語り得ぬものについては沈黙しなければならない。 -13ページ目

ナニワ・サリバン・ショー

今日は原発ネタではありません。ロックンロールについての感傷的な文章なので、関心のない人はスルーしてください。

さて。

『ナニワ・サリバン・ショー』を見に行った。

都内でやっているのは新宿と立川だけで、立川はあまりにも遠いので新宿に行ったのだけれど、上映は23:45の一回だけだ。
つまり、映画が終わったときには電車がない。
これじゃあ子どもが見に来れないじゃないか!!

というわけで、さすがに日付をまたいでの上映なので場内はがらがらだったのだが、パンフレットは売り切れていた。
いわゆるシネコンで、いろんな映画が上映されているのだが、パンフレットが売り切れていたのはこの映画だけだった。
普通ならばパンフレットというのは、予想観客数に対して一定の割合で供給されているはずである。
たぶん、ほかの映画と違って、見た人の多くがパンフレットを買って帰ったのだろう。
つまり、ほんとうに見たい人が集まったのだろう。
僕も欲しかったのに…。

ところで。
僕は映画通では全然ないけれど、それでも作品の評価についてはかなり厳しい。
学生の頃は自主映画を作っていた。
今NHKエンタープライズにいるN君が監督で、僕が脚本を書いた。
第一稿が上がってから撮影に入るまでの約一ヶ月間、N君と僕は毎晩何時間も酒を飲み、脚本の一字一句まで検討した。
翌日、僕は昨夜の議論を踏まえて脚本を直し、その晩それを持っていってまた飲む、という繰り返した。

要するに、僕らは学生だったが、プロの監督と脚本家がするような脚本の練り込みをしていたのであった。
さすがにそれだけやるのだから、自主映画のコンクールでは毎年必ず賞をもらった。
それで僕は、「脚本くらい書けるんじゃん」と自惚れてしまったのだったが、大学を出て15年くらい編集者をやったあと、とある著名な脚本家の先生について勉強をし直したとき、自分の脚本術がまったく見当違いだったことを思い知らされた。

先生の語ることは目から鱗だった。
なるほど僕が好きな映画は、こんなホンだから僕は好きになったのだ、と手に取るようにわかった。
ところが、いざ自分が書こうとすると書けないのである。

そんなわけで僕は、自分には才能がないのだなと思うに至ったのだが、それでも、他人の作品を見たときには「良いホン」と「駄目なホン」というのが明確にわかるようになった。
言うは易く行うは難しであって、自分では書けないくせに、他人の作品の評価だけはかなり正確にできるのが僕だ。

何が言いたいのかというと、
そもそも『ナニワ・サリバン・ショー』というのは2001年、2004年、2006年の3回、忌野清志郎がミュージシャン仲間を集めて大阪城ホールで行ったライブである。
そして、映画の『ナニワ・サリバン・ショー』は、「2011年に4回目の『ナニワ・サリバン・ショー』が行われる」という話である。
それを聞いていた僕は、映画にストーリー(ドラマとしての脚本)があるのだと思っていた。
で、「そんなお話を作っても上手くいかないだろう」と、密かに期待して「いなかった」のである。
清志郎のライブ以上に力のあるホンなんて書けるわけがない、ということでもあった。

映画にしても演劇にしても小説にしても音楽にしても、プロフェッショナルがギャラをもらってする仕事については、どんな評価も甘んじて受けるべきである、と僕は思っている。
仕事というのはそういうものだ。
ときどき「ズブの素人に評価されても困る」というような芸術家気取りがいるが、趣味でやっているのではなくそれで飯を食っているのであればそれは「仕事」であり、万人の酷評に晒されても然るべきだ、と思うのである。

だから、生半可な情報で「『ナニワ・サリバン・ショー』という映画はストーリーを軸としたドラマだろう」と決め込み、「でも『ナニワ・サリバン・ショー』にお話をくっつけたって上手くいくはずがない」と思っていた僕は、映画が始まる前までは、「きっと残念な感想しかもてないだろうからブログに書いたりするのはやめておこう」と思っていたのだった。

ここまでが前口上。

いつもながら大変長くてだるい前口上だが、ブログはギャラをもらっていないのでこれでもいいのだ。

と、言い訳をしたところで、本題。

とても良い映画だ。

清志郎はライブでピースサインをする。
それは、「愛と平和」の意思表示なのだが、「夢と希望」でもある。

さっきの話に戻るが、この映画は、「2011年に4回目の『ナニワ・サリバン・ショー』が行われる」という「設定」(反実仮想)ではあるが、底の浅いストーリーがしゃしゃり出てくるようなものではなく、むしろ、素直にライブを楽しむ映画なのであった。しかも、ジャストワンアイデアだけれど、最後には笑って泣ける構成になっている。

「夢と希望」のことだった。
それこそ、言うは易しである。
そんなことばは誰でも吐ける。
ところが、ほんとうに「夢と希望」を伝えられる人は、極めて少ない。

ええと。
映画を見終わったら午前2時だったので、歌舞伎町のロックバーに行ってガンガン飲んで酔っ払って帰ってきて、今も飲んでいるので難しいことは言えない。
俗な言い方をするが聞いてくれ。(だからロジックはありません。重箱の隅をつつくような反論はしないでくださいね)

たとえば、「善」を語るためには「悪」が必要なように、あるいは「美」を語るには「醜」を測ることができなければならないように、「夢と希望」を伝えるためには、それ相応の絶望を知っていなければならない。
「闇」を知らない人には「光」の素晴らしさがわからない。
絶望を知らない人がことばでどんなに「夢と希望」を垂れ流しても駄目だ。
「闇」を知っている人が「光」を語るからこそ、そのことば(あるいは音楽でも映像でも何でも良い)は、闇の中にいる人にも届くのである。

中学生の恋愛相談であれば、すべてのオトナは「俺にもそんな頃があったなあ」と思い出して、くだらないアドバイスのひとつやふたつはすることができる。
でも、我々は中学生ではない。
もう何十年も生きてきて、それぞれが他人に言えないもの凄く大変な経験もしている。
上っ面で「夢を持とう」「希望を持とう」とか言われたって、1ミリも救われない。

ところが、あるとき、琴線に触れる歌があった。
歌われている物語の境遇は自分とはまったく違う。
それでもその歌を聴くと涙が出てしまう。

脚本の先生はそれを「泣きボタン」と言った。
関係ないが、かつて手塚治虫さんの担当だった大先輩の編集者のMさんも「泣きボタン」という同じことばを使った。

「ここを押されると泣く」
みんな、そんなボタンを持っている。
しかしそれは、普段は決して見せない。隠している。なぜならば、簡単に泣かされたくないからだ。泣いてばかりじゃ生活もままならない。

酔っ払いついでにもっと俗な言い方をするよ。

でも、人生の中で何回かは、そのボタンを押されてしまうことがある。
親しい人が押すこともあるが、ときに、会ったこともない、ていうかたまたまラジオから流れていた歌に、不意を突かれてボタンを押されてしまうこともある。

「この歌を歌っている人は私のことは何もわかっていないけれど、でも、一番大事なことをわかってくれる」

そうして、闇の深さを知っている人の歌う歌は、多くの人たちの泣きボタンを押すのであった。
「夢と希望」をつなげるのであった。

そう、それが、ロックンローラーの特権なのだ。
忌野清志郎という、類い希なるロックンローラーが為し得たことなのであった。

話を映画『ナニワ・サリバン・ショー』に戻そう。

僕は仕事でときどき大阪に行くのだけれど、泊まるホテルは決めている。
ホテルが好きと言うより、その街が好きなのだ。
というより、その街の飲み屋が好きなのだ。

いつも行く高架下のバーのマスターは、僕と同じく清志郎支持者で、僕と同じく原発に憤っている。僕が編集した、小出裕章さん、黒部信一さんの本(文春新書)も、彼はいつの間にか買ってくれていた。
去年の夏頃、彼が「清志郎の映画にエキストラとして出たんです」と言っていた。
憂歌団の木村充揮さんとかが芝居するシーンを天満のおでん屋さんで撮影したとき、客のひとりとして映っているのだという。
「へええ」と何気に聞いていた僕だったが、映画を見てびっくりした。
「思いきりでてるやんけ!」(変な大阪弁)

おでん屋さんのシーンで、木村充揮さんたちと乾杯しているのが、彼、まっさんです。
憂歌団に負けないその存在感。
一般人とは思えない彼の濃さ。

まっさんには「目立ちすぎだよ」とメールしておいた。

twitter再開

twitterを再開しようと思う。
@jun_kashima

震災直後にアカウント登録して、その後主に被災地へ救援物資を送るためのやりとりなどをしていたのだけれど、twitterというのは情報共有のためのツールとしてはすごいと思うのだが、議論にはあんまり向いていない。
少なくとも僕の場合は、だらだら長い文章を書くので駄目だ。

