語り得ぬものについては沈黙しなければならない。 -12ページ目

放射能を受け入れる覚悟のある僕でも、福島の雨は怖い。

ブログもしばらく間が空いてしまった。

前回記事を書いたのは3/6だったが、そのあと3/9は遊びに出かけて(新潟でスノーボード)、3/10~3/11は福島と思っていたのだけれどホテルがどこも満室で、でも3/10の「てつがくカフェ@ふくしま」だけは参加したかったので日帰りで行ってきた。
昨年夏以来の福島だ。

「てつがくカフェ」と言っても、小難しい存在論や認識論などの話をするわけではない。
「もう一歩踏み込んで考えよう」というような市民集会であって、僕は、今福島の人たちが何を考え、何を思っているのか知りたかったのである。

二次会まで参加して、いろいろな話を聞くことができた。
南相馬に実家があって、家族がみんな避難している人の話とか聞いていると、いつものことながら、僕は、そして我々は、なんというとんでもないことをしてしまったのだろうと、かなり暗い気分になる。

もちろん、たかが何時間か話をしただけで福島の人たちのことがわかったなどというつもりはない。
でもそのあと、複数の福島の人から「福島のことを考えてくれて嬉しい」というようなことばをいただいた。

もちろん考えますとも。

一年前の今頃は、テレビに映し出される東北沿岸部の津波の様子や、被災された方々が必死に生きていく姿を見て、僕は泣いていた。
そして、誰もがそうだったと思うけれど、自分には何ができるのか、自分は何をしなければならないのかを考えた。
福島の人たちに対しても、それと同じことを考えている。

もちろん、地震、津波は天災で、原発災害は人災だ。
当然のことながら人災は責任の所在の明確化と責任者の処罰が絶対に必要だが、それと同時に、原発災害で大切な人を失くし家を追われ故郷を奪われたたくさんの人たちに、僕はどう向き合っていかなければならないのか、自分には何ができるのか、自分は何をしなければならないのか、よく考えて実行したい。
それが一番大切だと、僕は思う。

3/10夜、福島市内は小雨だった。
傘を差していない人が半分くらいいた。
僕は東京では少しの雨なら面倒くさいので傘は差さない。
でも、福島に来ると、傘を差さないのは正直ちょっと怖いと思う。
水たまりは放射性物質も溜まる場所なので避けて歩いた。

僕はもう50近いので、放射能の影響は成人一般から比べてずっと低い。
ましてや子どもと比べたら数百分の一以下だろう。
だから東京では、野菜も肉も魚も、産地なんか考えずに食べる。
食べ物は無尽蔵にあるわけではないから、あとは「誰が何を食べるか」という「分配」の問題となるからだ。
僕は、原発を許してきた大人の一人として、あえて汚染された食品を食べることはしないにせよ、子どもではないのだからいちいち気にせず食べようと思っているのである。
せめてもの責任の取り方だ。
なので、ちゃんと調べればきっとある程度内部被曝しているはずだが、それは受け入れて生きていこうと思っている。

しかしそんな僕でも、福島で雨に打たれるのはちょっと怖いから小雨でも傘を差す。
弾丸が二発入ったリボルバーと一発だけのリボルバー。ロシアンルーレットをするとしたらどちらを選ぶかと言えば、一発だけのほうに決まっている。
そんな感じ。

この僕でもそうなのだ。
「放射能は危険だが東京の大人はある程度甘んじて受け入れるべきだ」と言って顰蹙を買うような僕でさえ、福島の雨や水たまりは怖い。

だとしたら、福島に住む子どもたちやその親、妊婦さんやこれから妊娠するかもしれない若い女性は、どれだけの恐怖を抱えて暮らしているのだろう?
そんなことを想像するとかなり胸が痛む。

あとは傘を差していない地元の人たち。
なぜ、あえて弾丸二発のリボルバーを選ぶのか?

もちろん、無知なのであれば知るべきであろう。
でも、そうではなくて、
「いちいち気にしていたら福島では生活できない」というような「割り切り」や、
「危険なんかないと言うことを福島に住んで証明したい」というような「意思表示」、
「これくらいの小雨で傘を差すと風評被害を助長すると非難される」というような「我慢」。
もしもそんな気持ちであるとすれば、それはものすごい悲劇である。

3/10の夜、最終の新幹線で福島から東京に帰った僕は、地元目黒のバーで福島出身の男の子と原発談義をしていたら朝になってしまった。
3.11はほんとうはデモに出ようと思っていたのに、寄る年波か二日酔いが抜けず、結局布団の中で一日中テレビの特番を見ていた。
3/13~3/14は仕事で大阪に行って、3/15は確定申告の作業。
そんなふうにしていたら、もう3月も下旬だ。

いろいろ書きたいこともあるし、事故から一年が経過してこれまで読んだ福島関係の本の中からrecommendを紹介しようと思っていたのだけれど、それはまた今度。

【必見】なぜ我々が見たこともない福島第一原子力発電所事故の映像が海外で放送されるのか?

昨日に引き続き、ペタをいただいたTMKさんのブログ(http://ameblo.jp/tennjinnniimasu/entry-11179240384.html)で紹介されていた、英国BBCのドキュメンタリーを紹介する。

“Inside the Meltdown”
これはまさに、必見である。



原発事故の最初の数日間を追ったルポルタージュや映像ドキュメントは、ここにきていろいろ出てきている。
これもそのひとつだと考えれば、僕は英語がわからないので正確ではないかもしれないけれど、“Inside the Meltdown”の内容も、大筋で言えば我々が知っていたことだ。

ただし、
ここが大事なのだけれど、
見たこともないような映像が、次から次へと映し出される。

僕も福島第一原子力発電所事故については、日本のテレビや国内発信の映像はそれなりに見てきたつもりだ。
ところが、当事者である我々日本人が初めて見る映像が、英国のテレビから発信されているのである。

TMKさんも

なんで外国のメディアからこんな貴重な映像が放送されるのか。
やはり、日本のマスゴミさんは出さないだけなのだろうか。


と書いているが、まさにその通りだ。

政府も電力も、そしてメディアも、あれだけの事故について自分自身を批判的に検証しようとは決してしない。
そんな日本は、後進国としか言いようがない。

一昨日は細野豪志がいけしゃあしゃあと「原発の再稼働は必要」と言ったりして(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120304-00000558-san-soci)、その無責任さには呆れかえるばかりだが、政治家が馬鹿なのはもう仕方ない。
良くも悪くも、日本人はすでに誰も、政治家のことなんか信用していない。

ところが、マスコミが駄目なのが決定的な日本の駄目さ加減だ。
BBCが取材できたことを、日本のテレビ局が取材できないはずがない。
ただ単になんとなく権力側の空気を読んだり、馬鹿どもから「煽るな」と批判されたりするのが怖くて、自主規制しているのだ。
最低である。

Japan's children of the tsunami

ペタをいただいたTMKさんのブログ(http://ameblo.jp/tennjinnniimasu/entry-11181243554.html)で紹介されていた、英国BBCのドキュメンタリー『Japan's children of the tsunami』を見た。



津波と原発事故に遭った子どもたちから話を聞いた記録だ。

東電や原子力ムラと言った「巨悪」に斬り込むドキュメンタリーではない。
だから、普段から「どうしたら奴らを懲らしめられるか」を考えている僕のような人間にしてみると、最初はちょっと物足りなく感じる。

でも、東京にいる僕、つまり、せいぜい本棚とCDラックが倒れしばらくコンビニで何も買えなくて困った程度の僕が東電や政府に対して怒っているのなんか、被災地の子どもたちが実際に感じた辛さや悲しみとは比較することさえできない、と思い知らされることになる。

10歳にも満たない子どもたちが、カメラを向けられて淡々と喋るのだ。
その淡々とした喋り方が、問題の奥深さというのか、ほんとうの被害者の悲しみの深さを物語るのである。

TMKさんがブログに記した内容がまさに要点をついていて、是非それを読んでいただきたいのだが、

ここまで福島の子供たち目線のドキュメンタリーを日本のテレビで見たことがない。
このドキュメンタリーが海外からということに日本の報道に絶望を感じる。


と書いているのにはまったく同感である。

(これは子ども本人の語りではなく彼女のお母さんが言っていたことだが)被曝したせいで、将来好きな人と結婚できなくなったらどうしよう、子どもが産めなくなったらどうしよう、と心配している小さな女の子がいるのだ。
あるいはまた、避難したものの住む場所がなく、仕方なく立ち入り禁止区域のすぐ外側で暮らす小学生の女の子が「心配になるけど、他に行く場所がないから、もう我慢するしかないなあって思って、ここにいます」と覚悟を決めているのだ。

事故から四半世紀が経ったチェルノブイリでは、事故当時子どもだった女性が、先天性の障害を持った子を出産する例が増えている。
もちろん急性被曝ではないので、バタバタと人が死ぬようなことはない。
しかしそれでも、そんな不幸が、今でも続いているのである。

日本では、この期に及んで「心配ありません」と安全デマを吹聴している糞御用学者どもがいて、僕はひとりずつ刺してやりたい気持ちだが、それ以上に、我々(つまり311以前に何もせずに糞どもを許してきた僕)は、なんというとんでもないことをしでかしてしまったのだろう、と思う。
同時に、日本のメディアの無責任さと、僕もその端くれにいる人間としての無力感、情けなさを痛切に感じるのである。

最後に子供たちが話していた将来の夢が心に刺さった。

と、TMKさんが書くとおり、この番組に出演する子どもたちは全員、「将来はパティシエになって土日にはボランティアをしたい」「放射能の研究者になりたい」「困っている人を助けたい」などと言う。

僕なんか小学生の頃の「将来の夢」は「ロボットを作る博士」だった。
脳天気そのものである。
でも、自己弁護するわけじゃないけれど、思うのは子どもの夢なんて明るく脳天気なほうがいいじゃないか、ということだ。

つまり、子供心に「大人になったら人を助ける仕事がしたい」と感じるのは、それだけ辛いことがあったからではないかと思うのだ。
地震、津波は仕方がないかもしれない。しかし、原発災害は我々の責任であり、我々が子どもたちを辛い目に遭わせているのである。

この番組を見ていて、なにかに似てるな、と思っていた。
しばらく考えて、ようやくそれがわかった。
戦争や内紛状態にある国の子どもたちを取材したドキュメンタリーである。
政治や経済的な、すなわち大人の勝手な欲望や思い込みに翻弄され、理不尽な暴力に晒されている子どもたちは、まともでいられる限り、自分がこの事態をなんとかしたいと思う。
つまり、どこの国でも、子どもは子どもなりに、こんな辛い体験を自分の子どもの世代には決してさせたくないと思うのだ。
今、被災地の子どもたちは、それだけ傷ついているのである。

BBC番組なのでナレーションは英語だけれど、出てくる日本の子どもたちは当然日本語で喋っているので、英語がわからなくても全然大丈夫だ。
ぜひ見てほしい。

あと、原発の問題と津波で多くの犠牲者を出した宮城県石巻市の大川小学校の話が、番組では並行して取り上げられている。
これは別問題として扱ってほしかった。

論理学、数学、そして「駄目な人」「弱い人」。

今回は原発のことは書きません。プライベートなことと、ほとんどの人にとってはまったくどうでも良い哲学と数学の話ですので、まあスルーしてくださいな。

さて。

土曜日は実家に帰っていたのだった。
僕は四人兄弟なのだけれど、正月はみんなの予定が合わず実家にはばらばらに顔を出していた。でも、両親ももういい歳なので年に一度くらいはみんなで集まろうということになり、予定を決めていたのである。

