語り得ぬものについては沈黙しなければならない。 -14ページ目

ざまあみやがれい!

昨日はブログを書いた後youtubeを見ていたら朝の10時になってしまった。

いうまでもなくインターネットが凄いところは、リンクで横に広がっていくことで、書籍も新聞も雑誌もテレビも、それだけはできなかった。
あえて言えば図書館というのがそういう世界なのだが、そこにはどうしても物理的な制約(所蔵数とか開館時間とかその他)がある。
ネットにはそれがないから、見始めると次から次へと関連動画を追っかけてしまうわけで、酔っ払っているものだから余計止まらない。

なおかつ最近涙もろいので、ライブの素晴らしいロックンロールを観ているとうっかり泣いてしまう。
みなさんが働いたり勉強したりしている午前10時に、50近いオヤジが泥酔してボロボロ涙をこぼしているわけだ。
誰にも見せられない姿だ。

そんなわけで、昨日観た動画から。

まずはこれ。



清志郎の命日、5月2日に武道館で行われた『忌野清志郎 ロックン・ロール・ショー』で、斉藤和義が『JUMP』と『ドカドカうるさいR&Rバンド』を歌ったときの映像だ。
「LOVE AND PEACE」というものすごくベタなことばが書かれたTシャツを着て現れた斉藤和義の歌も素晴らしいのだけれど、僕は曲間のMCにぐっときてしまった。

その晩僕は目黒のバーで飲んでいて、夜中になると『忌野清志郎 ロックン・ロール・ショー』に行ってた女の子が店に来たので(お店の人もお客さんも清志郎支持者が多いのだ)、斉藤和義がいったい何を歌ったのか気になって訊いてみた。
『ずっとウソだった』は清志郎の曲じゃないから歌うことはないだろうけれど、『ラブミーテンダー』か『サマータイムブルース』を歌ったかも、と思ったからだった。

斉藤和義が歌ったのは別の曲、と聞いてその晩はちょっとがっかりしたのだけれど、昨晩初めてこの映像を見て、僕はものすごく嬉しくなった。

05:28
「清志郎さ~ん、
まだ…まだ、替え歌は怒られちゃいますよ。
ざまあみやがれい!


このブログを読んでいるような人ならば知っているとは思うけれど、「ざまあみやがれい!」は、忌野清志郎が反原発ソングの放送禁止に抗議するため、生放送の『夜のヒットスタジオ』で「FM東京腐ったラジオ、オマンコ野郎FM東京!」とぶちかました後に吐き捨てた一言である。
忌野清志郎は古いロックンロール『ラブミーテンダー』『サマータイムブルース』を反原発(反核)の替え歌にしてレコーディングしたのだが、それらが電力会社の顔色をうかがう馬鹿なメディアの連中に放送禁止にされたのだ。
一方、斉藤和義は自分の曲である『ずっと好きだった』を、福島原発事故後、反原発ソング『ずっとウソだった』という替え歌にして歌い、youtubeで大反響になった。
そしてきっと、怒られたのだろう。
(それでも斉藤和義はフジロックや、「LIVE福島 風とロックSUPER野馬追」でしっかり『ずっとウソだった』を歌っており、ちゃんと筋を通している)

「ざまあみやがれい!」といえば、3.11以後、原発、放射能関連では日本でトップクラスのアクセス数があるブログのタイトルでもあることは、みなさんご存知かと思う。(http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/
もちろんこれも、清志郎の「ざまあみやがれい!」である。
ブログ「ざまあみやがれい!」には、このタイトルの由来について、「オマンコ野郎FM東京」の動画(http://www.youtube.com/watch?v=puMfTFYCOgI)を紹介した後、次のように書かれている。

実はこの動画は、筆者が個人的に失意のどん底にあるときに友人から頂いたものです。表現を否定されても、表現で立ち向かう忌野清志郎氏に勇気をいただいて、このブログのタイトルにさせていただいています。奇しくもこの動画を頂いたのは3月10日。大地震のわずか1日前でした。
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65721164.html

実際に「ざまあみやがれい!」の管理人さんとお会いして酒の席で話になったのだけれど、管理人さんはそれほど熱心に清志郎を聴いてきた人ではなかったわけだが、それでも、清志郎の発した数多のことばのなかから「ざまあみやがれい!」を選ぶというのはもっとも正しい、と僕やその場にいた別の清志郎支持者などは大いに共感したのであった。

次は、同じ『忌野清志郎 ロックン・ロール・ショー』から、奥田民生が歌う『スローバラード』



清志郎の名曲を奥田民生がほぼ忠実にカバー。
奥田民生は僕とほぼ同い年だけれど、なんというのか、とても羨ましい生き方をしている。
昔のユニコーンの頃もよく聴いていたけれど、当時は、力の抜き方がすごく好きだった。
どこかで読んだだけで不確かだが、本人はあんまり考えずに歌詞を書くそうだ。
でも、こんな曲もカバーしている。


『最後のニュース』(井上陽水)

僕の大好きだったジャーナリスト、故筑紫哲也さんの『NEWS23』のエンディングテーマだった。
筑紫さんは煙草をがんがん吸って肺癌で死んだ。
清志郎にしても筑紫さんにしても、2011年3月11日以降にこそ生きていて欲しかった人が、癌で死んじゃったんだなあと思うとなんか虚しいけれど、それでも僕は、毎日3箱の煙草をやめようとは思わない。余計なお世話だ。


『悲しくてやりきれない』(ザ・フォーク・クルセダーズ)

最後はエレファントカシマシ。

まずはこれ行きましょう。『奴隷天国』



Wikipediaによると、「発売時のキャッチコピーは、「ここまで言われても、誰も怒らないんだろうなあ。」であった」そうだ。
僕はエレカシのことはよく知らないのだけれど、youtubeのコメント欄では「これは(宮本浩次が)自分のことを歌った曲」みたいな解説があった。
でもさあ、そんなことどうでもいいじゃん。
「俺も糞だが、お前らも糞だ」
それがロックンロールと言うものなのである。
自分に苛立ち世界に中指を立て胸をかきむしって悶絶しながら闘い続ける。
そんな闘いのことをロックンロールというのであって、それ以上でもそれ以下でもない。
ていうか、なにはともあれものすごくカッコいい。

で。
『悲しみの果て』



人から聞いた話だけれど、震災後にCXで放送された音楽番組で、いろいろなアーティストが被災地の人々に向けて歌ったそうだが、一番多くの人の心に残ったのがこの曲だったそうだ。
ものすごい名曲であることは事実だ。
偽善的で甘っちょろい「一緒にがんばろう」ソングなんて、この曲の前では一瞬で吹き飛んでしまうのは当たり前だ。
では、宮本浩次はなんでこんなにものすごい歌を歌えるのだろう?

