哲学とロックンロールと反原発 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

哲学とロックンロールと反原発

このブログの副題は「哲学とロックンロールと反原発」である。

もしかしたら、「哲学とロックンロールと反原発なんて、全然関係ねえじゃんか」と思う人がいるかもしれない。

ところがどっこい、この3つの湖はじつは湖底でつながっているという直感があってこそ、3.11以後僕はこのブログを(まあ、ある程度)真剣に書き始めたのだし、今となってはその「直感」は、揺るぎなき信念となった。

つまり、どれもが「生き方」の問題なのだ。

これは、「他人にどう説教するか」「説明するか」という意味ではなくて、「まさに僕がどう生きるか」という問題にほかならない。

このブログについて言えば、「哲学とロックンロールと反原発」だけど、見ていただければわかるように、最近は原発関連の記事が一番多い。

震災後2ヵ月くらいは、正直僕は怖かった。
放射能が怖かったのではない。
国家システム、つまりメディアを含めた国策原子力ムラ体制というものが、ここまで嘘をつくのか、というのを目の当たりにして心底恐ろしかったのだ。

僕は安保世代ではないけれど、70年代には当時の活動家たちと闘った(議論でね)こともずいぶんあって、その中で国家権力というのはいざとなったらどれくらい暴力的に振る舞うかはずっと聞かされていた。
でも、こっちが火焔瓶持ってりゃ機動隊だって突っ込んでくるだろうが、まさか丸腰の人々に対して暴力は振るうまい、と思っていた。

ところが、昨年4月6日に総務省が、インターネットプロバイダなどに対し原発事故関連の「ネット上の流言飛語」に対して「削除を含め、適切な対応をとることを要請」( http://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01kiban08_01000023.html )という事実を知って、背筋が寒くなったのだった。
(これについてはこの記事を。http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-10875510340.html

つまり僕なんかはすっかりオヤジで体力もないのでもしも機動隊員と対峙したら小指一本でやられてしまうのは仕方ないのだけれど、ならば「ことば」で闘っていくしかないと思っていたところを、国は検閲まがいの作戦に出たのである。

日本はもっとマトモな国だと思っていた。
少なくとも21世紀に言論統制をするようなイカれた社会主義国とは違うと思っていた。

そんなわけで震災後2ヵ月くらいの中で、
もうこれは覚悟を決めるしかない、つまり立派な正義論をぶちかましたいというのではなく、いくらなんでもこんな嘘や隠蔽は酷いだろ、ということに対しては、僕はもちろん無名の物書きだけれど、それでも正々堂々実名で書き綴るしかない。
そう決めたのだった。
(当時の記事の中でも『大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算』http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-10870712770.htmlなどは、今でも読む価値があるのでぜひ)

こうなるともう、「反原発」は主義主張ではなく、「生き方」の問題となる。
(当時の記事では、山本太郎さんが事務所を辞めた件などについたhttp://ameblo.jp/jun-kashima/entry-10907555392.htmlとか)

さらに、昨年の夏には、京大原子炉実験所の小出裕章さんと小児科医の黒部信一さんの共著による『原発・放射能 子どもが危ない』(文春新書)取材編集のため、小出さんと行動を共にし、いろいろお話しをさせていただく中で、小出さんが原発に反対するほんとうの理由を聞き、僕はすとんと腑に落ちたのであった。

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小出さんが原発に反対するいちばんの理由は、放射能が危ないからではない。
もちろん、当然のことながら、放射能はたとえ僅かでも、決して安全だなんて言ってはいけない。
しかし、3.11以後、世界は変わってしまったのである。
少なくともこの日本では、福島第一原発事故による被曝を100%完璧に避けて生きていくことは、ほぼ不可能と言って良い。
では、どうしたらよいのか?

