『あまちゃん』最終回~我々があの町と人々を愛した理由。そして「成長」のウソ | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

『あまちゃん』最終回~我々があの町と人々を愛した理由。そして「成長」のウソ

『あまちゃん』の最終回見ちゃったよ。

なんかテレビの話ばっかで、仮にも「哲学とロックンロールと反原発」と謳っているブログなのだから少しはそれっぽいことを書こうと思い、「決定的にくだらなく、かつ有害なのは「体系化された真理が存在する」と信じる傲慢さである」という、前から書こう書こうと思っていたことを書き始めたのでしたが、5日前は「仕事をビジネスと呼ぶのは、ことばが変わっただけでなく、体操とエクササイズがまるで別物のように、意味が変わったと言うことである」という話から書き始めたのだけれど、これだと本筋に辿り着くまで原稿用紙的に50枚くらい必要なことが発覚し途中で投げ出した。3日前は東電の広瀬社長が新潟県の泉田知事に頭を下げに行った話を書いていたのだが、なんか突然、新潟県が柏崎刈羽原発の安全審査を受け入れるということになってしまい、だとすると書き直さなければならなくて面倒だからやめた。

そこで『あまちゃん』の話にする。

要するに2013年というのは、『あまちゃん』と『半沢直樹』が9月に最終回を迎えた年である。覚えやすい。

断っておくけれど、僕は『あまちゃん』は8月末からしか見ていないし、『半沢直樹』を見たのも、最終回を含め2回だけだ。だからこれから書くのは、作者の意図とかとはまったく関係ない。勝手な推測もする。言いがかりをつけるつもりはないが出鱈目を言うかもしれない。

『半沢直樹』については前回書いた通り。
組織は人の敵であり、会社はそもそも悪である、というのがかねてより僕の主張するところだ。

会社なんて言うのは馬鹿な上司と駄目な部下、自分勝手な取引先との間で理不尽を強いられるだけだが仕方なく働いている。という人々がいて、逆に会社こそが新しいなにかを作り出し人を幸せにする、と考える人々がいる。
雑な言い方をすれば、前者は「会社で自由を奪われる人々」であり、後者は「会社で自由を獲得する人々」である。
で、現代は後者が善だと言うことになってしまっている。恐ろしく不気味な世の中だ。

いずれにしても、ドラマや小説で「組織とどう闘うか」というのは昔からのテーマではあったけれど、「倍返し」「100倍返し」というふうに、世の中の圧倒的大多数である「会社で自由を奪われる人々」の怨念をスカッと「ことば」にしてくれたのが『半沢直樹』であった。
1963年に、あるいは1983年でもいいけれど、同じドラマが放送されても同じ視聴率は稼げまい。2013年だからこそ、多くの人が強烈に感情移入したのである。

『あまちゃん』も同様に、2013年だからこそのドラマであった。

震災があって、その後しばらくはエンタメ関係の人たちはピリピリしまくっていた。僕も現場にいたので(まあ片足の指の先くらいだけだけど)よくわかる。
なんでもかんでも自粛、自粛。
ドラマの中で、『潮騒のメモリー』の歌詞「よせてはかえす波のように」が被災者に津波を思い出させて傷つけるんじゃないか、みたいなエピソードがあって、心配する東京の薬師丸ひろ子に対して、被災者の夏ばっぱは、そんな歌詞がなくてもいつでも津波を思い出す、みたいなことを言う。

僕が震災後初めて被災地に入ったのは、一ヶ月半経ってからだ。瓦礫の山で悪臭が漂っていたけれど、遺体を見ることはなかった。しかし、木にぶら下がっていた遺体や、首のない子どもの遺体など、震災直後の話はいろいろ聞いた。
それを思うと、エンタメ関係、メディアの連中が自粛しようという気持ちもわかる。
けど一方でそれは、被災者に対する思い以上に、「てめえ何やってるんだこんなときに!」という世間の非難を恐れたものであった。

さっきも書いたように僕は、宮藤官九郎さんの熱心な読者や観客ではなく作品もほとんど何も見ていないに等しい。けどその上で勝手なことを言わせていただければ、宮城県出身で東京でエンタメに関わる彼は、とてもとても悩んだのだと思う。

今年の春~夏、僕は取材で何回も被災地に通った。
被災者に話を聞くのは、ほんとうに疲れる。とにかく気を遣うのだ。
無神経な取材のせいで傷ついた人たちも大勢いる。だから「取材は決して受けない」という人や、地域もある。キー局が出向いて取材には超大物タレントを連れてくると言っても門前払いされたとか、そう言う話もいろいろ聞く。

ある地域の方に取材交渉したとき、何時間かお願いを続けた末、相手の方はほんとうにすまなそうに、「撮影、録音は辞退します。名前も出せません。できることはここまでです」とおっしゃった。
彼は、自分に会うためだけに東京から出かけてきた僕に申し訳ないと思っているのだった。
いやいやとんでもない。被災者に「申し訳ない」と思わせてしまう自分こそずっと申し訳ない。
みたいなことを考えながら取材をする。精神的にほんとうに疲れる。けど、相手の方はもっと疲れるだろう。で、それを思って余計疲れる。