それは、『奴隷天国』を歌っているからだ。
つまり、それが自分であれ世界であれ、糞に対して命を賭けて闘ってきたからである。

この曲だけ聴いて、「素晴らしい応援歌だ」と思うのであればそれはそれでいいが、血を吐いて仰け反り回った人間にしか、上っ面だけじゃない応援歌を歌ったりはできないのである。
中学生同士の恋愛相談とはわけが違う。
津波の被災者の人々も、原発被災者の人々も、生活、故郷、健康、仕事、人生すべてを奪われてしまったのだ。
思いつきの「応援ソング」を歌って自己満足している人もいるみたいだけれど、自分がどれだけ糞なのかに正面から向きあって苦しみ抜いた人にしか、本物の応援歌は歌えない。
そういうことだ。

ここでやめておこうかと思っていたのだけれど、ほんとうの最後に、Girls『Broken Dreams Club』。
僕は英語はできないので、前半のインタビューは何を言っているのかさっぱりわからない。なので、曲だけ聴きたい人は01:38から。
でも、インタビューで顔を見れば、クリストファーがいかに病んでいるかは一目瞭然だ。
彼はカルト教団からの脱走者である。
で、たぶんドラッグなんかでイカレているのだと思う。

自分がどれだけ糞なのかに向かい合うには相当のエネルギーが要るわけで、そんなエネルギーがない人たちも大勢いる。
(被災地の話題をテレビで見ると、放送される多くは「元気を出して頑張ります」という前向きな人たちだけれど、実際にはほんとうに消耗しきってしまった人たちもたくさんいるはずなのだ)

だけど、たとえばクリストファーのように、小さい声でもいいから、歌えばきっと救われる、と信じたい。
大きな声を出すばかりがロックではない。


第六ラウンド

少し前だが、福島県二本松市のゴルフ場が、東京電力に対して除染を求める仮処分を申し立てる裁判を起こした。
それに対して東電はなんと主張したのか?
知っている人も多いと思うけれど、「放射性物質は無主物、つまり誰のものでもない」から自分たちに責任はないと言い張ったのだった。
これには怒ると言うより呆れてものも言えない。どこまで心根の腐った連中なのだろう。

地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教は「アレフ」と名を変えた。その後、内部対立からオウムで外報部長だった上祐史浩氏がアレフから独立して「ひかりの輪」という宗教団体を立ち上げる。そして、「ひかりの輪はオウム事件被害者への賠償を続ける」と宣言した。

公安当局は「ひかりの輪」を「オウム真理教上祐派」と呼び、危険な連中と言うことになっているが、そのあたりについては僕はよく知らないので何とも言えない。

ただ、言いたいのは

1.
僕はもちろんオウム信者でも「ひかりの輪」信者でもないし、ほんとうにそれができるかどうかもわからないけれど、彼らは「今後も全力で被害者への賠償に努めさせていただく」(教団HP)としている。
少なくとも「ばらまいたサリンは無主物です」などという馬鹿げた主張はしない。
ていうか、当然そんな主張が許されるわけないのである。
言わせてもらえば、ばらまいた放射能を「無主物」などと言い張る東京電力は、「オウム真理教上祐派」以下の倫理観しか持ち合わせていない。

2.
12/3の報道(http://www.asahi.com/national/update/1203/SEB201112030007.html など)によると、「ひかりの輪」は、松本サリン事件被害者の河野義行さんに、教団の活動をチェックする外部監査人就任を要請し、河野さんはそれを了承した。
僕は「ひかりの輪」を褒めたいわけではない。
大勢の人を殺したり傷つけたりしたのだから、もしも本人が当時事件の真相を知らなかったとしても、同じ組織にいた上祐史浩氏は一生責任を負うべきだし、その反省の上に立って新教団をやろうというのであれば、被害者に土下座して「外部監査人になって我々を見張ってください」というのはある意味、筋が通った話である。

ところが、東京電力だよ。
お前らにそういうことをやろうという姿勢はあるのか?

この先多くの人命が福島第一原発の被曝によって失われるわけだけれど、これに対しては「低線量放射能の危険性は科学的に実証されてはいない」などと反論する奴がまだいるので置いておくとしても、避難を余儀なくされ、家も職も失って路頭に迷っているような人々が何万人もいるわけだ。
東京電力は、そんな被害者の人々に自分たちを監視してもらおうなどと考えたことがあるだろうか?

オウムはわざとサリンを撒いたけれど東電はわざと事故を起こしたわけじゃない、と反論する人もいるかもしれないが、「わざと」でなければ罪はない、などということは決してない。
今では、福島第一原発事故は津波以前に地震で配管がやられていたから起こった、という見方が有力だし僕もそう思うが、ここでは東電の言うように津波だけが原因、としておこう。
しかしもしそう考えたとしても、事故以前から大きな津波の危険性は散々指摘されてきたのだ。(たとえば http://www.47news.jp/CN/201103/CN2011032601000722.html

専門家に「ここは津波が危ないですよ」と注意されていたのに、そこにサリンを置いておいたら、ほんとうに津波が来てサリンがばらまかれ人が死んでしまった、としよう。
その人が罪に問われるのは言うまでもない。
こういうのを「未必の故意」という。
「過失」ではなく、あくまで「故意」である。

3.
さて、ここからが本題です。
なんで上祐史浩氏の話をしたのかというと、彼は学年で言うと僕と同じなのだ。
練馬区にある早稲田大学高等学院(早大学院、あるいは学院)から早稲田大学に行ったわけだけれど、彼が在学中の早大学院に、僕も当時、しょっちゅう行っていた。
だからもしかしたら、高校時代の上祐史浩氏に会っていたかもしれない。

今夜は『第五ラウンド』( http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11099924016.html )の続きである。

今では早実とかからも普通に早大に入れるようだけれど、当時は(多少の落ちこぼれを除く)大半が早大に進める高校は学院しかなかった。
僕は、前に書いたように新聞部とか生徒会つながりでいろんな高校に出入りしていて、早大学院も僕の母校も私服だったし、だから普通にふら~っと入って行けたのであった。
他校だから具体的には書かないけれど、早大学院の新聞部の部屋でいろいろ悪いこととかしてたのだ。

ご存知のように、今ではかなり脆弱になったとは言え早稲田大学は革マルの拠点であり、学院の新聞部にも当然、Z(革マル)の洗礼を受けた人がいた。
しかし僕が知る限り、学院の子たちはマルクス主義者であっても頭が柔軟で、そこらへんが大学受験のためにヒーヒー言っているような受験馬鹿とは違う賢さがあるんだなと思っていた。
(人生の中でもっとも多感な15~18歳のときに受験のための暗記しかしなかったような奴はろくな人間にならない、と僕は思う)

「受験馬鹿」という意味ではなく頭も良く、ある意味とても恵まれた環境の中にいた上祐史浩氏が、なぜ、宗教に走ったのだろうか?
僕は、本人と話をしたわけでもないし、ウォッチャーでもないから事情もわからないし、もし書くとしたら『第×ラウンド』が1995年まで進めばだが、今はやめておく。

ではなにを言いたいのかというと、上祐史浩氏が早大学院から早稲田大学に在学していた1970年代後半~80年代前半、「僕ら」も「宗教でも作ろうか」と話し合っていたのである。

いつの時代にも宗教心などないくせに宗教を作ろうという人たちはいる。
その多くが、権力志向か金儲けが目的だ。
人の弱みにつけ込んで、カネを巻き上げたり、威張ったり。そういうのははっきり言ってクズだ。

では、信心など微塵もない「僕ら」が、なぜ「宗教を作ろうか」などと話していたのか?

