無意味に耐えられないのを「馬鹿」という。 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

無意味に耐えられないのを「馬鹿」という。

せっかく「哲学とロックンロールと反原発」を謳うブログなのだから、ときどきは哲学の話をしようと思う。

「哲学」は難しい。
しかしここには大いなる誤解があって、「難しいことばを使って難しい」と思う人がいる。
確かに、哲学史やそれぞれの哲学者の考え方を熟考したいのであれば、日常言語では使わない「難しいことば」が必要になるだろう。
でも、「難しいことば」をこねくり回すのが哲学、と考えているのであれば、それはまったくの間違いだ。

「哲学する」ときに必要なのは「伝わることば」である。

哲学とは「考えること」そのものを問うことであり、そのために必然的に、我々が考えるベースである「ことば」を問う。
だから、「人間」とか「心」とか「社会」とか「世界」とか、我々が普段使っていることばを問い直すことはある。
だけどね、「現象学的還元」なんていきなり言われても知らない人には通じないが、「人間」と言われればわかるでしょ。
そんな「伝わることば」が第一歩。
そして、「人間」ということばを投げかけるのは、「人間とはどういうことか」を問い直すことでもある。

我々は「哲学史家」や、「某哲学者」のファンではない。誰が何を言ったとか、そんなのはどうでも良い。
「伝わる」ことばを使いながらもなおかつ「ことば」そのものを、すなわち「考えるということ」そのものを問い続けること。
それが哲学である。

ええとね。
この前文はかなり酔ったあとに書き加えているのです。
以下、書いちゃったので面倒臭いから直さないけれど、「ウィトゲンシュタイン」と言う固有名が出てきますが、そこは「お隣の伊藤さん」にでも置き換えてスルーしてね。

そして、やっと本文だ。

人生に意味などない。
別に厭世的になって言ってるんじゃないよ。すべての人はやがて死ぬし、種としてのホモサピエンスは滅び、地球も消える。
たかがひとりの人間が何を為そうと、結局は意味などない。
これはまず、認めざるをえない。

ていうか、もっとはっきり言えば、死は端的な「無」であり、我々は単に「無」に向かっているだけであって、それを超越した意味などどこにも存在しようがない。

ところが逆に、死や宇宙の消滅も踏まえて、それでも私が、あなたが、今、ここで、生きていることは素晴らしい、という考えももちろん正しい。

ウィトゲンシュタインは「世界は<私>の世界である」(論考5.63)と言ったが、その通りというのか、「世界」は「<私>の世界」でしかあり得ない。
これこそが「世界」の唯一の存在の仕方であり、同時に<私>の唯一の存在の仕方でもある。

これはものすごい事態である。
お父さんの何億もの精子の中から唯一卵子と結びついたからこそ<私>が存在するのがすごい、というわけでは決してない。同じ意味で、たとえば、もしも平安時代のなんとかさんとなんとかさんがセックスしていなければ<私>は存在しなかったとか、いくらでも言えるのだけれど、その意味での「すごさ」は、大雑把に言えば「世界が私を存在させた」というということだが、まったく逆に「私が世界を存在させている」という「すごさ」がある。
これこそが、当たり前のように見えて、よく考えれば一番のびっくりポイントである。

ここで不思議なのは、ウィトゲンシュタインの言う<私>は、僕の言う<私>とは違うのに、僕がその意味を理解できてしまうことであるし、理解できるのはきっと僕だけではないことも確信されることである。(哲学で言う「他者」とは単なる他人のことではなく、この意味で「<私>の特殊性と普遍性」を理解したとき認めざるをえない存在のことである)

だからこそ、私が、あなたが、今、ここで、生きていることは素晴らしい、といえる。
けど、やっぱ人生に意味などない。

と、まあいずれにしても、<私>も、「世界」も、このように完璧に相容れない二重の意味を抱えている。

これはもちろん、「ことば」や「文法」の問題でもある。
しかし、「それが指し示す本来の意味、本質」があるからその「ことば」ができたのでは決してない。←ここは絶対に間違えてはいけないのだが、たとえば「愛」の本質(とか概念とかと言っても良い)が最初にどこかに存在しているから、それに対応する形で「愛という(人間の)ことば」ができたのではない。
ことばは「本質」を持たない。要するに、みんながそう使っているうちにそんな意味になった、というだけの話である。
だからこそ単純に「そんなのことばの問題だ」とは言い切れないのである。
(このあたりは説明不足であるが面倒なので先を急ごう)

