反原発が人生の闘い方の問題だとすればその世代間ギャップとか。 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

反原発が人生の闘い方の問題だとすればその世代間ギャップとか。

いかなる心によっても捉えられない世界が存在するという考えは
いかなる明確な意味ももちえない

(マイケル・ダメット『思想と実在』金子洋之訳)
思想と実在 (現代哲学への招待―Great Works)/春秋社
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amazonで本を買う癖がつくとそれはそれで便利なのだけれど、ある本を読んでいる最中にそこに出てきた別の本が気になって夜中の3時に注文してしまい、でも次に読むのもその次に読むのも別の本だったりで、結局夜中の3時に注文した本は読まずに積み上げられてしまうことも多い。

だからしばらく本は買わないようにしようと思い、書店ではなく図書館に行った。
で、棚にあったのでなんとなく借りてきたのがダメットである。
て言っても大抵の人には馴染みのない名前だろうけど、まあ現代の哲学者。

日本で現代哲学というと、フランス系とかいわゆる大陸哲学、ドゥルーズとかラカンとかデリタとかガタリとかフーコーとか、そういうのに興味のある人が多いみたいだけれど、僕はね、全然わからんのですよ。本格的に読んだことないし、正直言って僕には日本語しか理解できないから原著は読めん。だから偉そうなこと言えないけれど、奥歯に物が挟まった感じでどうもすっきりしない。

それに対して分析哲学というのは主に英米の哲学なのだが、ことばの分析をちゃんとやる。ちゃんとやるからこそ、ことばの可能性や限界などについて語る(ウィトゲンシュタイン的に言えば示すかな?)こともできる。
僕の関心はまさにそこだったりするので、腑に落ちるのであった。
ええと、もしも分析哲学に関心があるという人がいたら、まずはこのあたりがお勧めです。新書で一般読者向け。
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と、amazonで『分析哲学講義』のURLを調べてたら、この2月に出たばかりの『意味・真理・存在 分析哲学入門・中級編』という本を発見。

…しまった。また「1-Clickで今すぐ」買っちまった。
意味・真理・存在 分析哲学入門・中級編 (講談社選書メチエ)/講談社
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そんなわけでダメットも分析哲学の人である。
ドトールコーヒーの喫煙席で『思想と実在』をぱら読みしていて、最終章「神と世界」から引っ張ってきたのが冒頭の一文なのだった。
ものすごく雑な言い方だけど
「完璧な客観世界の存在を語るなんて、神の存在を語るのと同じだよ」
くらいにとってもらおうかな。

神の存在を信じる人を馬鹿にしているのではないよ。だけど「神様は髭を生やしたおじいさん」みたいな想像をしてそれを信じるのは馬鹿だ。なぜならば神はあらゆる意味で完璧でなければならないわけで、つまり、不完全な人間がそれをイメージした時点で、原理的にそのような存在ではあり得ないからだ。
そして、人間の意識、あるいは<私>の経験や考え、感じ方とはまったく別に、「(客観)世界」が存在する、という思い込みも、神の存在を語るのと同じように「明確な意味を持ち得ない」ことだというわけである。

普遍の数学原理や科学法則に支配された「(客観)世界」が存在していて、そこに潜む隠された原理や法則を発見するのが科学や数学の仕事だと思っている人も多いが、それは全くの誤りである。
例えて言えばそれは、今は「髭の生えたおじいさん」としかわかっていないが、科学や数学が進歩すれば髭の色がわかるかもしれない。あるいは髪型もわかるかもしれない。と言っているようなものなのだ。
「髭の色がわかるのは進歩ではないか」と思うかもしれないけれど、「本物の神様」と比較することができない以上、その色が正しいかどうかなんて永久にわからないのだ。

と、まあここまでは昨日の話と同じである。

今夜書きたかったのは別の話なのだけれど、考えがまとまらない。

ETV特集は『ネットワークでつくる放射能汚染地図』などといった「1チャンよりいいじゃん」な番組をつくるわけだが、今夜やっていたのは批評家、宇野常寛さんを追ったドキュメンタリー『“ノンポリのオタク”が日本を変える時~怒れる批評家・宇野常寛~』(再放送)。(http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2013/0210.html

僕は彼の著作は読んでいない。
なのでそれらについて論じることはできない。
ただね、著作ではなく著者を追ったドキュメンタリー番組を見ながら、共感するところもたくさんあるのだけれど、なにか決定的な断絶を感じ続けていた。
それはなんなのだろう?