それは、そうやって世界を壊せないかと思っていたからだった。

これを読んでくれているような人が「壊す」というのを、テロや戦争をやったり原爆落としたりすることだと誤解するようなことはないと思うけれど一応言っておく。
暴力に依らず世界を壊すとしたら、宗教というのもアリなんじゃないか、という意味だ。
この場合の「世界」というのは、システムとほぼ同義である。

この原稿もようやく、沢田研二が生放送で『TOKIO』を歌って幕が開けた1980年代の話にさしかかった。

やすらぎ知らない遊園地が
スイッチひとつで
まっ赤に燃えあがる
『TOKIO』(詞:糸井重里)

そんな時代が始まった。
モノとカネはガンガン流通し、そんな意味で日本人は豊かになった。
多くの人が「ああ、我々の戦後の努力が報われたんだな」と思っていた。

「必要なモノ」が出揃ってしまうと、次は「差異」を探すようになった。
たとえば、洗濯機はすべての家庭で必要であるが、すべての家庭に供給されてしまった時代においては「ここだけは違う」という、「差別化」(今、出来の悪い会社員とかが好んで使うことばだ)が必要になるのだ。
些細な「差異」に「価値」を見いだす。
そういう時代に、本格的に突入したのだった。

「資本のルール」が勝利したように思われた。
もはや必要なモノは充分に足りていたが、それでも市場が「差異」を求めていたのである。
コピーライターが活躍し、「差異」を素敵なことばで語り、そのことば自体も商品として流通する。
生活に余裕ができてきた人々は、それに惹かれモノを買う。

モノばかりではなく、情報も溢れだした。
今ではインターネットの情報は無料という感覚があるが、当時は情報も当然、有料だった。
「ライフスタイルを提案します」系のカタログ雑誌が何十万部も売れた。
僕は当時『ビックリハウス』という雑誌に投稿して賞をもらったりしていたのだけれど、これなんかもある意味その時代性。
「豊かだったから遊べた」というのがその一面だし、もう一面は「すべてが均質に無価値なんだから遊んじゃえよ」というアイロニー。

「無価値なAと無価値なBを比べると、5㎜ばかり差異がある。それが価値なんだよ」
ということがもしも真実であるならば、経済というのは無限に発展することとなる。
僕は今でこそそんなことは大嘘だと思っているけれど、当時は「そうなのかな」という気がしていた。
だからもう、「社会正義」について語るなんて、無価値の極致かと思っていた。
「正しい資本主義者」であるしかない、とも思った。

ところが。

そういうのはじつをいうと、かなり苛々する。
みんながハーメルンの街の人々のように誰かに騙されていくからだ。

当時はカタログ文化だとか言われた。
もちろん、「雑誌に載った~~というブランドの~~はいい」とか言う話はそれ以前からあったわけだけれど、ごくごくくだらないもの(無価値なAと無価値なBの5㎜の差異)に途方もない値段がついたりして、馬鹿なんじゃないのと思ったりしていたわけだ。

1980年。
(今酔っ払っていて度忘れしてるけど、かなり以前に誰だったかが言ったように)資本主義が進むに従って、支配はソフトになる。首根っこひっ捕まえて無理矢理刑務所に入れるというような乱暴な真似をしなくても、真綿で首を絞めるように、システムというのはじわじわと人を廃人にしていく。

「僕ら」はそんな状況に苛立っていた。
しかし「僕ら」にとって、「社会体制を覆そう」というゲームは終わっていた。
そんなゲームはもう無効だ。
参加しても意味がない。
だって己自身が「資本主義者であろう」と思ったではないか。

その結果「僕ら」の前に姿を現したのは、80年代の巨大な「凡庸さ」だった。
市場は「無価値なAと無価値なBの5㎜の差異」に価値を作り続けていたが、それもが予定調和的な世界だった。
「無価値なAと無価値なB。でもそのたった5㎜の差異に価値がある」というのは一見真新しい話に聞こえるけれど、まさにシステムのルールそのものであって、次から次へと出てくる「5㎜の差異」や「5秒の差異」「5グラムの差異」など、新しくも何ともない。
人を馬鹿にしたようなその「凡庸さ」。
そこに腹が立ってくるのだった。

それでも僕らは、システムの恩恵を享受している。
いまどき日本で革命なんて言う奴らは馬鹿だ。
でも、いったいどうしたらよいのだろう。
と、当時の「僕ら」は思っていた。
しかしなんとかして、世界の「凡庸さ」を木っ端微塵にできないものか。
だって、つまんないじゃん。

そう考えていた「僕ら」は、
「そうだ、宗教やろう」
という話になったのであった。

もちろん、ほんとうに宗教法人を立ち上げたりはしなかった。単なる子どもの思考実験だ。
でもそれでも、もしも宗教に、この糞のような世界の「凡庸さ」を叩き潰すような力があるとすれば、やっちゃおっかな、くらいの、なんというのかやんちゃな心意気はあった。

オウム事件についての原稿はまた今度機会があれば書くとして、同じ年齢で似たような境遇だった上祐史浩氏と「僕ら」だが、上祐史浩氏がオウムに入信したのに対し、「僕ら」は宗教をでっち上げようかと話していた。
ずいぶん違うのかもしれないが、似たようなものだという気もする。

そして、「僕ら」が世界に凡庸さに苛立っていたのと、もしかしたら上祐史浩氏も同じような思いだったのかもしれない、と今は思う。

ええとなんだったっけ?