小出さんの答は
弱い者や、罪のない者を守るべきである。
ということに尽きる、と僕は思う。

「弱い者」とは、たとえば子ともであり、「罪のないもの」とは、たとえば未来の世代である。
子どもは原発に何の責任もないにもかかわらず放射能の影響、健康被害は大人の何倍にもなる。我々は未来の世代に、半減期何万年もの危険極まりない放射能廃物を押しつける。

弱いのは子どもだけではない。
原子力というのは、ウラン採掘から廃炉作業に至るまで、その全課程において社会的に弱い人たちに被曝を強いる。
東電から孫請け(ひ孫請け?)の極悪建設会社「ビルドアップ」(福島県郡山市)が、フクイチで働く人たちの線量計に鉛のカバーをつけていたことがニュースになった。
規定の被曝線量を超えると原発では働けなくなる。
「今後原発で働けなくなるよりも被曝線量を低く見積もったほうがいいだろ?」という理屈で、「ビルドアップ」は労働者に鉛のカバーをつけさせていたと聞く。

誰が好きこのんで被曝するだろうか?

現代の日本では、小学生の子どもをたとえば一日18時間も働かせたら犯罪だ。
ところが、「貧乏な子どもは働きたがっている。我々はその労働力がほしい。これでみんなハッピー。子どもを18時間働かせて何が悪い?」というような資本家の勝手な理屈がまかり通っていた社会があった。
そんな屁理屈が許されないのは今では常識だろう。
「ビルドアップ」はそれと同様のことをやっていたわけだ。

さて。

ここからが大事なのだが、
弱い者や、罪のない者を守るべきである。
というのは、「科学の命題」ではない。

これは、科学が対象とする「真偽」の問題ではない。
「善悪」の問題、あるいは「倫理」の問題である。

何回も書いたけれど(たとえば、http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11157697411.htmlhttp://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11176701522.html)、科学や数学を有り難がって信奉している人が多いが、突き詰めればそんなのも全部無根拠だ。
神様でも認めない限り、科学や数学が「善悪」「倫理」を語るなんて、原理的に不可能だし、あってはならないことなのだ。

それがわかっているからこそ、小出さんは「善悪」の問題を科学から切り離して語る。

すなわち、科学が干渉しえない(干渉してはならない)「生き方」の問題として語る。

反原発のデモに対して、未だに「裏で左翼過激派が操っている」などと言っている人たちがいる。
取るに足らないネトウとかはどうでも良いのだけれど、産経御用新聞とかは、とりあえずは大手メディアでありながらも、まだそんなことを書いているみたいだ。
これもこのブログでは何回も書いているけれど、反原発デモなんかに来る人の大部分は、イデオロギーなんかで参加しているのではない。
むしろ、多くの人が「生き方」の問題として原発に向き合っているのだ、と僕は思う。

おっと。
また超長くなりそうだな。

巻き入れます。

「哲学とロックンロールと反原発」についてであった。
「反原発」についてはとりあえず以上でおしまい。

次は「哲学」だが、まあこれも、この前まとめて書いた「「分析哲学」で「反原発」を語るにはどうしたらよいのだろう?」(その1http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11299613282.html・その2http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11299612779.html)を見てちょうだい。
「考える」ということは、哲学用語を使おうが、日常用語(普段のことば)を使おうが、「生き方」にほかならない。

酔って眠くなってきたのでごめんなさいだ。

そしていよいよ「ロックンロール」の話。

ロックンロールとはもちろん「闘う」ことであるが(エイトビートの音楽を指すのではない)、厄介なのは、闘う相手がはっきりしないことだ。
米国帝国主義に対して闘うとか共産主義に対して闘うとか、野田佳彦に対して闘うとか、まあそんなふうに敵がわかりやすければ楽なのだけれど、それでは単なるくだらないイデオロギーだし、その「楽さ」をも許せないのがロックンロールなのだ。

だからロックンロールは、愛も憎しみも、怒りも悲しみも、その相手が見えぬまま歌い続ける。

自分の声がもしかしたらどこにも届かないかもしれぬ事を承知の上で、それでも「歌わざるをえない」。
それこそが、ロックンロールの最初の一歩であり、次の二歩めも、その次の三歩目も、あるいはまた、百何十歩めに誰かに「届いたかもしれない」と思えば、「それは違うぜベイビー」と言わざるをえない。
(首相官邸前のデモに対して野田佳彦が「デモの声はよく聞えている」と言ったそうだが、それで我々の抗議行動は終わるだろうか? 終わりはしない。「それは違うぜベイビー」「ベイビー、お前が間違ってるぜ」と言うだろう)

