禁煙馬鹿 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

禁煙馬鹿

馬鹿を相手にしている暇はないのでスルーしていたのであった。

NPO法人日本禁煙学会が映画『風立ちぬ』制作者に出した要望書である。
http://www.nosmoke55.jp/action/1308kazetatinu.pdf

作中の喫煙シーンや、学生が友人に「煙草くれ」というシーンなどを取り上げ
「現在、我が国を含む177か国以上が批准している「タバコ規制枠組み条約」の13条であらゆるメディアによるタバコ広告・宣伝を禁止しています。この条項を順守すると、この作品は条約違反ということになります。」
として、
「誰もが知っているような有名企業である貴社が法律や条約を無視することはいかがなものでしょうか。企業の社会的責任がいろいろな場面で取りざたされている昨今、貴社におきましてもぜひ法令遵守をした映画制作をお願いいたします。」
と言っている。

これが「広告・宣伝」だなどというのは出鱈目な話であって、つまり「広告・宣伝」というのは煙草を売りたい奴(会社)が煙草を売らんがために、(企業活動の一環として)煙草のCMをオンエアさせたりすることを言う。
この映画がそうですか?
「美味しそうに喫煙するシーンがあったらそれは煙草の広告・宣伝だ」などというのは、「美味しそうにラーメンを食べるシーンがあったらそれはラーメンの広告・宣伝だ」というのと同じである。そういうのは広告・宣伝とは言わない。

そんなことはお猿さんでもわかる話で、だからこの問題は、「主義主張に凝り固まったイカれた連中が、滅茶苦茶なロジックでいちゃもんをつけてきた」というだけの、まあよくある話である。
なので、「NPOのくせに『学会』を名乗ったりしてるけど、ほんとうにアタマの悪い連中だなあ」と鼻で笑うだけで、わざわざブログに書こうという気にもならなかった。

でもね、松江市の教育委員会が『はだしのゲン』を市内の小中学校の図書館で子どもに見せないようにしていたというニュースがあって、同じ種類の馬鹿が続々登場するのは見るに見かねん。
と、ちょっと書くことにしたのだったよ。
http://www.asahi.com/national/update/0816/OSK201308160095.html

ご存知のように『はだしのゲン』は広島原爆の被爆体験を中心とした漫画。
戦争を扱っているのだから当然、人殺しのシーンとかが出てくる。そんな暴力的な描写が過激すぎるとして、松江市の教育委員会は、市内小中学校に対して「閉架図書」、つまり自由に見ることができないようにしまいこむよう命じたのであった。

僕も『はだしのゲン』は読んだはずだ。
なにしろ昭和40年代に小学生だ。日教組の強かった東京の小学校では「反戦必読図書」であった。
今でも世界の多くの国で翻訳されて読まれていると聞く。つまり、それだけ力のある作品なのだろう。
けどごめん、僕は覚えてないんだよなあ。
そもそも僕は記憶力がないのと、なんというのかあの画風が嫌いだったのです。子どもだからね、画風が嫌いだと受け付けないのですよ。

だから『はだしのゲン』については、良いとも悪いとも言わん。
『風立ちぬ』もそうで、僕は見ていない。
女子高生の頃から知っていて娘のように可愛い22歳の女の子がいるのですが、この前渋谷の反原発バーで飲んでいたとき、彼女が「すごくいい」と言っていたので今度見ようと思っていたところだ。今度見るね(エロおやじ)。

つまり、『はだしのゲン』にしても『風立ちぬ』にしても、その作品性について僕はなにも語れないのだが、そんなことに関係なく「喫煙シーンがあるからよくない」とか「暴力的だから良くない」などと言って、作者に脅しのような声明を送りつけたり、子どもに見せないようにするというのは、こりゃもう、それこそ暴力的なやり方だと思うのである。

『風立ちぬ』についての見解が日本禁煙学会のサイトに載っている。

「「風立ちぬ」のテーマは、戦争はやってはいけない=命がいちばん大事だ、と言うことだと思います。私たちも心から共感します。」
「風立ちぬ」で喫煙が幾度となく肯定的に表現されていることは、命が最も大事だというこの作品の一番大事なメッセージを損なう、とても残念な点になっています。なぜなら、からだに悪いことがいろいろある中で、タバコは、今の日本で最も人の命を縮めているからです」

http://www.nosmoke55.jp/action/1308kazetatinu.html

まあその他にもいろいろ書いてあるのだが省略だ。

どこが最も馬鹿なのかと言えば、作品のテーマを自分で勝手に決めつけて、「この部分は(自分が勝手に決めつけた)テーマに合わない」などと指摘していることだ。

当然のことながらNPO法人は権力の執行者ではないから、何を言おうと自由だ。
彼らが
「今回の日本禁煙学会の要請を、表現の自由の侵害だと批判する向きがありますが、それはまとはずれです。「表現の自由の侵害」とは、強制権力を持った政府が市民の言論を抑圧することを指すものであり、強制権力のないNPO法人である日本禁煙学会が行う批判活動は、正当な市民的権利の行使に過ぎず、まったく表現の自由の侵害に当りません。 日本禁煙学会が、「風立ちぬ」の表現を批判することも、日本禁煙学会の「表現の自由」です。」
と書いているとおりである。