でね。

「人生は無意味」であるし、かつ、「無意味だからこそ意味がある」。
まずはその矛盾を引き受けなければならない。

普通は、「Pであるか、またはPでない」というのが、真なる(正しい)命題であるように思われる。
「鹿島潤(僕だ)は、人間であるか、または人間ではない」というのは、鹿島潤が何者であっても正しいし、そもそも鹿島潤が存在していなくとも正しい。
これを「排中律」(P∨¬P)といって、昔からの論理学(古典論理学)では疑いなどかかけようもない大原則であった。まあ世の中、だいたいがそうであることは事実だろう。
だけど、たとえば「無限」や「無」をどう考えるかによって、果たしてそう言い切れるかということになるわけだ。

つまりね、「すべてに真偽がつけられる」なんて横暴だ、ということだ。
「神が存在する」とでもしない限り、そんなこと言えないんじゃないのではないか。
数学は「無限」を定義しているけれど、それは勝手にそう決めただけであって、誰かが「無限を見た」とか「無限を知っている」からではない。単に「無限が存在する」と措定したほうが上手く行くから人が勝手にそうしただけ。それに対して真偽云々を言える筋合いではないのだ。
大雑把に言ってしまうけれど、「無限」や「無」と言った、人が勝手に作り出した概念に基づいて計算とかされたいかなる結果も、「人が勝手に作り出した」というこのゲームのルールを超えて「真偽」を問うことなど不可能なのである。

さっきも書いたけれど、「本質」が先に存在して、それに従って「ことば」があるのではない。(もしそうだとしたら、「ヤバい」ということばが「危ない」のようなネガティブな意味から「すげえ」のような意味に変わってしまったことを説明できない。「本質」が変わったことになってしまうからだ。そんなふうにコロコロ変わるのを「本質」とは言わない)
論理とはすなわち「ことば」であるから、これもまったく同様だ。

「人生は無意味であり、かつ、そこには究極とも言える意味がある」
これを認める、どっちも受け入れる。
人生を考えるにしても世界を考えるにしても、これがまず大前提。

もちろん、こんな話は日常的にするものではないし、この問題をストイックに考え抜くなんて言うのはかなりの変人だ。
だけど、多くの人が、ぼんやりとかなんとなくではあっても、人生が無意味であることと無限の意味を持っていることの両方を感じながら、どこかでバランスをとって生きているのではないかな、と僕は思っている。

で。
ここからが本題。

排中律に縛られた人、すなわち「Pであり、かつ、Pでない」を認められない人。
これぞ本物の馬鹿ではないか、と僕は思うのだ。

「Pであり、かつ、Pでない」を認められない、というのは、一見、論理的に思える。
ビジネス書はだいたいがくだらないが、なかでも特にくだらない「論理的な話し方」ハウツウみたいな本が売れている。
ロジカル(論理的)に話をしてビジネスを進めましょうというわけで、これは別にいいのだけれど、だけど言ってしまえばこんなもんは小学校か中学校で習う「A=B、B=C、ゆえにA=C」の三段論法レベルで、とりたてて拝め奉るに値しない。
そんなことよりも、その程度の論理で世界が成り立っていて、世界を説明できる、世界を動かせるなどと、思い上がってしまうのが馬鹿だと言いたいのだ。

「その程度の論理」と書いたが、「論理」を「科学」や「経済学」に置き換えても同じだ。科学や経済学は実証性を伴わなければ意味がないが、それでも「論理」で構築される。それゆえ「論理」に関する信念、たとえば「論理」は「本質」から導き出されているなどという宗教的信仰でモノを言う連中は、ほんとうに浅はかだと言わざるを得ないのである。
もちろん、優れた科学者や優れた経済学者はそんな馬鹿を言わないのだけれど、「神の見えざる手」を無根拠に信じて自由主義経済の正当性を語る奴など、馬鹿は後を絶たない。

要するに「馬鹿は無意味に耐えられない」のだ。
だからこそ、どこかで読んだり聞いたりした、自己正当化してくれる意味を声高に叫ぶのだ。

この場合の意味は、自分の外側に存在しなくてはならない。なぜならば、自分の内側からの意味づけでは、「お前が勝手に言ってるだけじゃん」と反論された場合に返すことばがない。
だから、「論理的な正さ」とか「本質的な価値」とか「市場の公正な機能」とか、まあそんな戯言を言う。
でもこれは、言ってる私とは別にどこかに「本質的な存在」もっと言えば「絶対的な存在」、「客観的なモノサシ」が存在しなければ成立しないロジックであって、そのような存在を仮定してしまうという時点で、要するに単なる「宗教」だ。

