「哲学」の議論と「党大会」の議論(「てつがくカフェ@ふくしま」を巡って~その2) | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

「哲学」の議論と「党大会」の議論(「てつがくカフェ@ふくしま」を巡って~その2)

僕は、酒の肴に文章を書く。

画描きの手元に紙とペンがあればぼ~っとしてても無意識になんか描いてしまうように、あるいは、その手のパブに楽器が置いてあると、弾ける人は飲みながら音を鳴らしてしまうみたいに。

プロとして、飲んだときは楽器に触らないという主義の人もいると思うけれど、ステージで飲むプロもいる。僕は後者に近いな。仕事も飲みながら書くもんな。
さすがに原稿料いただく仕事の締め切り日は泥酔しないように気をつけるのだけれど、ブログは余計な心配無用なので、ついつい飲み過ぎる。そしてその結果、途中放棄した書きかけの文章がデスクトップにどんどん溜まっていく。次の日になると続きを書く気は失せるのでもうほったらかしだ。

だから、前回の「「てつがくカフェ@ふくしま」を巡って~その1」は、よく書き終えた。堂々巡りのひどい文章だけれど(プロとしては半分以下に圧縮すべき文章)、まあよくやったよ俺。

そこでひとり乾杯。
頑張って続きを書こう。

今回は、「てつがくカフェ@ふくしま」の具体的な話だ。
なにしろ前回の記事は「てつがくカフェ@ふくしま」のブログで紹介された。( http://blog.goo.ne.jp/fukushimacafe/e/4ccab7bd96040f29d5301bb99c427ef9
「引用して良いですか?」と聞かれたので「もちろん良いです」と答えたら、その日の晩に記事がアップされていた。…は、早いよ。
だから僕も頑張って書かねばなるまい。

そんなわけで、知らない人にはさっぱりわからないかもしれない。ごめんなさい。
とはいえ、書こうと思うのは「てつがくカフェ@ふくしま」批判ではなく、「哲学的な議論とはどのようなことか」という問題である。

ものすごく大雑把に言ってしまうと、前回書いたのは哲学的議論のモチベーション、出発点について。今回書くのは、哲学的議論の問いの立て方ややり方について。

「てつがくカフェ@ふくしま」、11月のテーマは「知らなくてもよい真実はあるか?」と設定されている。( http://blog.goo.ne.jp/fukushimacafe/e/17362cf0ad5152ecfdb6696820ef1f29

僕は、参加するたびに同じ議論を蒸し返してしまうのだけれど、また言うよ。

哲学は経験科学ではないので、客観中立性を求めることなど不可能だ。だから「本当の」とか「真実」とか、そういうことばをテーマに使うのはどうなんだろうと思ってしまう。
当然のことながら、オバマ大統領の言う真実とアサド大統領の言う真実は違うわけなので、すると「真実とはなにか」という話になって、その先に待っているのは、「そもそも真実なんか存在するのか」という問いである。(いつもの話だ)

揚げ足取りをしたいのではないよ。
つまり、「真実の実在」というような論点先取り的前提があるのではないか、と、このテーマ設定の中になにかヤバい匂いを感じ取ってしまうのである。
「真実の実在」を措定しない限り、「それを知るべきか」という問いは成立しない。
つまり、たとえその場限りでも「真実の実在」に同意しない限りこの議論には参加できないということになってしまう。

「ヤバい匂い」とさっき書いたのは、「知らなくてもよい真実はあるか?」というテーマをたてるのは、それ以前に立てられるべき「真実の実在の問い」こそ切実な哲学的モチベーションである、ということは充分考えられるにもかかわらず、それをスルーしているように思われるからだ。
意図的にスルーしているのであればそれはズルいし、無自覚であるのならもっと問題だ。

例えて言おう。
原発肯定の連中は「原発を稼働させなければ日本経済は立ち行かない」と言うわけだが、その主張は「経済成長は善である」という暗黙の前提に支えられている。「経済成長なんか要らないんじゃね」という問いは一切スルーされている。
原発肯定の連中はほぼ馬鹿揃いなので、そんな問いがあり得ること自体理解できないのだろう。だが、哲学的議論においてそれと同様の「重要な議論のスルー」は、これはちょっと、原発推進並みにヤバいと思う。

プラトニズムとの決別が哲学的に切実な問題である僕なんかは、「真実なんて言うことばを使うと言うことは、まずは「真実とはどういうことか」という論点で闘わざるをえないではないか」と身構えてしまうのだ。

話は横道だけれど、近代以降の科学はプラトニズムと決別して成立したはずなのに、現実には多くの科学者がプラトニズムを信じている。彼らは、宇宙の原理を「発見」しようとしている。つまり、そもそも宇宙には「原理」が存在していて、科学者がそれを「発見」しているのだと。まさにプラトニズム。

