福島は「可哀想」なのか?(「てつがくカフェ@ふくしま」を巡って~その1) | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

福島は「可哀想」なのか?(「てつがくカフェ@ふくしま」を巡って~その1)

おっとっと。
気づいてみたらこのブログも一ヶ月以上放置状態だった。

その間、福島とか沖縄とかに行ったのだったが、ちゃんと調べてはいないのだけど地方紙が二紙あるのは全国で福島と沖縄だけみたいで、この二県というのがなんだか象徴的だな。
で、両県の地方紙を読むと、全国紙や地上波キー局のニュース番組との差が歴然とする。
がんばれ地方紙!

そんなわけで、豆腐餻を爪楊枝でつつき泡盛を飲みながらこれを書いているのだが、今回は沖縄ではなく「てつがくカフェ@ふくしま」について。

それなあに?という人も多いと思うけれど、僕はきちんと説明できないので、「てつがくカフェ@ふくしま」のFacebook( https://www.facebook.com/Tetsugakukafefukushima )から引用します。

「哲学カフェ」 とは、哲学を専門に研究している者たちだけではなく、一般の市民たちを集めて、フラットで気楽な対人関係の下で進められる哲学的対話の試みです。「哲学カフェ」 では、哲学的な問題に関して、参加者の皆さんとともに、ゆったりとした空間でお茶を飲みながら対話をしていきます。「対話」 とは、侃々諤々の議論というよりは、「話す」 ⇔ 「聞く」 を丁寧に積み重ねてじっくりと考えていくような営みです。

ということで、毎月開催されているのだった。
10月のテーマは「ほんとうのワタシって何?」、9月は「結婚?する?しない?したい?」という感じで、存在論、認識論のような学術的哲学議論ではなく、誰もが意見を言えるようなテーマが設定されている。なのでみんな来るといいよ。

とはいえ、今年も去年も、3月は「震災」「原発」「フクシマ」がテーマで、僕は去年の3月、新聞でその記事を読んで、開催の2~3日前だったのだが「よし行こう」と思い立ち、初めて出かけていったのです。そしてその後も二回に一度くらいのペースだけれど通い続けているというわけさ。

そしてここからが本題なのだが、10月20日に月例とは別の「番外編」として、「なぜ私たちはてつがくカフェに集うのか?」をテーマとした集まりがあった。
僕は行けなかったのだけれど、これは表明しておくべき問題である。
なので今夜は、そのことを書こうというわけだ。

さて。

11月平日の沖縄は、修学旅行生がたくさん来ていた。羽田で嫌な予感がしたのだが、案の定、連中が同じ便に100人以上乗り込んできて、離陸した途端とか一丸となってキャ~キャ~叫びやがるからうるさくて仕方ない。
だがまあそれは、青春だから許す。
問題は教師だ。
若い教師が生徒に基地問題を話すのを小耳に挟んだのだが、
「沖縄の人は可哀想なんだよ」
と言う。
可哀想???
何様のつもりなのだろうか?

「可哀想」なんていうのはまことに嫌らしい性根の腐った欺瞞である。
これを問い詰めるときりがないのでひとことに留めておくけれど、「可哀想」の欺瞞に心底真剣に向き合うと、ニーチェのように気が狂う。それくらい重い、哲学的、倫理学的テーマであり、軽々しく口に出すべきことばではない。少なくとも、沖縄の問題について教師が高校生に教えることばではない。

わかりやすく言えば、「可哀想」と言ってるお前の責任はどうなんだ? ということだ。
本土から沖縄を訪れた多くの人が「沖縄の人たちは今も基地問題で苦しんで可哀想だ」と思う。それは別にいいのだけれど、そう思う己に、責任の一端はないのか?
そんな問いが頭をよぎった瞬間に、「可哀想」なんていうのが如何に失礼で侮辱的な物言いなのか、大のオトナならわかるはずだ。
「可哀想」などという文脈で語られること、そのこと、それ自体が、問題の本質なのである。
教師失格。

そして福島にも、まったく同じ形の問題が存在している。

福島の人たちを「可哀想」と言ってはいけない。と、僕は思う。
来年あたりから福島では甲状腺癌の子どもが急増するだろう。可哀想だと思う。だけど、可哀想なんていうことばで締めくくってはいけない。犯人が被害者を「可哀想」というのと同じだからだ。そういうお前に、責任はないのか?
(「倫理的な問い」の源泉について、僕はそれは「責任」の概念なのではないかと思う)

