他人の痛み、作家の抗い。 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

他人の痛み、作家の抗い。

今夜は原発のことは書きません。震災のことは後半ちょっとだけよ(あんたも好きねえ)。

でね。
まあいろいろあってさ、ビールを3pint飲んだのだったよ。
BASSとKIRINとGuinness。
それから家に帰って唐辛子のウォッカにトマトジュースを入れて痛飲中。やっぱクラマトのトマトジュースのほうがいいなあ、と、さっき思いつきでamazonに注文したところ。

要するに酒飲みながらテレビ見てたわけだ。
週刊文春で、CX月9の視聴率が一桁台目前という記事を読んで、じつを言うと僕はかつてテレビドラマの脚本家になりたいと思って勉強していた時期もあったくせに、ここ10年ばかりは最近のドラマはくだらないとまったく見なくて、案の定連ドラは低迷しており、この前ちらっと見たジャニーズの誰だったかが出てるゴールデンの連ドラも3分と視聴に耐えられず、文春の記事じゃないけれどアイドル頼みにしたって数字は出ませんよ、と呆れていたのであったが、たまたま早起きした日に『あまちゃん』を見たらこれって面白いじゃんかよということになり、ビデオリサーチで調べたら、先週は『あまちゃん』の22.2%を超えて22.9%と視聴率トップだったのがTBS日曜劇場『半沢直樹』であった。
というわけで今夜、『半沢直樹』を初めて見たのである。

う~~~~ん。

僕は最近の企業ものだったらNHKの『七つの会議』のほうが面白かったな。あ、これも一回しか見てないのだけれども、言うならば登場人物の「悩み」「傷」が深い。

たとえば『あまちゃん』もじつは僕は3、4回しか見てないけれど、これって軽いドラマのように見えてじつは「悩み」「傷」は結構深いよ。
僕は、プロデューサーの荒巻太一が大好きで、一見ちゃらんぽらんなギョーカイ人中年男に見えるけれど、じつは深~い傷を負っているのが端々でわかる。キョンキョンや薬師丸ひろ子といった熟女たちもそう。彼らの「傷」があってこそこのドラマは成立している。

雑な言い方をしてしまうと、登場人物は、思っていることと逆の発言や行動をしなければならない。ていうか、逆の発言や行動を、せざるを得ない。思ったとおりのことを言う、思った通りのことをする、なんていうのはドラマの登場人物としては失格なのである。
能年玲奈ちゃんのような若い子はストレートでも許されるのだけどね、やっぱりオトナは、嘘を背負って、嘘を隠してびくびくしながら生きている。

『半沢直樹』は正直者だからなあ。正直者はつまらない。(正直者で正義感が強いのであれば、『斉藤さん』くらい過剰に徹底してほしい)
このドラマの中では、芝居下手だけど壇密が一番良いね(このドラマに限らず壇密は大ラブで是非とも膝枕希望なのだが)。

と。

ドラマの話をしたのは、今、ある映画の仕事をしているのである。
劇映画ではなくてドキュメンタリーなのだが、その構成について、今日も監督とふたりで打ち合わせをしていたのだった。
お盆明けにクランクアップして、来年の春頃劇場公開予定。
詳しいことはまだ秘密だけど、震災関連だ。
それがあって頻繁に被災地に足を運んでいるのであった。

多くの人が傷ついている。
100人いれば100通り、違った体験をし違った傷を負っている。
しかし、他人の歯の痛みをそのまま感じるのが不可能なように、僕が被災者の痛みを直に感じることはできない(原理的不可能性。もしも「他人の歯の痛みが直にわかる」などという人がいたら、それは「他人」ではなく端的に「本人」(自分)である)。
僕らは、表情や動作などで他人の痛みを推し量る。それが、僕らに出来る他人の「痛み」の唯一の共有方法だ。しかしきっと、表情や動作と言った「誰にでもわかる表面的なこと」では掬い上げられないことのほうが、はるかに大きく、深い。