1400字書くのは楽だが、140字というのはとても難しい。

仕事としてコピーを書くときには、数文字くらいのものを作るのだけれど、当然、たった数文字のためにものすごく時間がかかったりする。
別の例、雑誌で言えば、数文字というのがタイトル。
僕は今じゃこんなだらしない文章を書いているが、雑誌のデスクをやってたときには、若い編集者に三日三晩駄目出しをして、タイトルの練り直しを命じていたのであった。

で、140字といえば、タイトルの横にあるリードである。これは、雑誌であれば本文が別にあるからパキッと書ける。
でも、140字それだけで何か述べるというのは、まあ、原稿料いただければやりますけれど、そうじゃなければたいへん面倒くさい。
やはり、まともな言論には短すぎるのだ。
140字の原稿×20本をまとめてtweetしたりして人に迷惑をかけたりしたこともあるので、twitterはもういいや、とほったらかしにしていたのであった。

だが先週、第5回「脱東電オフ~うんこの会~」(http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65784172.html)に(二次会からだけれど)行ってみんなと話をしていたら、全員twitterやっているので、俺も再開しようかな、と思うに至ったのであった。

というか、まあ僕はあんまりtweetはしないと思うけれど、原発問題を含めて、これからの日本をどうするのか、ということについては、今後ますます「情報戦」になっていくと思うので、一兵卒としては第一線にいなくちゃいけないな、と思うのである。

さて。

今日は福島県二本松市の家の薪ストーブの灰から結構な量のセシウムが出た。
この前の放射能マンションでちょっと怖がっている人もいるみたいだけれど、言っておくが、今後もあちらこちらから限りなく出るぞ。
覆水盆に返らずだ。
我々は、とんでもないことをしでかしてしまったのだ。

年末、原発の状態や周辺の放射線量などをリアルタイムで監視するERSS(緊急時対策支援システム)というシステムが丸一日以上ダウンした。
全国すべての原発を監視しているシステムである。
だから、もしもこのシステムがダウンしている間にどこかの原発で事故が起こったら、大変なことになっていたかもしれない。

まず第一点。

コンピュータシステムというのは、ものすごい分量の式で構成されている。
たとえば、パソコンのアプリケーションでも100メガくらいの容量のものは普通にあるが、100メガというと104,857,600、つまり半角英数で1億文字以上である。
もちろん、画像や動画などの「重いデータ」を含んでいるせいでもあるが、それらを差し引いても、数千万文字分はある。
これらが(単純にイコールではないけれど)、アプリケーションを動かす「式」であって、ある場合には、その中の数千万分の一文字間違えただけで、プログラムはストップしたり、無限ループに陥ってしまう。

僕のパソコン歴はたかだか20年弱だが、以前のソフトにはそんなバグも多かった。
最近ではかなり良くなったけれども、それでもOSがフリーズすることもある。
聞いた話だけど、何千人規模のWindowsの開発チームには、前向きに次のことを研究するチームと、すでにリリースされたものにバグがないかどうか日夜チェックしている後ろ向きのチームがあって、後者のチームがときどきバグを発見して、WindowsUpdateでみんなのパソコンをこっそり直しているらしい。

何が言いたいのかと言えば、原発を見張るERSSは、人命に関わる大事なシステムなのだから、当然かなり念入りに作られているのだろうけれど、それでもバグはあり得ると言うことだ。
あらゆる機械(もちろん原発も)には故障の可能性があるのと同様だ。

二点目。

報道によると、ERSSがダウンしたのは「データを保存するメモリ領域が不足したことがトラブルの原因」(http://sankei.jp.msn.com/science/news/120111/scn12011119430002-n1.htm)だったらしい。
詳細はわからないが、これは、ソフト自体が悪いのか、扱う人間が悪いのか、そのどちらか(あるいは両方)である。

ソフト自体というのは、このような大事なソフトであるならば、事前に「もうすぐメモリ領域がなくなりますよ」というアラートを出して然るべきだからだ。

これは、式を間違えたというような単純なバグではない。
事故前、政府や電力は「原発は五重の壁があるのでなにがあっても放射能は漏れません」などとふざけたことを言っていた。
五重の壁とは、燃料を固めた「ペレット」、燃料棒の外側の「燃料被覆管」、「原子炉圧力容器」、「原子炉格納容器」、「原子炉建屋」の5つであるが、福島第一原発事故では、その五重の壁がことごとく破壊された。
それと同様に、ERSSソフトの開発者も、たぶんいろいろなリスク回避の方策を施したつもりだったのだろう。
でも、メモリ領域(というのがなんのことかわからないが…)が一杯になってシステムがダウンすることは想像できなかったのだ。

つまり、式がどんなに完璧であっても、それを設計する人間というのは完璧な存在ではあり得ないので、常に、システムダウンは起こり得る。

扱う人間が悪かったのかもしれない。
定期的にメモリ領域(なんのことだろう?)をリセットしなければならなかったのにもかかわらず、忘れていたのだ。

まあどっちにしても人がやる以上完璧ではあり得ない、どころか、原発が爆発するという重大な事故が起きた後だというのに、誰も気をつけていなかったのだし、こんなメモリ不足(?)のようなきわめて単純なトラブルが起こる。
そういうものなのだ。

三点目はやはり、原子力ムラの腐りきった体質だ。

なにしろ、原子力安全・保安院はこのトラブルを一日以上公表しなかったのだ。
隠したかったのだとすれば確信犯であり、まさに犯罪といって差し支えないだろうが、「年末で気の緩みがあった。反省している」と陳謝したらしい。
それはそれでもっと問題だ。
人命がかかっているのだ。「年末の気の緩み」ですむ話ではない。
原子力ムラでは一事が万事この調子のようだが、担当者はちゃんと処分されたのだろうか?

さてさて。

ERSSの話だけれど、年末の件を書きたかったのではない。

昨日の報道でご存知の通り、事故当時、福島第一原発では、原子炉の状況など各種データをリアルタイムでERSSに送信する装置(MC=MediaConverter)の非常用電源がつながっていなかった。
そのため、地震発生直後の原子炉のデータを収集、送信できなかった。
なぜ非常用電源がつながっていなかったのかと言えば、ケーブルの長さが足りなかったからだ。(一度配電ミスがあって、直そうとしたら長さが足りないことに気付いたという)

これだけで充分笑えない笑い話だが、その先がある。
MCは、普段は原発一号機から電力をとっているので、それまでは問題なく動いていた。
だからいいだろう、と思っていたらしい。
要するに、緊急時に必要な装置なのに、原子炉が止まるというそれこそ緊急時には使えないようになっていたのだった。
停電のときのための非常灯の電源をコンセントから取っているので肝心の停電のときには電気がこない、というような話だ。
『東電は「送信装置へは福島第1原発1号機から電気が送られており、非常用電源は緊急性が高いとは思わなかった」と釈明した』らしい。(http://www.jiji.com/jc/zc?key=%a3%c5%a3%d2%a3%d3%a3%d3&k=201201/2012011900443
おいおい。
釈明になっていない。

さらにそのまた先もある。
ケーブルの長さが足りない、ということがわかった設置工事のときには、原子力安全・保安院の検査官が立ち会っていたのに、MCが非常用電源に接続できていないことに気がつかなかったらしい。

さらにさらにその先もある。
最初は気がつかなかった間抜けな原子力安全・保安院も、事故後検証をしていた夏頃には、MCが非常用電源につながっていなかったことを知ったのにもかかわらず、これまでずっと隠してきたのだ。
『保安院が未接続を把握後も公表しなかったことについて、森山善範原子力災害対策監は「私自身が知らなかったので、機会を逸した」と弁明した。』(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120119-00000593-san-soci

「私自身が知らなかった」というのは、嘘をついているか、もしくは「原子力安全・保安院というのは、そもそも大事な情報を共有できない駄目な組織なのです」と認めているということだ。

まさに「俺のせいじゃないよ」と言いたげな森山善範というのは、原子力安全・保安院が「やらせ質問」工作をしたとされる中部電力の原発(プルサーマル)シンポジウムに出席していたにもかかわらず、すっとぼけている人物だ。(http://www.jiji.com/jc/zc?k=201107/2011072900456&rel=y&g=soc
常に保身に必死なんだな。

政府は、SPEEDIのデータを公表しなかったことについて、「原子炉の正確なデータがなかったから云々」と言っている。
福島第一原発のMCに非常用電源が接続されていなかったことは、今後彼らの言い訳のひとつになるのだろう。

