたことである。
そもそも「会社」というのはなんのために存在するのかと言えば、「利益」のためだ。それ以上でもそれ以下でもない。会社というのは原理的に「利益追求のためのみに」存在するのである。
「横浜方式」の現実的な問題点は「週刊文春」の記事を読んでいただくとして、僕としては「そもそも論」をさせていただきたい。

多くの会社がそれぞれの事業分野で利益を追求するのは、まあ勝手にやってなさいよと言う感じである。
でもさ、「保育」っていうのは「利益追求」とはそぐわないんじゃないの? 自己利益の追求のみが目的である営利企業にやらせてはいけない公共性の高い仕事もあるんじゃないの?

「保育」だけじゃなくて、たとえば「学問」や「医療」もそうだ。
「学問」の目的は「真理」の追求であって、決して金儲けではない。
「医療」でいえば、「今すぐに手術をしなければ死ぬ」という患者が病院やってきたとき、彼の貯金残高やクレジットカードの利用可能額を与信して手術代を払えない奴は手術をせずに追い返す、というのが我々の目指す社会の在り方か?

「保育」も「目指す社会の在り方」と深く関わっている。
もちろん「待機児童」は減らすべきである。でも、数字上ゼロにすればそれでめでたしめでたし、というわけであるはずがない。
これからの社会の担い手である子どもたちだ。数字上どう見せかけるかではなく、実質的にどういう保育をするかがが大事なんじゃないの?

眠くなってきたのでざくっと行こう。

「横浜方式」を支えたのが国内最大手の保育企業グループ「JPホールディングス」と、その中核企業である「日本保育サービス」だという。
その代表取締役社長が山口洋という奴で、国の保育関連審議会のメンバーでもあるらしい。
で、「週刊文春」の記事のよると、山口洋は社員研修で「持ち株会」への入会を「強制参加です」と言っていたらしい。

「持ち株会」というのは、毎月給料からいくらか天引きされてそれで自分の会社の株を買うわけである。
会社を辞めるときそれを売った金額が戻ってくるので、つまり会社の株価が上がっていれば得をする、ということだ。
そんな「持ち株会」に入れ、と山内洋は社員に強制していたらしい。

でもさ、株価なんて言うのは上がりもすれば下がりもする。社員ひとりひとりがどう働くとはまったく別に、グローバル市場に影響される。あるいは、社員がどんなに頑張って働いても、もしも代表取締役山口洋の不祥事があってそれが発覚すれば株価は下がる。
要するに、社員のモチベーションと株価は、関係ないのだ。

にもかかわらず
「せっかくみんな同じ気持ちになってもらいたいのに、やらない人が出ると全体として少なくなってしまう可能性が出てしまう。だから全員強制」
と、山口洋は言う。

なんたる想像力の欠如!

山口洋、お前は株価が上がればウハウハかもしれない。あるいは株価が下がることに対してびくびくしているのかもしれない。それがお前の人生かもしれない。
だけど、株価なんかどうでもよくて、単に現場で子どもたちに真摯に向きあいたいという熱心で真面目な人の気持ちなんか、山口にはまったくわからないのであろう。
「一旗揚げるために保育士になりました」なんて奴がいたら僕は絶対信用しないよ。

つまりまあ、渡辺美樹と同じ種類の人間だ。
金儲けや自分の地位、生活水準こそが一番大事だと考えていて、さらにまた、すべての人が自分と同じように考えている、と信じて疑ったことがない。

僕的に言うと、つまりこれは低能と言うことなのだが、そんな低能がいろんな分野で力を持ってしまって、日本はますます醜い国になっていく。

酔っ払い文章だな。
まあいいか。


経済、原発、憲法

まあいろいろあって全然更新できなかったのだけれど、選挙と言うことでテレビのニュースで「争点は経済、原発、憲法」と言っていたので、そのことについてだけ軽く書いておこうと思う。