だからもちろん僕は、表現の自由の侵害だなどと言うつもりはない。
それ以前の問題である。
すなわち、自分たちの凝り固まった主義主張のモノサシでしか作品を見ることができない馬鹿さ加減は恥ずかしくないのか、という問いである。
それはすなわち、作品のテーマを「戦争はやってはいけない=命がいちばん大事だ」などというステレオタイプな文言に貶めた上で、それを前提にして、自分たちの主義主張に沿うような論理展開をこしらえて悪口を言う、なんていう行為には、僕はおよそ芸術性、文学性のかけらも感じられないし、そんな声明を出したら「禁煙だろうが喫煙だろうが、こいつらこそほんとうに作家性の敵だな」と思われるのは当然なのに、それに気がつかない無神経さである。

松江市の場合はもっとひどくて、事実上の検閲(権力行使)。
もう眠いのでこの件は突っ込まない。

ただ、禁煙学会にしても松江市にしても、要するに作品性を馬鹿にしてるのだな。

と。
ここからはかなり酔っ払ったのでスピードアップするぞ。
祈祷を亀頭と誤変換してもたぶん気づかないので注意が必要だ(エロおやじ)。

今夜は、サッポロ黒ラベル500㎜缶が4本と、KIRIN一番搾り500㎜缶が一本、期間限定KIRIN本搾りチューハイ夏みかん&はっさく果汁28%アルコール分5%350㎜缶が二本。
その上で一番搾り500㎜缶を今、開けたわけだが、僕が書きたかったのは禁煙学会や松江市教育委員会の悪口ではないのであった。
そんな馬鹿どもはスルーすれば良いわけで、いちいち悪口を書くほどのことでもないのである。

で、何が言いたいのかと言えば、僕は禁煙学会を馬鹿だとは書いたが、悪だとは書いていない。

「真・善・美」という西洋的な価値をとりあえず受け入れるとしよう。
すなわち、
「真は価値がある」(真の対義語は偽)
「善は価値がある」(善の対義語は悪)
「美は価値がある」(美の対義語は醜)
というふうに、世界のありかたや人の生き方など、すべての物事について考えていろいろまとめた結果、こんな3つの価値があるんじゃないか、ということになった。
(これは単に歴史的事実であって、決して証明され得るような事柄ではないのだが)

「真」はとりあえずスルーしよう。
科学的な真実とかは、それを認めないともうどうしようもない。(米国には未だに進化論を信じない馬鹿な保守的キリスト教徒がたくさんいたりするのだが、そんなことをここで議論するつもりはない。一方で論理的な「真」については言いたいことはたくさんあるけれど今はやめておく)
まあ、「地球は丸い」とか、みんなが真実と認めるようなことは「真」としておこう。

問題は「善」と「美」である。

禁煙学会の連中は「煙草は悪だ」と考えている(と僕には思える)。
松江市教育委員会は「暴力描写は子どもには悪だ」と考えている(と僕には思える)。

だがしかし、善悪なんてそんなに簡単に言えるのか?

某国立大学の倫理学の教授と飲むことがあるのだが、あるときそんな話になって、僕の理解だと倫理学というのは善悪を問うのであるが、ならば、その考え方の前提となっている「善と悪」という二分法、さらには「二分法」という考え方そのものが疑われなくてはならない。

「ことば」というのは日本語でそう言うとおり「ことをわけていく」。それ自体、たかが人間の思いつきである。
「ことをわけていく」ことによって、認識というのが可能になったのだけれど、それでも、たかが人間の思いつきである。せいぜい、歴史の積み重ねだ。

そんなふうに考える僕は「そもそも論」として「善悪」に疑問を持つのであるが、それでも、ことばで、すなわち「ことをわけて」考えるしか手立てはない。
だから、「善悪」を語らずに「美醜」を語るのだね。

彼(倫理学の教授)に「じゃあ、鹿島さん(僕だ)は、「善悪の問題」を「美醜の問題」に回収するの」と聞かれたのだが、誠に残念ながら他にどう考えろというのだろう。
ほんとうにここは困った問題だ。

現象学とか、大陸系の人たちはエポケーをすうっと受け入れるのだが、ここにこそ大問題がある、と僕は思っている。
たとえばウィトゲンシュタインが確実性の問題として議論した、真偽を問うても無意味なことと、現象学的還元の間には圧倒的な違いがあるように思われるし、「括弧に入れる」などというゆるい考えは、単なる哲学的事なかれ主義にしか思えないのであった。

ごめん脇道にそれた。
飲み過ぎだな。
自分でもよくわからん。

ただね、
もちろん作品性と哲学性(善悪とは、みたいな話)はまったく別なのだが、でも、作家というのは、一行で済むお説教を言いたいがために長い作品を作るわけではない。
いろいろな問いを込めて作品を作る。
「「風立ちぬ」のテーマは、戦争はやってはいけない=命がいちばん大事だ、と言うことだと思います。」
などというのは、他人事ながら作家を馬鹿にするなと言う感じだ。

昔(今でもあるのかもしれないけれど)、社会主義国では、自分たちの主義主張(マルクスレーニン主義がいかに素晴らしいか)を宣伝するための映画がたくさん作られた。
見るに堪えないくだらない作品。
戦時中の日本の大本営の映画もそうだし、米国のくだらない愛国ヒーロー映画は今でもそうだ。
「主義主張」で作品を作るのは馬鹿のやること、という例だ。
と同時に、主義主張で作品を云々するのもよほどの馬鹿だと言うことを知っておかなければならない。

「祈祷」の出る幕がなかったなあ、誤変換してやろうと思っていたのだったが(エロおやじ)。

げっぷ。