でも、政府は、国民に知らせるずっと前に、米国にだけはSPEEDIのデータをスピーディーに(笑)知らせていたことが明らかになっており、それもあって米軍は風下から逃げたりしていたようだ。
要するに、日本は米国の属国なので、政府は福島の人たちより米国との関係を優先したのである。
沖縄の人たちより米軍基地を優先するのと同じだ。
「これは大変なことになった」というときに、まず知らせるのは国民ではなく、米国なのである。

SPEEDIのデータ隠しが物語るのは、日本という国は、国民の生命・財産よりも、「今のシステムの維持」(米国との関係や原子力ムラの温存)のほうが大事だということである。

小出裕章さんは昨日の『たね蒔きジャーナル』で、「ERSSが動かなかったことがSPEEDIが動かなかったことにものすごく重大に影響したとは思いません」と言っているが、それは、「もしERSSがちゃんと動いていたとしても、政府はSPEEDIのデータを国民には公表しなかっただろう」

そういうことだと思う。

でも、昨日の『たね蒔きジャーナル』の小出さんの発言に、僕は素人ながらひとつだけ付け加えさせていただきたいのは、もし福島第一原発のMCの非常用電源が生きていて、地震が起きてから津波に襲われるまでの間の原子炉の情報がERSSに送信されていたとすれば、「原発が津波の前に地震で壊れていた」ことが裏付けられたのではないか、ということだ。
田中三彦さんの指摘のように、津波の前の地震で配管に破損があったと考えれば、その後の数値はすべて辻褄が合う、ということもシミュレーションによって政府は(たぶん嫌々ながら)認めている。
つまり、津波がなくても原発はやられるわけで、今回の事故は想定外でもなんでもなくて、今の安全基準はまったく駄目であり、ストレステストなんか以前に、今の安全基準で立てられた原発はすべて停止しなければならなくなるのである。
ERSSのデータが、それを証明したかもしれない、と思うのだ。

小出さんからいただいた年賀状には
「滔々と流れる歴史の中で、自分を恥じないように生きたいと願います」
とあった。

ほんとうにその通りだ。
僕は無力だし、最初に書いたように140字を乱発するような才能もないが、こうやってだらだらでも、何か書いていこうと思う。

ほんとうは、twitterを再開するにあたって、僕が何をしているのか、ちょっとした自己紹介のようなものを書こうと思っていたのだけれど、それはまた今度。

あと、今、ニュースをチェックしたら、東電の実質国有化について「過半数を社外取締役に」という方向で検討しているそうだ。(http://www.47news.jp/CN/201201/CN2012011901001988.html
僕を社外取締役にしてくれないかなあ(笑)。

国有化と言うことについてはいろんな議論がある。
その根っこは「国」というものをどう捉えるかだ。
これも、語るべきテーマではあるが、また今度。

海洋汚染と「放射能マンション」

昨夜のNHKスペシャル『シリーズ原発危機 知られざる放射能汚染~海からの緊急報告~』を見た。
海底の汚染は、福島第一原発近くはもちろんのこと、千葉県までかなりひどい。
東京湾にも河川から流れてきたセシウムが溜まってきている。
うろ覚えだけどたしか、河口付近の海底からの土は2000ベクレル/Kgくらいのセシウムが検出された。
川を伝わってゆっくり海に流れてくるので、シミュレートすると、一番汚染がひどくなるのは2年2ヵ月後だそうだ。
さらに、東京湾は閉じた形だから、その後もなかなかセシウムは薄まらないらしい。
僕はもうオヤジで、寿司は大好きだから気にせず食べるけれど、子どもには江戸前は注意しなければならない。

去年7月に完成した福島県二本松市の新築マンションの室内で、最大1.24μSvの放射線量が測定された。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120116k0000m040066000c.html
年換算すると10mSvを超える、屋外よりも高い数値である。
原因は、汚染された石で作られたコンクリート。だからもう、線量を減らそうとすればマンション自体を壊すしかない。

どちらも、原発事故のすぐ後には指摘されていた事態である。

少なくとも僕が編集して9月に発売された『原発・放射能 子どもが危ない』 (小出裕章・黒部信一著 文春新書) には、魚の汚染についても、「放射能マンション」についても書いてある。
原発・放射能 子どもが危ない (文春新書)/小出 裕章・黒部 信一
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マンションの件は、住んでいる女子中学生がたまたま自分の線量計で測ったから発覚したわけだけれど、だから当然、計測されていないだけでほかにもそんなマンションはたくさんあるはずだ。
僕はコンクリートというのがどういうふうに流通しているのかまったく知らないのだけれど、もしそれが広域であるとすれば、福島県外にも新築の放射能マンションがいくつもあるだろう。

呆れてしまうのは、海洋調査にしても汚染コンクリートにしても、国はなんにもしていないということだ。

秋に汚染された藁を食べた内部被曝牛が、結局全国に流通し、はるか離れた四国の幼稚園や小学校の給食にも使われていたことがわかったが、そうなって始めて、大慌てで調査をし、「今は調べているので安全です」と開き直る。
そのときとまったく同じことを繰り返している。
コンクリートが汚染されるなんて言うのは、小出さんの指摘がなくてもちょっと考えればわかることなのに、事故から10ヶ月間、なんの対策もしてこなかった。

まったく腐った国である。
なにが「収束宣言」だ?
当然、こういうニュースは世界中に伝わるわけで、「日本というのは国民の生命や健康のことなんか全然考えていない国なんだ」ということを、全世界に知らしめているのである。
恥ずかしいと思わないのだろうか?

原発危機と「東大話法」

家に帰ったら郵便受けにamazonから『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語』(安冨歩:著)が届いていた。
原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―/安冨 歩
¥1,680
Amazon.co.jp
読みかけの本が何冊もあるので今夜は前書きだけ、と思ってページをめくったのに、一気に読み終えてしまった。

僕は熱力学第二法則やエントロピー、ガイア理論などについてはまったくわからないのでそれらについては何とも言えない。
だから特に、第5章(終章)に書いてあることについてはコメントできないし、著者の安冨さんが言わんとしていることの核心を大きく掴み損ねているかもしれない。

でも、この本は面白いよ。

「東大話法」ていうか、「原子力ムラ話法」の欺瞞について書いてある。
なぜあいつらは、平気で嘘をつくのだろうか?

僕はこれでも物書きなので、ことばの使い方についてはそれなりに神経を使っている。
ええもちろん、今も酔ってますよ。
今夜はこの本を読みながらウィスキーハイボール一杯と缶ビール500ml、梅干し焼酎を4杯飲んで、今は8杯目。良い気分だ。
だがしかし、どんなに酔っ払っていようとも、物書きとしての矜持というようなものがある。

どういうことかというと、「これはこう言う」「こんな言い方は決してしない」という最低限の線引きがあるのだ。

ブログは原稿料もらえないので、構成考えないし推敲もしない。酔って書いているので、翌日「ちょっと暴走したかなあ」などと思うことはよくある。
でも、基本的に、過去のブログを修正したりしない。
ことばが足りなかったり、逆に過剰だったりはするけれど、言ってはいけないことは言っていないはずだからだ。
明らかな数字の間違い(ここ←でもありました)とかは直すけれど、修正したらその旨書いておく。
どういうことかというと、偉そうだけれど、自分のことばには責任を持つべきだと思うのだ。
それがせめてもの誠実さだと思うからだ。

だから、原発事故を巡る東電や政府の記者会見とか見ると、「こいつらはなんでこんなに不誠実なのだろう」とつくづく思う。
再三宣伝のようで申し訳ないけれど、僕が編集した『原発・放射能 子どもが危ない』 (文春新書) のあとがきで書かせてもらったが、原発事故後、テレビで見る御用学者連中が嘘つきだと言うことは一目瞭然だった。
そんな中、youtubeで見た小出裕章さんは、なによりも「誠実なことば」を語っていた。
真偽の問題以上に、大事なのは語ることばの誠実さなのだ。
だから、当時はマスメディアに取り上げられなかった小出さんの「誠実なことば」を、ネットを見ないような人たちにも伝えたくて、この本を作ったのだった。
原発・放射能 子どもが危ない (文春新書)/小出 裕章・黒部 信一
¥798
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『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語』の話に戻ろう。
たしか古賀茂明さんだったか(違ったかな?)が、官僚がどんな行程を経てどんな無責任な文章を作るのか書いていたが、本書を読むと、なるほど原子力ムラの連中は、東大在学中からこんな「東大話法」を叩き込まれてるんだな、と、腑に落ちるのである。
なによりも、日本の権力中枢にいる連中が、こんな思考回路なのかと思うとかなり怖い。

僕は15年くらい編集者をやっていたが、もしも作家やライターが、『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語』で例として取り上げられている「東大話法」原稿を書いてきたら、必ず書き直しか、もしくは「没」である。
奴らの書くことばは、それだけひどい。
本書は、その核心に迫っていく。