まず経済だ。

アベノミクス。
最近では「母さん助けて詐欺」に匹敵するセンスのないネーミングだが、それはまあともかくとして、安倍政権が実質的になにもしていないうちから株価は上がったりしていたわけだった。
これはつまり、単にみんなが「安倍政権で景気が良くなるんじゃないか」というムードになったからである。
もっといえば、「安倍政権で景気が良くなるんじゃないか、とみんなが思うんじゃないか」と投資家連中が予想したからであって、さらにもっと言えば、今や東証一部の出来高の50%以上を占める(とどっかで読んだ気がするのだが)海外禿鷹ファンドの連中が、「安倍政権で景気が良くなるんじゃないかと思っていたら実際良くなりそうだから株でも買っておこう、と日本人の一般投資家に思わせるために株を買って、高値になったところで売っ払って一儲けしよう」と企んだからでもある。

株価は期待感だ、という人もいるけれど、それだけじゃないよ。
期待感を煽って一儲けを企む巨悪がうようよいるのだ。
グローバル経済というのは、そんな世界中の狡賢い連中にさらされるということなのである。

あと、経済問題の論点である自由化・市場開放。
競争が進めば良いモノが低コストでできる。なので国際競争力も増すし景気は良くなる。
というのが競争社会を善とする人たちの考え方である。
だがこの考え方は、言い方を変えれば「競争に負けた奴になんか構ってられないよ」ということでもある。

注意しておかなければならないのは、この場合の「競争」とは、「美味しいものが作れる」とか「優れたプログラミングができる」とかではなく、それを武器に「市場で勝つ」ことに尽きということだ。
つまり「良いモノを作る」こと以上に「商売的に上手くやる」という「競争」であって、どんなに素晴らしい職人技も市場で勝てなければまったく意味がない、という考え方なのである。

実際、たとえば大儲けしているファンドの連中なんかがやっているのはモノ作りなんかでは決してなく、カネでカネを増やす数字のマジック、錬金術みたいなもんだ。
当然のことながら、彼らがやっているように架空の数字をいじくって一儲け企むというのはそもそもマクロ的には無理があって、それがリーマンショックを引き起こし世界経済をどん底に追いやったわけだけれど、その後もそんな手口が抜本的に規制されることもなく現在に至るので、今でも「カネを転がしてカネを産もう」という詐欺師連中が大手を振るっている。

要するに、競争を自由に認めようという発想は、「金儲けの下手な奴が不幸になっても仕方ない」「良いモノを作ることよりも、それでいかに商売するかのほうがずっと大切だ」
という、あくまでも「強欲目線」の考えであることは忘れてはならない。

あとさ、そもそも根本的な問題として、「経済成長」ってなんでしょう?
もしも、GDPが上がりました、っていっても、1%の富裕層がより一層金持ちになるだけだよ。
ごく一部の富む者はさらに富むが、そんな富が貧しい人やフツーの人に配分されることはない。(なぜならば富の再配分は金持ちの強欲さだけが原因ではなくそれを認める社会システムそのものの必然的要請であるからだ)

どんなにGDPが上がっても、あなたも私も、その子どもも孫も、『金儲け競争』の上位1%に入れなければ、一生うだつの上がらない生活を送るであろう。

憲法の話。

憲法というとどうしても「9条問題」だと思う人が多いようだけれど、僕は一番の問題点はそういった個別問題ではないと考えている。
つまり、「そもそも憲法とはなにか」ということだ。

法律というのは国家が国民を縛るためのものではなく国民が国家権力を縛るものである。
これが大原則。
「国家が国民に対して『人を殺してはいけない』と命じている」のではなく、「国民が国家に対して『人を殺した奴にはこれだけの罰を与えても良い』と制限している」のである。