で、すぐ下の弟にも久しぶりに会ったのだが、彼は大変賢く、都内某国立大学の数学の准教授である。
実家には彼が書いた数理論理学の本があったのでそれをぱらぱらめくってみたが、当然のことながら僕にはさっぱりわからない。

(ここから先しばらくものすごく雑な言い方になってしまうので専門家には怒られるかもしれないけれど、まあ大目に見てくださいね)

論理学というのは西洋ではアリストテレスに遡る。
アリストテレスは「存在論」こそ「第一哲学」とした。

アリストテレスの時代には、理系、文系というような区分はない。
すべての学問は結局ひとつであろう、という感じだった。
今は、哲学と科学はまったく違う学問領域と捉えられているが、この時代にはそんな分化はない。

ていうか、現在に至る自然科学が神学から分離したのはたかが500年前である。
アリストテレスの時代(紀元前300年くらい)から16世紀まで、西洋の学問というのは、理系も文系も、分け隔てなくひとつ(未分化)だったのだ。
絶対者(神とか)がいるとするならば、あらゆる理性的な営みが一本化されて当然、という考え方である。

そこでアリストテレスは、「存在」の問題こそすべての学問のベース、すなわち「第一哲学」だとした。
そして、「存在とは何か」を考えるわけだが、そのために、人々が「「存在」という存在」をどう捉えているかを研究した。

わかりやすく言おう。

英語で言う「Be動詞」である。

「I am」といえば、「私が存在する」ということだ。
「I am a boy」といえば、「私は少年だ」ということだが、「私は<少年として>存在する」ということになる。

敢えて日本語で言うと「がある」「である」ということになる。
「パソコンがある
「パソコンは私の仕事の道具である
みたいな。

西洋のBe動詞(日本語の「ある」)は、存在をあらわす、あるいは存在の仕方をあらわす動詞なのだった。

そこからアリストテレスは論理学を展開する。

「在る(存在する)」とはどういうことかを考えるときに、我々が「在る(存在する)」とする、「在る(存在する)」と考えるのはどういうことかと、考える。
そのために、論理、つまり「ことば」を分析する。

ちょっと変だと思う人もいるかもしれない。
「存在」というのは「ことば」「思考」以前の問題だと。

しかし我々は、「ことば」によってしか思考し得ないし、「ことば」で語り得ない存在については端的に語り得ないのであり、学問の対象にすることはもちろん、思考の対象にすることすらできない。

またまた、書こうとしていた話から大幅に脱線した。
弟の話だった。

遡ればもともとは起源は同じでも、論理学は今では「数学」からのアプローチと「哲学」からのアプローチがある。

で、
僕は、中途半端な素人だが「哲学」をやるなかで「論理」を考えてきた。
それに対して弟は、プロの研究者として「数学」の「論理学」を研究している。

僕の感じでは、「哲学の論理学」よりも「数学の論理学」のほうがよっぽど洗練されている。
たぶん。きっと。

でも僕は、数学の論理学をrespectはするものの、なにかがひっかかる。
それは、現代数学の論理学は「存在論」を扱わないからだ。
「存在論」のような形而上的な問題は、数学では扱ってはいけないからだ。

それはわかった上で、昨夜は弟にいろいろ質問をした。
論理学だけではなく、「数学という考え方」の、たぶんものすごく基礎的なことを聞くことができた。

たとえば、
論理における「様相」という考え方について。
排中律が必ずしもあてはまらない考え方(直観主義)について。
「空集合」をゼロとして、「空集合の集合」を1とし、「「空集合の集合」の集合」を2とする考え方(自然数論)について。
あるいは、サイコロを何回もふったときに、「1」の目がでる割合が六分の一に収束していくのは数学の問題なのか、または自然科学の問題なのか。
論理の中に「操作」のような概念を導入する考え方もあるということ。
などなど。

ものすごく勉強になりましたよ。

でも結局、弟はそれを「天下り」という言い方をしたが、
要するに「つべこべいうな、これは大前提!」
と、無根拠に措定する出発点があって、初めて数学は成立するのである。
これはまったく、僕がずっと考えてきた通りである。

当たり前の話だが、確認しておこう。
数学は、その外側(人生観とか世界観とか)の「価値(なにが大事なのか)」をジャッジできない。
ていうか、「価値」の問題には立ち入ってはならない。
これは、最初の約束なのである。

ここからが僕の疑問なのだが、
数学は論理的だが、論理的でしかない
すなわち、論理的な問題しか扱えない。
だから「実在」の問題や、あるいは「倫理」の問題は扱ってはならない。

数学だけだったらこれで良いのだが、自然科学はもちろん、人文科学(経済学とか)でも、数学を使っている。
で、自然科学や人文科学は「実在」や「価値」を問題とする。
でも、自然科学にせよ人文科学にせよ、ひとたび数学を用いたのであれば、その限界は「論理の限界」であり、決してそれを超えることはできないのであるから、自然科学や人文科学が数学を使って語ることができる「実在」や「価値」も、どう頑張っても論理の可能性の中の、すなわち、「実在」や「価値」に立ち入ってはならないことばにしかならないのではないか、ということだ。

つまり、いくら自然科学や人文科学が「実在」や「価値」を語ろうとしても、それは「数学という「実在」や「価値」を語ってはならないことば」でしか語れない、という自己矛盾に陥るのではないかということだ。

たぶんこれはものすごく単純な問題で、最初の「問い」が間違っている。
すなわち、我々が「実在」や「価値」について語ろうとするときの姿勢が間違っている。
ウィトゲンシュタインが「語り得ぬもの」と言ったのは、きっとそういうことでもあろう。

まあいいや。

酔っ払っているので書き散らすが、前にも書いたように
科学の論理の正しさというのは、実験や観測によって「実際にそうである」ということでしか正当化できない。
経済学の論理についても同様で、「実際にそうである」ことで初めて正当化される。
そして、その「正さ」とは、「真偽」における「真」であり、「正義」の概念とはまったく別物だ。

新自由主義者が自分の論理は正しいと言えるのは、それが「実際にそうである」場合に限られるのであるが、今の世界を見渡せば、「実際にそうだ」とは言えないだろう。
仮に、もし「実際にそう」であったとしても、それは「真偽」の「真」であり、「正義」ではないので、彼が(真偽ではなく正義という意味で)「自分の考えは正しい」と言うとすれば、それは単なるイデオロギーである。

また話が飛んでしまった。

国立の実家に帰った話であった。

国立という町は、昔はとても面白かった。

10代後半~20代前半の僕らは、国立で毎晩飲み歩いていた。
あの店の後にはこの店、というふうに、全員の財布が空になるまで飲んで回った。

今から思えば、当時の国立は「駄目な人」「弱い人」たちに、とても寛容な町だった。

ミュージシャンやアーティスト、芸術家に「なれなかった人」たちが、それでも自分のプライドをずたずたにされるでもなく、国立では生きていけた。

僕はある時期、そんな国立がとても嫌で「お前らいつまでも掃きだめにいても駄目だ」と思ったりもしたけれど、今はまったくそんなことはないと思う。
つまり、「町」は、昔の国立のように「駄目な人」「弱い人」たちにこそ、寛容であるべきだと思うのである。

でも、久しぶりに帰った国立は、そんな「駄目な人」「弱い人」を受け入れる優しい町ではなくなってしまったような気がする。
ミュージシャンを目指す貧乏な若者が一人カウンターで安酒を喰らっていると、たまたま隣に座ったオッサンに「頑張れよ」と一杯奢ってもらえるような、そんな飲み屋は今でもあるのだろうか?

駅前はチェーン居酒屋ばかりが目立っている。
確かに安いが、安いだけの店だ。
とことんコストカットして、そのしわ寄せを生産者である農漁業者や、バイトの従業員にかぶせているという営業形態だ。
昔からやっている飲み屋は、ほとんど消えてしまった。

そんな中、駅近くの居酒屋「S」は、まだやっていた。
30年前、僕が10代の頃、居酒屋「S」は、先代のお父さんが今の場所から50メートルほど離れたところで営業していて、僕の高校は私服だったので、学校帰りにいつも焼き鳥と日本酒で一杯やっていた。場所を移って今は息子さんの代になっている。
まぐろブツ300円的な値段は昔からほとんど変わっていない。

そういえば昔は、店は赤提灯なのに、ご主人のことをお客はみんな「マスター」と呼んでいた。
これが10代後半の僕らにはとても面白かった。
だって、赤提灯で「マスター」なんて言わないでしょ?
でもそれがまた、愛すべきマスターだったのだ。

今のマスター(息子さん)と話をしたところ、忌野清志郎がかつてすぐそばのアパートに住んでいたらしい。
少し前、テレビのクルーが取材に来ていたそうだ。
国立に住んでいた頃の清志郎は無名で、飲んで新宿から中央線に乗って吉祥寺でゲロ吐いても国立まで戻ってきていた。
国立は、泥酔した「駄目な」清志郎を、ちゃんと待っていてくれた。
そんな優しい町だった。

今の世の中は、「駄目」で「弱い」人たちをばさばさと切っていく方向にある。
僕は、それではいけないと思う。
「駄目」で「弱い」人たちにしか語れない世界の真実というのが、きっとあるのだ。

金儲けしか取り柄のない糞どもよりも、一行の美しい詩を書ける「駄目な奴」のほうがどれだけ素晴らしいか。

僕らは、そういう「価値」にこそ、きちんと目を向けなければならない。

おお、泥酔なのでこのあたりでgood-byeだ。

ここが駄目だよ脱原発

ウケを狙ったタイトルにしたが、転向して原発推進になったわけじゃないよ。
そうではなくて、最近、二人の女性と話していた中で気付かされたことがあったのだった。

ひとりめは、まともな感覚を持っている女性ならば当然のことながら、放射能が子どもに与える影響を心配している。
ご本人には子供はいないが福島の子どもたちのことを心配して、子どもは勝手に引っ越しなどできないのだから線量の高い地域に住み続けるなんて親のエゴだ、というふうに考えている。

彼女の考えが正しいかどうかを問題にしたいのではない。
放射能を心配しながらも土地を離れられない人はたくさんいるわけで、そこにはさまざまな問題が絡み合っているが、それをここで論じたいわけではない。

彼女は、原発に反対し放射能の子どもへの影響を案じている多くの女性のひとりで、基本的な考え方は僕と一致している。
だから、僕としては当然彼女も知っているだろうという前提で山下俊一の話をしたのだが、なんと知らなかったのだった。

僕はかなり驚いた。

九電のプルサーマルシンポジウムヤラセ問題が発覚したとき、小出裕章さんが
「私は、九電のヤラセよりも、みなさんがそれに驚いた、ということに驚いています」
と言っていた。
今や電力会社の薄汚いやり方は多くの人の知るところとなったが、小出さんのようにずっと原子力と闘ってきた人にとっては、電力会社の茶番など昔からずっと当たり前の話であって今更驚くようなことではない。
むしろ、多くの人がそんなことさえも知らなかった、ということに驚かれていたのだった。