あとは、日本人にとっての「立場」ということば(あるいは観念)についての考察はとても鋭い。
つまり、原子力ムラの連中は、「自分のことば」ではなく「自分の立場のことば」しか言わないのだ。
これは本書には書いてなかったけれど、もっと端的に言うと、奴らは一人称では話さない。
東電や、政府、経産省の連中が原発関係で「私は~」から始まる発言をしたのを聞いたことがあるだろうか?
つまり、すべて三人称の他人事(本書では傍観者と言っている)なのだ。
今の日本というのは「立場主義」である、というのが本書の核心だと思うのだが、ほんとうにまったくその通り。
奴らのこの無責任さはいったい何なんだろう、と思っていたのだったが、本書の「立場主義」ということばに、ああなるほど、と大きく頷いたのであった。

ついでだから言っておくと、以前、バーで酔っ払って原発容認の人と喧嘩になりそうになった話を書いたけれど、なぜそんなことになったのかといえば、僕が彼の「立場」そのものを否定しようとしている、と彼が感じたからなんだな、と思うのであった。

それから(念のため言っておくがここから先は、著者安冨さんのことばではなく僕のことばだが)、考え方、思想、主義、主張などというのは、たかだかことば「でしかない」。
言い換えれば、ことばにならないようなものは、そもそも考え方、思想、主義、主張ではない。

たかがことば、である。
でも、されどことば、だ。

ことばが、我々の考え方を規定しているのだ。

だからこそ、311以後、我々には「あたらしいことば」が必要だろう。
…ということを以前宮台眞治さんにお話ししたら、宮台さんは「ことばだけが変わっても、『悪い心の習慣』(宮台さんのことば)が変わらなければどうしようもない。終戦で『民主主義』という『あたらしいことば』が入ってきても、結局根本的には変わらなかった」とおっしゃった。
その通りだと思うけれど、たぶん、同じことを言いたいのだと思う。

酔っているので話が飛ぶけれど、僕は「絆」ということばが震災以後流行したのがとても薄気味悪い。
だって、「絆」なんて、一生のうちでそんなに何回も言うことばじゃないよ。
安売りしてはいけないことばが、安売りされているのだ。

被災地に行って惨状も見たし、被災者の人たちの姿には涙が出た。
でもそれでも、僕は「絆」なんて言えない。
ほんとうに絶望している人を目の前にして、「絆」なんて言って、何になる?

論理や科学ではなく、ただただ正直に語ること。
僕は、それだけだと思うのだ。

『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語』の前書きには、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の最後の一節
Whereof one cannot speak, thereof one must be silent.
という命題が取り上げられている。

おお、このブログのタイトルでもある。

安冨さんは「(語り得ないことについて)語ろうとすることは、無意味であるばかりか、それ自体が、冒涜なのです」と書いているが、僕はちょっと違うと思う。
ウィトゲンシュタインはたしか、「梯子を取り払ってしまわなければならない」と書いたが、梯子はかけておくべきだし、ウィトゲンシュタイン(僕的には20世紀最大の哲学者)を乗り越える(もちろん僕には到底無理だけれど誰かが)ための次の梯子が必要なのであり、おっと、梯子というとちょっと違うな、あたらしいレイヤーで、語り得ぬことを語ろうとしなければならない、と思うのである。(もちろん、オカルトとかではない)

読み返したらかなりの悪文だが、まあいいか。

最後はベタな曲。

『ROCKIN'ON』~原発に反対して、中年オヤジが立てる中指とは?

原発問題でこのブログを読んでくれている人も多いみたいですが、今回は原発関係はほぼ書きませんのでスルーしてください。
今夜はロックンロールの話。

さて。

いつも酔っ払って書いているので、この前のブログでは、数字の桁を間違えてしまい、翌日慌てて訂正したのだけれど、その日に限らず僕はいつもブログは書いたら書きっぱなしなので、ちょっと心配になってこの何ヶ月分かのブログを読み返した。

で、思ったのだけれど、ときどきyoutubeから音楽を引っ張ってきているのはだいたいが邦楽だ。
だからなんだか邦楽ファンみたいに思われているかもしれないが、実際は邦楽はほとんど聴かない。

一番多感な高校生の頃の愛読誌は『ROCKIN'ON』と『ビックリハウス』だった。
(『ビックリハウス』を知らない人はWikipediaとかで調べてください。学生時代、僕が生まれて初めて原稿料をいただいたのが、『ビックリハウス』の掌編文学賞「エンピツ賞」受賞後第一作。あと、ずっと前にも書いたけどこのブログの僕のプロフィール写真は、『ビックリハウス』に載ったのをスキャンして緑色に加工したもので、つまりもう30年前のものですよ)

セックス・ピストルズが『Never Mind the Bollocks』(邦題:勝手にしやがれ!!)を出したのが1977年だが、その翌年高校に入学した僕は、『ROCKIN'ON』を読んで、「なるほどロックな生き方とはこういうものなのか」と学んだのであった。
中学校までとりあえず親の言うように受験勉強をして第一志望の私立難関校に合格した15歳の僕は、世界に構造(らしきもの)があること自体知らなかった。
ましてや、それに対して闘う「生き方」があるなんて、考えもしていなかった。
『ROCKIN'ON』がそれを教えてくれたのである。
さらにまた、「ロックを語ること」のカッコよさに、僕はとことん痺れたのであった。

余談になるけれど、2001年に公開された『ALMOST FAMOUS』(邦題:あの頃ペニー・レインと)という映画があって、15歳の少年が『ローリングストーン』誌のライターになる話なのだけれど、泣くね、僕なんかは。
あの頃ペニー・レインと (1枚組) [DVD]/パトリック・フュジット,ケイト・ハドソン,ビリー・クラダップ
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いずれにしても『ROCKIN'ON』を読んだ高校生の僕は、語らなくてはならないと思った。
世界について。自分について。

30年経った今では編集部に知り合いもいるけれど、仕事関係ではなく別のご縁でお会いしたので、仕事の話やロックの話はほとんどしたことがない。
ていうか、もう『ROCKIN'ON』読んでないもんなあ。
70~80年代の『ROCKIN'ON』が何十冊かあったのだけれど、邪魔なので古本屋に持っていったら買い取れないと言われたので捨ててしまったのが何年か前だ。

ここからちょっとだけ原発の話です。

震災以前は知らなかったのだけれど、『ROCKIN'ON』が『SIGHT』という雑誌を出している。
311以後、原発関連の書籍や雑誌を調べまくっていてヒットした。
季刊で、昨年夏(8月)号、秋(11月)号、今年冬(1月)号と、立て続けに原発特集を組んでいる。

SIGHT (サイト) 2011年 08月号 [雑誌]/著者不明
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SIGHT (サイト) 2011年 11月号 [雑誌]/著者不明
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SIGHT (サイト) 2012年 01月号 [雑誌]/著者不明
¥780
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さらに、夏号、冬号をまとめた単行本も発売になった。
飯田哲也さん、上杉隆さん、内田樹さん、小出裕章さん、古賀茂明さん、坂本龍一さん、高橋源一郎さん、田中三彦さん、などなど。錚々たる顔ぶれだ。
私たちは、原発を止めるには日本を変えなければならないと思っています。/飯田 哲也
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「私たちは、原発を止めるには日本を変えなければならないと思っています。」
これは、秋号特集のタイトルでもある。
まったく、その通りである。

ウソにウソを重ね、この期に及んで「収束した」だの「個人の責任は問わない」だと言っている、政治家、官僚、電力会社、御用学者、腐ったマスコミ、その他原子力ムラの人々は、全員即刻退場していただきたい。
多くの人がそう思っている。
でも、よほどのことがなければ彼らは退場しないし、仮にもし誰かが退場しても、今のシステムのままでは、空いた席に次に座るのもやはり同類なのだ。

蜂を退治しようと思ったら、一匹一匹にスプレーをかけても駄目である。他の蜂が集まってきて逆襲されてしまう。
だから、蜂の巣ごと殲滅しなければならないのだ。
そのときたまたま外にいた蜂も、帰るべき巣を奪ってしまわねばならないのである。

それが要するに、日本を変える、ということだ。

そこまでやらなければ、連中は「空間線量で年間20mSv以下ならば子どもも住んで大丈夫ですよ」と言い続けるであろうし、将来、多くの人が癌になったり小頭症の子どもが産まれても「原発事故との因果関係は証明できない」と、すっ惚けるであろう。
我々が黙っていたら、国も東電も、間違いなくそうする。

国家(システム)というのは、そして企業というのは、原理的にそういうものなのだ。
だからこそ我々は、日本を変えなければならない。

津波の映像を見て、また、福島県で酪農ができなくなり自殺した人が書き残した「原発さえなければ」ということばを見て、僕も泣いたが、多くの人も泣いたと思う。
つまり、このままではいけないのだ。
腐った連中を永久追放するために、日本を変えなければならないのだ。