僕は科学的真実は「発見」ではなく「発明」だと考えていて、これは単にことばの問題ではなく、世界に向き合う態度だと思う。

またまた原発の例えになってしまうけれど、再稼働を目論む連中は、原子力ムラや日本的資本主義システムの温存が目的なのだろうけれど、それよりずっと手前で、「人間が宇宙の原理、法則を発見してコントロールしよう」というプラトニズム的科学原理主義を無自覚に信仰しているように思われるわけで、僕はそこにこそ叩くべき病巣があると感じるわけだ。
なので「真実」とか言われた瞬間に眉がぴくっとしてしまう。

「真実」なんて言われなければそこまで考えずに受け入れるのです。
程度問題と言われればそうだけれど、ことばの問題こそ思考の問題であるので無視できない。
「真実」ということばには、なんらかの原理主義的世界観(科学原理主義とかマルクス原理主義とか)がべたっと張り付いているように感じられて、それ自体を問題化せざるをえないのである。
そうなると、「知らなくても良い」のか否かの議論には入れない。

で。

今度はそこまでうるさく言わず、「真実の実在」を受け入れて、もっとゆるく考えてみる。

「知らなくてもよい真実はあるか?」と問われれば、「そんなのいくらでもある」。

もしも(仮にだ)数えることができるのであれば、「知らなくても良い真実」は「知っておいたほうが良い真実」の数百倍、数千倍以上あると思う。
たとえば「科学的真実」。これは、ほとんどの人にとって疑いようのない真実だろう。惑星の軌道とか分子の構造とか。

でもそんなのは専門家にお任せしますというのが僕の考えで、ていうか、もしも「知らなくても良い真実はない」とすれば、それは「すべての真実を知る」、すなわち「神の概念」を受け入れて、なおかつ「みんながそうあるべき」だということになってしまう。

ここになぜ僕が問題を感じるのかというと、「知らなくてもよい真実はあるか?」という問いの言外に、「問題とすべきは科学的真実とかではなく社会的真実」というような前提が隠蔽されているように思われるからだ。
(ここでいう「社会的」とは、「一対一」の対人関係から、人と国家の関係まで、要するに「社会関係」的という意味)

つまり、「科学的真実とかはどうでもいいけれど、社会的真実は「知っておくべきか否か」を熟考すべきである」と言うような、大雑把に言えば真実のジャンル別「格付け」が潜んでいるように感じられるのである。

あらゆる「問い」に先立って、「なぜそれが問題なのか」という「問い」がある。
それらを順を追ってすべて明らかにせよというのは不毛な議論だと承知しているけれど、少なくとも、議論のテーマとして今立てた「問い」の、直近の「なぜそれが問題なのか」については自覚的であるべきだと、僕は考える。

もし、「知らなくてもよい真実はあるか?」というテーマ設定の中に、意図的にこっそりと、「真実のジャンル別「格付け」」を潜り込ませたのであれば、それはある種の「作戦」としては理解できる。
でも、もしも、「問題とすべきは、科学的真実とかじゃなくて、当然、社会的真実だよね」ということが無自覚に前提とされているのであれば、それは「哲学的議論」ではなく「党大会の議論」だ。すなわちある種のイデオロギーを前提とした議論である。

ちょっと厳しく言っているけれど、当然のことながら主催者の人たちの悪口を書きたいのではないよ。
「社会的関係」を軸とした議論を提起したいという気持ちはわかる。
であれば「真実」とか「ほんとう」とか言わず、もうちょっと具体的な問題提起にしたほうが良いと思うのだ。

「てつがくカフェ@ふくしま」、11月のテーマ「知らなくてもよい真実はあるか?」の案内( http://blog.goo.ne.jp/fukushimacafe/e/17362cf0ad5152ecfdb6696820ef1f29 )には、

あなたのパートナーが浮気していたら、その真実を知らされたいですか?
あるいは、逆に相手に真相を知られたいですか?
あなたが余命いくばくもない病に侵されていたら、告知されたいですか?
あるいは、家族の場合にその真相を知らせたいですか?
我が子が幼い時に別の子どもと取り違えられていた事実を知らされた場合、その真相を我が子に伝えるべきですか?
国家は市民に真相を知らせるべきではない場合があるのでしょうか?


という例が記されている。
これらひとつひとつは、非常に面白い議論だ。
だからたとえば、その中からひとつとって「バレない浮気はOKか?」というテーマであれば、「セフレは浮気か否か」とかさ、「異性と食事しただけで浮気なので許せない」という過激派も出てくるかもしれないし、「逆に相手に真相を知られたいですか?」と上の例にはあるけどそんな奴いるわけないじゃんと僕は思うが、案外いるかもしれぬ。
場合によっては、「バレない浮気はOKか?」という、その本筋に絡んだ形で、「真実の存在論的議論」になるかもしれない。
そういうのが、不特定多数の人が一日でやる哲学的議論のテーマとしては良いのではないかな、と、僕は思うのだった。

天才ライプニッツの放った「なぜ、なにもないのではなく、なにかがあるのか」という問いは、哲学的には素晴らしい。
なにしろ、小学生だってそれなりに回答することができる。
にもかかわらず、現在に至っても、世界中の専門的哲学者や哲学する人たちが必死になって格闘している。