それと似たような意味合いで、原子力に疑問を持つ人、放射能被害を心配している人であれば、山下俊一の名前くらい当然知っているだろう、と僕は思っていた。

念のため言っておくと、彼女は新聞とテレビしか見ないような人ではない。
仕事ではなく毎日何時間かはネットに接しているようだ。
僕は仲間外れだが、Facebookで世界中の人たちと知り合って、イタリアの聞いたこともないような街のカフェに、震災の報道写真集を送って募金箱を置いてもらったり、震災直後は都内から送る救援物資の仕分けのボランティアもしていたらしい。

多くの人と同じように彼女も、自分が動ける範囲で実際に被災者支援に取り組み、原発に憤っている。
そんな人なら山下俊一ネタなんて基本中の基本、と僕は信じ込んでいたのだった。

ところがそうではなかった。
僕は慌てて彼女にyoutubeで山下俊一を検索してもらい、
「フクシマはなにもしないでも有名になっちゃった」「ピンチはチャンス」「100μSv/hでも問題ない」などの動画を見てもらった。

もちろん、それを見た彼女は怒り心頭であった。
こんなにも無神経、無責任で犯罪的ですらある奴が福島県に招かれて、県民に安心デマを垂れ流していることを知った彼女は、さっそくそれをFacebookで友達に紹介したようだ。
すると、「こんなの全然知らなかった」という人が何人もいたという。

みんなが知っていると思っていた僕が迂闊だった。

これは大いに反省しなければならない。
「犯罪を知っている人が通報しないのも犯罪」というのと同じだ。
「知ってて伝えないのは罪」なのである。

反原発、脱原発の人たちの中に、仲間内だけで完結してしまう集団が現れてきているような気もする。
ネットでもリアルでも、「周りに話せるような人がいなくて」と、脱原発の人が集まるのは良いと思う。
でも、そこで閉じてしまってある意味オタク化してしまっては駄目なのだ。
放射能の話などは専門性も高くいくらでも掘り下げることができる。また、刻一刻と変わるフクイチの状況や、原子力ムラと政治経済との力関係など、語るべき最新のテーマもたくさんある。
だから、もちろん僕自身の反省として、去年の春~夏頃に話題になった問題などは「知ってて当たり前」になってしまっていた。

ところが世の中には、原発に反対でも山下俊一の名前を知らないような人がたくさんいるのだ。

彼女には「なんで早く教えてくれなかったの?」と言われた。
彼女がもっと早く知っていれば、もっと早く周りの人たちに広げることができたはずなのだった。

これは、我々の駄目な点である。

昨年たくさん出版された小出裕章さんの本は全部で何十万部にもなって、不況の出版界からすればかなりの数字だ。でも、たとえ100万人が読んだからって、日本の人口の1%にも満たない。
原発や放射能について、みんなが結構知っている、と思うのは大間違いなのである。

だから、
身内では当たり前の話でも、あるいは情報鮮度が古くても、大事なことは繰り返し伝えなければならない。

ここで「繰り返し伝えるべきもの」を列挙しようと思っていたのだが、時間がかかるのでそれはまた今度。
ていうか、僕のブログを読んでくれているような人ならば、それはだいたい見当はつくと思うので、「これはこの人はもちろん知っているだろう」と決めつけないでみんなに伝えよう。


この、山下俊一発言だって、知らない人は知らないのだ。
知ってもらわなければならないのだ。

あとついでに、山下俊一がいかにその場しのぎのいい加減なことを言っているかというのが、『山下発言の迷走』(http://kingo999.web.fc2.com/instant/yamashita.html)にまとめられているので、そちらも参考までに。

二番目の女性の話だ。

眠くなってきたからさっさと書こう。

僕は、ロックンロールとは「世界」との「闘い」だと思っている。
「闘い」というと大袈裟に感じる人もいるので、妥協して「関わり方」でもよい。
また、ここで言う「世界」とは、地球上の「世界各国」のことではなく、政治経済や社会システムに限らず、家族や友人、恋人などの人間関係、さらには昨日観た映画やさっき食ったラーメンに至るまで、(※もしそういう考え方が妥当ならば)僕以外のすべてである。
(※哲学的な議論になるのでここでは立ち入らないが、自分で言っておきながら「僕以外」なんて可能なのか、僕はかなり疑問ではあるのだが)

だから、忌野清志郎が歌ったように「昨夜は彼女とクルマの中で手をつないで寝た」というのもロックンロールだし、「原発に騙されちゃいけねえ」もロックンロールだ。
もちろん、社会派であれば偉いというわけではまったくないが、このくだらない世界の中で生きていかなければならない以上、社会的な問題とどう対峙するか、というのは、セックスの歌と同じ水準で、ロックンローラーなら歌って当然だ。
(あえて無視するという闘い方もあるが、少なくとも3.11以降は、「無視」は「単なる無視」ではなく、「無視という表明」ということになると僕は思う)

しかし、今、日本のヒットチャートに挙がるようなロックンローラーで、原発に対する姿勢を明確に打ち出したのは斉藤和義くらいだろう。

なんて情けない。

僕は国としての米国は嫌いだが、米国で「表現」(音楽とか芝居とか)を仕事としてやっていて、なおかつそれで成功している人が、政治的、社会的な表明をするというのは至極当然のことであり、その意味では日本より全然健全だと思う。


いうような話を、ロックが大好きでそんな仕事に関わっている女性にしたのであった。

すると、彼女は、「原発に反対している人たちにはなんか違和感を感じる」と言った。

僕は意外だった。
何しろ彼女は、最初の音楽体験が「日本のパンク」なのだ。
もちろん、今の日本でパンクとされている生ぬるい音楽のことではない。
「反骨のパンク」である。やれ友情だやれ絆だなどと甘ったるい歌ではなく、「闘いとしてのパンク」である。

元パンク少女ならば、原子力ムラのような腐った日本のシステムに、FuckYouと中指を立てて当然だろうと思っていたのだ。

ところが彼女は、「原発に反対している人たち」(つまり我々だ)はどうも違う、と思っている。

なぜか?

ここからが核心なのだが、「被害者意識ばかりのような気がする」というのだ。

「なるほど」
と、僕は思った。

たとえば、「汚染された食品は食べたくない」と思うのは当然である。
そもそも汚染食品は、子どもはもちろん年寄りでも食べるべきではない。
だから、放射能汚染の直接の原因を作った東電や政府は糾弾されて当然である。
また、もしも「知っていたのに隠して汚染食品を流通させた」あるいは「然るべき検査をしなかった」のであれば、県や関連事業者、農家に矛先が向くかもしれない。

しかし、
我々が原発、放射能に「No」と言うことは、それが東電や政府に対しての「No」だとしても農家に対しての「No」だとしても、極めて正当である。
それでもしかし、
これまで原子力を許してきたのは、他でもない我々なのである。

ロックンロールは、世界の糞どもを糞と言う。
でも同時に、自分もいかに糞かをわきまえていなければならない。

私は善良で健全で何も悪くはない一市民なのに、国や東電(あるいは農家など)のせいで被曝させられるのは許せない」
と、もし誰かが言ったとすれば、ロックンローラーは彼を信じない。
なぜならば、彼が自分を糞だと自覚していないからだ。

こういうのは、たとえば嘘つきが喋っているのを聞いて「こいつ嘘ついてるな」と直感するように、ある意味生理的な反応に近い。
誰かが誰かを一方的に糾弾するのを聞いたときには「そういうあなたは悪くないの?」と突っ込みを入れたくなるのが普通であって、もし誰かが「善人ぶった被害者面」をしていれば、多くの人がそれを見抜く。

なおかつ、贔屓目な言い方になるが、ロックンロールに接していた人は、その直感力が人一倍鋭い。
「世界は糞だが自分も糞だ」が、ロックンロールの魂の底にあるからである。

このブログでは再三紹介しているが、村上春樹さんはカタルーニャ国際賞受賞のスピーチで、原発事故についてこう言った。

「少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです」
「しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです」


もちろん今、原発に反対している人の多くは、「許してきた」「黙認してきた」自分の責任を踏まえて、行動しているのだと僕は信じたい。
でも、はっきり言えば、反原発の僕からしても「それはお前、自分の責任を棚上げしてるだろ」と言いたくなるようなことも多い。

彼女のようにロックンロールな人はそれを鋭く見抜くし、そうでなくとも「被害者意識ばっか」だと感じる人は少なくあるまい。

「反・反原発」で、「原発が要らないのならお前は電気のない生活をしろ」「江戸時代に戻れ」みたいなことを言う人がいる。
もちろんこれは滅茶苦茶な議論で、原発なんかなくても電気は足りるわけだが、そんな「反・反原発」の人たちの気持ちの底には、「お前ら被害者意識ばっかだろ」というのがあるのだと思う。
「被害者意識」というのは、ほんとうに嫌らしい気持ちの在り方であって、生理的に嫌悪する人も多いのである。
ていうか僕も、「被害者面した善人」には吐き気がする。

繰り返すが、我々オトナは、被害者であると同時に加害者である。

汚染食品を一方的に食べさせられているのではなく、その原因は、原子力を許してきた我々自身が作ったのである。

たぶん、そこがみんなに伝わらないと、反原発・脱原発は「越えるべき一線」を超えることができない。

これは、今の日本の反原発・脱原発の動きの中で、一番根の深い問題なのではないか、と僕は思う。

(さらにいえば、福島をはじめとする原発立地県の人たち(生活や人生を賭けた問題として原発を捉えざるを得ない人たち)と、首都圏に住む我々は違う。
首都圏に住む我々が、福島のせいで被害に遭ったのではなくて、首都圏に住む我々のせいで、福島の人たちが被害に遭った。
我々はそれくらい考えたほうがいい、と思うのだ。)

細野豪志は自分のことばに責任を持てるのか?

細野豪志という男は前から嫌いだった。
不見識にもかかわらず、「熱く語ればOK」的な自己陶酔が垣間見られるので虫酸が走るのであった。

これまでもいい加減なことばっかり言ってたような気がするが、今は酔っ払って思い出せないのでそれはさておき、昨日の朝日新聞の記事、細野豪志原発相が、「帰村宣言」をしている福島県川内村に訪れたときの発言だ。

住民からは徹底した除染を求める意見も出たが、細野氏は「放射線量が年間2ミリシーベルトなら、住んでも大丈夫と断言する」と語った。
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201202180362.html


え?
えええ?

政府はことあるごとに「ICRP(国際放射線防御委員会)」の見解を持ち出して、ときには(僕は歪曲だと思うのだが)、「子どもの20mSvも大丈夫」とまで言ってきた。
ICRPというのは「原発推進」の立場であり、「反原発」の科学者が出した数値とはまるで違う。
その意味で、「原発に甘い数値」である。

にもかかわらず、直近の「ICRP2007年勧告」(ICRP publication103)には、こう書いてある。

(64)認められている例外はあるが,放射線防護の目的には,基礎的な細胞過程に関する証拠の重みは,線量反応データと合わせて,約100 mSvを下回る低線量域では,がん又は遺伝性影響の発生率が関係する臓器及び組織の等価線量の増加に正比例して増加するであろうと仮定するのが科学的にもっともらしい,という見解を支持すると委員会は判断している。
(65)したがって,委員会が勧告する実用的な放射線防護体系は,約100 mSvを下回る線量においては,ある一定の線量の増加はそれに正比例して放射線起因の発がん又は遺伝性影響の確率の増加を生じるであろうという仮定に引き続き根拠を置くこととする。この線量反応モデルは一般に“直線しきい値なし仮説又はLNTモデルとして知られている。
(国際放射線防御委員会の2007年勧告:翻訳発行日本アイソトープ協会)


小学生でもわかる国語の問題を出そう。

問)上記の引用文(ICRP2007年勧告)から考えると、「年間2mSvなら住んでも大丈夫と断言」できるでしょうか?