そうだ、前回クイズの話で終わったのだった。
もともとはH君の同級生で、学生時代には一緒にいろんなことをやり、今は電通の偉い人になっているM君が、この前飲んだとき、当時を知らないみんなにクイズを出したのだった。
「オールナイターズのイベントをやったときに、鹿島(僕)とH君が最終的に決定したコピーは『これはたんなる★★だ』というものでした。さて、なんでしょう?」

今夜はその答まで書こうと思っていたのだけれど、辿り着けないね。

でも、まあまったくヒントにならないけれど、当時の僕とH君のテーマは「世界の凡庸さといかに闘うか」であった。
そんなとき『オールナイトフジ』を見て「おおおお!?」となったのだったが…

酔ったので寝ますね。

セシウムまみれの雪だろうが、僕はきっと滑る。

寒くなってきて、良い子はスノーボードに行く季節だ。

じつは僕は、3月10日は、かぐらスキー場に滑りに行っていたのだ。
今年の3月は降雪が続き、3月にしてはものすごく雪が良く、10日の夜に新潟から帰ってきた僕は「来週また寒波が来ます」という天気予報を見て、「よし、じゃあまた来週滑りに行くぜ」と、予定を調整していたのだ。
板もビンディングもブーツも買い換えて、絶好調にやる気になっていたのだった。

ところがその翌日、3月11日に地震が起こる。

前の日まで僕が楽しみにしていた「次の寒波」は、多くの被災者にとって、とても厳しい仕打ちになってしまったのである。

テレビで映し出される、津波の被害に遭われた人々の姿を見て、僕は心から「なんとかしなくてはいけない」「なんとかしてあげたい」と思い、生まれて初めて、「僕は日本という国が好きなんだな」と自覚した。

と同時に、原発事故については心の底から腹が立った。
東電や政府、原発村に対して腹が立ったのはもちろんのこと、これまで原発を許してきた自分自身に対して猛烈に腹が立った。

で。
自分ができることは何なのだろうと考えて、出版界にいるのであれば本を出すべきだと思い、小出裕章さんと黒部信一さんにお願いして本を作った。
原発・放射能 子どもが危ない (文春新書)/小出 裕章・黒部 信一
¥798
Amazon.co.jp
この本を編集するに当たり、原発関連の資料を読み漁った。
amazonプライムの即日~翌日配送で関連書籍を次々に注文していたら、僕の家はヤマト運輸の営業所のすぐ近くということもあって、毎日朝の8時にヤマトの配達員の人が前日に頼んだ本を届けに来る。そして夜8時には当日頼んだ本を届けに来た。
部屋の本棚はすでに一杯だったので、台所に積み上げていたらそこも本の山だらけになってしまい、普段は決してそんなミスをしないうちのねこ(12歳)でさえ、足を引っかけて本の雪崩を起こす始末だ。

そんなふうにして秋になり、ある晩バーで酔っ払って「原発は仕方ない」という人とマジで喧嘩になりそうになった。そこで僕はあらためて、これはまさに人生をかけた闘いになるんだなと悟る。
理想や正義だけの問題ではない。
そこでまずは、自分の半生を振り返りその中で原発問題をどう位置づけていくかが必要だと思うに至り、『第×ラウンド』という記事を書いてきた。

もちろん、次の『第六ラウンド』も書くだろう。
この記事はとてもゆっくりしか進まない。

でも、そうやって僕が1970年代や80年代の話を書いている間にも、福島から放射能はじゃんじゃん漏れているわけだし、にもかかわらず原発システムに首根っこを押さえられた連中は、「原発ありき」のプラットフォームの温存に躍起になっている。
奴らは、「311以前の『これまでの日常』」に戻そうとしている。
誰も文句を言わなかった『これまでの日常』に、ということだ。

けれど、それを許すわけにはいかない。
僕の力など、巨大で複雑なこのシステムにあってはほとんど無に等しいが、それでも、「せめてこれからの人生、恥ずかしくないように生きていきたい」と思うからだ。
この先、どうやって奴らと闘っていったら良いのかと考えている。

さて。
明治の粉ミルクからセシウムが検出された。

どの過程でセシウムが入ったのかはわからない。
もしかしたら福島原発から出たセシウムではないかもしれない。
冷戦時代の米ソ核実験などで、セシウムは世界中にばらまかれているからだ。
「だったらいいじゃん。これまでも人間はある程度セシウムを採ってるんだから」などという馬鹿もいるが、どんなに微量でも放射能は人間には害なのだ。特に細胞分裂が盛んな小さい子どもほど影響がある。赤ちゃんにセシウム、など論外だ。

つまり、もしも「福島由来のセシウムではなかった」としても、それは「よかった」ということになど決してならない。
福島原発も核実験も、チェルノブイリも広島長崎の原爆も、これまで散々放射能をばらまいてきた人間の行い、すべてがよくなかったのである。

韓国や中国の金持ちお母さんたちはこれまで「日本の製品は安全」と、高くても日本製粉ミルクを買っていたらしい。
でもセシウムの件を知り、みんな「怖い」と言っているのがテレビで報じられていた。
そんなアジアの金持ちお母さんたちが、今後は明治乳業の商品、さらには日本のベビー用品すべてを買わなくなるよ。
それでいいのか、ニッポン?

最初の話に戻ろう。
今年は膝を痛めてしまったのでどうなるかわからないけれど、スノーボードに行きたいな。
福島のアルツ磐梯スキー場は、20年近く前、僕がはじめてスノーボードを履いたゲレンデだ。
震災後は併設するホテルで被災者を受け入れていた。僕も何度も泊まったことがあるけれど、高級ホテルとは言えないにせよ、清潔で良いホテルだった。

膝さえ治れば、たとえセシウムの雪であっても、僕は福島に滑りに行く。
もう50近い僕のような大人は、甘んじて放射能に晒されるべきなのだ。
一方で福島の(スキー場がある会津地方はともかく、浜通り中通りの)子どもたちは、一刻も早く避難すべきだ。

そんな、矛盾した世界で、僕らはこの先ずっと生きていかなければならない。

『第六ラウンド』はまた今度。

ジョン・レノンの話。

今からちょうど31年前の1980年12月8日。ジョン・レノンがニューヨークの自宅前で殺害された。

そこで今夜は、続けて書いている『第×ラウンド』の中で、1980年12月8日のことも語ろうと思って書き始めたのだった。
ところが、くだらない単なる思い出話になってきた。
まあいつもそうだけどさ。

当時僕は高校3年で受験生だったが、そのための勉強は一切せずに、人と議論したり音楽を聴いたり本を読んだり何か原稿を書いたり、そして結局は酒ばかり飲んでいた。
僕は学生時代までは国立に住んでいて、高校も同じ市内だったわけだけれど、地元のバーとか赤提灯とかで普通に酒を飲み歩いていた。
私服だったので、学校帰りに友達と気軽に一杯やれるのだ。今はどうだか知らないけれど、当時は未成年者の飲酒や喫煙などと言ったくだらないことは母校ではあまり問題にされていなかったのだと思う。
僕は結局一浪して三流私立大学に行ったわけで自慢できる身分ではないが、1学年350人のうち、40~50人は東大に行くような進学校だった。
結局のところ、生活指導がしっかりしていれば生徒もお利口になる、などというわけでは決してないのだ。

国立駅から、RCサクセションの歌にもなった多摩蘭坂に行くのが「旭通り」で、そこには行きつけの飲み屋が何軒かあったが、高校の頃は『ペニーレイン』というバーに足繁く通っていた。
吉田拓郎の歌に出てくる原宿ペニーレインとはまったく関係はないけれど、やはり店名が如実に語るように、ビートルズ、そしてロックが大好きなママさん(女性マスター)がひとりで店を仕切っていた。
僕はすっかり忘れてしまっていたが、当時の同級生の話によれば、我々数人のグループは月に何十本ものサントリーホワイトのボトルを空けていたそうだ。
ボトルをキープするたびに首にぶら下げるタグを重ねていって、もうこれ以上は無理というような状態。
我々はそこで毎晩のように60年代~70年代のロックを聴きながらサントリーホワイトをがぶ飲みし、カネがないのでママさんに「柿の種を200円分ください」などという非常識なお願いを続けていた。

