亡き父のこと。 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

亡き父のこと。

今回は少し私事を書かせてください。

3月10日には福島市内での『てつがくカフェ@ふくしま』特別編に参加し、11日午後2時46分には塩竃の沿岸部で被災者の方の取材をしており、そのことを書こう書こうと思っていたのだけれど、いろいろあってまったく書けませんでした。
なにより大きかったのは、父が亡くなったこと。
昨日告別式が終わり、ようやく少し落ち着いたところです。

父はずっと大学にいた。
かつて父の教え子であった方々はその後、年齢は離れていても父の飲み友達とでもいうべき存在になってくれていた。
そして、今では音楽家として活躍されている方々を中心に、通夜、告別式両日とも、素晴らしい演奏を聴かせてくれた。
また、作曲家の方には父の葬儀のために曲を書いていただいた。
ほんとうにありがとうございます。

父が大学で研究し、また教鞭を振るっていたのは、美学、美術史であり、また、ほとんどの人はそんな学問は名前も聞いたことないと思うけれど、音楽図像学といってたとえば絵画の中に表現された楽器などの研究をしていた。

で。

「真・善・美」が、西洋思想の伝統的な価値観といわれる。
「真」というのは「偽」の対義語で、「2+3=5は真である」「2+1=4は偽である」といった論理的な問題や、「光は毎秒30万㎞で伝わる」といったような経験的、実証的な問題もそうだ。
「善」の対義語は「悪」で、これを問うのは一般的に倫理学と言われる。
そして、「美」を問題にするのが父の専門であった美学。

かつて「神が存在する」とされていた時代には、真善美は神のもとにひとつであった。
もっとぶっちゃけて雑な議論にしましょう。
正確な話ではないのはわかって書くので、細かいところは突っ込まないでね。

「プラトニックラブ」というと、今では(まあ死語だけど)「肉体関係なしの精神的な愛」だというふうに理解されている。
精神的って言っちゃあ精神的なのだが、その語源である「プラトン」はご存知のようにギリシャ時代の哲学者であり、たとえば我々は「三角形を書け」と言われればそのへんの紙に簡単に書くことができる。でも、本来の三角形というのはエンピツの太さがあっては駄目だし、0.0000~1ミリでも曲がっていては駄目だ。すなわち、我々の書くのは「三角形もどき」にすぎない。
そこでプラトンは、「我々の住むこの世界とはまったく別に、我々には決して手の届かない世界(『イデア界』)があって、そこに三角形の原型(三角形のイデア)が存在する」と考えた。
三角形に限らず何事にも「原型(イデア)」があって、だからこそ我々は三角形を書いたり、三角形について厳密に語ったりできる。というわけだ。

西洋で「神が存在する」とされていた時代には、あらゆる物事の根源、本質、本来の姿(などなど言い方はいろいろできる)は神によって作られたとか、神のもとにある、とかいうことにされていて、これを言うと怒るキリスト教徒もいるのかもしれないけれど、つまりまあ、これはプラトンのイデア界に相当する。

ところがこんにちでは、「神の存在」についての議論なんかほとんどない。
毎週日曜日に家族揃ってメガチャーチに通い、銃規制や同性愛、人工中絶に反対する共和党馬鹿議員の演説に聴き入る米国の田舎者なんかは神様を信じているけれど、彼らのほぼすべて、99.9%は「神の存在」についての議論などできないはずだ。

でも、少なくとも科学は、神から解放されたおかげで、つまり神の意志や摂理に合うとか合わないと言った問題なんかにはまったく制約されないからこそめざましい進歩を遂げたわけだし、哲学でも、じつは考えた挙げ句に神を認める人は意外といるのだが、「神の存在」を出発点として議論するような人はまずいない。

「存在に先立って、別のところに本質(のような感じのもの)がある」というのが「プラトニズム」であり、現在の哲学ではそういう二元論はほぼ否定されている、というわけだ。
(つまり「セックスを我慢するプラトニックラブなんていう馬鹿げた考えはおよしなさい」ということでもあるのだが、今夜はその話ではない)

自然科学はもちろんのこと、社会学や経済学といった社会科学、心理学なんかの経験的、実証的学問は、いわば「真」を問うものである。神がいなくなってすっきりさっぱり。神の意志なんか考えることなく、実験や数字、その検証、実証をすれば良い。