「人生は無意味である」かつ「人生こそ意味がある」
「世界は無意味である」かつ「世界には無限の意味がある」

世の中的、常識的な「排中律」は否定されるけれど、それでもこれらの一見矛盾したテーゼを受け入れなければならない。

しかもこれは、「考えの帰結」ではなく、「考えの出発点」である。

語り得ぬものについては沈黙しなければならない。-chama
家のちゃま。

もう年寄り猫だし避妊手術もしているのだけれど、その前に仔猫を産んだこともある。
youtubeで仔猫がお腹を空かせてみゃーみゃー鳴いている動画があって、ちゃまにその音を聞かせるとものすごく反応する。
どこかに仔猫がいるのではないかと探すのだ。にゃあにゃあ鳴いてそこら中を匂いまくる。
だけど、どれだけ探しても仔猫はいないので、やがて探すのをやめてしまう。

我々人間のことばで言うと「ちゃまは間違った」ということになる。
「仔猫がいる」と思ったのに実際はいなかった、というわけだ。
スマホで鳴らしたyoutubeの音を聞いて「仔猫がいる」という信念を持ったわけだが、その信念は「偽」であった、ということだ。

「信念」とか「偽」とか、面倒臭いことを言うなあと思う人もいるだろう。だけどこれは大げさな言い方ではない。
夜、ひとりで暗い林の中にいるとしよう。そして、「人影が見えた」と思ってそっちに行ったら木の葉が揺れただけであった、としよう。
彼(人間)は「人だ」と思って探しに行ったがそれは「偽」だったのである。わざわざ面倒臭いことばを使ったが、じつは誰もが、「信念」や「真偽」について、「ことばにすれば」そう考えているのである。問われればそう言うだろう。

ところが、ちゃまの場合はどうか?
ちゃまは「仔猫がいる」という信念を持ったのではない。猫であるちゃまの頭のどこをどう叩いても「信念」なんて言うことばは出てこない。
それどころか、「仔猫がいる」という命題自体、ちゃまは考えていない。猫だからね。人間のことばで考えたりなんかしない。
だからこそ、それがじつは「偽」だった、なんて言うこと自体考えられない。

要するに、ちゃまには「真偽」なんて関係ない。猫はそんな概念を持っていない。
「探すのをやめた」のは「仔猫がいるというのは偽だ」と判断したからではない。
判断以前に、「飽きた」とか「疲れた」のかもしれないし、それよりさらに以前に、「真偽」はもちろん、「飽きた」とか「疲れた」とか、猫がそのような「擬人化された思い」を持っている、と考えるほうがおかしい。
そもそも、仔猫を「探して」いたのかすら、我々が勝手にそう言っているだけなのである。

酔っ払って書いてしまったけれど、猫の話を突っ込むと面倒臭いからもうやめます。

「ことば」とは、すなわち「論理」とは、すなわちそれに立脚したすべての「学問」、すべての「思想」とは、所詮そんなもんだ。
猫を勝手に擬人化して「真偽」や「善悪」をつけている。その程度のものだ。
それを超えるような真理は、原理的に「語りえない」。
そこだけははっきりさせておかなくてはならない。
そして、繰り返すけれど、これは「帰結」ではなく、「出発点」である。すなわち議論の「前提」である。

その前提に立てないのを「馬鹿」と言う。

計算が速いとか漢字や年号をよく覚えている人を「頭良い」というのはまったく嘘で、すなわちその基準を適応すればパソコンのほうが彼らよりも頭が良い。
それに対して、原理上コンピュータが決して理解できないことがあって、それが「完全な無意味」である。まあそんなことが存在するのかどうか僕にはわからないのだけれど、少なくとも「無意味」を認められないなどというのは百均で売ってる電卓以下の馬鹿であり、試験に合格して一流大学に入ったり、一流企業や国歌公務員になったり、要するに、偉くなればなるほど、「無意味を認められない自称他称天才」は「有害な馬鹿ども」ということになる。

酔っ払ったよ。

古今東西の哲学者は何百ページ何千ページという著作を遺しているが、もしも僕にそれだけの才能があったとしても駄目だろうな。ないけどさ。
アル中(20世紀後半に「依存症」と言い方が変わった)哲学マニア。

じゃあね。