今思えば、ペニーレインのママさんは僕らのロックの先生でもあったのだ。
ちっとも儲けにならない高校生の客が生意気な人生論や社会論を語っているのに付き合って、毎晩素敵なロックンロールを聴かせてくれた。

ええと。
いつものことだけれど文章の構成をまったく考えずに書いているので、ここまで書いてもまだ肝心のジョンレノンが出てこない。
雑誌の仕事とかだとあらかじめ文字数が決まっていることのほうが多いので、たとえば全部で4000文字だとしたら、1000字くらいでここまで書いて、というふうに計算するのだが、ブログはそういう決まりがないから文章がだらける。
というか、基本ほとんど推敲せずに書きっぱなしだから滅茶苦茶だ。
要するに原稿料もらえないのだから面倒くさくて推敲なんかしてられない。
とはいえ、ですよ。
ここで言い訳をしたいのだが、こういうほとんど意味のない文章でもあまり苦労せずに読ませる、というのはまあそれなりにテクニックというのがあるのさ。

で。
やっとジョン・レノンの話。
彼が死んだのは1980年12月8日だが、時差の関係で日本では12月9日である。
その晩も僕はペニーレインに行った。
いつもは元気なママが、ずっと泣いていたのをよく覚えている。
そして僕も、泣きこそはしなかったが、なぜかジョンの死を境に「新しい音」を貪欲に求める、というようなモチベーションが一気に失われてしまった。
その後十年間の、つまり80年代のロックはまったく聴かなかった。
なんというのか、「もういいや」という感じだった。
どんな音楽を聴いても、最初にビートルズに出会ったときの衝撃とか、ビートルズじゃなくても、「おおこれは凄い!」と開眼するような感じがなくなってしまったのだ。

80年代の洋楽が好きな人も多いみたいだけれど、僕が実際に生きてきた1980年代というのは、70年代や60年代の音楽を聴くと「なんだか古いなあ」と感じさせる時代だった。
前述したとおり僕はほとんど聴いていないので偉そうなことは言えないけれど、80年代の音楽というのはあまりにもへんてこな音も多かったので、そういうのを耳にしていると、かつての音楽がどんなに名曲でも馴染めなくなってしまったのではないかと思う。
ところが90年代に入ると、70年代の音も60年代の音もほとんど違和感なく正当に聴けるようになった。
個人的な問題なのかもしれないけれど、90年代に入ってやっとバブルの呪縛が解けた、という感じ。

おっとまた話がジョン・レノンから遠ざかってしまった。

この時季になると日本でも『Happy Xmas』がよく流れているが、これは単にメリークリスマス!と言っているのではなくて、反戦ソングだよ。
今売れている日本のミュージシャンが政治や社会について歌っているのはほとんど聴かない。
でも、恋やセックスや友情なんかと同様に、政治や社会というのもロックンローラーが歌うべきテーマだ。
それだけは歌わない、というのは変だ。
だって我々は、そんなシステムに支配されて生きているのだから。

ジョン・レノンはずっと、世界と闘ってきた。

湾岸戦争のときとか911の後とか、米国の放送局では『imagine』が放送禁止になったと聞いた。(不確かな記憶だけれど)
要するに、国が愛国心で一丸となって戦争をしなければならないときに、世界平和を歌うのはけしからん、ということだと報じられた(ような記憶がある)。

でも僕は、それは半分しか当たっていないと思う。

Imagine no possessions
I wonder if you can

という部分を忌野清志郎は

社会主義も、資本主義も
偉い人も、貧しい人も
みんなが同じならば簡単なこと

と訳した。
この訳は本質を突いた素晴らしいものではあるけれど、原曲の「possessions」とは、「所有」のことである。
ジョンレノンは『imagine』で「所有」を否定している。
これはつまり、資本主義を支えている一番ベースの観念の否定だ。
システムそのものに対する批判だ。

湾岸戦争も911後の「テロとの戦い」も、馬鹿ブッシュは「正義のため」とか言っていたが、結局は資本のため、システムのため、である。
ラムズフェルドのような強欲で破廉恥な資本家どもが「no possessions」にピリピリしたのだろう。

だから僕は、米国が『imagine』にヒステリックな対応をするのは、半分は愛国心の問題だけれど、それ以上に「システムを支えている基本的な観念」の否定に対してだと思う。
システム側の連中がマジにムカついたりちょっとびくびくするような存在だったのだ。
それだけで素晴らしい。

でも、死後31年経って、世界がこんなふうになってしまったのを知ったら、ジョンはきっと、頭を抱えるだろう。
もし彼が生きていたら、Fukushimaの惨劇について何を語り、どう行動していただろうか?
ものすごく悲しみ、そして腹を立てたに違いない。

第五ラウンド

昨夜は成り行きで、ほんとうに久しぶりにカラオケボックスに行った。
僕は基本、カラオケは歌わない。
歌うのはたとえば忘年会がそういう場で断るのもオトナゲないというようなときだけ。
つまり一年に一度歌うかどうか、というレベルである。
なぜならば下手だからだ。

だけど昨夜は、『タイガー&ドラゴン』をかっこよく歌ってる子を見て、俺も歌えたらなあと思ったのだった。
しかし、声がまったく出ない。
10代の頃は、ピアノをやっていてコード(和声)もわかったから、誰かが歌っているのに2音上げてハモることもできた。
今はそんなことは到底不可能だ。

少し前だけれど、楽器とか置いてあってみんながテキトーに鳴らしたりしているという類いのバーで、ついつい乗せられてキーボードの前に座ってしまった。
すると、驚くべきことに『Let It Be』すら弾けなくなっている。
上手に弾けないのではなく、まったく弾けないのだ。
キーボードをやっている人であればわかると思うけれど、これは何も弾けないのと同じだ。『ねこふんじゃった』も今の僕には無理だと思う。

歌も歌えなくなったしピアノも弾けなくなった。
ほんとうに人生というのは、いろいろなものを失う過程なのだった。

で、カラオケを歌えないのは、声が出ないのもそうだし、曲も知らないからだ。
流行歌というのは時代に敏感である。
僕のようなオヤジにとっては、5年前の曲も「全然新しい」のだが、若い子にとっては半年前でも「古い曲」だろう。
僕はこれまで一度だけ、メジャーレーベルでシングルの歌詞を書いたことがあるが、ジャンルは「ムード歌謡」である。
オヤジには、1970年代、80年代ふうの歌しか書けないのだ。
なぜならば、知っているのがそういう音楽ばかりだからだ。

