半沢直樹最終回。そして、最悪だが一番マシな資本主義と半沢の最後の敵。 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

半沢直樹最終回。そして、最悪だが一番マシな資本主義と半沢の最後の敵。

見ちゃったよ半沢直樹最終回。

テレビはあんまり興味ないのでこれまで一回しか見たことなかったのだけれど、これだけ高視聴率だと騒がれると気になってしまう俗な俺。
取締役会のシーンは良かった。緊張感がある。良い現場だったのだと思う。
あとオーラス。
直前のシーンで「昇格間違いなし」みたいに言っていたから、当然のことながら、半沢への辞令はなし、つまり役職は現状のままか、あるいは出向。そのどちらかだとは思っていて、まあ後者だったのだけれど、なんの説明もなしに「出向を命ずる」の台詞とそれを受けた半沢の表情アップで番組最終回が終了したのには正直驚いた。

「形の上では降格のようなものだが、頭取から別の期待を込めての出向なのだ」とか、逆に「所詮半沢が何をやっても銀行は変わらない。そういう意味のアイロニーなのだ」とか、
テレビドラマではせめてなにかを匂わせるものなのだが、そういうのもまったくないという部分にびっくりしたのだった。
僕的にはこういう終わり方は大好きなのだけれどね。人生も世界も、そんな単純なものではないからだ。
まあ、続編への伏線なんだろうけどさ。次作の敵ボスキャラは北大路欣也頭取だと言うことだろう。

それはともかくとして、ドラマであるから、現実そのままではない。しかしながら「組織に生きる」というのがどういうことなのかが上手く描かれていて、だからこそ組織に生きる多くの現代人の共感を呼んだのは間違いあるまい。

僕は10年くらい前「もう金輪際、上司も部下も欲しくない」と、組織を辞めた。
で、最初にやったことは、なんの肩書きもない名刺を作ること。それまで一応、「取締役」とか「編集次長」といった名刺を持ってきたのである。とはいえ、キャバクラに行けば女の子がお世辞で「すご~い!」とか言ってくれるけれど、役職なんて重いだけだ。
ネットで安いフォントをダウンロードして、Photoshopでそれなりにデザインなんぞ工夫しながら、名前と携帯番号とメールアドレスだけの名刺をひとりで作った。良い気分だった。

組織、中でも会社にいるというのがどれだけ矛盾に満ちた大変なのかことなのかというのは『半沢直樹』を見ればわかるとおりだ。
「何をするのも会社のため」という不文律がいつの間にか身についてしまう。あるいは「会社を思うことこそ良いことだ」という価値観に染まってしまう。

僕自身、かつて自分がそれなりの役職に就いていた会社では、組織が危機的なトラブルに見舞われたとき、「なにか変だ」と思いながらも「会社を守るため」の行動をした。
でもあるとき、もうそういうことはしたくないとはっきり自覚した。
そのために僕は、組織を抜けるしかなかった。

「会社を守るため」が「自分を守るため」とイコールになることも少なくない。だって会社が潰れちゃったら給料もらえなくなる。自分だけじゃなくて家族も路頭に迷わせることになる。「家族を守る」ことこそ男の使命だと信じて疑わなければ、そのために会社を守ることは正当化されてしまう。

でもこれって、目的のために手段を正当化しているってことだよ。
すべての会社員はそこを自覚しなければならない。
「家族を守ること」が理念的に正しいこと、善だとしても、だからといってその目的のためのあらゆる手段が善である、ということにはならない。
「会社で悪いことなんかしていない」という人が大部分だろうけれど、それでも「家族のために会社で働くのは善である」とは必ずしもならない、ということだ。

『半沢直樹』からは離れるが、もっと問題なのは、自分のため家族のためなどという枕詞なしに、「会社で働くのは良いことだ」と頭から信じて疑わない人たちだ。

善悪の問題は難しい。
たとえば、性善説、性悪説というのがあるけれど、どちらも突き詰めれば根拠などない。
そもそも、人は本来善であるか、悪であるか、などというのは無駄な議論である。なぜかというと、「善とはどういうことで悪とはどういうことか」あるいは、「そもそも善悪は存在するのか」といったまったく未解決の問題がスルーされて、問いの中にこっそり織り込まれてしまっているからだ。
だから僕は、性善説擁護議論も性悪説擁護議論もしない。

そんな意味で言えば「会社」というものを「性善」か「性悪」かと問うのはもちろん無理があるのだけれど、それでも僕は、「会社は本来的に悪である」と考える。

「民主主義は最悪だが現実的には一番マシだ」ということばはまったくその通りであって、同様に「資本主義は最悪だが一番マシ」である。
僕はマルクス主義者ではないよ。さっきの「会社のため」と「家族のため」の話と同様に、マルクス主義が描くユートピアがどれだけ素晴らしいものであっても、そんな目的のための手段として現実化された(はずの)中国や北朝鮮は最悪だ。(マルクス主義の一番の問題というのかその誤りは、来るべき世界の理念(目的)と現実(手段)について、唯物弁証法などと言う(マルクス主義者自身が嫌う非科学的な)無根拠な絵空事で論じたことであると僕は思うのだけれど、その話は長くなるのでここでは書かない)

