根性なしの反原発 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

根性なしの反原発

僕は根性なしである。

根性なしというのは、意志が弱く執念深くもないということでもある。
すぐに「まあいっか」と思ってしまうので、努力もしない。
怒っていてもそのうち忘れてしまう。

若い頃吉村昭さんの『破獄』を読んで、まあこれは小説だけれど、モデルとなった白鳥由栄という人物は、青森刑務所、秋田刑務所、網走刑務所、札幌刑務所と、とにかく脱獄を繰り返したわけだった。それも、毎日の食事の味噌汁をちょっとずつ垂らしその塩分で手錠を少しずつ錆びさせると言った執念の脱獄を、ものの見事に成功させるわけである。
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いやすごいなあ。
なにがって、そんなふうにモチベーションを持続させられることである。
これはひとつの才能であると思うし、同時にある種のキチガイだとも思う。

言っておくけれど、キチガイというのは差別用語ではなくて僕にしてみりゃrespectだ。
僕は、自分がキチガイになれないことにかなりの劣等感を持っているのである。
毎日満員電車で通勤するような生活などできないくせに、キチガイにもなれない。
これはものすごく中途半端だ。
もっとキチガイだったらなあ…と、いつも思う。

キチガイになれないから、現実的な問題にびくびくしてしまう。
経済的な問題とか身内の健康とか、そういった、あまりにも凡庸な問題である。

たとえば昨年末はauの安心なんとかサポートの対応に腹を立てて、つまりそれは先方が筋を通さない(理にかなわない)ことを言うから怒っていたのであったが、そこそこの立場(たぶん)の人が出てきて丁寧に謝罪されると、まあいいやと思ってしまう。
本来であれば、そこそこの立場の人とこそきちんと理のかなった議論をしなければならないのに、だんだん面倒臭くなってくる。
でもさあ、白鳥由栄であればauを潰すまで闘うに違いない。
ところが僕にはそんなモチベーションはさっぱりない。
で、そんなことより「金がなくて困ったなあ」みたいな卑近な問題をうじうじ考えてしまうのであった。

僕のこういう性質は昔からなので、原発問題の怒りについても、自分自身、モチベーションの低下を密かに心配していた。

震災を機に躁状態になった人は多く、僕もそのひとりだったと思う。
「躁」ということばに「なんかハッピー」みたいな感じを連想する人もいるかもしれないけれど、そういうわけではない。
たとえば、被災地でボランティア活動を続けたような人の中にも、躁状態だった人は多い。
ハッピーだったわけではなく怒りや哀しみで「なんとかしなければ」という使命感に燃え、24時間不眠不休で闘ってしまう。つまり、テンションが上がり続けている。それが躁状態だ。

今となれば僕も、3.11からの1年半は、そんな感じで過ごしていたのだと思う。

短期決戦であればそれでよかったのかもしれない。
しかし、僕自身その頃から重々承知していたように、これは、長い闘いだ。
躁状態で闘うのではなく、白鳥由栄が毎日手錠に味噌汁を一滴ずつ垂らしていたような、執念深い闘いが必要なのだ。
内に秘めたるキチガイになる必要があったのだった。

ところが僕にはそれが上手くできなかった。
しかも、凡庸で現実的な問題がいくつも勃発して、専らそっちに関わるようになってしまった。

今。
僕は、「原発問題についてのモチベーションが低下してるぞ」と言われれば、確かにそうかもしれない。
しかし、「躁」的なモチベーションやテンションを維持できなくとも、それはそれでよいのではないかという気がしている。
長い闘いだ。
しかも僕は、ヒーローになろうという気などさらさらない。
だから、無名の酔っ払いとして、じわじわと反原発の底上げをすれば良い。

なんだったっけ、雑誌だかテレビだかで、「代」という日本語の話をしていた。
ものすごく俗な内容で、要するに「男は『代』にこだわる」というような話。
ラーメン屋でも暴力団でも「○代目」というのは男社会だ。
そこには、「男は『自分の代で何を為したか』が大事」という伝統的な価値観がある。
言われてみればそうだ。多くの男は「俺中心」で、「俺の代で仕事を大きくする」とか「俺が嫁や子どもを守る」とか、そんな信念を持っている。
でもだから、「俺の代」以降のことは二の次である。「次の代に任せる」というのが美学とさえされる。
ところがどっこい、放射能の問題は『俺の代』の問題ではない。
次の代、その次の代…、10万年後の「俺の代の後釜」が続いているのかされわからないような時代まで。
それが、核、原子力のもっとも大きな問題なのだ。
ところがそれを、多くの男は考えないのかもしれないな、と、その雑誌だったかテレビだったかを見ながら、僕は思ったのでした。
そう考えると、政治家や役人や電力の連中が平気でその場限りのウソをつくのもよくわかる。
『代』。つまり自分の出世と家族の幸せ、自分を支える現状システムの維持が大事なのだ。

なんだったっけ?