1970年代、高校生だった僕は、酒場にあった8トラのカラオケで歌っていた。
今の子は8トラなんて言っても知らないだろうけれど、そういう規格のカートリッジテープがあって、カラオケで使われていたのだ。
僕が好きだったのは阿久悠さんが書いた歌。

前説が長くなったが、そんなわけで、
1980年1月1日午前0時00分、沢田研二が生放送で『TOKIO』を歌ったときから、
2011年3月11日午後2時46分、牡鹿半島の東南東約130km付近を震源として大きな地震が発生するまで。
僕はいったい、「何を考え」、「何を考えずに」過ごしたのか?
それを問い直すために書いてきた
『第一ラウンド』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11091429237.html
『第二ラウンド』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11095230025.html
『第三ラウンド』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11096150776.html
『第四ラウンド』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11097043506.html
の続きである。

なので1980年代の話に入りたいのだけれど、その前に、1979年の話をしよう。
というのも、その年は僕にとって、非常に重要な年だったからだ。

村上春樹さんが処女作『風の歌を聴け』で群像新人賞を獲ったのが1979年。
当時僕は毎日一冊のペースで小説を読んでいたのだけれど、その頃「若手」と言われていた日本の小説家たちの文章にはほとんど何も感じなかった。「なんでこんなこと書くのだろう?」と思っていた。
ところが、『風の歌を聴け』が『群像』6月号に受賞作として掲載されたのを読んだとき、僕は、上手くは言えないけれど、なにかが腑に落ちた。
当時の論評は、多くが「アメリカっぽい青春小説」というような感じ。
確かにその通り、と僕も思った。
しかし、そういう捉え方は、きっと一番大切な何かを見落としているに違いない。
そんな気がしてならなかった。

そして僕は、2ヶ月後くらいにもう一度読み返した。
高校生だったので一応学校には行っていたけれど、授業中は小説を読み、放課後はこの前書いたように新聞部や生徒会の活動(いろんな学校の集まりなど)に熱中し、夜は酒を飲むか音楽を聴いていた。ときどき家でピアノを弾いたり、後述するように文章を書き散らかしてもいた。
そんなわけでそれなりに忙しかったので、小説はフルスピードで読み、決して読み返したりしなかった僕が、なぜか『風の歌を聴け』だけは読み返した。
2回読んでやっとわかった。
日本にものすごい小説が、その上もしかしたらものすごい小説家が現れたのだ。
そんなふうに思って背筋がぞくっとしたのを、今でもはっきりと覚えている。

今でこそ酔っ払ってブログにこんな駄文をそれこそフルスピードで書き散らかしているが、僕は、小説を書きたいと思っていたのだった。
そして、実際に高校生の頃も、そこそこの量の文章を書いていた。
たぶん段ボールで数箱分、原稿用紙何千枚か。下書きみたいなのを含めるとその何倍か。

で、僕は悩んでいた。
「何を書いたらよいのかわからない」
もちろん、高校生であろうとも、世界には小説のテーマはいくらでもあることは知っていた。若いから経験していないことのほうが多いわけで、年を重ねるに従い「書けること」が増えていくだろうこともわかっていた。
しかし。
たぶんそれらは、誰かがすでに書いているだろうし、他の誰かが今後も書くだろう。

じゃあいったい僕は、何を書いたらよいのか?

今から思えばそれは、僕だけでなく、また文学だけでなく、「時代」のテーマでもあった。
外国のことはよく知らない。でも少なくとも日本に限って言えば、1970年代後半というのは、戦後日本人が目指してきた目標の多くが達成され(あるいは達成の目処が立ち)、しかしその達成のために築き上げられた巨大なシステムが、社会正義を求める運動をほぼ根元から押さえることに成功した時期である。
もちろん、そんな時代でも(というかいつの時代にも)、社会正義を求める運動はあった。
しかし、彼らの前に立ちふさがったのは、システムの強化と70年安保闘争の惨敗を経て日本中が感染していた「相対化の病」だった。
要するに「何が正しいかなんて、考え方次第」「善悪は単に法律による約束事」「正義を振りかざすのは押しつけだ」等々。正義や真実はすべて相対化されたのだった。

僕は今ではその考え方は間違っていると思う。
しかし、当時はそう考えていた。
すると、何を書いてよいのかさっぱりわからなくなる。
今更書く価値のある物事なんて、もう存在しないんじゃないか、という気持ちになる。

そこに現れた『風の歌を聴け』は衝撃的だった。
つまり、「何を書くかではなく、どう書くか」というその時代の最先端の問いを、物語の内容と言うより小説の存在それ自体で示したのである。
それに気付いた僕は、まさに目から鱗だった。

「完璧な文章などといったものは存在しない」から始まる冒頭が素晴らしいのはもちろんである。

「……ねえ、いろんな嫌な目にあったわ。」
「わかるよ。」
「ありがとう。」
彼女は電話を切った。

「わかるよ」と言った主人公の「僕」に、彼女がどんな「嫌な目にあった」がわかるわけない。
そんな登場人物のコミュニケーションの不在なら、もちろん多くの作家が書いていた。
それよりもっと重要なことは、彼女がどんなに嫌な目にあったのかはこの小説に書かれていない、ということだ。
というか、書いてはいけないのだ。
これがすなわち、「何を書くかではなくどう書くか」ということである。

さらに、デレク・ハートフィールドという架空の小説家を作り上げ、小説のあとがきでさえその嘘を貫き通す。(たしか群像新人賞掲載誌の選者座談会では、選者の誰ひとりとしてデレク・ハートフィールドを知らなかったが(当たり前だ)、それでもみんな、実在の小説家だと信じていた)

圧巻としか言いようがなかった。

1979年というのは『ジャパン・アズ・ナンバーワン』がベストセラーになった年でもある。
多くの人が「日本はこれでいいのだ」と信じていた。
だから、切実な小説のテーマなど、もはや存在しないように思われた。
『風の歌を聴け』は、ある意味、そんな「テーマの不在」を、メタ的にテーマとして取り上げたのでもあった。

ええと。
文芸評論を書こうとしているわけではない。

1979年というのは、テレビドラマでは『金八先生』や『必殺仕事人』、歌謡曲では『いとしのエリー』とか沢田研二のいろんな曲とか。
カラオケで「1979年の曲」を検索すると、名曲がずらりと並ぶよ。

そんなわけで、我々は「ある意味満たされた」世界にいて、だからこそ優れたテレビ番組や歌謡曲もたくさん作られた。

それが1979年。

僕は、上段に構えて「社会正義を語ること」自体が不誠実なような気がしていた。
社会を語るために「正義論」は必要ではない。さらにいえば正義論そのものが邪悪でさえある。そんな気持ちすらあった。