そこで、なぜ僕は「てつがくカフェ@ふくしま」に通うのか? という問いに戻ろう。

これが福島ではなく名古屋とか新潟だったら僕は通わなかっただろう。
そもそも東京にも哲学カフェはあるみたいだけれど、僕はまったく興味ないのだ。
ていうか、誰彼構わず哲学的議論を吹っかけたいわけでは決してない。面倒臭いだけだ。

哲学的議論なんて机上の空論だと思う人も多い。
確かに存在論だとか認識論だとか、あるいはもうちょっと今風の大陸哲学でも分析哲学でも政治哲学でもなんでも良い。そこで問われていることの「どこがどのように大事な問題なのか」を共有できない人にとっては、それは「鉄道マニアが語るダイヤ編成の謎」のような、「自分には関係ない話」にすぎない。
なのでね、そんな相手にいちいち説明したくないわけです。100年かかる。

その意味では、哲学も鉄ちゃん同様、マニアの世界だな。
鉄道ダイヤと聞いてそのグラフが思い浮かばないような、しかも見知らぬ人に、縦軸と横軸の意味から話さなければならないというのは、とっ~~~~~~ても面倒臭くて埒が明かない。

ところが、その面倒臭さを避けては通れない局面もある。
「正直に語るべき」局面だ。

新宿から吉祥寺に向かうのに中央線快速なら15分で着く。しかしそれでは哲学的に納得いかない。そこで「井の頭線で行こう」と山手線で渋谷を目指す。だが、渋谷の駅でまた迷う。半蔵門線に乗ってしまってスカイツリーのほうまで行って、品川に戻り横浜に向かい、市営地下鉄から横浜線、八王子から間違えて八高線に乗ってしまい…。

「哲学的な正直さ」とは、それを語ることだ。少なくとも、乗換駅くらいはひとつひとつことばにしなければならない、と思う。

だから面倒臭いし人に伝わらないので、いつもは封印だ。タクシーの運転手さんに「なぜ僕は六本木へ行くのか」をわざわざ正直に言わないのと同様だ。幸いなことに日々の生活というのはそういうふうにできている。

しかしそれでも、「正直に語るべき」局面がある。「正直に語らざるをえない」局面がある。
「可哀想」だと言ってはいけない事態。自分の責任を棚上げしては何も語ることはできない事態、そしてなおかつ、どれだけことばを重ねても免責されることはないのがはっきりわかっている事態。
にもかかわらず、闘わなければならない局面。

そこでは僕は「正直に語る」しかない。
だとすればだ。新宿、渋谷、スカイツリー、品川、横浜、八王子、さらに高崎、苫小牧や、千葉ではなく鳥取県の浦安駅のことも語らなくてはならないかもしれない。

なにしろ僕は、新宿から吉祥寺に行くのに中央線の快速に乗れなかったのだ。そこで躓くのが哲学という「こと」だ。これは、生活とはまったく無縁だし、むしろ無用なのだけれど、しかしそれでも、鳥取県の浦安駅のことを正直に語らざるをえないのが哲学であり、結局のところ僕は、哲学とはある意味で、そんな正直さとか切実さのことだと思っている。

福島の「てつがくカフェ」、およびその後の飲み会でしか会わない人も多い。
いろんな考えの人が来ているから、聞いてて何言ってるのか全然わからない発言もあるし、同様に、僕の言っていることもほとんど了解されていないんだろうなあと思う。
これはお互いそうだろうけれども、三平方の定理の説明を聞けばそれは理解できるのだ。だけどなぜ今、三平方の定理の話になってしまうのかそこがわからない。それこそが問題なのに。

つまり、重要なのは、三平方の定理の真偽や善悪ではない。
乱暴な言い方になってしまうけれど、言ってしまえば「三平方の定理の切実さ」である。
三平方の定理の「正しさ」なんかではなく、それを語らざるをえない「切実さ」。
それが哲学の原点であると思うし、それをわきまえない言説に哲学たる資格はないとさえ僕は思う。