ほんとうはね、
Lenny Kravitzの「Rock and Roll is Dead」と、サンボマスターがつい最近リリースした「ロックンロール イズ ノットデッド」の話をしようと思っていたのだった。
疲れちゃったので少しだけ書こう。


Lenny Kravitzが「Rock and Roll is Dead」をリリースしたのは1995年。
こういう歌詞だ。

ダイヤの指輪とコカイン、500人の女と寝て、
そうやって世界中のカネをかき集めたって
ロックンロールは死んじまったんだよ。

これをLenny Kravitzが自身について歌ったものとみるのか、「ロックンロールそのものが死んだ」と解釈するのか、ファンや批評家の間にはいろいろ見解の違いもあるようだけれど、そんなことはどうでもいい。

いずれにしても、1995年に僕が聴いた「Rock and Roll is Dead」は、
「我々の闘いはもう無駄だ。もはや闘う意味などどこにもない」宣言であった。

つまりこの、凡庸でくだらない世界がいつまでも続く。

宮台真司さんが当時言っていた『終わりなき日常』である。
もちろん、宮台さんの言う『終わりなき日常』という観念は、僕の言わんとするところとズレがあるだろう。
ただやはり、レニクラの「Rock and Roll is Dead」と、宮台さんの著書『終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル』は、同じ1995年にリリースされ、同時期に僕も、そしてまた多くの人も、大いなる諦めと達観を持って21世紀を迎えようとしていた。
これは紛れもない事実だと思う。

「終わってる」ということばが流行ったのはいつ頃だっただろうか?
僕は思い出せないし、酔っているので調べる気力もない。
だけど、「終わってる」じゃなくて「終わらない」こと。
つまり、我々は殺されはしないが、もはや何も新しいことは立ち上がらないよ、ということ。
それは、よく考えれば限りなく苦痛なのだけれど、まああんまり考えずにやってこうよ、みたいに、当時、日本人の多くが思っていた。

繰り返すよ。
大いなる諦めと達観
まあいいじゃんか、ちょこちょこ楽しくやろうよ的な。

それが「20世紀の終わり」だった。
このままの世界が永遠に続くような気がしていた。

ところが。
2011年3月11日。
そんな世界観は根底からひっくり返されたのだった。

そして僕らは、というか少なくとも僕は、ロックンロールを取り戻さなければならなかった。

2012年7月1日。

大飯原発再稼働に抗議する人たちが、原発に通じる一本道を封鎖し、警察官、機動隊員らと対峙した。
何時間にも及ぶ緊迫した状況。僕は、現地に行けなかったことを悔やみながら、Ustreamの中継でじっとそれを見守っていた。
18時頃から、機動隊が再稼働反対の人々を押しはじめる。
少しずつではあるけれど、機動隊がじりじりと前に出てきた。
治安部隊が力で制圧を試みた場合、勝ち目はなかろう。
彼らは常日頃からそういう訓練を受けているのだ。
最前線も強制排除。
やはり国家権力はそうするか…。

そのとき突然鳴り響いたのはドラムの音だった。
参加者のひとりが、持ち込んだドラムセットを叩き始めたのだった。

そして、それに呼応して、皆が口々に抗議の声のボリュームを上げた。
抗議行動参加者に対して暴力的な対応をしようとする機動隊員には、全員がリズムに合わせて「暴力反対」の声を上げた。

治安部隊(警備・機動隊)の基本方針については、県警本部長の指示によって県警警備部長が決めていると思われる。
たとえば最近の総理官邸前抗議行動については、余程のことをしない限り逮捕はされない。これは警視庁の方針であろう。
ところが、その日の大飯の治安部隊は、たぶんもっとずっとビミョーな命令を受けていたのだと思う。
つまり「現場指揮官一任」の裁量が広かったと思われる。
細かく書くときりがないのでやめておくけれど、そのとき最前線の機動隊員は硬い肘パッドを抗議行動参加者の肋骨に押しつけるなど、VTRには映らないもののけっこう手荒なことをしていたと聞く。
たぶん「ある程度の逮捕者やむなし」という県警の方針だったのだろう。