できるわけないのだ。
そんな「断言」ができる根拠など、どこにもないのだ。

「原発に甘い」ICRPでも「1万人が2mSv被曝すれば1.13人は癌で死ぬ」と計算している。

この計算は非常に甘く、まず「政治的な理由」から被害を半分に値切ったことはよく知られているが、さらに、放射能の被害についてきちんと慎重な考え方をする科学者の計算では、その数倍~数十倍の被害になるとされている。
また、放射能による健康被害が癌だけでなく、さまざまな症状として現れることは、チェルノブイリ事故の被害者をみれば明らかでるが、ICRPはそれに触れてはいない。

でもまあここはそれを脇に置いて、ICRPを信じるとしよう。
川内村の人口は3000~4000人くらいだが、4000人として計算すると、年間2mSvで毎年0.452人は癌で死ぬ。
それが6年続けば3人死ぬ。

「たった3人」と思う人もいるかもしれない。
でも、よく言われているように、3人殺せば死刑だ。
人口4000人の村で、6年間に3人もの殺人事件が起こるだろうか?

言っておくけれどこれは、「原発の事故がなくても癌で死んだかもしれない」爺さんや婆さん、つまり年寄りが死ぬと言うことではないよ。
死ぬのは赤ちゃんかもしれないし、小さな子どもかもしれない。
むしろ年寄りよりも小さな子どものほうが癌のリスクは大きい。
これが、放射能の確率的影響というものだ。

しかも、再三言うが、これは「原発に甘い」ICRPの計算である。
原発に甘いICRPでさえ、これくらいは見積もらなければマズいだろう、という数値である。
たぶん実際にはその7~8倍くらいの死者が出るだろうと僕は思うのだけれど、今夜は酔っ払ってその根拠を出せないのでそれはまた今度だ。

いずれにしても細野豪志の「断言」というのは、何に基づいてそんな寝言を言っているのだろう?
「ICRPの言うのは嘘で、もっと正しい科学的データがある」とでも言うのだろうか?
横っ面をひっぱたいてやりたい。

311以後、しばらくぶりに哲学に戻る【その4】

「世界は糞だが俺も糞だ」  「お前は糞だが俺も糞だ」

あるいは

「俺は糞だが世界も糞だ」  「俺も糞だがお前も糞だ」

これが、ロックンロールというものである。

The Clashのジョー・ストラマーは、「パンクバンドと言っていたのに、なぜスカのような音楽をやるのか」という、記者(?)のくだらない質問に答えてこう言った。

PUNK IS ATTITUDE! NOT STYLE!
(パンクはスタイルではない。その姿勢だ)


このことばは、10代だった僕の、その後の音楽観に大きな影響を与えた。

1982年、来日したジョー・ストラマーは、日本語(漢字)で「団結」と書かれた鉢巻きをしてステージに立った。
僕は英語は全然できないけれど、それでも、「Meltdown」や「nuclear error」と歌っているのは聞き取れる。
そう、1979年のスリーマイル島原発事故を歌っているのだ。



今の日本でパンクだと分類されている音楽は、大抵は単なる出来の悪い歌謡曲である。
一生懸命やっているみんなには悪いけれど、どんなに「パンクっぽい音」を出したって「君は悪くない」とか「絆」とか歌い上げているのは決してパンクではないよ。
「君は悪くない」は論外として、「鉢巻きに書かれた団結」と「歌詞にしてしまった絆」の違いがわかるだろうか?
ほんとうに幼稚な今の「一生懸命ソング」よりも、阿久悠さんの昔の歌謡曲のほうがよっぽどパンクだ。

断崖絶壁のぎりぎりまで行かない限り、人は、そここそが崖っぷちだということはわからない。
それをわからない奴が出来の悪い歌謡曲を歌って、わからない奴がそれに共感する。
べつに良いのだが、パンクとはまったく別物である。

ジョー・ストラマー追悼ライヴでの『London Calling』がこれ。
左からスティーヴ・ヴァン・ザント、デイヴ・グロール(元ニルヴァーナ)、ブルース・スプリングスティーン、エルヴィス・コステロ。
結構泣く。


さてと。
哲学の話の続きであった。

前回まで、再三にわたって我々の知識や信念がいかに無根拠かと言うことを書き、「馬鹿」というのは、「無根拠」を受け入れられない人のことである。とした。
そしてその上で、つまり「無根拠」を受け入れた上で敢えて僕は正義を語ろう、という話をした。

僕にとって大切なのは、なによりも「切実さ」である。
もちろん、「切実さ」に根拠なんてないことは百も承知の上での「切実さ」である。

で。
ちょっと遡って話をする。

僕は1980年頃に日本で起こったニューアカブーム以降、現代思想にはまったく興味がなくなった。
ときどき『ユリイカ』とか『現代思想』とか買ってはいたけれど、フランスから輸入されたような比喩で世界を他人事のように語る連中には、正直辟易していた。

つまり、少なくとも僕には、なんにも切実さが感じられなかったのである。

もちろん、哲学や思想をやろうという人たちはそんなに馬鹿ではないから、書いた内容だけでなく、それが流通されたり消費されたりする意味も含めて文章を書いている。
でもそれがかえって、思想をおもちゃのようにガラガラ転がしているだけのように感じられていたのだった。

哲学をする人には大抵特異な動機、たとえばキチガイ願望があるとか、世界がこのように存在することがまったく信じられないとか、そういうものがあるものだと思っていたのだが、なんだか自然科学をやっている人のようなまったくのフツーさしか感じられなくて、そういうのは僕は、見たくもなかった。

90年代、仕事の関係もあって(ジョンレノンが死んで10年経ったし)洋楽を見境なく聴いていたのと、ちょうど00年頃、勤めていた出版社が潰れて暇になり、かつて高校生の頃衝撃を受けたニーチェを読み直し、ていうか僕は外国語はできないので文庫本になったツァラツゥストラを買ってきて拾い読みしたり、永井均さんや中島義道さんの洞察に触れたりして、ああ、僕の原点は哲学とロックンロールだったんだ、とあらためて思ったのだった。

ところがこれまた、この数年間すっかり忘れてしまっていたのだ。

で。
3.11

正直言って、「ここは哲学の出番なのだ」と考えるまでに何ヶ月もかかった。

最初の頃は、怒りとか、なんとかしなくちゃいけないという焦りとかで、ひたすら空回りしていた。
被災地に救援物資を送ったり、文藝春秋に提案して原発・放射能の新書も編集させてもらったり、バタバタしてはいたが、なんとも頭の中で整理がつかなかった。
整理がつかないというのは解答を得られないということではない。
問いの立て方がわからないのだ。

小出裕章さんは
「音楽ができる人は音楽をする。画が描ける人は画を描く。原発に反対する人が、それぞれ自分のできることをやっていってほしいと思います」
とおっしゃっていた。
そこで僕はまず、四半世紀もやってきた仕事である編集者として、原発と放射能に関する本を作った。(今年も何かそれに関わる本を作りたいと思う)
でも、なんというのか、それだけじゃない、という気がしていた。

つまり、僕は、半世紀近くも生きてきて、世界に対してこれほど腹を立てたのは初めてだったからだ

高校生の頃マルクス主義やアナキズムにかぶれて国家権力の打倒を夢見たが、そんなのは所詮ガキの戯言だ。
ところが今回はほんとうに腹の底から(こういう言い方は嫌いなのだが敢えて言えば「実存的」に)怒りがこみ上げてきたのだった。
簡単にいうと、30年も前から忌野清志郎を聴いていたくせに、何も考えてこなかった自分の鈍感さに恥じ入った。
(被害に遭った人とかに対して恥ずかしいのではなくて、まさにこの自分が恥ずかしいのであるが、これを言い出すと無限鏡像の世界に陥るのでここでは書かない)

だから、村上春樹さんが原発事故についてカタルーニャ国際賞の授賞式で言ったように

「我々は腹を立てなくてはならない」
「それと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならない」


ということを肝に銘じた。

僕は当事者なのだから、当事者なりの落とし前をつけなければならない。
それは、本の編集というプロとしての仕事だけでなく、言い換えれば、もし我々が電力や政府の糞どもを成敗することができたとしても、それだけではなく我々自身も成敗しなければならない、ということだ。

なぜならば、「世界は糞だが俺も糞だ」からだ。

「責任」というのは非常に難しい概念なのでここでは深入りしないが、一個の糞として、少なくとも自分で納得のいくような責任の取り方をしなければなるまい。

そう思ったとき、僕ができることは、「考える」ことだった。
もちろん、考えただけでは世界は変わらないが、僕は、革命家はおろか政治家になる器すらないし、芸術家になる才能もない。
でも少なくとも、世の中の多くの人が地下水の出るところまでしか掘っていなかったとしても、僕はその20メートルくらい下までは掘ってみている。
哲学者と言うには浅すぎるが、でも少なくとも「地下水が出たから掘るの終わり」というふうには考えていない。
だったらもっと掘ってみようじゃないか。
というわけだ。

案の定、反原発と反グローバリズムは、地下水のすぐ下でつながっていた。

反原発は、電力会社の地域独占体制に反対する。
もちろん、僕もだ。
ところが、「反・地域独占」を「市場の自由」というふうに解釈してしまうと、「自由競争」「規制撤廃」さらにはグローバリズムの肯定、というふうにつながってしまう。

なぜそんなふうになってしまうのかといえば、「自由といえばそれは市場における自由だ」という、浅はかな固定観念があるからだ。

自然権=すべての人間が生まれながらにして持っている権利、という考え方があって、「生命」とか「健康」とかに加えて、「財産」もそうだ、という意見がある。
ところが、「財産」というのが難しくて、資本主義経済で問題となる「財産」は必ず「市場」と絡んでいる。
で、グローバリズムや新自由主義、市場原理主義の人たちは、「財産権を認めるのなら、市場で財産を増やして何が悪いの?」と言う。

しかし。
「金融資本主義」と言われるように、最近では金融会社はいろいろな金融商品などを作って、財産を持っている人はもっと財産を増やそうとするわけだが、そんな連中が勝手なことばかりするものだから、2007年のサブプライムローン危機をきっかけに世界中が大変なことになってしまった。

サブプライムローンというのは、数学を駆使した最先端金融工学に基づくものであったが、前回の記事で書いたように、そもそも工学にも数学にも絶対的な根拠なんてない。
要するに一種の信仰の上に、砂上の楼閣を作り上げているのが金融資本主義である。
ところが、金融資本主義者どもは「なんとかオイシい金融商品はできないものか」と、それぞれ勝手に金融商品を作るものだから、そのうちどこかが破綻する。
債権の上に債権を乗せて、その上に債権を…などと実体経済を無視して好き放題やるのだから、どれかぶっ壊れて当たり前だ。
しかも、金融市場がグローバル化していれば、その被害は一挙に世界中に拡大する。
それがこのザマだ。
(ギリシアやイタリアを悪く言う人がいるが、真犯人は誰か、もっとちゃんと考えなくてはいけない)

