原発とセックス~原発を推進する奴は幸せなセックスを知らない | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

原発とセックス~原発を推進する奴は幸せなセックスを知らない

年明けなのでなにか書こうと思っていたのだけれど、書くべきことが思いつかない。
ていうか、もちろん書くことはいろいろあるのだが、このブログで何を書いたらいいかというと、なんというかなかなか難しい。

たとえば選挙。

僕は基本ペシミストなので、じつは世の中が良くなることなんて金輪際ないんじゃないかと思っている。
ていうと怒られるんだけどさ、良くなる要素なんか何も見つからないのだ。

それでもなぜ反原発を続けたりしているかというと、事態はあまりにひどすぎると言うこと。
それと、原発事故の責任の一端は端的に僕にもあるわけだから、それがわかっている以上、たとえ負けようとも抵抗する人生を送らなければならない。それをしないのは恥ずかしいしみっともない。自己満足と言われようとも、貫かなければならないこともあるのだ。
でもまあしかし、世の中が良くなるなんてじつはまったく信じていないのである。

だから衆院選の結果も予想通りで、やっぱり日本人は馬鹿ばっかなのかもしれないし、数の論理が幅をきかせる大政党に有利な小選挙区制(小選挙区比例代表並立制)をあのとき(94年)許してしまったのは、歴史的な大失敗だったのだと改めて思う。

その地域の利害を代表して国政に参画するというのは、それはもちろん政治家の大事な仕事なのであるけれど、と同時に、それぞれの地域を越えて日本というひとつの国の在り方を考えるべきが国会だ。
にもかかわらず、自民党や民主党の国会議員は、どいつもこいつも、国のことよりも自分の地域や仲間内の利益ばっかり考えてやがる。
安倍晋三は誇らしげに「国民の信を得た」などとぬかすが、冗談じゃない。衆院で過半数をとったのは選挙制度のカラクリで、実際に自民党を信任する国民は2割とか3割だ。
なのにいい気になって、新規原発まで企んでいる。

日本の恥としか言いようがないな。あれだけの大事故を起こしておいて、収束の見通しすらたたないくせに。
野田政権、安倍政権は世界中の笑いものだ。
少しはそれを知ると良い。

とかまあね、いいたいことはたくさんあるのだけど、このブログを読んでくれているような人ならば、そんなことは今更言うまでもないだろうと思うのだ。
もちろん、たとえば僕がテレビの地上波で好きなことを自由に語って良いと言われれば、原発問題は知る限り、基礎の基礎から何度でもじっくり話して、全国民の反原発オルグに励むだろう。
だけど、一日せいぜい千何百アクセスのこのブログではそれはやめておこう。
そんなことはみんな、僕以上に知っていると思う。

僕は、ちょっとだけ哲学を勉強した物書きの端くれで、日々のニュースを追いかけたり、政治を追及するジャーナリストではない。
だからこのブログでは、哲学的、あるいは文学的に語れることを語ろう。

で。
新年一発目のタイトルは「原発とセックス」なわけだが、これは正直言ってウケを狙ったというのもある。
僕は昔は雑誌編集部のデスクで、記事のタイトルを数限りなく作ってきたのだけれど、まあ、ぱっと見「何これ?」と思わせるのもひとつの手。
「原発とセックス? なんだこれ?」と思ったでしょ。

しかしそれでも、一応言いたいことはある。

たとえば、セックスに淡泊だった女性が、新しい彼氏との交際で、突然感じ方、考え方が変わる。そういうことがある。
僕は以前、男性誌の編集部にいたが、そんな話もいっぱい聞いた。
彼女は決してセックスが嫌いというわけではなかったが、これまでは求めてくるのはもっぱら彼氏のほうで、彼女はそれに応じていたという感じだった。
もちろん、愛撫されれば気持ちいい。
でも、自分から「したい」と求めることはなかった。
肉体的な関係よりも、自分の頭の中で作り上げた「彼氏像」、つまり「私のことをなんでもわかってくれる彼」というイメージに惚れていたのかもしれない。
ところが、次の新しい彼氏とのセックスはそうではなかった。
頭の中の「彼氏イメージ」ではなく、彼の存在そのものがいとおしいと思えるようになった。
彼の存在すべてを愛せるようになった。