これはすごい問いだ。
だが、飛び入り参加大歓迎の二時間議論のテーマとするのはやっぱ無理がある。
∀x¬(x=x) というような論理式で「無」を示そうという人もいれば、実存主義と言われる人たちは(まるで小説のように)「不安」で「無」を表現しようとしたりする。
どちらが良い悪いではなく、問題は、どちらもかなり長い哲学的な営みの中で、すなわち真摯で切実な哲学的試行錯誤を通して、「断言なんかできないかもしれないけどそのように語らざるをえない」ということになったということだ。

雑な言い方をするが、問いの立て方が究極すぎて、これじゃあ同じテーブルで語れるようになるまで何十年もかかるかもしれない、と言ったらわかってもらえるかしらん。

「無」や「存在」に関わる問いは極端に思われるかもしれない。
だが、気にならない人がふと口にする「真実」とか「ほんとう」ということばでも、哲学的議論においては、「ほぼ究極レベルまで立ち戻らなければ語れない」と切実に感じる人もいるのだと言うことは、感じ取ったほうが良いと思う。

であれば、ある種の人に「いきなり究極」と感じさせるようなテーマ設定はやめて、なるべく具体的なテーマから、時間の許す限り究極に近づこうというほうが良いのではないかと思うのだ。

でもまあ、今年3月の「てつがくカフェ@ふくしま」では、最初「フクシマは犬死にか」というテーマでと話し合われていたのだけれど(このことは昨年秋、福島市内のスナックで深夜語り合った記憶がある)、諸々あったようで結局見送られて、「フクシマはどこへ―絶望と怒りの淵から―」というテーマとなった。
僕は「犬死にか」こそ、問うべき問題だと今でも思う。
だけどその文言に「いきなり究極かよ!?」と戸惑う人もいるのかもしれない。

難しいよな。

いずれにしても、哲学的議論においては、「問いの立て方」それ自身が、すでに「哲学的な問い」なのである。

と、案外綺麗に締めくくったところで、ビールがまだ二本あるので別の話。

前回このブログで
「「倫理的な問い」の源泉について、僕はそれは「責任」の概念なのではないかと思う」
と書いた。
で、先月の「てつがくカフェ@ふくしま」では、ファシリテーターの人が言った「自己関係」ということばに、僕はさんざん食ってかかった。
このことについてちょっと書こう。

僕の言う「責任」概念を分析すると「自己関係」という概念になるのだとは思う。
でもそれは、「分析しすぎ」だ。

「自己関係」というのは、自己をふたつに分けるか、あるいは「自己」に内部があるとするか、いずれにしても複数の自己を認めることで、それは、(精神医学とかの)経験科学的、心理学的には想定されても、哲学的にはかなりヤバい矛盾を孕んでいる。
この矛盾を回避するためには自己概念にレイヤーを設定し一段ずらさなければならないと思われるのだけれど、それはつまり、自己概念の無限後退を受け入れると言う事態であり、であれば、そんな無限後退についての釈明が必要となってしまう。
だからこそ、「責任」概念を「自己関係」のような形に分析しないこと、つまり「釈明せざるを得ない事態」は切って捨てるべきだと思うのだ。
「分析しすぎ」ない、その一歩手前で踏みとどまって議論することこそ、「ことば」で為さざるをえない哲学的議論の「底」として、仮であったとしても措定すべきかと思うのであった。

前回の記事で書いた「正直さ」や「罪」の概念も、もちろん同様。
そういった倫理的な概念を、そっちのほうからそれ以上分析して「自己」概念や「世界」概念、あるいは「私」概念と連結できるのか。
今のところ僕はそれは不可能だと言う気がしてならない。
言い方を変えれば、その不可能さゆえに倫理の問題が立ち上がってくるわけで、安易に「自己関係」などと言ってはいけないのではないか。

ただし、「自己関係」というのが分析の結果などではなく、哲学の切実なる動機であるとすれば、もちろんそれを出発点とするしかなく、僕の言ったようなことは見当外れだ。

最後にちょっと雑談ね。
わけわかんないこと書くから読み飛ばしておくれ。

「分析哲学」というとき、「ことばを分析して真実に辿り着こう」という哲学のやり方だと思う人もいるかもしれないけれど、それこそがかつての論理実証主義の誤りであったし、今でも、分析哲学に対する重大な誤解だと僕は考えている。

分析すればするほど真実に近づくのかと言われれば、それは全然違う。
そうではなくて、「ここまでしか分析できない」「これ以上の分析は無意味」「(責任を分析して自己関係だというように)分析したら余計わけわかんなくなった」という、「超えてはならぬ一線を内側から探り出すこと」。
こうした作業によって為し得るのは、西欧的な「真善美」で言えば「これが真だ」と確定するのではなく、「真の外延」を探り続けること。
そうやって、おぼろげながらでも立ち上がった「真の外延」を足がかりにして、「善」や「美」も、語り得るものとして対象化しようという試み。
分析哲学の切実さはそこにあるのではないか。

と、僕はそんな気がしている。

おお、朝の5時半だ。

缶ビール6本。
頑張って書いたぞ。