そうそう、要するに気の長い話なのである。

昨日から『ウィトゲンシュタインVS.チューリング: 計算、AI、ロボットの哲学』という本を読み始めた。
ウィトゲンシュタインVS.チューリング: 計算、AI、ロボットの哲学/勁草書房
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ウィトゲンシュタインは、僕の敬愛する20世紀最大の哲学者。チューリングも同時代の人で現代のコンピュータ基礎理論を作ったともいわれる数学者。
ここでは本書の内容については立ち入らないが、僕は原発事故なんかよりもずっと以前から、科学技術に対して不信感、あるいは大いなる疑問を抱き続けていた。

もちろんこれは、たとえばパソコンとかスマートフォンとかの存在を否定するようなものではない。
でも、科学技術の神格化、ていうか「科学的に正しい」ことを「倫理的に正しい」(あるいは「道義的に正しい」とか「正しい行い」とか)と同一視するカテゴリーミステイク、つまり「科学的に正しいことは正義だ」というような「科学信仰」はまったくの茶番だ。

原発推進の中には、「これまで築きあげた科学技術を絶やしてはいけないから原発は続けるべきだ」という馬鹿がいる(たとえば石原慎太郎だが、彼の本音は単に「日本も核武装したい」ということなのかもしれない)。
それを聞くと「ふむふむ」と思う人もいるのかもしれないけれど、「絶やしてはいけない」なんて、なぜそんな大それたことが言えるのか?
「絶やしていいか、いけないか」は、科学の問題ではなく哲学の問題である。
「白人優位は絶やしてはいけない」という人がいたら、みんな「おいおい」と思うはずだが、それが「白人優位」ではなく「科学技術」だと煙に巻かれる。
ところが、「白人優位」であろうとも「科学技術」であろうとも、絶やしていいかいけないかを決めるのは、哲学、すなわち価値の問題であって、それは科学技術なんかとは原理的に独立である。

また長くなったなあ。

『ウィトゲンシュタインVS.チューリング: 計算、AI、ロボットの哲学』は、まだ四分の一くらいしか読んでいないけれど、たとえば
「数学の『発見』と言われるものは、『発見』ではなく『発明』ではないだろうか」
というような問いが検証される。
ウィトゲンシュタインという人はこのような優れた哲学的な問いを探求するわけで、そんなの議論については僕も馴染みがあったのだけれど、それをチューリング、さらにはAI(人工知能)や、人の心の問題にまでブリッジしようというのがこの本だ(ていうかまだそこまで読んでいないけど)。

いずれにしても、科学とか、そこで「当然の真理」のように使われる数学について、我々はもう一回「おや?」と思わなければならない。
アベノミクスとかいうくだらない造語が流通しているが、それを支える経済学も、数学を頼りにしている。
「もしもアベノミクスで景気が良くなっても経済格差は広がるばかりだ」というのは当然だが、それと同時に、そもそも経済学なんて砂上の楼閣だということに気付くべきである。

さてと。
「躁状態」から醒めると、家の中は滅茶苦茶だ。
本や雑誌で足の踏み場もないのは昔からだが、でも以前は取材費などの経費は毎日PCで記録していたが、それをしなくなったばかりか、領収書もあっちこっちに散乱させてしまっている。確定申告を考えると、まことに頭が痛い。
あと、僕はキチガイにもなれないから、一日の大半は原発のことなどアタマにない。

だけどそれでも、auの安心なんとかサポートのことはもう許してやるが、原発のことだけは許せないというのが、どうしようもなく確実にある。
こんなに執念深く「ない」僕でも、「根に持ってやる」と思うのだった。根性なしの僕が「根」を持つというのだから根が深い。
(じつは、「根に持つ」という利己的な思いと、たとえば被曝した子どもたちとかへの利他的な思いの関係とかについてはこれまた深い洞察が必要なのであるがそれはまた今度ね)

久しぶりの更新で、最初は福島の子どもの甲状腺癌について書こうと思っていたのだけれど、なんかこんなふうになってしまいました。