「闘う」ということばを彼が使うとき、それは彼の人生観であろうし、そういう意味で発せられた「闘う」ということばに対して、僕はものすごくリアリティを感じることができる。
「人生は闘いだ」なんて言ってしまうとじつに平凡な話で誰だってそれくらいのことは言うだろう。感心する文章ではない。
だけど宇野さんが「闘う」ということばを選ぶとき、そこには「そう言わざるを得ない」緊迫感があって、それはもうそうとしか言いようがない「ことばの使い方」であることがよくわかる。
ここはものすごく大事な点だ。

ところが、なにかが決定的に断絶している。
彼は1978年生まれだから僕より15歳も若い。なので「世代の差」と言ってしまえばそれまでだろうけれど、そうなのかなあ…。
ものすごくすっきりしないのであった。

かつて雑誌の編集部にいた頃可愛がってくれた大先輩で、惜しくも50代で亡くなってしまったけれど、当時の芸能界で知らぬものはいない名物編集長がいた。
Kさんと言う。
女優のスクープヌードを掲載しようと、その女優が初脱ぎした映画の制作会社に公開前に忍び込み、問題のシーンから3コマほどフィルムを切って盗んできたような怪傑である。
そんなKさんが編集長で僕が副編だった頃、次の企画について話し合う中で、いつだったか忘れたけれどオタクということばがさかんに流通した90年代のある日、突然Kさんが「オタクが雑誌を滅ぼす」と言い始めた。「だからオタク批判の記事をやろう」

僕は当時、その意味を掴みかねた。
Kさんは縦目のベンツに乗って「目が合ったいいオンナは全員口説く」ような男前であったが、ものすごくアタマの切れる人物でもあった。論理を積み重ねるのではなく直感で「肝」を掴むタイプである。
じつはこのときも、論理は欠如していたがとても大事なことを言い当てていたのだと、今、僕は思う。

『“ノンポリのオタク”が日本を変える時』の番組の中で、宇野さんは彼の話を聞くために集まった出版社社員たちを目の前にして、これまでの出版文化の終焉を告げ、編集者たちを突き放した。
もちろん「宇野さん=オタク」というような安易な定式化は大変危ないけれども、それでも、20年前にKさんが感じた出版危機は、2013年、すでに現実である。

「大事なのはメッセージではなくメディアである」というのは、1980年頃僕がいつも考えていた問題だった。
でもその頃僕は、「メッセージではなくメディア」を、「料理ではなく器」というような比喩でイメージしていた。
これが70~80年代の若者の限界であったのかもしれないし、単に僕が馬鹿だっただけなのかもしれない。
安直な言い方をすれば、youtubeのようなネット上、クラウドでの「共有」は、器と言ってもみんなが手を伸ばす大皿かもしれないし、たぶん、僕は今すぐには思いつかないけれど、じつはまったく別の比喩が必要なのだと思う。
そのへんの断絶かなあ…。

あとさあ、僕はここのところずっと行けていないので直近の状況は知らないのだけれど、永田町の反原発デモなんかに行っても、20代とかの若い子はとても少ない。
しかし、これをもって「若者は社会に関心がない」というのは見当外れだと僕は思う。
デモに行っても選挙に行っても、そんなやりかたで世界が変わるはずない、と彼らは感じている、ていうのか、むしろそんな行動こそがシステムに絡みとられる駄目なやり方だと考えているのかもしれない。

ここで大事なのは、彼らを無理矢理デモや選挙に引っ張り出すことではない、と思う。
僕はもうすっかりオヤジなのでデモ隊の中のひとりとか選挙の一票に「もしかしたら」とほんのちょっぴり期待してしまうのだが、そうではない別のやり方を彼らが編み出してくれるかもしれない。
そう考えるのが「正しい若者への期待」なのかもしれない。

とはいえ、わかんないんだよなあ。
じゃあどうすれば良いのかなあ…。

とかね。

そういうのも世代間ギャップみたいな問題もかなりあるのだろうと思う。
宇野さんの番組を観ながら、そんなことも考えた。

酔っ払ったのでもうやめようかな。

ただいずれにしても、原発事故が露呈したのは「世界」の問題(具体的に有り体に言えはたとえば日本という国のシステムの駄目さ加減とか)と同時に、「僕」の問題でもあった。
要するに世界観、人生観の問題であり、これを簡潔に言い表すと、「反原発は生き方の問題である」ということになる。
でもだからといって、原発のことばかりを話していればいいというわけではない。
価値の問題、すなわち哲学の問題であるわけだから、存在の問題と原発の問題は等価かもしれない。
だから僕は、そういうことを考えたり語ったりするし、それが人生の闘い方なのであれば、宇野常寛さんも同じような感じなのかもしれない。

あとは文字通りの「生き方」、つまり実践だね。
こうやって、朝の7時に酔っ払って一銭にもならないブログを書く。
これも「反原発」だと自己正当化して生きていくわけだ。