だからこそ、「てつがくカフェ@ふくしま」では、正直に発言しなければならないと、僕は思っているのだった。

普段は全然違うよ。仕事の場では、たとえば作品の「構成論」(「作品論」ではない)とか、編集のやり方の話はするわけだけど、それがどんなに小難しくとも所詮技術論だ。
それに対して、哲学は技術論ではない。技術論ではあり得ない
(ときどき、「心理学と哲学はどう違うの」と言う話を聞くけれど、その回答のひとつとして「心理学は経験から法則を導いて技術にすることができるけれど、哲学にはそれはできない。ていうか、それをやってしまった瞬間に哲学ではなくなる」と答えることもできる)

さっき「沖縄の人たちは可哀想なんだよ」と言った高校教師の話を書いたが、ものすごく好意的に考えれば、「今の高校生は馬鹿なのでまずは「可哀想」から教えなくてはならない」のかもしれない。
けどそれは、沖縄の人たちに対してと同時に生徒に対してもやっぱ失礼だと思う。思い上がりだ。
彼(教師)は、「可哀想」という「気持ち」を教えようとしたのだろうか?
もしそうだとすれば、それは「愛国心を教える」と同様のキチガイ教育だ。

僕はそもそも、哲学というのは「科目」として成立しないのではないかと思っているのだった。
「三平方の定理」だったら「科目」になり得る。筋道立てて教えることができる。
理数系と同様に、文系の社会学や心理学も、少なくともその基礎は人に教えることができる。
ところが哲学は、たとえば「アプリオリな総合判断」とはどういうことなのかを説明して聞く人に理解させることはできたとしても、「なぜそれが問題なのか」を人に教えることは原理的にできない。「なぜそれが問題なのか」こそが最重要の哲学的問題であるにもかかわらずだ。

話がそれてきちゃったことよ。

「てつがくカフェでは、誰もがわかることばで話す」
これは当たり前のルールだ。「アプリオリな総合判断」とか言われても、ほとんどの人がなんのことだかわからない。(僕自身、さっきこのことばが頭に浮かんだとき「総合と分析ってどう考えるんだっけ?」とすっかり忘れているという有様だ)
でも哲学で言えば、どんなに難しいことばでも、「それまでのことば」ではなく「そのことば(概念)」で語らざるをえなかった分岐点のようなことがあって、それをひとつひとつ紐解いていけば、結局は、中学生ならわかることばで語ることはできる。
(ていうか、日常言語では語れないような問題が果たして哲学なのかというのがまず大問題だ。量子力学をやっているわけではないのである)

なので、「てつがくカフェ」では僕は日常言語で喋る。
だがそれでも「三平方の定理」のように、「言ってることはわかるけど、なぜ今それを言うのかがわからない」ということになってしまう。

まあ、それは悲しいし残念だけど、仕方ないのだ。
だとしても少なくとも「てつがくカフェ」に来るような人はどこか変人で、すなわち、なにか「問い」を抱えている。「問い」を抱えている人なら他の人の「問い」に対しても無下にはしまい。タクシーの運転手さんに「なぜ自分は六本木に行くのか」を説明するよりは、きっとその切実さは伝わるであろう。

話がいよいよ堂々巡りになってきたのでこのあたりで新展開しなくちゃなあ。
泡盛には豆腐餻だが、かなり飲み過ぎた。

つまり僕は、2011年3月11日を経て、「福島で正直に語りたい」と思っていた。
もちろん、どんなに正直に語ったところで罪滅ぼしにはならない。
それでも、正直に語らざるをえない
「新宿から中央線の快速に乗って吉祥寺まできました」ではなく、「渋谷に行ったけど井の頭線にも乗れず、スカイツリーに行って横浜に行って、その後ぐるっと回って千葉ではなく鳥取県の浦安駅にも寄りました」と、語らざるをえない。しかしまだ、吉祥寺に辿り着いていないのです。

2011年3月12日、福島第一原子力発電所一号基が爆発したとき、僕は東京にいてテレビでそれを知ったのだけれど、直後はパニクって正直何が起こっているのかまったく理解できなかった。今となって思うのは、現実の世界の出鱈目さというのを、生まれて初めて目にした瞬間だったのかもしれない。

