なぜ「廃炉」などということばを無責任に軽々しく使うのだろうか? | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

なぜ「廃炉」などということばを無責任に軽々しく使うのだろうか?

さっきNHKのニュースを見ていたら、福島第一原発敷地内に取材に入ったという映像があった。
当然のことながら、まだまだ深刻な事態なのは変わりない。
敷地内に溜まり続ける汚染水を巨大なタンクに入れているが、どれだけタンクを増設してもあと2年半で満タンになるという。で、その後どうするかは政府にも東電にもなんの見通しもない。
みたいな話。

案の定、現政権や役人、電力関係者どもなどはすべて先送りにする気でいるみたいだ。核廃棄物の問題と同じで、「そのうちなんとかなるでしょう。まあその頃は私は引退してるから」というわけだろう。
ていうかさあ、本来は水を循環させて原子炉を冷却するというシステムのくせに、地下水や雨水がどんどん入ってくるから汚染水が増える。地下水が入るというのはつまり、建屋に穴が空いているからであって、すなわち、NHKでは言わなかったけれども、穴の空いた原子炉(圧力容器・格納容器)やもしかしたら溶けた核燃料も、地下水と直接接しているわけだ。

福島第一原発にはそんな深刻な問題がたくさんあるわけだが、ここではちょっと違うことを語ろうと思う。

「廃炉に向けての取り組み」
↑ということばが、NHKでもさんざん使われていた。

廃炉?
なぜそんなことばを無責任に軽々しく使うのだろうか?
「廃炉まで40~50年かかるのです」とか言っている。
それを聞いた人は、「え? そんなにかかるの?」と思うかもしれない。
原発の地元の人は50年間も帰れないのか…と思うかもしれない。
でもさあ、「廃炉」っていったい何?
そんな甘いもんじゃないのです。

廃炉というのは、原発を全部取っ払って、更地にすることである。
もちろん、放射性物質を置き去りにしたりはしない。原発が建てられる前の、綺麗な更地に戻すことである。
少なくとも、この半世紀、日本の原発関係者のあいだで「廃炉」とはそのような意味で使われていたことばであった。

ところが、福島第一原発を更地に戻すなどと言うプランは、ほぼ考えられない。
未だに、1~3号機の溶けた核燃料がどうなっているのかもわからない。土の中にめり込んでいるかもしれないし、あっちこっちに飛び散っているかもしれない。
そんな原子炉をもしも解体することができたとしても、じゃあそれをどこに持っていくの?

チェルノブイリでは「石棺」といって、原発自体をコンクリートの箱で覆った。それ以上手がつけられないからだ。
だけど、そのコンクリートも劣化し、さらにその外側を第二石棺で覆うことが決まっている。これから20年も経てば第三石棺が必要になるだろう。20~30年ごとに以下同様だ。

原発をコンクリートで覆ってしまおう、などというのは「廃炉」とは呼ばない。
僕は原子力の素人であるけれど、この二年間いろいろ学んできた中で、正直「石棺」方式しかないだろうと思っている。ていうか、それよりマシな50年後の姿を具体的に示せる人がいたら教えてほしい。

「廃炉」というと「それですべて終わり」的なイメージがあるが、現実には50年経とうが100年経とうが、そこにはコンクリートの巨大な棺が残り、周囲何十㎞かは人が住めない地域になる。
それに異を唱えるのであれば、さっきも書いたけど、何をどうして具体的に50年後にはどうなるのか、示して見たまえというものだ。

要するに、「廃炉」なんて言うのは、ことばの意味を意図的に変えているのである。
あるいは、政治家や報道関係者としてあってはならない「無知」である。

「廃炉なんていうのは専門用語なんだから、一般の人にはイメージだけ伝われば良いじゃないか」という人がいるかもしれない。
だけどさ、「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」っていうことばをはじめて聞いた人は、「我々が日常的に目にする(ニュートン力学的な)物理法則が「一般」なんだろう」と思ってしまうわけだ。でもそうじゃない。
つまり、専門用語こそ誤解のないように使わなくてはならないのである。

「冷温停止」のときもそうだった。
2011年の秋頃だったっけ、政府が福島第一原発原子炉の「冷温停止」ということばを使い始めた。
「冷温停止」というのは、健全な原子炉の中で冷却水が100度以下に安定しているということである。つまり、穴が空いた原子炉のどこか一部の水温計(壊れているかもしれない)が100度以下を示したって、それは、冷温停止とは呼ばない。
そんな批判が相次いだ結果、政府は「冷温停止」じゃなくて「冷温停止状態」と、「状態」の二文字をくっつけた。
この、うんこのような欺瞞ぶり。
(挙げ句、当時の首相、野田佳彦は2011年12月に事故の「収束宣言」をしたわけだが、もしもほんとうに事故が収束したのであれば「緊急時の放射能の許容基準」を撤回し、法令で定められた通常時の基準、すなわち「一般の人の被曝は年間1mSvまで。年間5.2mSvを超えるのは放射線管理区域」という規則に従うべきなのに、「20mSvまでは子どもや胎児でもほとんど問題ない」と言い放った)

「ことばの意味を変えて、人を欺く」
じつに卑怯なやりかたである。
ぼったくりキャバクラとかがそれに似た手を使う。
「2000オールで飲み放題」と言って客引きし、勘定のときになって20万円請求する。文句を言うと、「女の子の飲んだ分は別」「チャージは別」「ボトルキープは別」などという。
同様に「廃炉」も「冷温停止」も「収束宣言」も、およそ原発事故関連で発せられる「もう大丈夫」「いずれ大丈夫」的な言説は、ぼったくりキャバクラ並みだと言うことだ。

要するに「ルールの否定」だ。

「ルール」というと、法律とか慣習を思い浮かべる人が多いかもしれないけれど、で、僕も禁煙の公道でこっそり煙草吸ったりもするけれど、それだけじゃない。
「ことば」こそ、いちばん大事なルールである。
それがなければ法律だって成り立たない。
(もちろん、ことばに「僕らが生きているこの現実世界を超えた普遍的な理念」とかがあるわけではない。時代によって、あるいはそれを使う集団によって、そのことばは違った意味で発せられる。だから、「廃炉も冷温停止も俺たち的にはそういう意味で使ったんだ」と開き直ることも可能だ。だけどここでは、そんな厳密で(哲学的な)議論の余地はないだろう(してもいいけど面倒臭いので今は嫌だよ))

いずれにしても、「ことばのインチキ」とは「ルールの否定」であり、それはまさに「社会性の否定」である。
政治家やマスコミがそれを承知で使っているのならあっぱれだ。一杯やりながら話をしよう。もしかしたら友達になれるかもしれない。
だけど、そうでないのなら「嘘つきは去れ」である。
たかが「廃炉」や「冷温停止」という「ことば」の問題だと思ってはいけない。
嘘をつく政治家やマスコミは、犯罪者と同じだ。

あ、そうだ。

「てつがくカフェ@ふくしま特別編3」が、3月10日に開催されます。

語り得ぬものについては沈黙しなければならない。-てつがくカフェ@ふくしま特別編3
http://blog.goo.ne.jp/fukushimacafe/e/1e736cd3ea0a9ad124c6e357c74ad0a6

僕も参加予定。
ぜひどうぞ。