取材拒否する方の理由はさまざまだ。無礼な取材、報道でメディアが嫌いになったという人だけではない。僕が話をした中で一番多かったのは、助かった自分がメディアに出るなんて犠牲になった方に申し訳ないと言う理由だった。助かったことに罪悪感を感じてしまっている人たちだ。それ以外にも、田舎の部落なので目立ちたくないという人もいたり、まあほんとうにいろいろ。取材対応だけをとってみても、被災者の気持ちを十把一絡げにすることはできない。

だけど、何回もお会いしているうちに仲良くなった人々もいる。
たとえば、被災地の女子高生からLINEでメッセージが来るのは僕の自慢だし、あるいは、取材ではないけれど福島には何度も足を運んだから飲み友達がたくさんいる。
そう言う人たちとはさ、ごく普通の話をします。津波が来たこと、原発が爆発したことは決して忘れないけれど、24時間それだけを考えていることはできない。「松島の岩牡蠣は美味しいね」という話や、女子高生とは「どんな人が好き?」なんて話、オトナとはエロ話とか。

例によってぐだぐた飲みながら先の展開を考えずに書いているので、だらけきった文章だな。

『あまちゃん』に話を戻しますね。
夏ばっぱは、津波のことは決して忘れないけれど、「よせてはかえす波」という歌詞なんか気にしない。震災直後のメディアの過剰な自粛反応は、やはりどうかしていたのだ、と僕は思う。

で、宮藤官九郎さんの気持ちを勝手に推測するのだが、震災から2年経って、やっぱりなにかそこに目印をつけたかったのではないかと思う。
震災はまだ終わってはいないけれど、2年経って考える2年前は、5年経って考える5年前とも、10年経って考える10年前とも違うはずだ。
それは、作家としてどうしても書かなければならなかったことなのではないか、という気がする。

アキちゃんやユイちゃんに惚れる男子がいて、僕なんかはすっかり美熟女になったキョンキョンの微妙かつ絶妙なエロさにやられてしまったし、種市君や水口君ラブの女子も多いことだろう。
こうして僕らは、その田舎町が好きになった。北三陸市という架空の町だけれど、誰がどう見ても岩手県の沿岸部だ。誰だって日本地図を見れば指させる。

もちろん、ドラマの舞台となった町が人気を集めるというのは珍しいことではない。
しかし、北三陸市がほかと違うのは、視聴者全員がリアルタイムで体験した「2011年3月11日」、その日大きな被害を受けた町のひとつだということである。

我々はみな、あの日の凄惨な出来事を知っている。
でも、あの日以前も、昔からずっと南三陸市は存在していた。海女がいて、アイドルをめざす少女がいて、海沿いを一両編成のディーゼル気動車が走っていて、みんながそれぞれの生活を続けていた。それを我々はほとんど気にしたことがなかった。
そして、あの日のあとも、「あの日」を乗り越えようと、人々が生活を送っている。それも我々は、少しずつ忘れかけていた。

同じ日付を覚えているからこそ、そんな町と人々の姿に僕らは思わず拍手を送り、どんどん好きになっていく。
ドラマの中で「あの日」が来ることを知っているから、アキちゃんがそのとき何を感じ、どう行動するのか? 町の人々はどうなるのか、どきどきしながら毎朝見てしまう。

最初に、
「『あまちゃん』も同様に、2013年だからこそのドラマであった」
と書いた。

「あの日」以前であればこのドラマはこの形で存在しえなかったわけだし、「あの日」をこのように描くためには2年が必要だったように思う。また、未来にこのドラマを見た「あの日」を知らない人たちは、きっとまったく違う気持ちになると思う。

全156回中の147回、つまり大きな物語として捉えればラストシークエンス。北三陸駅でのシーン。
アキちゃんはストーブさんに「おら、少しは変わったかな? 少しは大人になったかな?」と問う。
「全然変わらない」と言われ、「いがった」と笑うアキちゃん。
「芸能界さいると、ていうか東京がそうなんだけど、そういう調子にいると、怠けてるみたいに言われるべ。でもな、成長しなきゃダメなのかって思うんだ」

会社が儲けてもカネは内部留保で、オイシイのは経営者と株主だけ。所得格差はますます激しくなり、外を見れば、米国の禿鷹ファンドや中国の下品な成金が「カネこそがすべて」とばかりに日本を乗っ取ろうとしている。
津波があって原発が爆発して、それでもなおかつ、経済成長なんかが正しいのか?

ビジネス本や自己啓発セミナーであっさり洗脳されて超ポジティブ。今までの悩みを忘れてしまう連中がいるけれど、「今までの悩み」を持ち続けたほうがよっぽどマトモな神経だとは言えないか?
「自分探し」で「ほんとうの自分」を見つけたいなんていう人は、じゃあ今はウソなのか? 今感じていること、思っていること、考えていることは誤りなのか? 「自分磨き」とか言うけれど、どんなに磨いても銅は金にはならないよ。
だいたいの場合、「成長しろ」という奴の「成長」とは、現状を追認しシステムに迎合しろと言うことだ。俗でくだらない通信簿を気にしろと言うことだ。
そんなに「成長」したいのか?

「ほっといても成長するべ。背が伸びたり、太ったり痩せたり、おっぱいでっかくなったりな」
アキちゃんの言うとおりだ。

失敬する。