日本は大好きな国であるが、米国の飼い犬のように尻尾を振る政治や成金主義の経済は糞だとは、もちろんずっと思っていた。だけどそれでも、この国のシステムは、超えてはいけない一線の手前に踏みとどまってはいるだろう、と思っていた。政治犯を公開処刑にする中国や北朝鮮、内戦を繰り返す情勢不安な中東の国なんかとは決定的に違うと信じて疑わなかったのだ。

だが、全然そうではなかった。
原子力発電所が爆発したというのに嘘をつき続ける政府と、それを追認するメディアや、ネットでの低能バッシングの応酬。
政財界の原子力ムラシステムが糞なのは言うまでもないが、「絆」などの美辞麗句で武装した同調圧力で、放射能汚染被害や責任の所在すらうやむやにしようという論調も出てきた。

心底腹が立ってきた。
当然これは、屑どもにこれまで騙されてきたという苛立ちでもあったし、同時に僕の、僕自身の、世界に対する責任の問題でもあった。

だからこそ、反原発のデモや活動に参加したり本を作ったりしたのだけれど、困ったのは、反原発潮流の中にも歴然と存在する「福島は可哀想」意識である。
もちろん僕も、原発事故に遭った福島の人は可哀想だと素直に思う。だけど、可哀想を論拠にして闘ってはいけない。そんな「上から目線」そのものが問題なのだ。

福島に行かざるをえなかった。
まず、話を聞きたい。
そして、僕もなるべく正直に話したい。

さっきも書いたように、僕が最初に「てつがくカフェ@ふくしま」に行ったのは、震災から一年後の2012年3月だが、2011年の夏~秋にも取材で福島を訪れてはいる。ただ、パパッと話を聞いて帰京するというスケジュールで、じっくり話をすることはできなかった。
じっくり話さなければ人は大事なことを語ってはくれない。東京からやってきた、50歳になるというのに赤いクマのTシャツ&汚いジーンズ腰履きオヤジ(僕)に、出会って一時間で本音を喋ってくれる人なんかいない。

そんなときに見つけたのが「てつがくカフェ@ふくしま」だ。
「てつがく」というのだから変人がたくさん来ているはずである。変人であるならば、腰パンで尻見せてる中年に対しても偏見を持たぬ、マトモな世界観があるだろう。
こうして僕は「てつがくカフェ@ふくしま」に忍び込んだのであった。

3月に「震災」「原発」をテーマにするときには東京からもたくさん人が来るのだが、ほかの月に東京から来る人はあまりいない。
もちろんお金も時間もかかるから、フツーに仕事をしている東京の人はそんなにしょっちゅう出かけられないのだけれど、僕には「その日暮らし」の特権がある。結婚もしていないし育てなければならない子どももいない。好き勝手にやってやれ。

あれから二年半以上経って、なぜ今でも行くのかと問われれば、ちょっと格好良く「だって、3.11は終わっていない」と答えることもできるし、まあ単に、飲み友達がたくさんいるからなのかもしれない。
いずれにしても、「福島が可哀想」だからなのではない。ていうかもちろん福島は可哀想だよ。でも、そんな可哀想の欺瞞とか、その矛盾を引き受けるというのがどういうことなのか。そういったことを肌で感じることができるようになってきた。

上手く言えぬ。
「忘れてしまいたい」から飲む酒の味がわかると言うことだ。

人間、酒を飲まなくちゃ駄目だ。
「酒は飲むべし百薬の長」(高校生の頃通っていた赤提灯に貼ってあったスローガンだ)
「てつがくカフェ@ふくしま」は、その後必ず酒を飲む。(もちろん、飲み会に参加しないで帰る人もたくさんいるので、飲めない人、時間のない人も安心して参加してくれ)

さてと。

ここまででもずいぶん長いが、この話には続きがある。

いい加減飲み過ぎたし疲れたからここで「「てつがくカフェ@ふくしま」を巡って」その1を区切るけれど、次回、「てつがくカフェ@ふくしま」を巡って、「哲学的な(もちろん研究室的な哲学という意味ではなく市井の哲学としての)問い」のありかたについて、考えることを書こうと思う。

朝の5時半過ぎに「赤いきつね」を食べたら、もう泡盛もビールもお腹に入っていかないので、そろそろ寝ましょうね。