SMの話をしよう。
「責めるのが好きなのがSで、責められるのが好きなのがM」
今でもそんなふうに考えている人も多い。
ところが、これは僕が某AV(アダルトビデオ)界の巨匠から聞いて目から鱗だったのだけれど、SMの「肝」はそんなことでは決してなくて、「信頼関係」だというのだ。

たとえば、窒息寸前まで彼女の首を絞める。
そのとき、Mの彼女が思いきり感じるのは、痛いから苦しいからではない。
100%許し合える関係が幸せなのだ。
陳腐な言い方だけれど、身体だけじゃなくて心も裸になって求めあえる、認めあえる、愛しあえる。
これがSMの「肝」だというのだ。
だからこそ、心の底から信頼し合っているからこそ、生と死の境界ギリギリのセックスをする。
こうしてお互いは、世間のくだらない常識や倫理観を超えて、まさに生死の境でひとつになれる。
それが幸福なのだ。

セックスで得られるのは、肉体的な快楽だけではない。
肉体と精神というような区別を超えた、大いなる幸福なのである。

では、その幸福の源泉はどこにあるのだろうか?

これがまさに、哲学で言う「他者」の存在なのである。

小学校の社会科で、「社会にはいろいろな人たちがいます」ということを僕らは習う。
パン屋さんや魚屋さん、ビルを作る人や設計する人、会社に勤める人、みんなから選ばれて政治をする人、などなど。
「社会とは、そんないろいろな人たちがいて、はじめて成り立っているのです」
というわけだけれど、そんなのは、大人にとってみれば教わるまでもなく当たり前の話だ。
ほんとうにいろいろな連中がいて、それぞれが何かしらやっていて、そうやって、社会(社会システム)というのは動いている。
それぞれの利益や損得、考え方はきっと違うのだろう。
でもそれらの均衡を保ち、なるべくみんなが納得するようにしなくちゃいけない。そのために上手いこと交通整理したり、調整しなくちゃいけない。
つまり、それが政治だ。
と、
そこまでしか考えていない馬鹿な政治家が多すぎる。
政治の役割は利害調整だと思ってやがる。
お前らみんなアタマ悪すぎ。

ていう話はとりあえず置いておいて。

「社会を構成するいろんな人たち」という場合、たとえば魚屋さんは社会にとって必要不可欠だとしても、お店をやっているのが「鹿島潤さん」(あ、僕の名前)でも、「柏原光太郎さん」(幼なじみで文春の担当編集。『アイアンシェフ』の審査員、の名前)でも、「遠藤隆司さん」(現在居場所不明の親友の名前)でもいい。
魚屋さんがあればいいだけで、誰がやっているのかなんて関係ない。
だけど、僕らが恋をしてセックスする相手は、魚屋さんなら誰もいいというはずはない。
「魚屋さんなら誰でもいいからセックスしたい」なんていうのはちょっとした変態で、「鹿島潤さんとセックスしたい」とか「柏原光太郎さんとセックスしたい」とか、人はそういうふうに思う。

これが第一段階。
固有名詞が必要だ。
まあここまでは、中学生の初恋レベルでもわかる。
恋する中学生は、相手の名前をいろんなところに書いたり唱えたりしたい。
ノートの端とか机の裏とか。みなさん経験あるはずです。

で、そのちょっと先に「固有名詞」と「存在」という、哲学の大きな問題があるのだった。
かなり雑にだけれど、その話をしよう。

「鹿島潤」を好きな女性がいるとする。
固有名詞は人を特定するので、目の前にいる男性が「鹿島潤」であるということは、「ああこの人が好き」と彼女が思う最低限の条件だ(論理学の必要条件に似ているけれどその話はややこしくなるのでしない)。

