役に立たなくて何が悪い? | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

役に立たなくて何が悪い?

無意味なものが永遠に。
(フリードリッヒ・ニーチェ『力への意志』)

図書館に行ったというのは昨日書いたけれど、そうしたら哲学の棚に『超訳 ニーチェの言葉』が3冊もあった。
僕が行ったのは中目黒駅前図書館なのだけれど、目黒区の区立図書館は全部で8つある。
てことは、目黒区はこの本を20冊以上買ったのか? 売れた本だから予約やリクエストも多かったのだろうけど…。と、調べてみると案の定22冊。
あちゃちゃちゃあ…。

そうですよ、僕はこの本読んでませんよ。だってこんなの読む気しないもん。ぱらぱらめくってみたら「友情」とか「人間関係」みたいな項目に従って、お手頃にニーチェのことばが並べられている。これじゃあまるでハウツウ本ではないか。

もちろん、ニーチェから処世術を学ぶ人がいてもまあ別にいいんだけどさ、なぜに人々はこうも「役に立つもの」を欲しがるのだろうか?

そんなわけでまずは一冊、『超訳~~』の対極であろう、とっておきのニーチェ入門書を挙げておこう。
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私は、これまでニーチェについて書かれた多くの書物に不満がある。それらはたいてい、ニーチェという人物とその思想を、何らかの意味で世の中にとって意味のあるものとして、世の中の役に立つものとして、描き出している。私には、そのことがニーチェの真価を骨抜きにしているように思える。ニーチェは世の中の、とりわけそれをよくするための、役に立たない。どんな意味でも役に立たない。だから、そこにはいかなる世の中的な価値もない。そのことが彼を、稀に見るほど偉大な哲学者にしている、と私は思う。

僕は、永井均さんのこの序文を読んだとき、大いにシビレまくった。
10代で初めてニーチェに接した頃から、その入門書はいろいろ読んできたのだが、どれもいまひとつピンと来ない。
これは、入門書の著者がどこかでニーチェの「ファン」であるからだと思う。
ファンは彼に惚れてはいるが、血みどろで差し違えるほどの覚悟はない。修羅場になったら「自分が死ぬからニーチェには生きてほしい」と思っちゃったり。
ていうか、ニーチェが大好きなもんだから、どこかで「+(プラス)」の評価をしてしまう。ニーチェを世の中にひろげたいから、彼の思想や人物から、現代に通じる教訓を見つけようとかしてしまう。

ところがどっこい、+(プラス)であろうと-(マイナス)であろうと、そういった「世の中的」な評価をした途端、まさしくそれこそがニーチェの哲学の宿敵なのだった。
(マイナスの評価というのは、たとえばニーチェの思想はナチズムとつながっているみたいなものがある)

永井さんの言うとおり、ニーチェの哲学は「どんな意味でも役に立たない」。「いかなる世の中的な価値もない」。

まさにあっぱれ。
だからこそ、気高く、しかもチャーミングであるのだ。

ニーチェのことばを教訓や処世術だと思うのは勝手だが、だったら「ことわざ辞典」でもお読みなさい。きっと役に立つ。

ていうかさ、たかだか「役に立つ」くらいのことを、どういうわけだか多くの人が「一番大事なこと」のように思っている。

「役に立つ」というのは、「なにかの」役に立つと言うことだ。
時間の節約に役立つとか、金儲けに役立つとか、就職に役立つとか、そういった「目的」のために役に立つのであって、なんの目的もないのに「役に立つ」とは言わない。
つまり、「役に立つ」というのは、目的論的な考え方である。
それを突き詰めていくと、結局、人生や社会になにか目的があるような考え方になってしまう。
そしてそういった考え方は、宗教と呼ばれている。

今の日本人の多くは無宗教だから、「役に立つの究極は宗教」なんていうと「えええええ!」となるに違いないし、まあこれは大袈裟と言えば大袈裟なのだけれど、「一番大事なのは役に立つことだ」という考えの中には、自分で気付いていなくともそういった宗教ぽい目的論的な人生観世界観がこっそり紛れ込んでいることだけは自覚したほうが良い。

まあさあ「役に立つ」っていうのはわかりやすいんだよね。
震災のあと、多くの日本人が「被災者のためになにか役に立ちたい」と思った。もちろん僕もそうだ。だから支援物資の手伝いとかも一生懸命やった。
でも、役に立ちさえすればなんでもかんでも手放しでオッケー、というわけじゃあない。

政治家や役人は悪人だらけで自分の利益のことばかり考えている、というのは半分真実だと思うけれど、中には「ほんとうに国のため、国民のため役に立ちたい」と思っている人もいる。
で、「そのために原発は動かすべきだ」という理屈になってしまう人もいる。
すると我々反原発は、「いやいやそうじゃないんだよ。今もしも、経済成長に役に立ったとしても、100万年有害な核のゴミはどうするのよ?」とか反論してしまう。あるいは「原発のコストはじつはものすごく高い」とか「放射能でこれだけの被害が出る」とか言ってしまう。

もちろん原発の議論をするときにはそれで良いのだけれど、そのときは自分も「役に立つ論争」の土俵に上がってしまっているのだというのはわきまえたほうがいい。
どこかの局面で、「役に立たなくて何が悪いの?」と言えなければ、結局は資本の論理、システムの論理に巻き込まれてしまう。

ええとですね。
「ええと」という接続詞を使いすぎる傾向があるので「ええとですね」と言ってみたのですが、昨日、『ニーチェの馬』という映画のDVDをTSUTAYAで見つけて「タイトル借り」してしまったのですね。
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原題には「ニーチェ」ということばは入っていないし、彼の物語でもない。
ニーチェがトリノの町で鞭打たれる馬を見て発狂したという有名なエピソードをモチーフにした映画、というわけだ。
ひたすら暗い2時間34分。
「ハッピーな映画が好き」な人は見ないほうが良いよ。きっと寝るし、もしも眠れなければとことん沈んだ気持ちになること請け合いだ。
まさしく、「まったく役に立たない」映画。
でもだからこそ、素晴らしい。
「無意味なものが永遠に」ということばが、ずうっと僕の頭の中を駆け回っていた。

あ~疲れた。
飲んでも酔いが回らずに血の気が引いていく嫌な状態。
寝ます。