これを知らない人が多いのに僕は驚いていて、半年くらい前だったかある集まりで法律のことを話し合ったときに「人を殺してはいけないって法律で書いてある」などという人がいたので、そんなことは書いてないのですよ、人を殺した人にはどれくらいの罰を国家が科すことができるのかが法律に書いてあるのであって(たとえば何年以上何年以下の懲役とか)、すなわち、国家権力が国民に対してどこまでやっていいかをちゃんと線引きする、それが法律なのですよ、という話をして、今酔っていて面倒臭いからどの記事だったか探さないけれど、それをこのブログにも書いたら、「なるほど」とか言ってくれる人が何人もいて、そんなこと当たり前だと思っていたのにみんな知らないのでこれはまいったなあと思っていたのでした。

憲法は国家権力が国民を統制するためのものなどではなく、国民が国家権力を統制するためのもの。
この大原則が立憲主義だ。
現代の民主主義思想の根本を為す発想だと僕は思う。
この前週刊文春で読んだ宮崎哲弥さんの記事よると、中国の憲法は立憲主義を否定しているらしい。とすれば国家がやりたい放題だ。あの国の滅茶苦茶さはそんなところにもある。

だからね、僕的には96条とかあるいは9条とか、そういう問題ではないと思う。

最後に原発。
原発問題はすでにたくさん書いたのでちょっとだけよ(あんたも好きねえ)。

今でも、原発がなければ困る、と言っている人たちがいる。
でもさあ、今あんまり困ってないじゃん?

震災前、日本には商業用原発(つまり電力会社が発電して儲けるための原発)は全部で54基。
その状態で、原発は日本の電力需要の約30%を作り出していた。
原発というのは、じつは融通が利かない発電システムで、原理的に発電量の調整ができない。
そこで、調整がきかない原発の発電量に合わせて火力などのフレキシブルな発電量を調整。で、その結果「電力の三分の一は原発です」などという都合の良いお話をでっち上げていた。
ところが、福島事故後、しばらくは国内すべての原発が停止し、今でも動いているのは関西電力大飯原発の2基だけである。

54基中2基しか動いていない。

で、誰が困っているの?
と問えば、
それは電力会社とその仲間内だけでなのある。

東電が柏崎の原発を動かしたいと言っているのは、そうしないと赤字が続いて会社が持たないからと言う国民目線ではなく自社目線の身勝手な言い分だが、それはまあ今は問わないにしても、彼らがなぜそう思うのかと言えば「原発のコストは安い」という計算である。

ところがどっこい、原発のコストが安いように見えるのは、国から出ている立地自治体への各種補助金や、廃炉費用、使用済み核燃料処理費用などを計算に入れていないからであって、さらに、福島事故の経済的損失を考えてもしもそれをまかなうだけの保険料を払うのであれば、原発のコストは恐ろしく高い。

その詳細は、立命館大学の大島堅一さんによる『原発のコスト――エネルギー転換への視点 』(岩波新書)や『原発はやっぱり割に合わない―国民から見た本当のコスト』(東洋経済新報社)などを読んでいただくとして、ぶっちゃけ、ほとんどの原発が止まっている今、なにか問題ありますか?

電気料金が上がるとか言う心配は、さっきも書いたように、原発のコストは税金で払われている分(国民負担)とかを差し引いて不当に安く見積もられているし、さらにいえば地域独占で殿様商売の電力会社が高コスト体質だからである。

エネルギー安全保障のことを言う人もいるが、であればなおさら、輸入に頼らなくてはならないウラン燃料で電力をまかなおうとするのはやめるべきだ。

ああもう眠いや。

寝ますね。

福島の「街コン」、反原発の「代案説明責任」、「排中律」の話とか。

栃木での法事で一杯(正確にはヱビスビールをグラス6杯ほど)ひっかけたあと、宇都宮から新幹線に乗って福島に着いたのは、5月18日土曜日午後6時頃である。

ちょっと驚いたのは、福島駅前や繁華街に若者たちの姿が異常に多いことだった。
異常にと言ってもまあ八王子並みって感じだけど、それでも、これまで何回も週末に福島を訪れたが、こんなにたくさんの若者の姿を見ることはなかった。
ほどなく謎が解けたのだが、福島市内でいわゆる「街コン」をやっていたのだ。
要するに街を舞台とした合コンで、男性6500円、女性4500円(今回の場合)を払えば、その街のいろいろなお店で飲める&同じイベントに参加した異性と出会える。
というわけ。

