サマータイム・ブルース~電力は余っている | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

サマータイム・ブルース~電力は余っている

なにしろ暑くてまいってしまう。
僕は寒いのは結構大丈夫なのだけれど、暑さは耐えがたい。
「弱冷房車を二両増やしても良いから強冷房車を一両つくれ」と東急電鉄のお客様窓口にメールしたのもほかならぬ僕だ。
一昨年から小出裕章さんにならい、なるべく冷房をつけずに扇風機で暮らそうとやってきた僕だったが、今年は駄目だ。このままでは熱中症で死ぬる。

そんなわけで、省エネなんかまったく考えてなかった頃に作られた古いエアコンをがんがんかけているのだが、しかしみなさんお気づきの通り、「電気が足りないから計画停電するかもよ」などという脅しをこの夏聞くことはない。
知らない人はいないと思うけれど、3.11以前54基あった日本の原発のうち、現在稼働しているのは大飯原発の二基だけなのに、である。

日本列島は、暑さの新記録をぞくぞく更新中。
要するに、これだけの酷暑でも、原発なんか必要ないのであった。

産経は、原発推進派の御用新聞であるから、みんなが「原発なんかいらないじゃん」と言い出さぬようにとプロパガンダに必死だ。

「景気回復で電力需要が増える可能性もあり、節電意識の緩みが電力不足につながりかねない。」
「各社とも、定期点検の先延ばしや老朽化した火力発電所の活用などで急場をしのいでおり、「国民の節電意識に頼っている限り、根本的な解決にはならない」(電力大手幹部)のが実情。」

http://sankei.jp.msn.com/economy/news/130409/biz13040921460027-n1.htm
だってさ。
節電「意識」?

東京電力の場合、震災の前年、2010年8月には最大電力が5000万キロワットを超えた日が18日、つまり一ヶ月の半分以上。最大値は5888万キロワットだった。
しかし、2011年8月に5000万キロワットを超えた日は1日もなく、昨年8月もたった2日だけで最大値5078万キロワット。今年の8月はこれだけクソ暑いのに、5000万キロワットを超えた日は一日しかない。

で、みなさんに聞きたいのだが、家や職場で、節電のために暑いの我慢してますか?

東急電鉄に強冷房車を要望した僕である。暑い外から帰ってきたときには冷凍庫にでも入りたい気分だ。
だから、まったく我慢していないと言えば嘘で、帰宅時の冷房は18度にしたくもなるが、26~27度の設定でも、10分~15分すれば汗も引いて心地よくなる。ていうか、冷房の設定温度下げるより、扇風機に当たったほうがずっと涼しい。

この僕でさえそうなのだ。
我慢しているという人は手を挙げてくれ。

つまりね、産経のいうような「意識」の問題などではないのだ。
産経は、節電「意識」が低くなったら、みんなが無駄に電気を使い始めるとでも言いたいのだろうか? 日本人は未だに、「電気をじゃぶじゃぶ使い放題にするのが幸せな生活だと思っている」とでも言いたいのだろうか?
「意識」ではなく、生活のスタイルの変化なのである。
今、エアコンをはじめ「省エネ」を謳わない家電はまずない。
ハード面でも我々は、なるべく電力を使わない生活スタイルに移行しているのである。

要するに産経は、原発再稼働の口実がほしくて仕方がないので苦しい弁論を展開しているに過ぎないわけだが、電力供給のために火力発電所の稼働率アップや、古い火力発電所の稼働などがあるのは事実である。
だから産経は「火力発電は酷使が続いており、トラブルが懸念される」とし、「大規模トラブルが起きれば電力需給が一気に悪化する可能性」http://sankei.jp.msn.com/life/news/130814/trd13081420530018-n1.htm)を指摘する。

ごもっとも。
確かにその可能性はあろう。
でもさあ、原発を再稼働させて、福島のような「大規模トラブル」が起きる危険性を考えたら、火力発電所の事故と原発事故、どっちがマシかは論を待たないというものだ。