ここからはまた、音楽の話なので興味のない人はスルーしましょう。

今、若い人たちがロックにどれくらい興味を持っているのか、僕は知らない。
だいたい、ロックの概念自体、時代によって、人によって違うのだ。
たとえば、パンクというのは、「ビートがパンク的」な音楽を指すのではない。
糞の上にゲロを吐いて、ドラッグでいかれて中指を立てながらそこに顔を突っ込み、それを偉い人や威張っている人の顔になすりつけるのがパンクであって、「頑張ろう」とか「絆」とかいうのは、決して、これっぽっちもパンクではない。
わかるかなあ?
これが僕の理解であるから、若い人とはきっと相容れないのだろう。

まあだから僕はもう、歳だからパンクはできない。
泥酔してノーヘル二人乗りの原チャリでおまわりから逃げ回るような体力はもうないのだ。

でも、『ROCKIN'ON』が反原発、脱原発を全面に押し出すのを読むと、これがやはり、「オトナのロックンロール」なのだと思うのである。
「Fuck You! Fuck Me!」と中指は立てながらも、それはコートの襟の中に隠す。笑顔を見せながら。しかし、立てた中指は、決して降ろさない。
若者のような無謀はできないが、その代わり中年の知恵がある。
どうやったら奴らをぶっ潰せるのか、冷静に考えることができる。
たぶん渋谷陽一さんは、それをきちんとやりたいのだと思う。

もちろん僕だって、そんなオヤジでありたいし、30年後に再会した『ROCKIN'ON』が、まだまだこっそりコートの襟の中で中指を立てていることを、とても嬉しく思うのであった。

ええと。
昨夜は新宿のロックバーにいた。
隣の人と話すにも耳元で怒鳴らなければならないような「正統な」ロックバーである。
週末なんかは外国人が踊り狂っていたりするが、昨夜はすいていたので好き勝手にリクエストした。

U2は、Beatles「Helter Skelter」のカバー。
Jon Spencer Blues Explosionや、Red Hot Chili Peppers、REEFなどの90年代の名曲。
90年代と言えば、僕的にはkula shaker。「Hush」はDeep Purpleよりこっちのほうが好き。
あと、Lenny Kravitzの「Rock And Roll Is Dead」とか。
古いところでは、King Crimsonの「21st Century Schizoid man」。これは超大音量にしたいので家ではなかなか聴けない。
そのほか、Led Zeppelin、DOORS、R.E.M、Iggy Pop、Radiohead、などなど。

まあ要するに、当時売れた曲ばっかなんだけれど、それでも今売れてる曲よりはなんだかずっと力があるような気がする。これは俺がオヤジだからか?

3曲だけピックアップして、あとは羅列します。

「マイウエイ」だ。
まあいいから聴いてくれ。



次。
Rage Against the Machineは、米国の反米ロックンロールバンドだ。
戦争が大好きな国、米国でずっと反戦を貫いたバンドである。
911以後、テロ国家米国は自分がテロでやられて急激なポピュリズム排外主義が吹き荒れたが、そんなときにラジオではRage Against the Machineの音楽は全曲放送自粛になったという。
それだけ素晴らしいバンドなのだ。
日本で言えば、忌野清志郎の反原発ソングは当時、放送できなかった。でも、清志郎は歌い続けた。といえばわかりやすいだろうか?

そんなRage Against The Machineのデビューアルバムの一曲目、「Bombtrack」。



さて。
Rage Against The MachineのTom Morelloはアフリカ系アメリカ人で、NYハーレムの生まれながらハーバード大学を主席で卒業した天才である。
ほんとうに頭の良い人というのは、人間の頭の良さがいかに危険なのかと言うことをよくわかっている。
アインシュタインはラッセルとともに核兵器廃絶を訴えたラッセル=アインシュタイン宣言を出したし、哲学者のカントは(僕の解釈では)、自らの哲学(論理的帰結の土台)を捨ててでも『永遠平和のために』を著した。

僕のような凡人は、「人はひとつひとつ積み重ねて何かを知るのだ」と思ってしまうのだが、たぶん天才にとってはそれは違うのだろう。
我々凡人が知り得ないような地平まで、積み重ねるまでもなく洞察して、だからこそ、「理論を超えた理想」を、敢えて語るのだ。
たぶんTom Morelloも、そういった天才のひとりかと思う。

で、Tom Morelloは、昨年の反・ウォール街デモなどにも応援に駆けつけたりしているわけだけれど、そんな彼のソロ。
名曲です。

Tom Morello(THE NIGHTWATCHMAN)『Road I Must Travel』


まああとはさっき書いたうちの何曲か並べます。
興味のある方はどうぞ。

21世紀の精神異常者(キングクリムゾン)



HUSH(クーラ・シェイカー)


ヘルタースケルター(U2)


ロックンロール イズ デッド (レニー・クラビッツ)

★申し訳ないのだけれど、12時間飲んでいてかなり酔っているので、アップする動画を間違えて差し替えたりしているので、RSSとかの人にはご迷惑をおかけしています。
ごめんなさい。
まだ差し替えるかもしれませんが…

東電国有化の前に、責任のある奴は責任を取れ

東電国有化の議論が始まっている。

「国有化」というと、マイナスイメージを持つ人も多いと思う。
「規制緩和」「何でも民間へ」「小さな政府」みたいなスローガンが大手を振っている時代だからだ。

確かに、たとえば昔の国鉄は赤字垂れ流しだった。
鉄道で言えば中国の鉄道省(だったっけ? まあいずれにしても社会主義国の国有組織)はあまりにもゆるゆるで、新幹線の大事故を起こしたのに、事故後証拠隠滅のために車両を埋めてしまったりした。とんでもない話だ。

あとたとえば郵便局。かなりだらしない。
僕は、郵政民営化で選挙に勝った小泉政権よりもかなり前、郵便局の配達員がマンションの郵便受けに勝手に名前を書いたので目黒郵便局と大喧嘩をしたことがある。言っておくが、匿名の単なるクレーマーではない。なにしろ、住所も名前も郵便局には全部バレているのだ。連中に嫌がらせをされる危険性はあっても、僕のほうは配達員の顔も知らないのだ。
「お前らはたるんでる。民間の、たとえばクロネコヤマトが勝手に人の家の郵便受けに名前を書くか?」と言ってやったら、平身低頭謝りに来た。

それはさておき、話を戻そう。

国有会社というのは駄目駄目な体質になりがちだ、ということは僕もその通りだと思う。

しかし、だからといって民営こそすなわち善というわけではない。

民営化したJR西日本は100人以上の死者を出した福知山線脱線事故を起こしたが、コスト削減、利益優先という方向に一気に舵を切るからこういうことになったのだと僕は思う。

「それはJR西日本固有の問題、つまり安全対策を怠ったからであり、一度事故を起こせば企業にとってどれだけの損失になるかを考えていなかったのがいけない。そういうことも含めて、みんなが合理的に考えて商売をすれば、世の中は上手くいく」
と、市場原理主義の人たちは思っているみたいだけれど、それは、まったく間違っている。

ここでその話を始めるときりがないのでやめておくが、ひとつだけ言っておくと、リーマンショック以前の金融資本主義は、みんながハッピーになれる仕組みのはずだった。
ウォール街の連中は腹黒いが、それでも「ビンボーな人たちは家を買えてハッピー、俺たちは金融商品でうまいことボロ儲けしてモアハッピー」と思っていた。
誰も、こんな世界恐慌になるなんて思っていなかった。
みんながそれぞれ、市場での利益を合理的に追求すれば、世界はノープロブレムだと思っていた。
ところがそれは大間違いだった。

ええと。
市場経済の話をしたいのではない。

東電国有化の話である。

僕としては、基本賛成だ。

国有化した後に、発電と送配電を分離し、まず発電部門は新会社として民営化する。
送配電に関しては、まあ水道管のようなものだから、しばらくは国有でも全然問題ないだろう。
要するに、どんなに赤字でも続けなければならない仕事なのである。
送配電というのは、「都会では利益が出るけれど、田舎では儲からないからやらない」というようなことが許されない事業であり、もし誰も手を上げなければ国がやらなければならないのだ。

もちろん、発電についても、もしも誰も手を上げなければ国がやらなければならない。
送配電同様、社会的インフラの問題だからだ。
でも発電は、政策で民間の産業を育てられるし、そうするべきだと僕は思う。