ところが、「善」や「美」は違う。
神は善であるし美であるから、神やイデアの存在を前提とすれば、じつに都合が良かったのであった。
「善」や「美」の原型、「善」や「美」そのものはどこか別の世界にあって、それを人間が直接見ることはできないけれど、「原型」や「そのもの」を想い、目指して、考えたり行動したりすれば良かったのだ。
ところが、神なき世界になって、善や美はその根拠を失ってしまった。

とはいえ、「善」は、神なき世界でも議論されることが多い。
たとえば、少し前にはハーバード大学サンデル教授の「これからの「正義」の話をしよう 」が日本でもものすごく売れた。
倫理学(善についての学問)では定番の問い、たとえば「少数派を犠牲にしても多数派を救うべきである、というのが正義と言えるか」みたいな問題は、古典的な問いではあるけれど、特に原発事故以後の日本においては、こんにち的な問題であったりもする。
「何が正義か」を、神様がジャッジしてくれれば楽なんだけど、いないのだからそうはいかない。

ところが、「美」が語られることはものすごく少ない。
書店に行けばわかる。
哲学のコーナーに倫理学(正義論とか社会的正義の話)の本はいろいろあっても、美学の本はほぼない。芸術の棚に行っても形而上的に美を語る本はあんまりないよなあ。

要するに美学というのは、そんなマイナーな学問なのだった。

「真・善・美」と考えた場合、現代では「真」の価値は、多くの場合「役に立つ」ことによってみんなに認められる。
科学的な真実が発見されれば、便利で快適、長生きできるようになるかもしれない。
また、「善」は、世の中がこれだけ腐っているのだから、多くの人が考えて当然だ。

では「美」はどうか?
もちろん、「美に価値がある」ことを否定する人は少ないだろう。
ところが、「美」は役に立たないしそれで社会が良くなるともあまり思えない。
なので、あんまり省みられない。
成金が絵画の収集をしたりするが、彼らが見ているのは美的価値ではなく値札である。
資産としての芸術作品は「値札的」には役に立つかもしれないが、そんなのは単なる経済的価値であり、美的価値とはまったく別物だ。
美的価値は役には立たない、ていうか、役に立ってはならないとさえ言って良い、と僕は思う。

そして。
父は生涯、そんな「美」について研究し、教えていた。

だからこそ僕は、父は立派だったと今更ながら思う。

父は、「世界を具体的にどう変えていくか」と言った問題は語ろうとしなかったが、「価値」について語った。
「価値」とは簡単に言えば「何が大事なのか」という問題だ。
子どもの頃僕は、父に「何が大事か考えろ」と言われ続けた。
どんな局面にあっても、具体的にどうしろと命令されたことはない。「何が大事か考えろ」と言われた。

たとえば、俗な話になってしまうけれど、電気が足りないと困るからと言って原発を再稼働させようとしている連中は、今でも15万人もの人たちに避難生活を強いり、事故がなくても何万年もの間毒を撒き続ける核廃棄物を産み出すという事実を前に、「何が大事なのか」をきちんと考えたことがあるのだろうか?
経済、経済と唱え、テレビで規制緩和論をしたり顔で語る卑しい経済学者どもは、「価値」についてなにか考えを持っているのだろうか?
そんな奴らは一昨日来やがれという感じだ。

我々が問うべきは「価値」である。
神なき時代にその答を見いだすのは困難、というか不可能だろう。
それでもだよ。「価値」を問わずして何を問えというのだろうか?
(ここで、「差異が価値を産む」などと考えた人は猛省すべきである。「差異の差異」「差異の差異の差異」と微分化していくことに果たしてどんな価値があるのか考えなさい)

こんなに長い文章を書くつもりではなかった。

何年か前、父の病気がまだそれほど進行せず、確かな会話ができる頃だった。
僕は父に「若い頃最も影響を受けた本」を貸してくれるよう頼んだ。
ショーペンハウアーのその日本語訳は60年前の旧仮名遣いで読むのに時間がかかりすぎるので、同じ内容の新訳を買って読んだ。

もちろん一般的にいって、
あらゆる時代の賢者はいつも同じことを言ってきたし、
愚者は、つまりあらゆる時代の大多数の人びとは、つねに同じこと、
つまり賢者のさとしたのと逆のことを行ってきた。
今後とも同じありさまが続くであろう。
そこでヴォルテールは言った。
「われわれはこの世に生まれてきたとき見たのと同じ、
愚劣で悪い状態のままにこの世を去ってゆくであろう。」

(ショーペンハウワー『孤独と人生』金森誠也訳)

原著は『Parerga und Paralipomena』。
今から160年以上前、1851年に出版された。

さあて酔っ払った。
そろそろ寝よう。