「原発推進」の屑議論と、「反原発」の無根拠 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

「原発推進」の屑議論と、「反原発」の無根拠

この前もちょっと書いたけれど、『ウィトゲンシュタインVS.チューリング: 計算、AI、ロボットの哲学』という本を読んでいる。
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ていうか2/16のブログで「昨日から読み始めた」と言っておいて、まだ半分しか読んでいない。
数学や論理学の話が僕には難しすぎるのだった。
論理学で勉強したのは基礎の基礎だけ。数学に至っては高校で放棄したから二次関数までしかわからない。
そんな人間(僕)が、ウィトゲンシュタインという天才哲学者が提示した数学の基礎、というのか、そもそも数学とはなにか、という問題に挑んでいるのであった。

無謀と思われるかもしれないけれど、じつはそんなでもない。実際僕がこの本を読んで理解しているのはたぶん四分の一くらい。あとはなんとなく。
まあ、いつでもそんなもんさ。

で。
哲学と数学というと水と油のように思う人もいるかもしれないけれど、じつはかなり近い。
「0(ゼロ)」や「∞(無限)」を考えてみればわかる。ものすごく雑で簡単な言い方をすれば、どちらも数えられない。どちらも僕らは見ることができない。

テーブルの上の1個のリンゴ、2個のリンゴ、3個のリンゴ……1億個のリンゴとかなら、僕らは見ることができるが、「無限のリンゴ」はどうやったって(というのか定義上)見るのは不可能だ。
また、何も置いていないテーブルを見ても、それは「0個のリンゴを見た」ことにはならない。

つまり、「0」や「∞」というのは、実体験不可能な概念なのである。
見えない、実体験不可能なのに考え出された、要するに机上の概念。
ところが、「0」や「∞」なしでは現代の数学は成り立たない。
で、ゼロや「無」あるいは「無限」というのは、誰でも察するとおり、じつに哲学の問題でもあるのだ。

半分しか読んでいないので想像だけれど、この本に書かれているのは、「機械は計算するのか?」と言う問題。僕的に言うと「電卓は考えているのか?」というような話。

算数や数学の試験問題を解いているとき、僕らは確かに「考えている」ように思える。
でも、電卓に計算式をいれたとき、電卓は「考えて」答を出すのだろうか?

もし、電卓が「考えて」いるのだとすれば、その類推で、きっとコンピュータも「考えて」いることになろう。それならば、「人間と同様に考えるコンピュータ」も可能であろうし、性能が高くなれば人間から独立してコンピュータがひとりで、もっともっとすごいことを「考える」に違いない。

でも、電卓が「考えて」いないとすれば、現代のコンピュータだって「考えて」はいない。単なる物理現象としてコマンドを処理しているだけだ。そこには「考え」はもちろん、「気持ち」なんかあるはずがない。
(「気持ちも物理現象だ」と主張する人に対しての反論は長くなるのでここでは書かない)

ところが、コンピュータが進化すればそれはやがて感情や気持ちも持つ、と考える人もいる。
僕はそれは、端的に不可能だと思っている。
技術の進歩の問題などではなく、少なくとも今のコンピュータの延長線上では、原理的に無理なのだ。(量子コンピュータでも無理)

ていうような話。
たぶんこの本の後半は、そんな問題になるのだろうと思う。

おっと、それを言いたかったわけじゃない。
ここまでは導入部分なのであった。
いつものことながら導入が長く、それ以降が短くなる。
なぜならば酒を飲みながら書いているので、最初は丁寧に書こうとするけれど、だんだん面倒臭くなるからであった。

僕はここまでの文章の中で、あえて「考える」とか「気持ち」とかのことばを何気な用法で使ってきたけれど、よく「考えて」みれば、「考えるってなに?」「気持ちってなに?」ということがとても大きな問題なのであった。
だって「電卓は考えているのか」という問いは、「考えるというのは~~~ということである」という概念規定次第で、イエスであるともノーであるとも、いくらでも言えてしまうではないか。

この次元で話がこんがらがる。

以前のブログで「僕は彼女を愛しているのだろうか? それとも彼女に恋しているのだろうか?」と悩む若者のことを書いた気がするけれど、もしも「愛とは~~である」「恋とは~~である」ということがはっきりしているのであれば、それに照らし合わせて、自分の気持ちは愛なのかそれとも恋なのかをジャッジできるだろう。
ところがね、「愛とは~~である」「恋とは~~である」というような絶対的な定義は端的に存在しないのであった。
ゆえに自分の気持ちが愛なのか恋なのかは、ジャッジできない。
「愛なのか恋なのか」と問うこと自体が、間違っているのである。