東京にいる僕は「誰も逮捕はするな。ネットの生中継で世界中が見ている」というメッセージをfaxで福井県警本部や小浜警察署に送り続けていたのだけれど、はっきり言って状況はものすごく危ない感じだった。

そのときに鳴り始めたドラムのリズム。

その音で、人々は元気を取り戻した。
リズムに合わせて「再稼働反対」を叫び、そして、もう一歩も引かなかった。

ロックンロールだ。

これがロックンロールだ。

ロックンロールの魂だ。


あとから聞くと、Ustream中継見ていた多くの人が、この場面に心を打たれたらしい。
リズムセクションはその後何十時間も太鼓を叩き続けた。
非暴力不服従で闘い続けた人たちに対して、福井県警の治安部隊はもはや手を出すことができなかった。

結果的には大飯は再稼働されてしまったわけで、ものすごく大変なことなのだけれど、でもそれよりも、大飯原発前に集まった人々が世界中にロックンロールを伝えた事のほうが、もしかしたらずっと意義があるのではないか、と僕は思ったりもする。

ええと、
また話が脇道にそれた。

サンボマスターだった。

正直言って僕は邦楽はまったく聞かないのだけれど、彼らのヒットナンバー『世界はそれを愛と呼ぶんだぜ』(2005)を当時たまたま聞いたとき、「おお!ロックンロールじゃないか!」とすごく嬉しかったのであった。


そして3.11後の去年秋、福島県内各所で行われた「風とロックSUPER野馬追」での彼らのステージを見たときに(youtubeだけどね)、すっげえロックンロールバンドが日本にもいたんだと思い知ったのである。


で、福島出身のV.G、山口隆が次に何を歌うのか、僕はずっと気になっていた。

そうしたらなんと、レニクラのanswer songだぜ。

何度だって立ち上がるんだよ。君よもう悲しまないでくれ
君が生きるなら僕も生きるよ。
ロックンロール イズ 
くたばるものか 
ロックンロール イズ ノットデッド


ロックンロールは死んではいない。
終わりなき日常なんて、騙されて作られた幻想だ。
奴らが、つまり、政府が電力が財界が官僚がマスコミが、どれだけひどい嘘をつくのか、我々はもう知ってしまったのである。

このブログでは何度も書いているけれど、僕は毎月福島に行っている。
福島の人たちと話をして、つくづく感じるのは「分断」ということだ。

それは、他の都道府県から福島が分断されてしまったということでもあるし、福島県内でも、地域、貧富、夫婦、家族…ほんとうにさまざまなレイヤーで人々が分断されてしまっている。

震災後「絆」ということばが流行って、僕ももちろん被災地の現場から発せられる「絆」ということばは実感、納得するのだけれど、東京でのほほんとしているテレビ局が「絆」キャンペーンを張って、誰もが「絆」「絆」なんていうのは、被災者の方々に対して、それこそおこがましいにもほどがあると思っている。
だから僕は、これまで一度も「絆」を訴えたことはなかった。
でも今、敢えて言うとすれば、原発事故のせいで分断されてしまったさまざまな関係を取り戻す、あるいは事故以前よりも深める、という意味合いであれば、それがもしかしたら「絆」ということばかもしれないと思う。

我々は、山口隆が叫ぶ「くたばるものか」ということばを、遠い世界の人の声としてではなく、友達の叫びとしてまっすぐに受け入れなければならない。

ロックンロールは「生き方」の問題だ。
ごめんかなり酔っているので、もうこうなったらベタベタな言い方をしよう。

あなたは誰と友達になるのか?
野田佳彦か? 米倉弘昌か? 勝俣恒久か?
それとも、福島の人たちか?(あるいは福島出身の山口隆か?)

答は明白ではないか。

友達の歌を聴け。

強く願って明日を変えたい
ロックンロール イズ ノットデッド