福島の「街コン」、反原発の「代案説明責任」、「排中律」の話とか。 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

福島の「街コン」、反原発の「代案説明責任」、「排中律」の話とか。

栃木での法事で一杯(正確にはヱビスビールをグラス6杯ほど)ひっかけたあと、宇都宮から新幹線に乗って福島に着いたのは、5月18日土曜日午後6時頃である。

ちょっと驚いたのは、福島駅前や繁華街に若者たちの姿が異常に多いことだった。
異常にと言ってもまあ八王子並みって感じだけど、それでも、これまで何回も週末に福島を訪れたが、こんなにたくさんの若者の姿を見ることはなかった。
ほどなく謎が解けたのだが、福島市内でいわゆる「街コン」をやっていたのだ。
要するに街を舞台とした合コンで、男性6500円、女性4500円(今回の場合)を払えば、その街のいろいろなお店で飲める&同じイベントに参加した異性と出会える。
というわけ。

「街コン」が全国いろんなところで開催されているというのは知ってたけど、僕は関心ないし当然僕なんかヤングギャルからは見向きもされないだろうから気にしてなかった。でも、先月福島市内で花見をしたときにたまたま関係者の人から聞いていたのだが、なんと数千人規模で人が集まるらしい。
福島市の人口が約28万人なので、もしも3000人来れば人口の1パーセント以上となる。
これはすごい。参加費とか宿泊費とかでひとり数千~1万円使ってくれれば、1000万円単位で街にお金が落ちる。なるほどなあ。

僕は福島の街コンのスキームを知っているわけではないので正確なことは言えないけれど、地元の小さな飲食店なんかにお金が落ちるとすれば、それは良いことだ。
復興事業と言っても東京に本社がある大手ゼネコンが儲けを大きくかすめとっていたり、除染事業を請け負っていたのは東電の関連会社だったとか、まあそういう腹立たしい話が多いので余計にそう思う。
でも、特に若い女の子には線量気にしろよとは言いたいけれど。

つまりね、震災前まで僕は福島と言えば会津磐梯地方にスノーボードに行くくらいで福島市内は行ったことなかったのだが、3.11後に足を運ぶようになって、するとだんだん街が好きになってくるのだった。
すると、若い人たちに被曝してほしくないと思うのと同時に、それでも福島に若い子が集まってくると嬉しかったりするのだ。

このアンビバレンス。

放射能というのは、徹頭徹尾、人間には有害である。低線量被曝の影響は確率論的なので少しの線量で誰もが病気になるわけではないが、それでも「大凶」を引けば、少しの被曝でも(たとえば癌で)死ぬ。
被曝とは言ってみれば、「良い結果の入っていないおみくじ」、つまり「別に平気」「小凶」「中凶」「大凶」だけしか入っていないおみくじを無理矢理引かされるようなものだ。
しかも、若い人、年齢の低い人ほど、悪い結果を引く確率が高い。
(病院でのレントゲンとか癌の放射線治療とかは、被曝リスクを受け入れてでもやったほうがいいという判断があってこそ行われる。決して放射能が有益であるわけではない)

つまり、合コンで浮かれている場合ではない。
…のだけれど、
楽しそうな若者たちの姿を見ると応援したくなる。ぐずぐずしている男子には「もっと飲んで女を口説け」、女子には「男なんかちょろいぞ。いい男に狙いを定めろ!」という具合に、若者の背中を押したくて仕方がない。
ふふふふふ。お前ら福島の夜を楽しめよ、と、被爆地福島でも心の中はエロオヤジ根性満載の僕だった。

と。
僕の気分はアンビバレンスなわけで、これをどう整理したら良いものかと考えたりもしていたのだが、最近はなんだかもう、そんな矛盾もそのまま全肯定してしまおうかという気になっている。

論理学に排中律というのがあって、それはたとえば「P∨¬P」と書いて、「Pであるか、またはPではない」という意味で、Pにはどんな命題が入っても良い。たとえば、「鹿島潤は東京で生まれた」が命題ならば「P∨¬P」は、「鹿島潤は東京で生まれたか、または、東京で生まれたのではない」となる。
これは正しいように思える。「~~であるか、または~~ではない」というのは、いかなる場合にもそのどちらかではあるのだから、常に正しいよ、いう気持ちになる。
そんな「当たり前の話」が「排中律」で、古典的な論理学では基本中の基本とされていた。
なのだけれど、じつは「論理的にこれは当たり前ですよ」というと、現代では「いや違うね」という反論がたくさんある。