福島第一原発は、今この瞬間も、放射能に汚染された水を大平洋にまき散らしている。
事故った原子炉には近づけないので(近づくと死ぬる)、事故から2年半近く経っても、溶けた核燃料がどこにあるのか、どんな状態なのかはわからない。
なので、これからも、いつ、何が起こるかわからない。
要するに、事故原因の解明どころか、福島第一原発は現状把握さえ出来ていない。

航空機事故でも家電の発火でも、トラブルが起きたとき何をすべきかと言えば、原因の解明と再発防止の策であり、そのためには、たとえばフライトレコーダーを解析するとか、焼けた部品を詳しく調べてみるとか、そういうことが不可欠だ。
ところがどっこい、福島第一原発ではそれができない。核心部分に近づくと人は死ぬるからだ。ロボットにやらせれば良いのだが、そんなロボットは存在しない。まだ研究段階だ。実用化まで何年かかるだろう?

「日本の発展のために原発は必要だ」という人に、今は面倒臭いから反論しない。
けどさあ、たとえばエンジントラブルで旅客機が墜落したとき、「フライトレコーダーはみつかりません。近づけないので、落ちたエンジンのどこがどうなっているかはさっぱりわかりません」という状況で、同じ飛行機にお客さんを乗せて飛ばす会社が許されるのか?

再稼働というのはそういうことをしようというのである。
(そんな欠陥商品を他国に売りつけようとしている政府には呆れたものだ。買うほうも買うほうだが)

ええとね。
8月15日なので戦争のことでも書こうかなと思っていたのだったが、この話はとても難しい。

戦争とはどういうことなのか?
過去、現在の戦争が具体的にどのようなことかについては、資料や証言もある。この時期はテレビの特番も放送されるので僕もときどき見る。で、「人を殺したり人に殺されたりはしたくないなあ」と当然僕も思うのだけれど、書きたいのはそういうことではない。

戦争とは、国と国との闘いである。昔からずっとそうだ、ていうか国と国との闘いを戦争という。

で。
「国のありかた」というのは時代とともに変わってきている。たとえば現代は、グローバル化というのが否応なしにあるわけで、そうなると江戸時代のような鎖国はできない。あるいは、冷戦時代と現在では「東西」の実質的な意味も変化しているとか、そんな現実的な意味も含め、「国のありかた」は変化している。
「国のありかた」が違うのだから、戦争も外交も姿を変える。

という話でもない。

戦争の主体は「国」なのだけれど、「国」の対義語は何でしょう?

みたいなことを考えているのだった。

「国」の対義語は「個人」かな?
でも、「個人」なんていうのは近代以降の概念である。
しかもその概念、あるいはその捉え方は、この数十年の間にも大きく変容しつつある。
(たとえば「個人主義」というのは、ある時代においてはたいへん進歩的な考え方であった。ところが現在では、マトモにモノを考える人が肯定的な意味合いでそのことばを使うことはまずない)
あるいは、「国」の対義語は端的にないのか?

とかね。

僕の出生時の住所は品川区荏原三丁目である。武蔵小山のアーケード街のすぐ脇。活気はあるが都会的に洗練されてはいない、「都内の田舎」である。大好きな街だ。
その街で僕は小さい頃、親の目を盗んでばあちゃんに小遣いをもらってアーケード街のゲーセンで遊んだり、ウルトラセブンの本やおもちゃを買ってもらったりしていた。
「~~してはいけない」という禁止命令をひと言も言わない、孫に甘すぎるばあちゃんだった。
僕が学生になると、そんなばあちゃんも当然のことながら年をとり、いろんなことがおぼつかなくなってくる。
テレビの高校野球でピッチャーの投球を見て、「今、ボールを投げてくれたので受け取って、投げ返した」と言う。
もはや「おばあちゃん、それはテレビの中のことで、実際にここにボールはないよ」などと指摘する段階でもなかった。
そんな頃、ばあちゃんが僕に語った、生涯ただひとつの禁止命令がある。
「潤(僕の名前だ)、戦争に行ってはいけないよ」

ばあちゃんの二十七回忌は昨年だった。


久しぶりに清志郎です。