「街コン」が全国いろんなところで開催されているというのは知ってたけど、僕は関心ないし当然僕なんかヤングギャルからは見向きもされないだろうから気にしてなかった。でも、先月福島市内で花見をしたときにたまたま関係者の人から聞いていたのだが、なんと数千人規模で人が集まるらしい。
福島市の人口が約28万人なので、もしも3000人来れば人口の1パーセント以上となる。
これはすごい。参加費とか宿泊費とかでひとり数千~1万円使ってくれれば、1000万円単位で街にお金が落ちる。なるほどなあ。

僕は福島の街コンのスキームを知っているわけではないので正確なことは言えないけれど、地元の小さな飲食店なんかにお金が落ちるとすれば、それは良いことだ。
復興事業と言っても東京に本社がある大手ゼネコンが儲けを大きくかすめとっていたり、除染事業を請け負っていたのは東電の関連会社だったとか、まあそういう腹立たしい話が多いので余計にそう思う。
でも、特に若い女の子には線量気にしろよとは言いたいけれど。

つまりね、震災前まで僕は福島と言えば会津磐梯地方にスノーボードに行くくらいで福島市内は行ったことなかったのだが、3.11後に足を運ぶようになって、するとだんだん街が好きになってくるのだった。
すると、若い人たちに被曝してほしくないと思うのと同時に、それでも福島に若い子が集まってくると嬉しかったりするのだ。

このアンビバレンス。

放射能というのは、徹頭徹尾、人間には有害である。低線量被曝の影響は確率論的なので少しの線量で誰もが病気になるわけではないが、それでも「大凶」を引けば、少しの被曝でも(たとえば癌で)死ぬ。
被曝とは言ってみれば、「良い結果の入っていないおみくじ」、つまり「別に平気」「小凶」「中凶」「大凶」だけしか入っていないおみくじを無理矢理引かされるようなものだ。
しかも、若い人、年齢の低い人ほど、悪い結果を引く確率が高い。
(病院でのレントゲンとか癌の放射線治療とかは、被曝リスクを受け入れてでもやったほうがいいという判断があってこそ行われる。決して放射能が有益であるわけではない)

つまり、合コンで浮かれている場合ではない。
…のだけれど、
楽しそうな若者たちの姿を見ると応援したくなる。ぐずぐずしている男子には「もっと飲んで女を口説け」、女子には「男なんかちょろいぞ。いい男に狙いを定めろ!」という具合に、若者の背中を押したくて仕方がない。
ふふふふふ。お前ら福島の夜を楽しめよ、と、被爆地福島でも心の中はエロオヤジ根性満載の僕だった。

と。
僕の気分はアンビバレンスなわけで、これをどう整理したら良いものかと考えたりもしていたのだが、最近はなんだかもう、そんな矛盾もそのまま全肯定してしまおうかという気になっている。

論理学に排中律というのがあって、それはたとえば「P∨¬P」と書いて、「Pであるか、またはPではない」という意味で、Pにはどんな命題が入っても良い。たとえば、「鹿島潤は東京で生まれた」が命題ならば「P∨¬P」は、「鹿島潤は東京で生まれたか、または、東京で生まれたのではない」となる。
これは正しいように思える。「~~であるか、または~~ではない」というのは、いかなる場合にもそのどちらかではあるのだから、常に正しいよ、いう気持ちになる。
そんな「当たり前の話」が「排中律」で、古典的な論理学では基本中の基本とされていた。
なのだけれど、じつは「論理的にこれは当たり前ですよ」というと、現代では「いや違うね」という反論がたくさんある。