これが何を意味するのかというと、
市場で好き勝手にやらせてはいけない
ということだ。

規制撤廃など論外であり、我々は市場を監視し、適切に規制しなければならないと言うことだ。

この考えが「反グローバリズム」であることは言うまでもないが、「反原発」でもある。

電源三法交付金はもちろん、文科省や経産省経由で湯水のごとく税金を注入し、電力会社はキックバックで役人に美味しい思いをさせる。
我々は、そんな「既得権益者の自由」も規制しなければならない。

つまり、こう思うのだ。

社会的概念としての「自由」は、無制限に認められるものではない。
どうも我々は、ぶっちゃけ「社会的概念としての自由」と「文学的、芸術的概念としての(非社会的)自由」をごっちゃにしているような気がするのである。

そうなると、いったい「自由とは何か?」ということになる。

おお、まさに哲学の出番だ。

こうして、地下水の少し下まで掘ったところで、「反原発」と「反グローバリズム(あるいは反市場原理主義)」とが、「自由」という哲学的な問題で結びつき、次の「問い」として浮上する。

「自由とは目指すべき価値として妥当であるか」「そもそも自由は可能か」「我々はどういう「こと」に対して自由と名付けているのか」などなど。

もちろん、哲学は人の役に立つために(目的論的に、あるいは功利主義的に)存在するのではない
しかし、ときには役に立つかもしれない。
僕は哲学者ではないが、そんな希望を少しだけ持っている。

さてと。

311以後、しばらくぶりに哲学に戻る【その1】【その2】【その3】と続けて、今回が【その4】であるが、【その1】のときから、読んだ本のことを書こうと思っていたのに、前説が長くなりすぎてすべて先送りしていたのであった。

今夜もいい加減酔っ払ってダウン寸前なのだけれど、【その1】のときから何冊か読んだので、忘れないうちに一生懸命書いておこう。
泥酔なので文章がおかしかったらごめんなさいだ。

【その1】の頃に読んだ本。
今、多くの人々が「世の中には絶対なんてないよ」という「相対主義」を、無根拠に信じている。でも、それを突き詰めるとどこに辿り着くのか?
丁寧に綴ってあるので、予備知識も不要で誰でも読める哲学書だ。

著者、入不二さんの本はこれまで、『時間は実在するか』と『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか (シリーズ・哲学のエッセンス) 』を読んでいるのだが、ちょっと生意気言わせていただくと、僕的にはウィトゲンシュタインを経た人の書くものは理路整然としていてとても気持ち良い。
ていうか、もしかしたら大変失礼な言い方になってしまうかもしれないけれど、どこからどのように文章を壊していって、(ウィトゲンシュタインの言うような)「語り得ぬもの」に辿り着くか、というような緊張感が、とてもずしんと腑に落ちてくるのだ。


そこで二週間くらい前に、入不二さんの『哲学の誤読 ―入試現代文で哲学する!』を読んだ。
実際の大学入試の国語の問題で使われた、現代日本の哲学者(野矢茂樹さん、永井均さん、中島義道さん、大森荘蔵さん)の文章ついて、入試問題でのその抜粋の仕方、設問、代ゼミや駿台、河合塾などの回答例を緻密に分析している。

かなり呆れるのだけれど、北海道大学2000年の入試問題には、入不二さんに指摘されるまでもなく、僕でもわかるレベルの「間違った問い」がある。わかりやすくいえば、「回答が存在し得ない設問」だ。
これはひどい。
出題者が哲学のことを知らないから「あり得ない問い」が出てきた、ということではない。
ただ単に文章をちゃんと読んでいないのだ。
哲学ではなく読解力の問題であり、これに付き合わされた受験生はあんまりだ。

まあそれはともかくとして、『哲学の誤読 ―入試現代文で哲学する!』はとても良い本だ。

まず、文章というものをきちんと分析するというのはどういうことか、しっかり教えてくれる。
その意味では受験生は必読であるし、もう受験なんかしないというオトナの人たちも、論理的な文章というのはこういうふうにできている、ということを知るためにぜひ読んでほしい。
ビジネス書で「論理的な話し方」みたいな本が売れているが、ビジネス書の「論理的」とは、単に「わかりやすさ」のことのようだ。
「論理的」とは、「馬鹿でもわかる話し方」のことではない。
僕のブログなんかは酔っ払って論理もへったくれもないが、「論理的な文章」にきちんと触れてみたい方はぜひどうぞ。

また、野矢茂樹さん、永井均さん、中島義道さん、故・大森荘蔵さんというのは、現代日本のほんとうにすぐれた哲学者である。
この本で取り上げられた4人の文章を追っていく、それだけでもかなり水準の高い哲学的議論になると思う。
野矢さんも永井さんも中島も大森さんも、「哲学は哲学として妥協なく闘う」という油断も隙もない文章を書く。
いつのまにかこっそりと「現実のシステム」に準じた話に持ち込んで誤魔化す、というようなズルいやり方は決してしない。(僕はよくやる)
そこがすごい。

この4人の哲学者の本はそれぞれ何冊かずつは読んでいるので、すこしだけ紹介する。

論理学/野矢 茂樹
¥2,730
Amazon.co.jp
哲学は「ことば」によってしか語れないのであるから、「ことば」について考えなければならない。
大学の教養課程の論理学の教科書としても多く使われている野矢茂樹さんの『論理学』は、その入門書として秀逸である。


中島義道さんはカント研究の第一人者であると同時に、哲学の私塾を主宰して哲学で闘い続けている人である。 僕は『どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか? 』や『働くことがイヤな人のための本』などといった、いわゆる一般向けの本しか読んだことがないのだけれど、でも、「どうせ死んでしまうのになぜいま死んではいけないのか?」というのは、まさに、哲学的な問いだと知るべきである。


大森荘蔵さんは東大で物理学と哲学を学んだ人だ。
生涯をかけて、現代を蝕む科学主義と闘ってきた人だ。
1977年に亡くなったのだが、もしも今生きていて、福島第一原発の事故を目の当たりにしたら何を語るのか、僕はとても知りたい。ほんとうに知りたい。
考え方は異なっても、現代日本の第一線の哲学者の多くが、大森さんから直接的にせよ間接にせよ、何かを学んでいる。

今、酔っ払っているので不確かだけれど、日本語のウィトゲンシュタイン全集は、大修館から出たものだけのはずだが、大森さんがそれを編集した。
著作は多数あるが、どれも難解な哲学用語を使わずに日常語で語っている。
まずは、『流れとよどみ』かなあ。
あとは、昨年秋に『大森荘蔵セレクション』が発売された。(僕は三分の一くらいは底本で読んではいるのだが、『大森荘蔵セレクション』は買ったけどまだ読んでいない)


永井均さんはもの凄く頭が良い人なのだと思う。
厳密であるからこそ、そこから漏れ出てしまうものを示す、というような文章を書く。
僕が今考えている哲学的規範ともいうべきものは、永井さんから教わったものがほんとうに多い。
読んだことのない方は、『<子ども>のための哲学』をぜひどうぞ。
「なぜ僕は存在するのか」という存在論、認識論的な問いと
「なぜ悪いことをしてはいけないのか」という倫理学的な問い。
このような「はじめの一歩の<切実な>問い」を真摯に考えるというのがどういうことなのか教えてくれる。

永井さんと言えば、こんなこともあった。
どこかで実際にあった殺人事件の被告が、永井さんの本に影響されたと言ったらしい。
つまり、「なぜ悪いことをしてはいけないのか」という問いに対して、我々は合理的に説明する術を持たないのだ。
「それならばやっていいじゃん」と彼は思ったのだろう。
行為は法律で裁けても、彼のその考えを、常識的な人々や道徳的な人々は、決して裁けない。
永井さんの哲学は、殺人を誘発するくらい素晴らしいのである。
念のため誤解のないように言っておくが、これは皮肉ではないよ。掛け値無しに哲学が素晴らしいから、こんな事件も起こるのだ。
(被害者親族の気持ちなどというのはまったく別次元の話なのでここでは書かない)

永井さんの本を読もうという人には、書かれた年代順に読むこををお勧めする。
たとえば『私・今・そして神 開闢の哲学』という本が講談社現代新書から出ている。
新書というと、普通は専門ではない一般の読者を対象にするものなのだけれど、この本から読み始めた読者は、かなりの哲学的な訓練がないとついていけないと思う。
哲学とは「する」ものであるから、どんどんその姿(ことば)を変えていく。
だから、哲学者の考えを吟味していくためには、彼(彼女)と一緒に考えていかなければならない、ということだ。


『哲学の誤読 ―入試現代文で哲学する!』に掲載された大学入試問題での、4人の哲学者の本についてはここまで。
それ以外に最近読んだ本をざっと紹介しよう。

もう眠いから簡単にね。


生きる技法/安冨 歩
¥1,575
Amazon.co.jp
東大卒の馬鹿(官僚とか電力とか)の思考回路がいかに下品であるかを綴った『原発危機と東大話法』については一ヶ月前の記事で書いたけれど、その著者、安冨歩さんの本。
帯に書いてある「『助けてください』と言えたとき、人は自立している」ということに集約されると思う。
とても「切実な」本だ。
でもそれゆえ、その「切実さ」を共有できる人にしか伝わらないのではないか、という気もしてしまう。


原発関係は、ちょっと遠ざかっていたが、新刊なのでこの本は読んだ。僕は、最近はさぼっているが、去年の秋くらいまでは東電や政府がどんな嘘をつくのか、聞き漏らすまいと思っていたのだ。
その結果、日本という国のシステムが芯から腐っていることがよくわかった。
今はもう、政府や電力のいうことは嘘ばかりだと知っている人も多いが、この本を読むとあらためて怒りが沸き起こってくる。


ええとごめん。
もう寝ますね。

ほんとうは
東浩紀さんの『一般意志2.0』と、田島正樹さんの『正義の哲学』踏まえて、正義論でもぶちかまそうと思っていたのだけれど、それは次回だ。

311以後、しばらくぶりに哲学に戻る【その3】

先週の土曜日は「脱東電オフ~うんこの会~」(http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65786472.html )に3次会の途中から顔を出したのだけれど、『ざまあみやがれい!』(http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/ )の管理人、座間宮ガレイさんに、「前回の記事『311以後、しばらくぶりに哲学に戻る【その2】』(http://ameblo.jp/jun-kashima/day-20120207.html )面白かったです」と褒めていただいた。

そこで、読み返してみた。
褒めていただいたのはありがたいけれど、典型的な酔っ払い文章だなあ。
駄目親父が赤提灯で後輩社員に垂れている説教みたいだ。
本人的には言いたいことは一貫しているつもりなのだが、酒の勢いで思いついたことを思いついたままに次から次へと語るので、聞いているほうはうざいだろう。
すいませんでした。

でもまあ、せっかくなのでもう少しこの話を続けよう。

前回も書いたように、
「馬鹿」というのは、「無根拠」を受け入れられない人のことである。

およそ「なにか」の正当性を根拠づけるためには、その「なにか」の外側に、その正当性をジャッジする物差しがなければならない。
たとえば、サッカーのルールの正当性は、サッカーのルールの中にあるのではない。
ルール第一条に「このルールは正当である」と書いてあっても意味がないのである。
そうではなくて、「『我々』がそれをサッカーのルールとして承認する」という外側からの保証がなければ、正当性は決して担保されない。

前回は、あらゆる科学の法則は「これまでこうだった」という、経験に基づくものにすぎないことを書いた。
たかだか、これまでの経験に基づき、我々の「ことば」で語り得ることだけを語ったものにすぎないのである。
ところが、自然科学をやっている人の中には、「世界(全宇宙というような意味で)にはそもそも秩序があって、科学(人間の理性)が、それを一歩ずつ解明しているのだ」などと本気で思っている人がいる。