だけど、その男が「鹿島潤」であればそれでいいのか?
ここで言うのは、「同姓同名の「鹿島潤」がいるかもしれない」と言うことではないよ。
その名前で特定されさえすればいいのか、ということだ。

ことばで特定しただけの「鹿島潤」は、どれだけことばを並べても(どれだけ述語を並べても)、特定はされても、100万語並べても鹿島潤そのものには到達しない。
鹿島潤の存在そのものには辿り着かない。
(あ、これはちょっとだけ専門的なので無視してね→。「明けの明星」と「宵の明星」という、哲学で有名な話があるけれど、僕はどうも、誰の話を聞いても納得できない)

中学生の初恋なんて言うのは、だいたいそんなもんだ。
「笑顔にころっときた」とか「やさしくされた」とか、つまり、単に自分の目から見た鹿島潤に惚れてしまったわけで、これは「鹿島潤は身長174センチだ」とか「鹿島潤は目黒区に住んでいる」とか、そういう述語を並べるのと一緒で、真なる命題ではあるけれど存在そのものには辿り着かない。

だから、自分の頭の中で勝手に作った「鹿島潤」像に惚れるというのは、結局のところ、自分に惚れているのとあまり違わない。
ええと、酔っ払って書いているので文章がダッチロールしてきた。
端的に言おう。
そこには、「他者」がいない。

(少なくとも僕の考える)哲学で言う「他者」とは、単なる他人のことではない。
もちろん、哲学的な「他者」も単なる他人も、「彼の心の中は自分には決して覗けない」というような意味では一緒である。
彼の心の中を100%知ることは不可能だし(つまりそれが、他者や他人と言うことばの意味するところである。もしも彼の心を100%知ることができるのならそれは他者や他人ではなく端的に「私」である)、彼が画鋲を踏んでも、「痛そうだな」とは思えても、自分は決して痛くない。

しかし、「単なる他人」、たとえば、「社会を成立させている大事な一員としての××県××市の魚屋さんの××さん」の気持ちが100%わかることが不可能なように、愛する鹿島潤さん(おお!)の気持ちも100%わかることなどあり得ないのだが、それでも、無理は承知で100%わかりたいと思ってしまう。
これが恋愛。

で。
ここまで「心」とか書いてきたけれど、「心」なんていうのは所詮、社会的要請から生まれた単なる「ことば」であって、「心と身体」という区別も同様に、人間都合、社会的文化的要請に過ぎず、だからそれにとらわれずに考えると、足の裏に画鋲が刺さって痛いのは脳味噌ではなくて足の裏なわけで(この辺は哲学的に大いに議論が沸き起こりそうなところだが面倒臭いので無視)、心と身体の区別なんてない。

愛する人の気持ちを100%わかりたいと思っている人は、相手の脳味噌の中身を知りたいわけじゃない。彼の頬に感じた風、彼の胸の鼓動、性器の充血を、自分でも感じたいのだ。
そこに、心と身体の区別はない。(ましてや「脳こそが心であり自己である」というような幼稚な思想もない)

セックスの話に戻ろう。

セックスは肉体的快感であると同時に、「他者」を知るよろこびである。
決して一体にはなれないはずの「他者」と、奇蹟のように一体になれる幸せ。

こうして、「匿名の誰々さん」ではなく、「固有名詞鹿島潤」も超えて、「他者」の存在の核心にお互い触れ合うこと。

僕はいつもの癖でこうして理屈を並べているが、理屈じゃなくてリアルに「他者」の存在を知る驚き。
多くの場合、この驚きが、哲学や文学の原動力だ。
(哲学では独我論が好きな人も多いけれど、それが独我「論」として言語化でき、さらにそこに共鳴する人がいるという時点で、単なる他人ではなく「他者」を認めざるを得ないと僕は思う)

これまで淡泊だった人がセックスの幸せを知るというのは、僕が見聞する限りは単なる肉体的快感ではなく、「他者」の存在を知った驚きとよろこびであり、生死の境ギリギリのSMは、それを再確認するための極めて人間的な営みである。

この話は難しいので、ここまで書いた文章にいろんな矛盾があるのは自分でもわかってますよ。
でもまあ新年だから許してね。

で、そして、原発の話だ。

セックスがどのように原発の話につながるのか?

