女川のテレビ番組を見て原稿は中断 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

女川のテレビ番組を見て原稿は中断

祐天寺のもつ焼き「ばん」のカウンターで『資本主義という謎』(NHK出版新書・水野和夫さんと大澤真幸さんの対談)を読みながらぐだぐだひとりで飲んでいたら、なにか書かねばという気持ちになってきたのであった。

ところが、いざパソコンに向かうと頭の中が空っぽだ。
そこで今夜は、最近「これブログに書こうかな」と思いつつも面倒臭かったり飲み過ぎたりで書かなかったネタをいくつか披露しましょう。

まずはあれだな。2020年のオリンピックが東京に決まっちゃったという話。

最近顔つきとかどんどん気持ち悪くなってきている猪瀬直樹だが、IOC総会前日の記者会見では、福島第一原発の汚染水問題を「ネガティブキャンペーン」と言い放っていた。
「大事なことはファクト(事実)とエビデンス(証拠)に基づいて報道すること」と繰り返していたが、ならば現在フクイチから流れ出ている汚染水もそうだが、東京湾の汚染実態を忘れてはならない。

2020年東京オリンピックでは東京湾の埋め立て地に選手村とかいろんな施設を作るそうだが、その東京湾海水の放射能汚染についてのファクトとエビデンスをがあるのに、それについて猪瀬直樹はまったくのスルーである。
今酔っ払ってて面倒だから調べないけど、東京湾の汚染はかなりひどいよ。食べちゃいけない魚がばんばん釣れる。関東各地に降り注いだ放射性物質が川の流れで集まっているのだ。
要するに2020年東京オリンピックは、たっぷり汚染された東京湾を中心に行われるというわけだ。

あとさ、安倍晋三は、「汚染水は第1原発の港湾内の0.3平方キロの間で完全にブロックされている」と言っていたが、よおしわかった。それならば選手村とかの食事は、フクイチ0.3平方キロ外の、福島で採れた魚を出すと明言してほしい。
0.3平方キロが問題なのであれば、その外側は大丈夫なはずだ。福島の漁業関係者は原発のせいで大変な目に遭っている。彼らのためにも、「2020年の五輪関係者には安全な福島の魚を供します」と言ってみたらどうだい?

ご存知のように安倍晋三は原発を輸出しようとしている。
原発の輸出は食品の輸出とは訳が違う。高度な技術によって可能となった社会インフラであるからだ。
たとえば、新幹線を輸出しようという場合、一両何億円とかで車両を売ればそれで済むのかと言えばそんなことはない。
この車両をどう動かしたらよいのか、時刻表はどう作るのか、線路を作るにはどうしたらよいのか、線路や車両はどう管理したらよいのか、緊急事態にはどう対処すべきかなどなど。輸入国にそのオペレーション・ノウハウを伝えなければ意味がない。

ところが日本の原発事業に関して言えば、事故のないときに如何に地元住民を懐柔するかといったノウハウはたっぷりあるものの、いざという場合のノウハウはまったくない。挙げ句、事故から2年半経った今頃になって汚染水問題が浮上しているという有様だ。
緊急時のオペレーションノウハウがまったくない国に、核という危険な物質を扱う社会インフラを他国に輸出する資格があるのか?

この前「TVタックル」を見てたら、どこかの馬鹿が人の話を遮って「日本は原発を輸出するべきだ」などと発狂して叫んでいた。
僕が「TVタックル」や「朝まで生テレビ」を嫌いなのは、「議論」ではなく「声の大きい奴のパフォーマンス」が大手をふるうからである。
番組としては「画的に派手な奴」が美味しいのだろう。質問をはぐらかして相手を攻撃したり、威圧的な態度でねじ伏せようとしたり。
でも僕は、そういう馬鹿どもに虫酸が走るので見たくないのだ。

でさあ。
思うのだけれど、高校生の頃僕は、中核派とか4トロ(第四インター)といった「いわゆる過激派左翼」の子供部隊の連中とよくやり合った。
あの頃はガリ版刷りのビラに「反革命的日和見分子鹿島君(←僕の名前だ)」とか実名で書かれたものだった。
今思えば中核とか4トロに名指しで糾弾されるのはおっかないけれど、当時は若かったからなにも気にしないのでした。

で、討論において彼らが使う常套手段が「威圧的な物言いで人を黙らせる」というやり口である。

1970年代というのは左翼没落の時代だ。
自らの議論の正当性を失った連中が、自らそれを直視できないが故に、「声の大きさ」で威勢を張って人を圧倒しようとする。
今考えればそんなふうにも思えてくるのだけれど、現在原発を推進しようとする連中はまさにそれにかぶる。

原発を推進する議論の正当性は、今やどこにもない。
安全性はもちろん、経済性においても、地球環境にとっても。
これはまさに、1970年代において当時のマルクス主義的革命論の正当性がなくなってしまったのと同じである。
それでも、宗教的、狂信的な連中は、自らを否定しようとはせずに、相手を罵った。
自分の思想が袋小路であることを認めたくないばかりに、大声を張り上げた。
原発推進の連中は、70年代の過激派がそうであったように、そのうち内ゲバでも起こすんじゃないだろうか(そうなれば面白いのに)。

ただ、1970年代の左翼連中と2010年代の原発推進派とでまったく違うのは、原発推進派が政財界のクソジジイどもを味方につけていることである。
政財界のクソジジイというのは、たとえば道で会ったら張り倒してやりたい米倉弘昌なんかのことだが、そんな個別の馬鹿どもの域を超えて、近代資本主義的な経済成長を「善」として疑わない「犯罪的な馬鹿思想」そのものであり、

おっと。

今、日テレでやってた被災地のドキュメンタリー見ちゃったよ。
宮城県女川町。
僕も震災後、何回か取材で訪れた。
山に挟まれた地形もあり、びっくりするくらいの高さまで波が来た。

テレビ見てたらかなり酔いが回ってしまった。
だから文章も途中でおしまいです。

「『これブログに書こうかな』と思いつつも面倒臭かったり飲み過ぎたりで書かなかったネタをいくつか」書こうと思っていたのだけれど、それはまた今度ね。

深い「考え」と、深い「思い」について。
右翼と左翼について
そして、「原発は悪だ」と言い切る「覚悟」について
など、
書こうと思っていたことはたくさんあるのだが、まあそのうちに。