「世界にはそもそも秩序がある」なんていう突飛なことを、科学は証明したのか?
といえば、もちろんそんなことはない。
ていうか、科学がそれを証明することは原理的に不可能なのである。
なぜならば科学の正当性は、これまでの有限回の経験によってしか保証され得ないからである。

西洋近代科学は「神」という絶対者を捨てることから始まった。
それまでは、「万能で絶対ですべてでもある「神」(すなわち「合理的」でもあるはずの「神」)が作った世界なのだから、そこには究極の秩序(あるいは合理的な法則など)が存在していて当たり前だ」とされていた。
ところが、ガリレオが教会に弾圧されながらも「それでも地球は回る」と言ったように、絶対者を措定するのではなく、経験によって語り得ることしか語らない、という原理を、近代科学は採用したのである。
その時点で「世界にはそもそも究極的な根本原理が存在する」などという考えを「科学では語り得ぬもの」として放棄したのであった。

ところが実際に科学をやっていると「宇宙の究極の法則」のような観念を捨てがたい人も多いらしい。
たとえばオウム真理教の事件には一流とされる大学の理系を出た連中がたくさん関わっていたが、彼らは、科学をやりながらも、科学を超えたもの、科学では語ってはいけないことを求めてしまっていたのだと思う。

彼らは「無根拠」を認められなかったのだ。
はっきり言って、どんなに偏差値が高かろうが、そんな奴らは「馬鹿」である。

科学の話が出たから、数学の話もしておこう。

ちょっと話が外れるけれど、科学で問題になるのは「因果関係」である。
日常の日本語で言うと「だから」とか「ならば」のような接続詞で語ることができる。
「電源を喪失して原子炉に冷却水を送れなくなった」だから「冷却水が蒸発して熱くなりすぎた核燃料が溶けた」という具合だ。

ところが、日常語の「だから」や「ならば」などには、まったく違う使い方もある。
論理学の教科書の最初のページに書いてあるような例。

A)すべての人間は死ぬ
B)ソクラテスは人間である。
C)ゆえに(だから)ソクラテスは死ぬ。

大変初歩的な話になってしまうけれど、これは「因果関係」ではない。
「論理関係」あるいは「理由関係」とでもいうべき関係である。
「因果関係」と「論理関係」はまったく違う。

因果関係というのは文字通り、原因と結果である。
原因があって結果があるのだから、原因が先で、結果が後だ。
原因と結果が同時、ということがあり得るのかどうか、僕にはよくわからないけれど、時間軸のない因果関係は基本的にはない。
というか、原因である事象と結果である事象は別の事象なのである。
それを結びつけるのが「因果関係」であり、我々は通常、「時間的に、まず原因があって、だから結果が生まれる」と考える。
因果関係の外側に(ある意味それを支えるものとして)「時間」があるのだ。

またまた話が脱線するが、因果関係において原因と結果の前後が逆転する可能性を考えられるのか、というのも哲学的には興味深い話である。
たとえば、「祈り」によって世界が変わるという宗教的な因果関係を信じている人が、津波のニュースを聞いたとする。
彼は、沿岸部に住む親戚や友人たちが無事であることを祈るであろう。
でもそれは「すでにもう起きてしまったこと」、つまり通常の時間軸で言う「過去」に対して「こうあってほしい」と祈っているのだ。
現代の日本で生きている大抵の人は、宗教的な因果関係に基づく彼の信念を馬鹿馬鹿しいと思うかもしれない。
ところが、実際に津波が起きたとき、それでも我々は、「親戚や友人が被害に遭っていませんように」「なるべく多くの人が助かりますように」と「過去」に対して祈りはしなかっただろうか?

話を元に戻そう。
「因果関係」には時間軸があるが、「論理関係」はそうではない。
「a=b」で、「b=c」ならば「a=c」
というときに、そこには時間の流れはない。
この関係は、ただちに成立する、というより、すなわちただ端的に「イコール」なのであって、「ただちに」というような時間軸が入り込む隙間すらない。

一応付け加えておくけれど、論理関係の「中」に、「時間のパラメータ」を入れることは可能である。
たとえば「t」というような表現で、論理の中に前後関係を入れたりだとか。
でもその場合も、その論理がどんなに長い式で記述されていようが、「t」はその論理の中の問題であり、論理全体は「すなわち」という時間軸のない(その外側に時間軸を措定できない)ものである。

そしてようやく、数学の話になる。

数学は「因果関係」ではなく「論理関係」である。
最終的には「これまでこうだった」という経験の中から因果関係を見つけ出したに過ぎない科学とくらべれば「論理関係」である数学は信用に足る、と思うかもしれない。

でも、そんなことは決してない。

現代の科学にとって(あるいは経済学などの文系の分野にとっても)、数学は欠かすことはできない。
まあそれ以上に、我々の日常的な感じ方では「右側にリンゴが2つあって、左側に1つあるなら、全部で3つ」というのは自明のことのように思える。
しかしながら、このように「実際に1つずつ数えていく」というのは数学の中でも非常に特殊な例であり、しかもそんな特殊な例も含めて、あらゆる数学の考え方は「無定義語」や「公理系」といった、仮定に基づいている。

たとえば「線」とは何だろうか?
幅が0.00000001ミリでもあったら、それは「純粋な線」ではあり得ない。
「線」の概念には「幅(太さ)」が存在してはいけないのである。
ところが、「幅のない線」などというものを、我々が想像することはできない。
つまり「線」とは、「幅のない線は存在するか」などといった形而上的な問いをしてはいけないものとして、数学の論理の中に措定(簡単にいえば仮定)されたものなのである。
だから、数学的な「線」を根拠づけるものはなにもない。
にもかかわらず、我々は「線」の存在を前提として、数学を組み立て、それを科学や経済学などに活かしているのである。

再三脱線して申し訳ないのだけれど、自然数論というとても基礎的な数学の中にもとんでもない問題が潜んでいたということを証明したのが、ゲーデルの不完全性定理である。
自然数というのは「リンゴが1つ、リンゴが3つ」の1や3のように、我々が自明と捉えるものであるが、それを論理的に組み立てていくと、その論理の中で「その論理自身が矛盾しているかしていないか、その論理自身では証明できない」ということが証明されてしまったのだ。これをいうと専門家から怒られるかもしれないけれど、乱暴な言い方をするとまあ自滅的である。
僕は詳しくは語れないので、これまで読んだ中で入門書としては『ゲーデルの哲学 (講談社現代新書)/高橋 昌一郎 』など。興味のある方はどうぞ。

ときどき、数に人知を越えた神秘を見いだす人がいる。
たとえば、素数の並び方が宇宙の星の並び方に似てるみたいなやつ。
オカルト的な思考をする人はこう言う話が大好きだが、これは正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。
というか、もし正しいにしても正しくないにしても、数学とは関係ない。
数学とは、根拠なき無定義語や公理系から演繹した体系に過ぎず、もしも素数の並び方と星の並び方が一致していて、それに何らかの意味があるとすれば、それはもはや数学が語る問題ではない。

念のために言っておくけれど、自然科学は数学を用いるが、それはたとえば物の位置や運動量を計算するために取り入れているのであって、科学が数学の正当性を証明する、ということはない。
もしも、自然界に存在する何か(たとえば星)の位置が素数の並び方と完全に一致した、ということが科学的に実証できたとしても、科学的な実証というのはそもそも実験、観測に基づいて「これまでそうだった」ということに過ぎないのだから、それは数学に根拠を与えることになどならない。

いずれにしても、数学でさえ無根拠である。

科学と数学をやっつけたから、理系はこれで良いだろう。
文系でも、経済学や社会学なんかは、「社会科学」といわれるくらいで、科学の方法論、すなわち経験則に基づいている。
所詮、それだけの話で、問い詰めればもちろん、それらも無根拠である。

経済学など、根拠がないばかりか間違えまくる。
2008年に世界的な金融メルトダウンが起こるまでのこの20~30年ばかりの間、新自由主義や市場原理主義を唱える経済学者たちは、自分たちが主張する経済思想はまったく正しく、この考え方で世界経済はノープロブレムだと言い続けてきた。
高度な数学テクノロジーで証券化されたサブプライムローンも、「貧乏人は金を借りれてハッピー、金持ちや金融屋は証券で儲けてモアハッピー」と考えられていたのだった。

ところが、破綻してしまった。
2008年11月、英国女王エリザベス二世は、世界でも屈指の頭脳が集まるといわれるロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを訪問した際、
「なぜ誰も予測できなかったのですか?」
と、素直な質問をした。
それに対する経済学者たちの答はこうである。

「内外の頭脳明晰たる多数の人々の集団的想像力が、システム全体にたいするリスクを把握しそこなったからです」
(『世界経済を破綻させる23の嘘/ハジュン・チャン 』より)

「想像力」とは呆れたものだ。
『世界経済を破綻させる23の嘘』著者のハジュン・チャン氏が

「私はこの20年間経済学を教えてきたが、経済学で想像力について論議されているのを見た覚えはあまりない。集団的想像力についての論議はとりわけ覚えがない」

と語るのはもっともである。
金融屋が儲けるために勝手な金融商品を作るのも「市場における自由」であり、それこそが経済を成長させる、というのが、市場原理主義者どもの「想像」ではなく確固たる「理論」であったはずだからだ。
ちゃんちゃらおかしい。
馬鹿な日本では今でも、市場原理を信仰する信者たちが規制緩和だとかTPPだとか言っているけれど、いい加減にしていただきたい。

市場原理主義経済の悪口を書き始めるときりがない。
法律の話をしよう。

中目黒の駅の近くは、外で煙草を吸ってはいけないことになっている。
たぶん、区の条例で決まっているのだろう。
つまり、「区はそういう条例を作ってもよろしい」という、その条例を根拠づける法律が国にはあるはずだ。

というように、法律の根拠という話をすると、その法律のさらに上位の法律が根拠である、という話になりがちだ。
そうすると、最後には憲法ということになる。
では、憲法には根拠があるのか?