代表的なのは「直観主義論理」で、「直感主義」とかいうと「場当たり的?」と思われるかもしれないけれど、当たらずしも全然遠いというわけではない。
「無限」すなわち「ありとあらゆること」「ありとあらゆるもの」をどう捉えるかという問題で、ここで「無限の実在」を素朴に信じてしまうようなのは僕が思うに単なる宗教であって、無限っていうのはたとえば「1、10、100、1000、10000…」と考え進めることによって想定される、なんというのか潜在的とでも言うべき概念なのである。
最初から「無限」が実在するわけではないのだ。
(最初から「無限」が実在するとすれば、それは「最初から『神』が実在する」と言っているのと同じだ)
とすると、細かい議論は僕もよくわからないので省くけれど、「P∨¬P」がいつ何時でも通用するということにはならない。

あ。
僕のアンビバレンスの話は排中律の話とは遠いです。
酔っ払っているので思いつきで書いただけ。
福島の前に法事で、数学の研究者である弟と会って、同じ論理を扱うにしても数学者と哲学者は全然違うという話をしていたから思いだしただけです。

いずれにしても。

もはや、「切り裂かれた気持ち」は仕方ないと思う。
僕にしても、福島の人にしても。
浜通りの人から「東電が悪いと言ってもこれまでお世話になってきたし…」ということばを聞く。
あるいは、中通りの人から「復興に力を注ぎたいという気持ちと、ここに住んでいてはいけないという気持ちがある」ということばを聞く。
それらに対して「白黒はっきりつけろ」というのは酷である。
ていうか、「酷」というよりも、筋違いだ。

以前、経産省の反原発テントで会ったある人が「福島の人がはっきり反原発を表明して闘わないからいけないんだ」と言っていた。
その意見は間違っている。
なぜならば、「白黒はっきりさせる責任」が、福島の人たちに課せられているわけではないからだ。

話は横道だけれども、原発議論を推進の人としていると「だったら代案を出せ」と言われることがある。
「否定するなら代案を出せ」という論法は、一見まともに思えるかもしれないけれども、じつは滅茶苦茶だ。否定と代案提出の義務がセットだというのは、極めて特殊な場合に限られる。
たとえば、経産相が「もう原発は全部廃炉にします」とか「中東から石油を輸入するのはやめます」とか言ったら、それは「代案を出せ」という話になる。
我々として「原発廃炉」は大歓迎だとしても、それでも、現実的な責任を負う人間として、大臣が代案を求められるのは当然だ。
しかしこれは「現実的な責任」に伴う特殊な例であって、我々反原発は、原発がいかに駄目かという反原発の理論さえしっかりしていれば、基本それでOKである。代案を提出し説明する義務は負わない。

「原発を否定するなら代案を出せ」と言われたときの僕の対応は
1.
「(原発に限らず)否定するなら代案を出せ」論法、それ自体の根拠を問う。
2.
あるいは、代案を求めるのであれば、核廃棄物問題など推進派でもまったく答えの出ていない議論に対して、「あなたが」代案ならぬ解決案をすべて示した上であらためて問い直すように求める。
まあそんな感じかな。

脇道でした。

でも、ここでポイントは、
「代案を出せ」という推進派は、政治家でも官僚でもない人に対しても「代案なしに現状を否定してはいけない」という勝手なルールを押しつけようとしている、ということだ。
これは、福島の人に「反原発で闘うか闘わないか、どちらか白黒はっきりつけろ」というのに似ている。

誤解してほしくないのは、僕が言っているのは「物事にはグレイゾーンがある」というような話ではないよ。
白黒混ざった「グレイ」ではないのだ。
「白も黒も両方」なのだ。
「グレイ」で一件落着させるのではなく、矛盾をそのまま引き受けるしかないのだ。

なんか筆が走ったなあ。

5月18日は『てつがくカフェ@ふくしま』の人たちと飲んでいたのだけれど、翌19日は南相馬。
事情があって詳しくは書けないのだけれど、南相馬を隅々まで知り尽くしている人の案内で20キロ圏内に入り、10キロ圏内の規制のすぐ手前まで行った。
びっくりすることがいろいろあったのだけれど、それはまた今度ね。