思想的に言えばニューアカデミズムが台頭してきた時代である。
正直言って僕はほとんど読んでいない。
ニューアカの源泉であるいわゆる大陸系、フランス語とかの哲学は、僕はどうも駄目なのである。
なので読んでいないから正確ではないかもしれないけれど、要するに「世界はどう成り立っているのか」を「比喩」によって語っているのがニューアカのような気がしている。
また、『風の歌を聴け』と同じような意味で、「言っている内容」よりも「それを言うという行為」も含めて、そのテキストが世界に投げ出されたときの様相をメタ的に問題にしているものもあったように思う。
ただそこでは、「権力の構造」は問題にこそされたが、正義論としてではなく、世界の読み方としてその言説が流通していた。

なにかが違うな、という気がしていたが、僕は流されていた。
前回、一世代上の全共闘世代のことを最低だと言ったが、前述したように僕も然りである。

さて。

昨夜はカラオケで『ヘビーローテーション』のPVを初めて見た。

カワイイじゃんか…。

昔、青年誌の編集部にいたときは、仕事柄アイドルの情報とかもチェックしていたのだが、基本は興味ないので、最近はそういうのは見たことがなかったのだった。
いやいや、僕は子供はいませんが、もしいたら自分の娘の年齢だけれど、これは正直言ってカワイイ。
本人たちの資質もあるだろうが、衣装とか振り付けとか映像編集とか、大変優れている。ああこれがこの時代の若い女の子たちの可愛さなんだなと思い知るのであった。

で、秋元康氏と言えば、多くの人が「おニャン子クラブ」を思い出すはずだけれど、おニャン子=女子高生より前にCXが仕掛けたのが、女子大生のオールナイトフジであった。
オールナイトフジが始まった1983年というのは、まさに僕が大学生だった時代で、一緒に遊んでいたオールナイターズの友達もいたし、それよりなにより、当時僕は、オールナイターズに絡んだイベント(といっても学園祭)を企画、主催していたのだった。

当時東大生で卒業後はNHKの優秀なプロデューサーとして活躍しながら若くして亡くなってしまったH君と僕が、居酒屋で飲みながらイベントのコピーについて延々と議論していたのを、当時早稲田で今は電通でかなり偉くなったM君が同席して、「なるほど、ことばって言うのはこういうふうに産み出されるんだと思った」と言っていた。
人一倍記憶力のない僕はすっかり忘れてしまっていたが、そういわれればそうだった。

で、この前同年代のみんなで飲んだとき、M君がみんなにクイズを出した。
「オールナイターズのイベントをやったときに、鹿島(僕)とH君が最終的に決定したコピーは『これはたんなる★★だ』というものでした。さて、なんでしょう?」

この答はまた次回。
じつはこれは、我々が80年代前半の学生時代、何に対してどう闘おうかという問題において、とても重要なことなのであった。

第四ラウンド

1980年1月1日午前0時00分、沢田研二が生放送で『TOKIO』を歌ったときから、
2011年3月11日午後2時46分、牡鹿半島の東南東約130km付近を震源として大きな地震が発生するまで。
僕はいったい、「何を考え」、「何を考えずに」過ごしたのか?

それを問い直すための文章だ。

『第一ラウンド』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11091429237.html )では、そもそもなぜ僕がそんなことをブログに書こうと思ったのか、そのきっかけを書いた。
『第二ラウンド』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11095230025.html )で、1970年代後半の話を書いた。

60年代、70年代の学生運動の敗北は、単に力及ばず安保を許してきてしまったというようなことではない。「夢は叶わなかった」というようなことではすまされない。
僕は1963年生まれなので70年安保のときもまだ小学生だった。
だから当事者は僕らより一世代上と言うことになる。
はっきり言わせてもらうと、彼らは最低である。
米帝(米国帝国主義)に反対し、すべての人の平等を目指し大学に立て籠もった奴らが、今では会社で偉くなり、グローバル資本主義の手先となっている。
小出裕章さんのような、一部の例外を除いて、ほとんどの連中があの頃の良心や正義感を捨ててしまった。

小出裕章さんは1949年生まれで、70年安保のとき大学生だったが、僕が聞いた話では大学闘争には参加しなかった。
でも、40年以上ずっと原発と闘い続けている。
60歳を過ぎたというのに、小出さんは助教という大学教員の中では最下層の肩書きだ。
国立大学というのは、どんなに優秀でも反原発の人間は出世させないのだ。
僕の弟でさえ何年か前に某国立大学の准教授になった。
国立大学では、いい子にしていさえすればそれなりの肩書きをもらえるはずなのだ。
でも小出さんは、国家の政策に真っ向から反対し、そのため出世を絶たれた。
ところがご本人はそんなことはまったく気にしていない。
「社会的に成功すること」こそ人生の価値だと多くの人が信じている現代、多くの人は「でも本音を言えば出世したかったはずだろう」と思うみたいだ。テレビに出たときなどは必ずそれを訊かれている。
しかし、僕はこの夏、小出さんの本を作るためにしばらく一緒にいさせてもらった。
そして、小出さんは、大学での地位などと言うくだらないものにはほんとうに興味がないのだなと知った。
正直言って僕は自分を恥じなければならない。
どんなに偉そうなことを言っても、僕はやっぱり、そこまで清くは生きられない。

また話が横道にそれた。

『第二ラウンド』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11095230025.html )で、1970年代後半の話を書いたのだった。
当時の学生運動の敗北は、「正しいことを目指していたのに力足りなかったから実現できなかった」のではない。
そのほんとうの意味は、「当時『正しいこと』を声高に言っていた奴ら」が今ではグローバリズムとマーケットの手先になってしまっていることからも明らかなように、結果、とても安っぽいニヒリズムの時代を招いたのである。

今夜は祐天寺のもつ焼き屋で飯を食って、今は目黒のバーでこの原稿を書いている。
いつも酔っ払って書くので、構成とか全然考えていない。
なので話が飛び飛びになってしまうのだけれど、たぶん僕にとっては、これが一番「正直に」書けるスタイルなのかもしれない。

話を本線に戻そう。

『第二ラウンド』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11095230025.html )で、1970年代後半の話を書いたものの、『第三ラウンド』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11096150776.html )では成り行き上80年代後半~90年代前半の話になってしまった。
つまり、抜けている1980年代前半の話を書かなければならないのである。

70年代の左翼運動の敗北は、「力足りなかった」からではないことは前述したとおりだ。
小出さんのようなほんの一部の人を除いて、連中は全員が逃げた。

事実としてそうであったと言うことがまずひとつ。

そして、もうひとつは、たとえば哲学史においては相対主義、ニヒリズムなどと言うのは何百年も前からわかっていたのに、それがほんとうに目の前に現れてしまった、ということだ。

もちろん西洋哲学史を遡ればソクラテス以前から相対主義(そしてある意味でのニヒリズム)を説く哲学者はいたのだが、それが(一部の哲学者や哲学好きだけでなく多くの人に)説得力を持つのは、既存の権威や権力に対して「お前ら偉そうに言うけれどそれは違うよ」と言うときだった。と、何となく僕は思う。
つまり、ニヒリズムはある種の武器であり得たのだ。