ここで言いたいのは「米国に押しつけられた憲法には根拠がない」といった問題ではない。
そうではなくて、どのような成立過程にせよ、そもそも憲法が根拠を持ち得るのか、という話だ。

たとえば、国民投票で成立した憲法であったとしても、それが正当であるというためには、
「国民投票という方法が憲法の定め方において正当である」ということの根拠が必要となる。
「直接投票での多数決というのが民主主義の基本だから」と言えば、では民主主義を正当化する根拠はどこにあるのか、という話になる。

もう面倒くさくなってきたのでいちいち書かないが、法律だって、所詮そんなものだ。

このように考えていくと、科学も数学も法律も、何事も無根拠だと言うことになる。
(さらにいえば、「道徳」や「倫理」の問題、慣習やことばのような「規則」「ルール」の問題も大いにあるのだけれど、今回は書かない)

僕がそういうことを言うと、多くの人が「お前は極端だ」という。
「それを言っちゃあおしまいじゃないか」
というわけだ。

でも、それは、まったく逆だ。
「それを言っちゃおしまい」ではなく、「すべてはそこから始まる」のである。

「無根拠のくせして、現に、このように、ある」
ということ。
同時に、
「現に、このように、ある。けれど、所詮は無根拠だ」
ということを、受け入れること。

そこから、我々はようやく出発できるのだ。

前回も書いたけれど、無根拠を受け入れられない人(馬鹿)が、安易に何かを受け入れてしまう。
たとえば、人生や世界には究極の目的があるはずだと、くだらない宗教に走ったりする。
「ほんとうの自分探し」みたいなのも同類だ。
今の自分は「ほんとう」ではなくて、どこかに「ほんとう」があるはずだ、という考えはカルト信者と同じようなものだ。
「自己啓発」みたいのが好きな人も多いけれど、これもたぶん、目的論的に人生を捉えるという意味では宗教と似たようなものだろう。
市場原理主義者が財産権を絶対なものとみなすのも、なんの根拠もない話なのであるから、一種の信仰だ。

最初に書いたけれど、およそ「なにか」の正当性を根拠づけるためには、その「なにか」の外側に、その正当性をジャッジする物差しがなければならない。
ところが、あらゆる物事を突き詰めて考えれば、「そのさらに外側」に物差しを想定することはできないのだ。

じつは今の時代、「何事も無根拠だ」と言うことを頭で理解している人、あるいはなんとなく気付いている人はとても多い。
でも、もし彼らが「何事も無根拠」であることをわかっていたとしても、「だから何もしないよ」ということであれば、彼らは今現実のシステム(法、秩序、体制、ルール、力関係など)を追認している、ということになる。

ここから先は「正義論」の話だ。
「すべては無根拠だ」ということを前提として、敢えて語る「正義論」の話だ。

ほんとうに何もしたくないのであれば死ぬしかないのであって、この世界に生きていて「何もしない」というのは、「何もしない」という選択肢を選ぶことによって世界に関わっていることであり、「この現実が正しいのだ」と認めていることにほかならない。

もちろん、弱ってしまった人たちはいるだろう。
原発事故で家を追われ仕事をなくし希望を失って「何もしたくない」という人たちに、「何もしない奴にも責任がある」とは言えない。
弱っている人を責める資格など、誰にもない。

これは他人事ではなく、システムの強大さに対して、我々の力はあまりにも小さい。
だから僕も、正直かなりへこたれてはいるのだけれど、それでも、時間はかかるかもしれないけれど、戦略を考えようと思う。

ええと。

哲学の話をしていたのに、いつもながら酔っ払って筆が走った。

最近読んだ哲学関係の本とかのことを書こうと思っていたのだが、それはまた今度ね。

311以後、しばらくぶりに哲学に戻る【その2】

前回、『311以後、しばらくぶりに哲学に戻る【その1】』という記事 を書いたのだが、【その2】で何を書きたかったのか忘れてしまった。

ええと、今回は原発には触れません。
だらだら長い哲学じみた話なので、どうぞスルーしてください。

さて。

「馬鹿」というのは、「無根拠」を受け入れられない人のことである。

学生時代だからもう四半世紀も前、僕はそう確信した。
最近、哲学の本などを読み返していて、やっぱりその通りだと思う。

たとえば、「水を熱していたら蒸気になった」というのは、今の科学では「水は1気圧のとき100度を超えると蒸気になる」という法則があり、なかには「それが根拠だ」と言う人もいて、そういうの(自家撞着)にいちいち文句をつけるつもりはない。
しかし、「水は熱すると蒸気になる」というのは、どこまでいっても経験から帰納法で導かれた法則にすぎない

世の中には数え切れない出来事があるが、その中で「もしかしたら、これとこれは関係あるんじゃないの?」というものもある。
つまり、Aという出来事が「原因」で、Bという「結果」になったのではないか? と仮定できるわけだ。
たとえば、水という液体に熱を加える(A)と、ある段階で気体になる(B)、ということが繰り返されれば、Aが原因でBという結果になったのではないかと経験的に推測できるわけで、そんな仮定に基づいて、次は実験をしてみる。
すると、何回実験しても思っていたとおりの関係となった。
これが、因果関係であり、「実証された法則」(α)である。

次に、Cという出来事のあとにDという出来事が起きる場合、CとDは直接関係ありそうにないけれど、「実証された法則」(α)を真だと仮定すれば理にかなう。そこで、何回も実験した結果、Cが原因でDが起こった、という因果関係(「法則αを前提とした法則β」)が実証された。
このようにして、法則γ、δ、ε、ζ…も、同様に法則とされた。

もちろん、ときどき、法則αと矛盾する実験結果や、そもそも法則α、γ、δ、ε、ζ…すべてが前提としている仮定が違うんじゃないの、という場合が出てくる。

前者の場合、たとえば、水を「これだけ」熱していると蒸気になったという法則αにもかかわらず、高い山に登って水を熱してみたらあっという間に沸騰した、では、山に登ったことで何が変わったのかと考えてみる。山は木が多いからなのか、宇宙に近いからなのか、頂上は周りの区間が広々としているからなのか…。
そうして試行錯誤し、いろいろ実験をした結果、気圧の差だと言うことがわかる。
そこで、法則αを修正して、法則α’とする。(「水は1気圧のとき100度を超えると蒸気になる」というふうに)

後者の場合はたとえば、「法則α、γ、δ、ε、ζ…」すべての法則の体系<Z>について、これはもしかしたら、今我々が生きているこの地球上で容易に測定できる出来事のみにしかあてはまらない「特殊」なものなのではないか。
そうやって、古典的な物理学大系<Z>は、特殊相対性理論であり、より普遍的な一般相対性理論<Z’>の中で消化されるわけだ。

量子力学というとちょっと僕には手に負えないが、乱暴に言えば「物の『位置』と『運動量』は初期条件で決定される」というのがそれまでの物理学だったのに対して、これを同時に測定することはできない、という考えだ。
完璧なピッチングマシンがボールを投げ出したとき、ホームプレート上でのボールの「位置」と「運動量」は計算し得る、というのがこれまでの物理学の考え方であったが、宇宙のような大きすぎる対象や、素粒子のような小さすぎる対象にはこれはあてはまらない(不確定性原理)、というわけだ。

また量子力学では、光や電子は、「粒」であると同時に「波」である。
一般的な言語(たとえば日本語)では、「粒」は物の一種であり、「波」は運動の在り方である。カテゴリーが違う。

カテゴリーが同じであれば「これは、リンゴであり、同時にミカンでもある」というのは現実的にも十分可能(リンゴとミカンを掛け合わせた果物はあり得る)だし、「粒であり机であり、パソコンでありミカンでもある」というのも、まったく可能である。(比喩で言っているのではなく、論理の可能性として正当である、ということ)。

ところが、「これは、『ミカン』でもあり『飛ぶ』でもある」というのは、意味のない文章だ(念のため言っておくけれど、「ミカンが飛んでいる」ということでは決してない)。文法的に間違っている。
つまり、「粒であり波である」というのは、我々の日常言語ではあり得ない存在の仕方なのである。

ところが、我々の日常言語を基に誕生し、発展した論理学、さらにそれを洗練していった数学。そこでは、「粒であり波である」ということが、文法的にも正しく表現し得る。
日常言語では恐ろしく不適当であっても、数式ではできるのだ。
もちろん、我々の言語である数学(日常言語ではなくとも)で表現された「仮定」が、実験の積み重ねで「実証」されれば、それが「法則」とされる。

科学の法則というのは、言語(日常言語から数学まで)で仮定された論理を、有限回の実験によって証明したものである。
ていうか、ただそれに過ぎない。

先月、名古屋大学とウィーン工科大学のチームが「量子力学の不確定性原理には欠陥があり得る」ことを、実験で証明し、ニュースになった。(http://mainichi.jp/select/science/news/20120116ddm003040063000c.html
何が大事なのかと言えば、「実験でわかった」ということである。

量子力学というのはある意味懐が深いというのか、なんでもありというところもある。
僕は昨日は横浜に行って靴を買い、中目黒でワインをちょっと飲んで徒歩で帰って、今、焼酎甲類に梅干しを入れて炭酸で割って飲んでいるのだけれど、横浜に行かなかった可能性もあるし、行っても靴を買わなかった可能性もあるし、横浜に行って靴を買ったけれど中目黒でワインを飲まなかった可能性もあるし、横浜に行って靴を買い中目黒でワイン飲んだけれど徒歩ではなくタクシーで帰った可能性もあるし…と考えると、「こうでなかった」可能性は無限にある。

この例は「昨日」という過去のことで、過去、現在、未来などという時間論を取り込むと話が複雑になりすぎるのでそれは無視して話をするが(ついでに言っておくと人の意志の問題もここでは棚上げする)、僕がもし昨夜ワインを飲まなかっただけで、世界の在り方はまったく違っていたはずだ。

「僕がもしワインを飲まなければ野田政権は崩壊しただろう」というような大袈裟な話ではないよ。「風が吹けば桶屋が」というような大層なことを言わなくとも、初期状態が同じなのに僕が今いる場所が1ミリ違っただけで、決定論的世界観は致命的なダメージを受ける。

決定論的というのは、古い考えの科学主義のことだ。
世界(もちろん地球上の国々のことではなく、人の脳味噌の中から全宇宙まで)は因果律に支配されており、Aという出来事が原因でBという出来事が起こるということの積み重ねであるとすれば、すべては予め決められている、ということになってしまう。

それに対して、「そんなことはないよ」と量子学は言う。
世界の認識というのは重ね合わせでしかありえない。ニュートン力学的なレイヤーだけではなく、ほかのレイヤーもいろいろある、ということだろう。
だから量子力学は、決定論ではなく確率論の話をすべきだ、ということにもなる。

それゆえ量子力学では「如何様にもあり得る」ということを全肯定した「多世界論」というのも成立する。
世界は分岐し、無限に存在するのだ。
SFのような話だけれど(それが真剣に論じられているというのが理論物理学の素晴らしいところだ)、そういう「多世界」世界観も可能なのだ。

でもなぜ、みんながそうは信じていないのかというと、これは実験によって証明されないからである。

現代の物理学は、高度な数学テクニックを駆使して理論を構築したりする。
なので実験が追いつかない。
実験をしようとすると、地下にもの凄く長いトンネルを作って、その中で素粒子を飛ばすとか、とてつもなくお金がかかる。
だから、毎レース、第四コーナーを回っても「理論」と「実証(実験によって実際にそうかどうか明らかにする)」のどっちが先にゴールするのかわからないような状況に常にあるのだ。
理論が先走ることもあれば、実験でそれが覆されることもある。

しかし、「論理」(仮定)は如何様にできても、それが実験で証明(実証)されなければ、法則にはなり得ない。

多世界論を鼻で笑う人もいるが、そういう人の大抵はくだらない常識に毒されている。
じつは多世界論、あるいは(話は飛ぶけれど)様相論、可能世界論というのはちゃんと洗練されていて、まったくもってもっともな話だったりするわけだ。
でも、実証(実験によって、あるいは事実によって証明)されなければ「法則」にはなり得ない。

僕の悪い癖は、前書きが長いと言うことだ。
いつも飲みながら書いているので、どんどん酔っ払う。

ここまで前書き。

で、本題。
を書く頃には酔いが回っていてまともな文章が書けない。
まあいいか。

いずれにしても科学というのは、仮定→実験→実証ということだ。
水の沸点から量子力学に至るまで、それは変わっていない。
「仮定」が「論理的にあり得る」としても、「実証」、すなわち「実験してみたら実際にこうだったよ」がなければ、仮定は仮定のままで、法則にはなり得ない。
みんなが信じている物の道理は、単に経験的にそうだった、というだけの話なのである。

その一番わかりやすい例として、科学を挙げたのであったが、そんなものは、たかだか経験に基づくものでしかない
仮定を立てて100万回実験しても同じ結果になりました、
という帰納的な事実にすぎず、1,000,001回目(百万一回目)に、まったく違う結果になるかもしれないという可能性を否定することは、科学には原理的にできない

これが科学の本質であり、宿命的な限界である。
「神」のような「絶対者」を信じていないのであれば当然である。

もちろん僕は、科学を全否定したりはしない。
つまり、科学そのものを「善」だ「悪」だというつもりはない。
だけど、いつだったか、自然科学をやっている人が
「世界(もちろん宇宙も含めて)にはそもそも秩序がある。我々はそれを一歩ずつ明かしている」
というようなことを言っていて、心の底から驚いた。
人間にはそんな力はない、という意味ではない
「世界(宇宙もすべて)にはそもそも秩序がある」なんて、なにを根拠にそんなことを言っているのだろう?
神を措定しない限り、それは言えない。

要するに、すべては無根拠なのである。

おっと。「馬鹿」と「無根拠」の話であった。

「無根拠」を受け入れ、正視することができるか?