でも、資本主義などと言うのはせいぜい「一番マシ」にすぎなくて、現代を考えれば資本主義の駄目な部分ばかりが噴出している。
資本主義の原動力は人間の欲望で、それはいくらでも膨らませることができるけれど、されど地球の面積は変わらないし、質量保存の法則的に、モノの総体は増えない。
すると人間は、モノではなくコト、情報に値札をつけることを思いつき、さらに、モノやコトの値札自身に別のメタ的な値札を貼り付ける金融工学を思いついて、世界中の実質的な価値以上の、単なる数字だけのお金を莫大に流通させてしまった。

これこそ、資本主義の末期だと僕は思う。
サブプライムローンにしても欧州危機にしても、やるに事欠いて「値札の上に違う値札をつける」、つまり債権の証券化とか不動産の証券化とかしちゃった結果だ。これは、資本主義としては避けられない選択であったが、それが資本主義自身を滅茶苦茶にしようとしている。

会社の話だった。

会社は、資本主義になくてはならぬ存在だ。
人は欲望のために投資をするわけだが、個人に投資をしても彼が死んでしまったら終わりである。ところが会社というのは社長が死んでもなくならない。会社とは資本主義の必然的要請である。

するとどういう考え方になってしまうのか?
資本主義を認める限り、「会社」とは必要な存在、だから良い存在、という具合にみんな考えてしまうというわけだ。

たとえば、反原発の我々が推し進めたい太陽光発電にしたって、パネルを作ったり設置したりする会社がなければ成り立たない。なので、そういう会社に投資するのは良いことだ、ということになってしまう。
ところが、すでに太陽光発電会社投資詐欺みたいな事件は起きているが、今後は「太陽光」の美辞麗句に隠れて、従業員をこき使い過労死させてもしらっとしているワタミのようなブラック企業が必ず現れるはずだし、それが「儲かる」となれば禿鷹ファンドも参入してくる。

まあ要するに、銀行であれ軍事産業であれ再生可能エネルギーであれ、会社は所詮会社だということだ。

組織というのは不思議なことに自己目的化するんだよね。まるで生き物のように。会社なんて単なる概念に過ぎなくて「意志」はないはずなのに、その構成員や社会がそこに「意志」を持たせてしまう。
そうなると、「会社のために働く」という倒錯した価値になんの疑問も持たない連中が再生産されてしまって、それが、ひたすら現状維持の力として働く(間違えてはいけないのは、「改革」を叫ぶ一見新しい資本主義者こそが、じつは資本主義「現状維持」の一番の旗振りだということだ)

酔っ払って文章が乱れてきたなあ。

これだけは言っておかなければならないのは
「会社は必要悪」
だということである。
人生においても。世界においても。

会社を立ち上げたいという若い連中も多いらしい。ビル・ゲイツとかスティーブ・ジョブズになりたいという。
それに水を差す気はないけれど、少なくとも『半沢直樹』に出てくる人たち以上に、人を傷つけ、蹴落としていかなければ資本主義で勝つことはできない。

そして話は最初に戻るね。
僕は最終回を含め2回しか見ていないし原作も読んでない。なので勝手な想像だ。

主人公半沢直樹は、信頼してきた北大路欣也頭取に、最終回の最後の最後で切り捨てられた。
大和田常務(香川照之の芝居、良かったなあ…)を倒したものの、敵はさらにその上にいたのである。
では続編で、北大路欣也頭取を倒したらどうなる? 次は大臣か?

結局のところ、最終的な半沢直樹の敵は「システムそのもの」なのである。
と同時に、ここが重要なのだけれど
システムを構成する己自身こそが、最後のボスキャラであるはずだ。

これは、半沢直樹に限ったことではない。銀行員に限ったことではない。会社員や公務員に限ったことではない。僕のような自営業も、フリーターも、主婦だってそうだ。
半沢直樹が持ち続けようとした彼の「正義」を阻むのは、香川照之でも北大路欣也でもなくシステムそのものであり、それを支える自分自身なのである。


おっと。
ちょっとかっこよく終わってしまったよ。

関係ないけど、黒澤明監督の『デルス・ウザーラ』は、劇場公開された1975年に見に行った。
小学生だった僕には荷が重い映画だったが、それでも『怖かった絵本』のように、何十年も僕の記憶の中に残っていた。
かなり前にビデオ発売されていたのだがそれを知ったのは廃番になったあとで、ヤフオクでVHSを手に入れたのが15年くらい前だろうか。

昨日TSUTAYAに行ったら「発掘コーナー」みたいなコーナーにDVDが並んでいたのだ。

これから見てみよう。
名作だ。
もしもこれから見てみようという人がいれば、Wikipediaには
「原始的であるはず」のデルス・ウザーラの生き方は、結果的に「文明化された」ロシア人に、人生の意味などの興味深いことを数多く、シンプルかつ的確に示唆した。
と書いてあるが、まあそんなモチーフは誰が見ても一目瞭然なので、それ以上に僕としては、「善」とは、「善意」とはどういうことなのか、という視点で見てもらえたらなあと思う。

半沢直樹は果たして「善」なのか?