ちょっと原子力の話をしよう。
核燃料サイクル実用化に向けた原型炉「もんじゅ」は、何兆円だか何十兆円だか使ってまだ1kwも発電していない。
そもそも「原型炉」というのは実用目的ではないのだ。
原子炉が実用化されるまでには、まず、理論の基礎的研究のための小型の「実験炉」が作られ、それが成功すると、少し規模を大きくし技術的な問題の洗い出しやコストなどを試算するための「原型炉」が作られる。
で、そこで問題ないということになると、大型プラントの技術全体を検証する「実証炉」が開発され、そんな段階を経て、その後やっと「実用炉」が建設される。
「もんじゅ」なんかたかが原型炉に過ぎない。
そのくせ事故続きで、動いていなくても毎日5500万円の経費がかかる。

なにが言いたいのかというと、できもしない核燃料サイクル構想のためにどぶに捨てていた税金がもの凄くあるわけで、なぜそんなことが許されていたのかと言えば、それは「国策」だからだ。
何十万年何百万年も無毒化できない核のゴミを産み出すだけの原子力発電のために、それだけ無駄なカネが使われていたのだ。

だったらそんなくだらないことに金を使わずに、「国策として」新しいエネルギーの開発に舵を切るべきである。
たとえ今すぐには儲からなくても、「もんじゅ」で毎日捨てている5500万円を再生可能エネルギーの開発に向けたほうがはるかにマシである。

要するに、発電に関しては、「国策として」原子力に代わる新しいエネルギー政策を打ち出して、国が支援しながら民間に参入してもらうべきなのだ。

と、まあここまではまったくまともな話だ。

ところがここで、「いやまてよ」と言う人がいる。
「国策とすることによって、これまでの原子力ムラのような、新しい「再生可能エネルギー利権構造」ができてしまうのではないか?」

残念ながらその通りだ。
このままの日本では、新しい国策は新しい利権構造を産んでしまう。

では、そうならないためにはどうしたらよいのか?

これはとても難しい問題なのだけれど、僕としては「責任を問わない日本の体質」というのを変えなければならないと思う。

たとえば、「もんじゅが毎日5500万円どぶに捨てるってどうなのよ?」と言った場合、それが私企業の経営者だったら到底許されない。
大王製紙の前会長はカジノで会社のカネを百何十億円だか使って逮捕された。
百何十億円というと僕のような貧乏人にはもちろん一生縁のない金額だが、「もんじゅ」はたった一年足らず、しかもまったく動いていないときのランニングコストだけでそれを使ってしまっている。

なぜ、誰も「もんじゅ」の責任を問われないのか?
経産省の役人で、判子をついた奴がいるはずだ。
なぜ、逮捕されないのか?

もちろん、責任を問うと言うことでは、福島第一原発事故に関しての東電経営陣も同様である。

放射能による健康被害については議論が分かれることだから面倒なのでここでは言わない。
今後何十年にわたって、福島第一原発事故の低線量被曝のせいで死ぬ人がたくさん出るが、今はそれは置いておこう。

でも、たとえ健康被害がゼロだとしても、現実に多くの人が土地や仕事(財産、お金)を失った。

補償すればそれでいいのかと言えば、そうではない。
泥棒は盗んだ金を返せば無罪になるわけではない。
盗んだ金は返し、なおかつ、刑務所に入らなければならないのである。

さて。
例によってずいぶん酔っ払ってきたので、まとめに入ろう。

東電は国有化し、送配電と発電を分離する。それは良い。
ただしその前に、責任者に責任を取らせなければいけない。
「人の金を盗んでも返せばそれで無罪放免」というような既成事実を作ってはいけないのだ。

責任のあるやつは責任を取れ。
今それができないとすれば、この国は、また同じ過ちを繰り返す。

つまりこういうことだ。
株主にも責任があるというのが資本主義のルールなのだから、東電の株券は紙屑になる。
「老後のためにこつこつと株を買っていたお年寄りを守らなければならない」などと言った政治家がいたが、ふざけるなと言う話だ。じいさんだろうがヤングだろうが、株を買うと言うことはリスクを負うということである。
貸し手には貸し手の責任がある。銀行が東電に貸した金は返ってこない。
もちろん、過去に遡って東電の経営者は、刑事裁判にかけられなければならない。
被害の大きさを考えれば、刑務所行きが当然だと僕は思う。
東電社員も全員「自分は知らなかった」ではすまされない。会社が潰れるのだから、何万人かの社員は、もちろん失業者だ。ハローワークに通って社会の厳しさを知るが良い。
核燃料サイクル構想を推進した役人は会社法で言う背任のような罪状で起訴されるべきだし、政治家も同様である。
どういう責任の取り方が良いのか僕にはわからないけれど、メディアや御用学者の責任が重いのも言うまでもない。
四半世紀もメディアに関わっていながら東電を許してきた僕自身の責任も免れはしないだろう。

国有化というのは、全面的な税金依存なのである。
僕はそれでも良いと思う。
けれど、その前に、責任のあるやつは責任を取れ。
刑務所行きなのか、失業なのか、破産なのか、土下座なのか、それはいろいろあると思う。
でも、誰も責任を取らないまま、ずるずると国有化するなどというのは許されないことだし、もしそれを許してしまうようであれば、日本国民というのは、残念ながらほんとうに情けない馬鹿の集まりだということになろう。

謹賀新年

ひとつだけ、はっきり言っておこう。

年が変わったからと言って、
福島第一原発の状況が良くなったわけでは、決してない。

去年の秋くらいからだいたい同じような状況だ。全然改善されていない。
誰も見ることはできないので、1~3号機の溶けた炉心がいったいどうなっているのか、まったくわからない。
今でも大気中に放射能をまき散らし続けているのはもちろんのこと、溶けた炉心が地下にめり込んでいる可能性もあり、それが地下水にぶつかれば、高濃度の汚染水が海に流れる。または、井戸水になる。川に流れる。
繰り返すが、世界中の誰ひとりとして、溶けた炉心がどうなっているのかわからないのだ。
(東電は「どこまで何センチ溶かしています」などと言うが、それは東電の勝手な仮定に基づいた計算結果に過ぎない。事故後何ヶ月も勝手な仮定と計算で「メルトダウンはしていない」と言い続けてきた連中だ)

年の初めなので、原発事故基礎編を書いておこう。
このブログを読んでくれているような人なら知っていることばかりだと思うけれど。

東電が毎日発表しているデータがある。(http://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/index-j.html
「プラント関連パラメータ」という項目の、1~3号機の水位を見るとわかるのだけれど、4メートルある原子炉の中に、水は2メートルしか入っていない。半分しかない。
もちろん本来は、全部水で満たされていないといけないのだ。
言っておくけれど、今でも水は24時間ガンガン注いでいる。(もし注水をストップしたら燃料が高温になり(2800度)、水は全部蒸発して大量の放射能が放出される)
それなのに、水は半分しか溜まらない。

冷却水は循環させているという。もちろん一部の水は循環しているのだとは思う。
でも、僕はデータ解析はできないのだけれど、水で圧力容器満タンを目指していることは間違いない。
だって燃料棒(本来であれば圧力容器の中に立っている)がどうなっているのかわからないのだから、出来る限り水位を上げなければならないのだ。

それなのに、いくら水を入れても、半分くらいまでしか溜まらない。

要するに、汚染された水がどこからかダダ漏れしているのだ。

原子炉建屋の地下はコンクリートでできているが、マグニチュード9.0(関東大震災の45倍、阪神淡路大震災の1450倍)の地震で、どこかにヒビが入らないほうがおかしい。
数ミリのヒビでも水は漏れるのだから、まあつまり、汚染水が地下や海にダダ漏れ状態だ。

ていうか、そもそも原子炉の水位計というのは、たとえばお風呂のブザーのように直接水に浮かせて測るものではない。
圧力とかから計算して推定しているのだ。
原子炉が健全なときはかなり正確に測れるのだろう。
でも、この期に及んで数値の正確さの保証はないのだ。

ほんとうだったら誰かが行って水位計を調整すべきなのだが、放射線線量が高くて誰も近づけない。

つまり、1~3号機については、溶けた炉心がどうなっているのか、誰も何も、まったくわからないのだ。

4号機はまた別の問題があって、原子炉の中に燃料はないが、約二基分の使用済み核燃料が水で満たしたプールの中に入っている。
「使用済み」といっても、今は水の中にあるから良いのだけれど、もしも裸で出してきたら、近づいただけで人は死ぬ。冷やし続けなければ高温になって溶け出してしまう。
そんな、極めて危なっかしいものの入ったプールが、3階だったか4階だったか、要するにかなり高いところにある。
「そんな危ないもの、プールから出せばいいじゃん」と思うかもしれないが、できるのならとっくにやっている。
つまり、打つ手無しなのだ。