代表的なのは「直観主義論理」で、「直感主義」とかいうと「場当たり的?」と思われるかもしれないけれど、当たらずしも全然遠いというわけではない。
「無限」すなわち「ありとあらゆること」「ありとあらゆるもの」をどう捉えるかという問題で、ここで「無限の実在」を素朴に信じてしまうようなのは僕が思うに単なる宗教であって、無限っていうのはたとえば「1、10、100、1000、10000…」と考え進めることによって想定される、なんというのか潜在的とでも言うべき概念なのである。
最初から「無限」が実在するわけではないのだ。
(最初から「無限」が実在するとすれば、それは「最初から『神』が実在する」と言っているのと同じだ)
とすると、細かい議論は僕もよくわからないので省くけれど、「P∨¬P」がいつ何時でも通用するということにはならない。

あ。
僕のアンビバレンスの話は排中律の話とは遠いです。
酔っ払っているので思いつきで書いただけ。
福島の前に法事で、数学の研究者である弟と会って、同じ論理を扱うにしても数学者と哲学者は全然違うという話をしていたから思いだしただけです。

いずれにしても。

もはや、「切り裂かれた気持ち」は仕方ないと思う。
僕にしても、福島の人にしても。
浜通りの人から「東電が悪いと言ってもこれまでお世話になってきたし…」ということばを聞く。
あるいは、中通りの人から「復興に力を注ぎたいという気持ちと、ここに住んでいてはいけないという気持ちがある」ということばを聞く。
それらに対して「白黒はっきりつけろ」というのは酷である。
ていうか、「酷」というよりも、筋違いだ。

以前、経産省の反原発テントで会ったある人が「福島の人がはっきり反原発を表明して闘わないからいけないんだ」と言っていた。
その意見は間違っている。
なぜならば、「白黒はっきりさせる責任」が、福島の人たちに課せられているわけではないからだ。

話は横道だけれども、原発議論を推進の人としていると「だったら代案を出せ」と言われることがある。
「否定するなら代案を出せ」という論法は、一見まともに思えるかもしれないけれども、じつは滅茶苦茶だ。否定と代案提出の義務がセットだというのは、極めて特殊な場合に限られる。
たとえば、経産相が「もう原発は全部廃炉にします」とか「中東から石油を輸入するのはやめます」とか言ったら、それは「代案を出せ」という話になる。
我々として「原発廃炉」は大歓迎だとしても、それでも、現実的な責任を負う人間として、大臣が代案を求められるのは当然だ。
しかしこれは「現実的な責任」に伴う特殊な例であって、我々反原発は、原発がいかに駄目かという反原発の理論さえしっかりしていれば、基本それでOKである。代案を提出し説明する義務は負わない。

「原発を否定するなら代案を出せ」と言われたときの僕の対応は
1.
「(原発に限らず)否定するなら代案を出せ」論法、それ自体の根拠を問う。
2.
あるいは、代案を求めるのであれば、核廃棄物問題など推進派でもまったく答えの出ていない議論に対して、「あなたが」代案ならぬ解決案をすべて示した上であらためて問い直すように求める。
まあそんな感じかな。

脇道でした。

でも、ここでポイントは、
「代案を出せ」という推進派は、政治家でも官僚でもない人に対しても「代案なしに現状を否定してはいけない」という勝手なルールを押しつけようとしている、ということだ。
これは、福島の人に「反原発で闘うか闘わないか、どちらか白黒はっきりつけろ」というのに似ている。

誤解してほしくないのは、僕が言っているのは「物事にはグレイゾーンがある」というような話ではないよ。
白黒混ざった「グレイ」ではないのだ。
「白も黒も両方」なのだ。
「グレイ」で一件落着させるのではなく、矛盾をそのまま引き受けるしかないのだ。

なんか筆が走ったなあ。

5月18日は『てつがくカフェ@ふくしま』の人たちと飲んでいたのだけれど、翌19日は南相馬。
事情があって詳しくは書けないのだけれど、南相馬を隅々まで知り尽くしている人の案内で20キロ圏内に入り、10キロ圏内の規制のすぐ手前まで行った。
びっくりすることがいろいろあったのだけれど、それはまた今度ね。