ドラマというのは、「他人の痛み」の共有(の試み)である。(「他人の喜びの共有だ」という人もいるかもしれないけれど、「痛み」あってこその「喜び」だ)
もちろんさっき書いたとおり、動作や表情、あるいはことば(台詞やナレーション、テロップ)だけしか伝える手段はない。でも、ドラマを作る人は、プロフェッショナルとして、なるべく多くの人に、なるべく深く、「痛み」を共有してもらおうとする。そのための技巧や方法論も駆使することになる。

自分の痛み(あるいは「感情」とか「気持ち」とか言っても良い)を100%正確にことばにできる人がいたとすれば、それは人類初の天才かキチガイ、あるいは人間ではなくロボットだ。

ことばにした途端嘘になる。でも、とはいえ、黙っていてはなにも伝わらない。

我々はあまねくそういった矛盾を抱えている。
だからこそ、たとえばそんな矛盾の存在自体を示すためにも、登場人物に「思っていることと逆の発言や行動」をさせるわけで、まあそういった技巧、方法論は演劇の誕生以来伝統的に受け継がれているわけだな。

早い時間から飲み過ぎたなあ。
ウォッカのボトルが半分空いちゃったよ。

なんだったっけ?

たかがことば、たかが映像に、人間を描ききることはできない。(原理的不可能性)
我々はそれを知っている。
だが、それを知っていて、知っているがこそ抗おうとする。
抗おうとしない奴に作家(作品を作ろうとするすべての人)たる資格はない。と僕は思う。
(もちろん、「自分は人間のすべてを描くことが出来る」などという自惚れは三流以下)

我々はどこまで抗うことが出来るのか?
単に作品を見るだけの人には、その抗いは決して伝わらない。これは悪いけど作家にしかわからない。
でも、なぜか「抗った作品」こそ、多くの見る人に響く。

繰り返しになるけれど、たかがことば(たかが映像、画像、画、音などなんでもよい)である。
にもかかわらず、我々作り手は抗ってみせる。
原理的に不可能であるにもかかわらず、見る人に「痛み」を共有してもらおうとする。

そんな姿勢を忘れて、「男性アイドルが上半身を脱げば数字を稼げる」みたいなくだらない発想で番組をつくっても誰にも共感されないし、逆に『あまちゃん』のように一見テンポの速いドタバタドラマだと思われても、人の痛みに真摯に向き合う作家性にテクニックが伴えば、やはり伝わるものは伝わる。

取材で多くの被災者の方々とお話させていただいた。
一回一回、心底疲れる。
出来ることならば、通り一遍の表向きの話ではない本音を引き出したい。しかし、どうしたって他人の痛みは表面的にしかわからないのであって、どんな聞き方が相手に響いて、逆にどんなことばに神経を使わなくてはならないのか。
初めてお会いする人が多いわけで、そうすると余計に気を遣う。
それにね、根本的な問題として、そもそも僕にそんなことを聞く資格があるのか?

ちょっと飲み過ぎでわけわからなくなってきたのでそろそろ幕引きです。

僕は、こうして仕事として(つまり旅費やギャラを出していただいて)被災者の方々と関わることが出来る。
これは、幸せなことだと思う。
心底疲れるけれど、被災地に行くたびに、胸の痛みを感じることが出来る。もちろん何度も言うように被災者の方々の痛みを直に感じてなんかないよ。でも、それでも、毎回胸の中に鉛玉を押し込まれたような重い感じで、自分の駄目さ加減、酔っ払った勢いで書いちゃうけれど、人間としての駄目さ加減、作家としての駄目さ加減を痛感して、帰りの東北新幹線の中でビールを飲む。
この感じをみんなにわかってもらいたいなあ、と、そのときだけはほぼ失われかけている作家願望に火がつくのである。

面倒臭いから推敲しないで記事をアップするぞ。
細かいことは言うな。