311の地震で建物は相当やられているはずだから、次に大きな地震が来たら本格的にヤバい。
なので東電も、柱の補強とかいろいろしているようだけれど、水素爆発で上が吹っ飛んだ建物である。そこに後付けで補強したってどこまで耐えられるものなのか。

ついでに言っておくと、使用済み核燃料プールには、最初に想定されていたよりも多くの核燃料が入っている。
なぜかと言えば、使用済み核燃料の持っていき場所がないからだ。

日本は国策として核燃料サイクルというのを掲げている。
これは、使用済み核燃料をもう一回使って発電しようという、理論的にはできるはずの話なのだが、技術的にはできない。
もしも可能ならば、一粒で二度美味しい話なので、原発を推進している欧米各国もずっと研究に取り組んできたが、やっぱりできないということになってあきらめた。
日本だけが高速増殖炉「もんじゅ」で核燃料サイクルの実験を続けていたのだけれど、事故続きだ。

普通の原子炉では、水の中に燃料を入れるが、「もんじゅ」ではナトリウムの中に燃料を入れる。
ナトリウムの厄介な点は、中が見えない。
そして、水に触れても空気に触れても、火がつく。
要するにナトリウムそれ自体がとっても危ないのである。
そんな中に核燃料を入れるという。
普通に考えて危険極まりない話なのだ。
案の定「もんじゅ」は1994年に初の臨界に達したものの翌年にはナトリウム漏れの事故が発生。
15年後の2010年5月にやっと運転再開をしたと思ったら3ヵ月後の同年8月には原子炉内に3トン以上ある中継装置を落下させてしまい運転停止、しかもこれが、どうやっても取り出せない。

「もんじゅ」はこれまで1キロワットも発電していないが、たとえ事故で止まっていても毎日5500万円の経費がかかるという。
あ、これ、税金ですから。

話を戻そう。

国としては、核燃料サイクル、という方針だ。
すなわち、軽水炉(福島第一のような原発)から出た使用済み核燃料は、核のゴミではなく、資源である。高速増殖炉でもう一度発電に使う、というのが建前なのだ。

だから、ちゃんと保管しておかなければならない。
でも、「もんじゅ」は上手くいかないし、保管する場所がない。

で、各原発建屋の中にある使用済み核燃料プールに、最初に考えたときよりももっとたくさん使用済み核燃料を入れることにしたのだった。

なぜかというと、使用済み核燃料の持って行き場がなくなってしまったら、原発を止めるしかないからだった。
原発を止めたくないがために、「使用済み核燃料プールに、もっと入れてもいいでしょう」ということになったのだった。

だから、福島第一原発4号機の使用済み核燃料プールには、原発二基分もの核燃料が入っているのだ。
万が一のことを考えるのであれば、なるべく分散させるべきなのに、政策都合で詰め込んでしまっているのだ。

そもそも、核燃料自体はウランから作る。
ウランは、地球にもともとあるのだけれど、放射性物質なので有害だ。(ウラン鉱山で働く人々が被曝で健康被害に遭っている)
で、採ってきたウランの中から核分裂しやすいものだけを取り出して核燃料にするわけだけれど、それで発電をしてしまうと、残った核のゴミが、最初に採ってきたウラン程度まで毒性が下がるためには数100万年単位の年月が必要だ。
核燃料サイクル、高速増殖炉で使用済み核燃料を再利用しても、やっぱり核のゴミは出る。
いずれにしても、原発をやる限り、核のゴミは必ず出る。
でも、それはゴミなのだから、どうにかしなくちゃいけない。
とはいっても、どうするの?

100万年とはどんな時間だろうか?
100万年前、もちろん人類はいない。
Wikipediaで見たら、「約78万年前 - 最新の地磁気の逆転」だってさ。
はっきり言って想像もできない年月だ。
もちろん、100万年後に危険になるわけではない。
100万年間、ずっと危険なのだ。

埋めればいい、と原発推進国は言う。
でも、そんな危険なものを自分の故郷に埋めてもいい、なんていうひとはまずいない。
世界中探してもいない。
世界で唯一、フィンランドのオルキルオトだけが穴を掘っている。
でも、計画では2020年からの100年稼働。
人間の持つ技術で、「1000年経っても放射能は漏れない」などというものは存在しない。
地層の硬いオルキルオトだって、100年後の人たちに、「じゃ、あとは任せた」という無責任なやり方だ。

富士山だって10万年前にできた山である。
埋めたと思っていても、何万年、何十万年という単位で言えば、ごっそり地上に出てきておかしくない。
しかも、日本と言えば、世界で起こる地震の10%が、この狭い列島で起こる。
埋める場所なんかない。

あとはMOX燃料の話とかいろいろあるけれど、酔ったので今日はしない。

とにかく。
こんなに大変なことが、今現在、起きていると言うこと。
これをちゃんと知らなければならない。

僕はほとんど東京にいるが、調べればきっと、内部被曝しているでしょう。
東京で赤ちゃんに母乳を与えているお母さんの多くも、きっと内部被曝しているでしょう。
赤ちゃんは母乳からセシウムを取り込みます。
粉ミルクだって安心できないのは報道の通り。

ほんとうに悔しいけれど、こういう世界になってしまったのだ。

政府は水棺をするという。
要するに、水で満たして核燃料を冷やし続け、放射能の放出を防ぐと言うことだ。
馬鹿なことを言うんじゃない。
圧力容器に穴が空いているのは政府、東電も認めているが、どこにどの程度の穴が空いているのかは誰もわからない。
それをどのように調べ、誰が、どうやって塞ぐのか?
人間がやるとすれば「死にに行け」ということだ。
もちろん、一人ではすまない。
何十人、何百人もの人を、死にに行かせるつもりなのか?

政府・東電の工程表で「廃炉」ということばが出てきたときにはびっくりした。(冷温停止ということばが出てきたときもそうだったけれど)
廃炉というのは、原発が建つ前の更地にすると言うことだ。
40年とかで、そうするという。
そんなことできるわけないではないか。
何を根拠に言っているのだろう?

これは、人類がかつて経験したことのない大惨事なのである。
スリーマイルのときは原子炉の外に核燃料は漏れなかった。
チェルノブイリのときは、国家の命令でのべ何万人もの人を「決死隊」として送り込むことができた。しかも事故を起こしたのは一基だけだった。
福島は三基がメルトダウンし、他の一基にも使用済み核燃料が残っている。
もちろん今の日本で「死にに行け」などと言うことは許されない。

当面(少なくとも数十年)は誰も突撃できないのだから、チェルノブイリのときのような石棺しかあり得ないだろう、と僕は思う。
コンクリートの建造物で覆うのだ。
地下にも、コンクリートの壁を埋め込み、地下水に触れないようにする。
ただこれも、数十年しか持たない。
チェルノブイリも25年経って、かなりの放射能が漏れ出している。
そこで、石棺の上からさらに石棺(第二石棺)をする、という計画になっている。
Fukushimaも、これを繰り返すしかないであろう。

政府はとりあえず今、体面を繕うために廃炉、更地にするとか言っているけれど、5年後くらい、ほとぼりが冷めた頃を見計らって、「石棺がもっとも現実的」だとか言い出すのだろう。いつもの薄汚い手段だ。

【追記・訂正】
昨夜は酔っ払って書いていたので(いつもだけど…)、数字に明らかな誤りがありました。
何を血迷ったか、もんじゅの維持費を一日550億円と書いてしまいましたが、さすがにそれはあり得ない。すいませんでした。
一日5500万円の間違いです。
でもそれでももの凄い金額だ。年収550万円の人の10年分を一日で使ってしまう。無駄の極致。
2012/01/04午前0時09分

平気で検閲を行う、最低の日本政府

最近、原発関連の詳細な記事を書かない大きな理由は、このブログを読んでいるような人であれば、僕なんかよりもずっと早くしかも詳しく、そんな情報は知っていると思うからだ。
刻々と状況が変わっていた夏くらいまでは、とにかく、少しでも早く、ひとりでも多くの人と最新の情報を共有して、できることなら汚染地域のせめて子どもたちだけに、避難して欲しかった。
だから、このように細々とやっている個人ブログでも、出来るだけ頻繁にそんな話題を書き込んでいた。

ところが今はちょっと事情が違ってきている。
もちろん福島第一原発は今でも放射能を出し続けているし、まだまだ予断を許さない最悪の状況だ。
でも、「今わかったことを今すぐに書かなければならない」ということについては、事故後、いくつものネットメディアがそんな存在意義を確立しているし、今更僕がやっても仕方がないだろう。

僕のほんとうのテーマは、じつはとても個人的な話で、福島第一原発事故を自分の人生の中でどう位置づけ、どう具体的に行動していくか、そういうことなのだ。

自分の人生を総括しないといけないと思うから、そのひとつの試みとしてこのブログでも『第×ラウンド』という、ほとんど誰も面白がってはくれないであろう文章を書いているし、「具体的な行動」については、ほんとうに何をどうしたらよいのか、今はまだわからない。じつはとても悩んでいる。