とまあ、若者の愛や恋についての議論であれば「そこまで厳密に言わなくてもいいだろ」と怒られるかもしれないけれど、「電卓は考えているのか」「コンピュータは考えるのか」「コンピュータに気持ちはあるのか」と言うような問題はそうもいかない。まさに、厳密な議論を積み重ねていかなければならない問題だ。

「考える」や「気持ち」などのことばがどういうことか「考え」もしないで、「近い将来、コンピュータは自分で考えて、気持ちや感情を持つようになる」などというのは、小学校低学年の夢想レベルで、まるでお話にならないのである。

またまた「導入部分その2」になってしまった。

言いたいことはこうだ。

議論であればできる限り厳密にしなければならない。

厳密というのは、ここまで言ってきたように概念規定をちゃんとやる、と言う意味でもあるし、それだけじゃなくて、たとえば安倍晋三が「経済成長戦略」を打ち出したとき、「安倍晋三のやり方では経済は成長しない」と反論することではなくて、「経済成長を是とする考え方ってそもそもどうよ?」と問うようなことである。

つまりこれも、ことばの意味、概念規定(「そもそも考えるって何?」「愛って何?」)を問うのと同様の、「そもそも論」だからだ。

「そもそも論」を踏まえないような議論は、「そもそも」まるっきりの屑議論、ファックであって、僕は酔っ払ってもう眠いので話を強引に進めるけれども、僕の知る限り原発推進論のほとんどすべてがファックである。
今夜はじつは、この話を具体的に書いて、原発推進議論の駄目っぷりを笑ってやろうと思っていたのだけれど、飲み過ぎたからやめた。

ただ、ここは大事な点なので書いておこうと思うのだけれど、一方の「反原発」の「そもそも論」も甘すぎるように思えてならない。
たとえば「経済よりも命が大事」というのは、ほとんどの人が否定しようのないスローガンで僕もまさしくそう思うのだけれども、反原発デモでそんなプラカードを持った人の大部分は、それに対して「なぜ?」と問われたときの答を持ち合わせていないように思える。

念のため言っておくけれど「経済が発展しないと餓死する人とかが出て結果的に命が粗末にされる」というような下衆な意味ではないよ。
もっともっと根本的な「そもそも論」だ。
「なぜ、経済よりも命が大事なの?」と問われたとき、「だってそうに決まってんだろ!」と逆ギレするのではなく、きちんと答えられるだろうか? 「命っていうのは世界で一番大切なものなんだよ」などという、無根拠な答をしてしまわないだろうか?

「そもそも論だとかじゃなくて素直にそう思うだけ」というのはわかるし、僕はそういう人たちを応援するわけだけれども、「素直にそう思うだけ」という意味においては、「経済的に豊かになることこそが幸せだ」と「素直にそう思う」人たちと同じレベルである。反原発で正義の旗を振る人こそ、議論においてはそこをしっかり自覚すべきだ。

もちろん「そもそも論」を持ち出すまでもなく、原発推進論などと言うのは破綻しているわけだけれども、もうすぐあの日から二年を迎えようとしている今、運動論や社会思想論だけではなく、哲学的な「そもそも論」をきちんと考えたいと僕は思っている。

酔っ払ったなあ。
午後6時~8時は生ビール半額という謳い文句につられて午後8時直前からダッシュで生ビールを飲み、その後帰宅してからも8時間以上延々飲み続けているせいだ。
じつはいろいろあって、年明けからほとんど外で飲まない。昨夜もそうだけれど、ときどき徒歩10分圏内で軽く飲むくらい。馴染みのお店にも全然行ってない。
鹿島は元気です。ご無沙汰してしまって申し訳ありません。

まあとにかく、人の考えというものは、その人がひとりで一から産み出すものではない(そもそも、ことばというのは彼が考え出したものではない)。
不得手分野なので上手く言えないのだけれど、何気にみんなの考えが共有されていき、やがてその時代の思想となるというのが、きっと歴史的な事実だろう。
だとすれば、このように僕が酔っ払って、ほんの少しの人だけが読んでいるブログにぐたぐた書くというのも、まるで価値のないことと言うわけではあるまい。

と自己正当化して、最後の缶ビールのプルリングを抜いたところ。