結論から言うと、原発を一生懸命推進している連中は、幸せなセックスを知らないのではないか、ということだ。

幸せなセックスとは、「他者」を知り、驚き、感じ、よろこぶことだった。生死ギリギリで感じる信頼だった。
たぶんそれは、多くの人にとって新しい発見である。処女や童貞にはわからないし、「自分だけ気持ち良ければいい」という身勝手な人にもわからない。

ふと思うんだけどさ、米国共和党の支持母体であるアタマの悪い保守的なキリスト教とかでは、セックスで快楽を得るのは良くないというわけ。セックスはあくまで子どもを作るためだという。
これはさあ、セックスで「他者」をリアルに感じて幸せになっちゃたら「神様なんか要らないじゃん」と気付いてしまうから、だから「快楽を求めるな」とか言うんじゃないかなあ。

つまり、セックスで「他者」の存在の核心に触れると、宗教なんか無用で、人は、心や身体や命、健康といった人間存在の根本を大事にしようとするに違いないと思うのだ。

するとどうだ?

単なる他人に過ぎなかった、顔も名前も知らない人々。原発立地地域の人々や原発労働者の人々も、もしかしたら彼ら彼女らが自分の一番大事な人だったかもしれない、セックスしたくてしたくてしょうがない相手だったかもしれないと思えてこないかな。

あるいは、大事にしてきた田畑を追われた福島の爺ちゃん婆ちゃんが、自分の両親だったかもしれない。線量計をつけて学校に通わされている福島の小学生が、自分の子どもだったかもしれない。
そう感じないかな。

もしも「人間」という種に価値があるとすれば、それはビルや飛行機を作ったことにではなく、セックスという地球上のどんな動物でも行う行為に、「愛」としかいえないなにかを、しかも特定の相手を超えて、すべての「他者」に対してそれを感じることができること。
セックスに、あるいはそれだけでなくすべての人の営みに、そんな「愛としか言えないなにか」と付加することができること。
それができる優れた想像力。
そこにこそ人間の価値はあるのではないかと僕は思う。(逆い言えば、人間の価値なんてそこにしかないと思う)

ほんとうに悲しんでいる人を目の前にして、「電気が足りない」とか「経済のために原発は必要」とか、僕なら決して言えない。
目の前にしなくても、悲しんでいる人がいるとわかっているのにそんなことは言えない。
幸せなセックスを知っていたら、絶対にそんなこと言えないだろうと、僕は思う。

ゆえに安倍晋三とか、石原慎太郎とか、米倉弘昌とか、山下俊一とか、ろくなセックスしていないんだろうな。
「人でなし」とはこんな奴らのことを言うのだと思う。

後半泥酔なので、文章かなり端折って乱暴な展開ですね。
まあ雰囲気だけでもいいです。

それにしてもしかし、今回はなかなかなんだか、僕らしくないことを書いてしまったなあ。

ま、いっか。

新年なので、一曲。
僕はペシミストなのでこれ。



なにも変わらないさ
みんな忘れちゃうさ
ブームで終わっちゃうさ
ブーム ブーム ブーム ブーム
この夏のブーム

なんにも始まらないさ
ひとつも終わらないさ
はやく忘れなくちゃ
みんなに遅れちゃうさ
ブーム ブーム ブーム ブーム

(作詞・作曲:ZERRY<忌野清志郎>)