それはさておき。
もう二日も前だけれど、政府の事故調査・検証委員会が中間報告を発表した。
あれだけ議題に上がっていた「津波の前に地震によって配管が破損していた可能性」を否定するなど甘々であり、とても「はいそうですね」と言えるような内容ではないのだけれど、それでも東電や政府の対応について、311以前では考えられなかったような批判がなされている。

その内容や評価に関してはここでは書かない。
前述したように、すでに多くのネットメディアで取り上げられているからだ。あらためて僕がどうこういうことはない。

ただ、ひとつだけ、これだけは認識しておいてほしいと言うことを書いておく。

3月12日、原子力安全・保安院の中村幸一審議官が記者会見で「1号機は炉心溶融の可能性がある」と発言したら官邸から注意された。
まあこれは、政府の内部のことだからまだ良いとしよう。
同じ日、東電の福島事務所が公開の会議で爆発後の1号機の写真を公表したところ、首相官邸が「事前連絡なしに公表した」と東電に注意したのだった。

いいですか? ここは社会主義国家ではないし、独裁国家でもない。
私的所有が認められた資本主義国家であり、言論の自由が認められた民主主義国家である。
私企業が何をどう発表するかについて、国家権力に文句をつける権利など一切ない。

もちろん、東電は犯罪組織である。
政府と並んで、今回の事故についてもっとも責任を負うべき立場であり、僕は東電を擁護しようという気などさらさらない。
しかし、そうであっても、原則論として、私企業の発表について政府が規制しようというのは、許されないはずである。
それじゃあ社会主義か独裁国家だ。

このことの重大性について、我々はきちんと知っておかなければならない。

今の日本の国家権力というのは、平気で言論統制を行うのである。

資源エネルギー庁がネットやtwitterを監視していると話題になったが、そんなのとも比較にならないくらい重要な問題である。
監視ではなく、事前に見せろと言っているのだ。
これは検閲であり、日本の法律では明確に禁じられていることだ。

僕の見た限り、マスメディアでこのことの重要性を指摘したところはない。
私企業の発表に政府が介入するなどと言うのは、北朝鮮並みのクレイジーな出来事なのに、みんな麻痺してしまっている。

民主主義などと言うのは「他よりはマシ」なだけの政治思想に過ぎないが、でも、それを標榜するのであれば、権力はルールを守らなければならないし、我々は権力にルールを守らせなければならない。
そんなこともできない。
僕もそうだがみんな最低だ。

最新のニュースではないけれど、これだけは言っておかなければならないと思ったので書いておく。

So this is Christmas.And what have we done?

恵比寿で飯食ってとことこ歩いて帰ってきたのだったが、昨夜はやはりカップルばっかだった。
この歳になるともう、クリスマスだからどうのこうのなんて全然ないのだけれど、若いカップルの女の子たちはみんなものすごくかわいく見える。
よし、頑張れ!
余計なお世話だが、命短し恋せよ若人。

僕も高校生の頃は「恋多き革命家」に憧れたりもしていた。
今から考えれば馬鹿丸出しなのだが…。

それはそうとして。

とんでもない一年が終わろうとしている。
来年は少しはマシになりそうかと言えば、そんな気配はまったくない。

原子炉の中がどうなっているのか、どこに穴が空いているのか、溶けた燃料はどんな様子なのか、汚染水はどういうふうに漏れ出ているのかetc.
誰も、一切わからないのに、「収束」だってさ。
普通に考えてちゃんちゃらおかしい。
変だと思わない人は人生一からやり直したほうがいいと僕は思うのだが、一事が万事、この調子だ。

ほんとうに気が重い。

僕は、何ができるのだろう?

今夜はクリスマスだ。

So this is Christmas
And what have we done?
Another year over
And a new one just begun

~Happy Xmas (War Is Over) by John Lennon~


メリッサ・エスリッジがカバーして歌っているのを見つけた。
もの凄い。
必聴。



それから、オリジナルも。


メッシのギャラの話とか

昨夜は、原発問題で日本有数のアクセスを誇るブログ『ざまあみやがれい!』(http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/ )の脱東電忘年会(というか忘年会という名前にクレームがついて「うんこの会」にしたそうだ)で、午後5時から渋谷で飲み始め、最終的には地元目黒のバーで朝6時まで飲んでいたので、その後結局夕方まで寝てしまった。

で、「テレビがあるバーに行ってFIFAクラブワールドカップを見よう」と誘われたので、僕はじつはサッカーはほとんど興味ないのだけれど、向かい酒でもするか、と恵比寿のバーに行ったのである。

なんだかもう、手品を見ているような感じ。
こっちに蹴るだろうと思っていたボールを逆方向に飛ばして、なおかつそこにはちゃんとチームメイトが待っている。
僕のようにサッカーのことを何も知らない人間でも「一流というのはこういう人たちなんだ」とよくわかる。
中でも一番人気だったのはやはりメッシ。
お店にははっきり言ってかなりカワイイ若い女の子グループなども多かったのだけれど、「メッシ!」と大歓声を上げていた。
ご存知のようにメッシは2ゴールだったのだが、前半の初得点も後半のダメ押しも、神業のようなプレイを見せてくれたのだった。
いやあ、僕が女だったら間違いなくい惚れてるね。ていうかここまでやってくれると、素人が見てもほんとうに楽しい。

というわけで、ちょっと気になったのがメッシが幾ら稼いでいるのか。
Soccerkingというサイトによると、メッシの年俸は1100万ユーロ(約12億6500万円)で世界のサッカー選手中3位だけれど、(たぶんスポンサー収入などを加えた)総額では3100万ユーロ(約35億6500万円)で第1位。(http://www.soccer-king.jp/news/spain/article/201103221445_barcelona_messi.html

この金額は高いか安いか?

僕は、決して高くはないと思う。
なにしろ世界一のプレイヤーである。それくらいもらったっていいじゃん。
スポーツ選手が現役で稼げる期間はそんなに長くはないんだし。

2008年に経営破綻し、世界中の経済を滅茶苦茶にした投資銀行リーマン・ブラザーズのCEOリチャード・ファルドは、在任中の00年以降、3億5千万ドル(当時のレートで約330億円)もの報酬を受けとっていたそうだ。
要するに、毎年、役員報酬だけでメッシ並みのギャラをもらって好き勝手やった(たぶんその他の収入もかなりあったはずだ)挙げ句に、世界をどん底に落とし入れたのである。

メッシの高い収入は、彼がスーパースターだからだ。
ところが、リチャード・ファルドは空虚な金融商品を散々でっち上げた末に、どうしようもならなくなって自分の会社ばかりでなく世界経済を破綻させた張本人(のひとり)である。

そんな奴がなんで大金を手に入れられるのかと言えば、それは、資本主義というのが「金儲けの巧みな奴」を不当に優遇するシステムだからである。
もちろん、誰かが言っていたように、資本主義は最悪のシステムではあるが、他と比べれば一番マシなシステムでもある。
メッシのようなスーパースターに高いギャラが支払われるのも、資本主義システムあってのことだ。

でも、所詮は「金儲けの巧みな奴を不当に優遇するシステム」であることをきちんと認識し、金のためなら何でもやるような連中に歯止めをかけること。
つまり、規制すること。
これがとても大切だと、僕は思う。

なんだか今は「規制緩和」というとそれだけで良いことだと思う人が多いのだが、それはむしろ逆で、どういうふうに適切に「規制するか」こそが一番の課題なのだ。

好き勝手にやらせてしまうと、たとえばリーマンショックのときのように、デリバティブばかりの博打資本主義になってしまう。
1万円しか稼がなかったのに、1000万円分のチップを持ってポーカーをするようなものだ。
とんとんで行っているときは良いけれど、破綻するときはすべてが破綻する。

電力の発電・送配電の分離はまったく正しい。
現在の地域独占体制を解体し、規制緩和をして多くの事業者を参入させたほうがいいだろう。
でもそれは、単に規制をなくせば良いと言うものでは決してなくて、適切に規制すること、つまり再生可能エネルギーの普及に向けて、100年後まで見据えた政治が適切に事業者に介入することとセットになっていなければ、なんというのか、とてもおぼつかない。
強欲な連中が悪いことをするに決まっているのだ。

幸いにして、日本の経営者のギャラは、米国の1/10くらいだ。
けれど今後、「規制緩和はすべて良し。金を儲けて何が悪い?」の理論が流通すれば、スーパースターでもなんでもない、単に醜悪で強欲な商人だけが不当に金と権力を手に入れるぞ。
僕は御免だね。