それができないような奴が、ほんとうの馬鹿だ。
無根拠の深淵を直視できずに、何とか理屈をつける奴のことである。

前回(だったか)、ニヒリズムのことを書いた。
世の中には絶対的な価値なんかない。だからどうでもいいよ、と、すべてを投げ出す姿勢をニヒリズムのように言った。
これはちょっと違っていて、前回書いたときも、「相対主義を突き詰めればくだらないニヒリズムになんかならない」と言ったつもりだが、別のことばでもう一度書いておこう。

相対主義を突き詰めることができないような馬鹿、つまり、無根拠の深淵を直視できないような中途半端な奴が、現状を追認する自分だけを許し、へらへらと他人を馬鹿にしている。

僕には、哲学を語るだけの力はないし、ちゃんと哲学をしている人から見たら幼稚園レベルの文章だろう。
けれど、なるべく平易なことばで書こうと思っている。
「カントにおける物自体」とか「ヘーゲルの言う観念」とか言い始めると、知らない人はさっぱりわからないし、中途半端にわかっている人が自分の勝手な概念地図の中にそれを置いて語り始めると収拾がつかない。
だから、手に負えるところだけ書く。

でも、ここでは少しだけ専門的なことばを使わせてもらうけれど、僕が不勉強で知らないだけなのだと思うが、英米の分析哲学、もっとはっきり言おう、ウィトゲンシュタインの流れの哲学の中に、原発を止めるだけの力はあるのだろうか?

そんなことを言って笑われるかもしれないのは百も承知だ。
僕自身、大陸系の哲学に馴染めなかったのは、ことばの使い方もあるけれど、同時に、そんなことばで世界に現実的にコミットメントすることに、かなりに違和感があったからだ。

このブログのタイトル『語り得ぬものについては沈黙しなければならない』(Whereof one cannot speak, thereof one must be silent)は、ご存知のように、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の最後のことばである。
『論理哲学論考』は、明確な階層構造(ツリー構造)になっていて、
1 「世界とは、そうであることのすべてである」(僕が最も好きなこの翻訳は永井均『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書))から始まって、
1~7の第一階層の下に、1.xxxxのように、第五階層くらいまで連なっていたりする。

ところが、第一階層「7」だけは、
7 「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」(Whereof one cannot speak, thereof one must be silent)
以上、それだけである。下の階層はない。

こういうセンチメンタルな書き方をすると「馬鹿か」といわれるかもしれないが、ウィトゲンシュタインはずっと、「語り得ぬもの」を「語り得ぬ」としたまま生きて、死んだ。
それは、ことばの(端的な)外側だからである。

もちろんこれを「生き方」とイコールで結ぶことには、僕はかなりの抵抗がある。
でもそれでも、「ことばの(端的な)外側」のことなんか考えもしないような連中が牛耳る、つまり無根拠の深淵に立ち止まったこともないような馬鹿どもがしたり顔で(あるいはニヒルに)追認するシステムに対して、哲学が黙っていてはいけないとも思うのである。

311以後、しばらくぶりに哲学に戻る【その1】

基本的に本は借りずに買う。
なぜならば、折り目をつけたりラインを引いたり、あるいはバーや居酒屋で飲みながら読んで、焼き鳥のたれをこぼしたりするからだ。

しかも、今ではネットで簡単に本を買えるので、読んでいる本の中に別の本が紹介されていて面白そうだったり、この著者のほかの本も読みたいと思うと、勢いで注文してしまう。
そうしていると、読むスピードより買うスピードが上回ってしまい、常に未読の本が部屋に転がっているという状態だ。
ただし、興味の方向というのはあまりぶれることはなかったので、転がっている本もそのうち読む、というふうにやってきた。

ところが、311以後、読む本がガラッと変わってしまった。

原発、放射能から始まって、政治、経済などなど。

正直言って、そういう「現実的な本」は、高校以来ほとんど読んでこなかった。
なぜならば、興味がなかったからである。
たとえば、政治家は嘘つきだし役人は小狡い、財界はカネのことしか頭にないことはわかっていたけれど、それ以上考える気にはならなかったのである。
小泉政権やライブドア事件などがあった00年代前半には、新自由主義や市場原理主義は完全に間違っていると思ったので関連する本を読んだりはしたけれど、まあそれくらい。
しかもその問題意識も、政治や経済というよりリバタリアニズムの思想、というほうに向いていた。

つまり、僕が関心のあるのは哲学や思想(このふたつは違うものだ)であり、現実のくだらない政治や金持ちどものことなど、どうでもよかったのである。

なので、小説とか哲学の本とか、あとは文芸論とか、そんな本ばかり転がっていたのだけれど、原発が爆発して事の重大さに気づき、政治家や役人、電力の連中が思っていたよりもはるかに悪質だと知り、なおかつ僕自身も当事者としての責任を全うしたいと考えるに至り、その後、原発から始まって、「けの字」も知らなかった経済まで、「現実的な本」ばかり読むようになったのであった。

そうして10ヵ月。
僕はやっと哲学に戻ってきた。
もちろん、原発のことがどうでもよくなったからではない。
そうではなくて、ほとんど直感だけれど、「そろそろ哲学の出番だろう」という気がしてきたのだ。

ひとつには、このブログでは何度も書いてきたが「反原発はイデオロギーではなく『生き方』の問題である」というテーゼである。
これは、小出裕章さんに教わった。
去年の夏は本を作るために小出さんについて回っていたのだが、いろいろお話をさせていただく中で、原発問題の核心は「放射能は怖い」という次元などではなく「どう生きるか」ということだと思い知らされた。

「生き方」というのは哲学の大きなテーマでもある。
大昔、ソクラテスは「だた生きるのではなく善く生きよ」と言ったが、そういうことである。

真善美というのが、西洋思想に脈々と流れる三つの価値だ。
西洋思想というのは基本的に二項対立なので、対義語を考えると意味がわかりやすい。
すなわち、
「偽」に対する「真」。
「悪」に対する「善」。
「醜」に対する「美」。

日本語にするとちょっと紛らわしいところもあって、たとえば「『1+1=2』は正しい」の「正しい」は、「偽」に対する「真」である。それに対して「正しい行い」の「正しい」は「悪」に対する「善」(倫理的価値)である。

「反原発は『生き方』の問題である」というときにまず立ち上がるのは、「善」(善い生き方の善)の問題である。

僕はじつは、真善美でいうと、一番関心があったのは「真」であり次に「美」。
「善」のことはあまり考えなかった。
ニーチェはキリスト教を「奴隷の道徳」と言ったが、キリスト教に限らずあらゆる道徳は、善人面した奴隷道徳なのではないか、と密かに思っていたからだ。
ある意味これは、僕がこれまで平穏無事に生きてきたからだろう。

ところが、「善」を考えなければならない時がきた。
すなわち、「悪」の存在が明らかになったのだ。

あとは、この前の記事でも書いたけれど、安冨歩さんの『原発危機と「東大話法」』を読んで触発されたというのもある。
安冨さんは哲学と言うよりもっと横断的に研究している方だが、彼の言葉を借りれば「魂」を脱植民地化しなければならない。これはすなわちRock'n'rollのことであり、同時に哲学の問題でもある。
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さらにいうと、我々、21世紀の日本人は、くだらない個人主義とニヒリズムに侵されてしまっている。

確かに、個人主義というのはある時代、システムに対する強力な武器であり得た。歴史的に見れば、近代個人主義で獲得された自由は大きい。
だけど、少なくとも僕の見聞きする限り、21世紀の日本で「個人主義」などという時代遅れのことばを使う、あるいはそんなふうに考えている、さらにはそれを資本主義的リバタリアニズム(市場における個人の自由こそ最も尊いとかいう考え)にしてしまうなどというのは、ろくでもない。

また、ニヒリズムというのは有り体に言えば、諦めと判断放棄で良しとする考え方、生き方である。

このようなくだらない個人主義とニヒリズムの根っこには、相対主義がある。
「絶対的に正しいものなんてない→ニヒリズム」、「だから、俺は俺、君は君→個人主義」というわけだ。

ところが、ここではっきり言わせていただくが、今時個人主義やニヒリズムが導き出されるような薄っぺらい相対主義などというのは、ガキの妄想だ。
相対主義なら相対主義で良いが、それを貫徹させれば、決してくだらない個人主義やニヒリズムにはならない。(同様に、個人主義だって存在論的に突き詰めれば、「俺は俺、君は君」などという愚かな結論には至らない)

下衆な個人主義と腐ったシステムが結びついたとき、政府や役人、電力に見られる嘘、隠蔽体質や、排他的同調主義を生み、ニヒリズムが「どうにでもなれ関係ねえよ」という無関心を生む。
だから原発はなくならない。

以前にも紹介したと思うけれど、ロッキング・オンの渋谷陽一さんが作っている季刊誌『SIGHT』2011秋号は「私たちは、原発を止めるには日本を変えなければならないと思っています」がテーマであった。
SIGHT (サイト) 2011年 11月号 [雑誌]/著者不明
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これは、まったく正しいと思う。
ただ僕は(もちろん渋谷さんもそう思って本を作っているはずだが)、日本を変える=システムを変える、という単純な話ではないと思う。
システムを変えなければならないのは当然だけれど、そのためには哲学、倫理、生き方が変わらなければどうしようもないと思う。

ええと。

書こうと思っていた本題はこれからなのだった。

さっきも言ったように、真善美といえば、311まで僕の一番の関心は「真」であったのだが、原発事故後はもっぱら「善」のことを考えるようになった。
でも、いろいろ考えたのだけれどやはり真善美はばらばらにできるようなものではなく、「善」のためにも「真」や「美」も考えなければならない、と事故から10ヵ月経って思うのである。
そこで、311以前に買ったものの読んでいなかった本を読んでいる。

入不二基義著『相対主義の極北』(ちくま学芸文庫)
相対主義の極北 (ちくま学芸文庫)/入不二 基義
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この本ももつ焼き屋で読んだので、レバ刺しの胡麻油がページに垂れてるし。

それはともかく、今、日本人の多くが無意識に信じている表層だけの「相対主義」を論駁し、それを突き詰めるとどのようになるのかを「示して」いる。

そのことを書こうと思っていたのに、前説だけで長くなりすぎた。
今夜は寝ます。あ、もう朝か。
また今度。