ところが、1980年代に日本を、そして世界中の市場主義国家を襲ったニヒリズムには、「闘う相手」がいなかった。
相手を倒すための武器ではなく、結果的には自分の首を絞めるためのものにしかならなかったのだ。

「何が正しいのかなんか所詮わからないんだからさ」
とみんなは言った。
「まあ、難しいことは考えず楽しく生きようよ」

1980年1月1日午前0時00分、沢田研二が生放送で『TOKIO』を歌うのを聴いて、僕もまた、「僕も結局のところは何が正しいのかなんかわからないのだから、つべこべ言わずにこの世界に身を任せよう」と思ったのだった。
正義論はもはや不毛だ。だって「たぶんきっと楽しい世界になる」。
僕はそう思った。
そしてその予想は、その後十年間は当たることになる。
日本中が浮かれた時代に突入した。

ひとつだけはっきり言っておかなければならないことがある。
全共闘時代の連中を、僕は思いきり批判した。奴らは逃げたからだ。
だがしかし、僕もまったく同じように、1980年代から、社会のことを考えるのをやめたのだ。
同罪である。

当時、たしか糸井重里さんだったと記憶しているが、「自分は資本主義者だ」と言った。
「社会主義者」ということばはあったが、「資本主義者」ということばはなかった。
なぜならば、社会主義がイデオロギー(政治的な主義)であるのに対し、資本主義はそうではなく単なる現実的なシステムの問題だと思われていたからだ。
(ここでは詳しく書かないが、ほんとうは資本主義というのも社会主義と同様に「ひとつのイデオロギー」にすぎないのだが)

糸井重里さんの偉いところは、自覚的にそんなことばを使うところだ。
「主義者」として、あえて「社会主義者」と同列に置く。そうすることによって自覚的に自分のことばの責任を引き受けるのだ。

いずれにしても僕も、「資本主義者になろう」と思った。
自覚的に資本主義を生きよう、と思った。

それが1980年頃。

西洋近代的な「自我」の観念があってこそ、ヒューマニズムという思想が確立された。
それは当初、闘うための思想だった。(たとえば、勝ち取らなければならない人権などという問題において)
その意味で、西洋近代的な「自我」は歴史的に価値がある考え方だった。
ところが、20世紀後半、闘う相手を喪失した西洋的な自我は、それでもたとえば宗教がそうであるように、さらに変な方向に勢力を伸ばしたがっていたのだった。
これが、リバタリアニズム、市場原理主義のベースとなる。

とはいえ1980年の僕は、脳天気なものだった。
もちろんそれなりに深く考えはしましたよ。
でも、相対主義とニヒリズムにはあがなえなかった

早く原稿を書くのをやめて一緒に飲もうと店の女の子が言うので、今夜はここまで。

第三ラウンド

1980年1月1日午前0時00分、沢田研二が生放送で『TOKIO』を歌ったときから、
2011年3月11日午後2時46分、牡鹿半島の東南東約130km付近を震源として大きな地震が発生するまで。
僕はいったい、「何を考え」、「何を考えずに」過ごしたのか?
それを少しずつ、問い直そうと思う。
『第一ラウンド』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11091429237.html
『第二ラウンド』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11095230025.html
の続きだ。
だから、もし余裕があればそれらの記事から順番に読んでください。

さて。
今夜は20年以上の付き合いになる地元中目黒の老舗シェリーバーで赤ワインの1/2ボトルデカンタと、シェリー酒を一杯。それからやはり中目黒の作りはカフェみたいで女子客が多いが、ものすごく照明の暗いお店でグラスワインを二杯。さっき帰っていつものように焼酎甲類+炭酸+梅干しである。

昨夜『第二ラウンド』の記事をアップしたのが朝の5時半だったのだけれど、そのあとじつは、youtubeを見始めてしまって、10時まで飲んだくれていたのだった。
タイマーズが1988年8月6日(その43年前に原爆が落とされた日)の広島平和コンサートに覆面バンドとして登場したときの映像を見つけた。





ふたつめの映像には『ラブミーテンダー』『サマータイムブルース』も入っている。
僕は泥酔していたせいもあって、涙が出てきてしまったよ。
この年、タイマーズがデビューしたのは、もちろんその2年前のチェルノブイリ原発事故があったからである。
原発に猛然と反対した忌野清志郎の歌が、放送禁止、発売中止などになった。
「反原発」はメディアでタブーだったのだ。放送局もレコード会社(特に原発を作っている東芝のEMIだったし)も、言論の封印に躍起になっていたのである。
そして、タイマーズはそれに抗議して結成されたのであった。

事故当時、チェルノブイリから放出された放射能は、8000キロ離れた日本にまで飛んできて、日本のお母さんの母乳からセシウムが検出されるほどだった。

ところが。
その頃僕は何をやっていたのかといえば、雑誌のエロ記事を作っていたのだった。
毎週何日もスタジオに入り、毎月何十人もの女の子の裸を見ていたのだった。

言っておくけれどエロは悪くない。

当時僕が社員編集者として携わっていた雑誌は50万部刷って80%の実売率を誇っていた。
紙媒体を知っている人ならばわかると思うけれど、今では考えられないほどのものすごい売れゆきである。
しかも、驚くべきはその採算性の悪さである。
採算分岐点が実売率78%だったりしたのだ。
今はケータイやインターネットの普及で雑誌が売れない。50万部刷るなんて夢みたいな話だし、その上、実売率が50%台でもいいように、多くの出版社では経費を削減して雑誌を作っている。

しかし、当時僕がいた編集部では、400円の雑誌を50万部刷っても78%売れなければ赤字、というものすごい雑誌作りをしていたのである。そして実際、80%売れたのであった。

もちろん、バブルの時代だから何でも売れた、ということもある。
しかし、どんなに景気がよくても、雑誌というのは面白くなければ売れない。
自慢するわけではないけれど、面白い本を作っていたのだった。

そのために経費は使い放題だった。
今は亡くなってしまった業界の名物編集長のKさんは、経費を使わないと怒った。
「経費を使わないというのは仕事をしていないと言うことだ」というわけだ。
だから毎晩、値の張るお店で食事をし、酒を飲んだ。
「編集者たるもの、他人に財布を開かせてはいけない」とも言われた。
たかが何万円かの金のことで他人に借りなど作ってはいけないのだ。
もちろん、相手にあからさまに「貸し」にするような野暮な金の払い方をしてはいけない。
編集者というのは、スマートにその場の金をすべて払うべきなのである。
揉めたのは他社の編集者やテレビ曲のプロデューサーなんかと飲むとき。
つまりお互い自分が払いたがる。どちらもここで借りなんか作りたくないのである。
そんなときは、じゃあ折半でということになる。
あとは芸能界でそれなりの立場にいる人なんかと飲むと、若輩者の僕なんかには決してお金を払わせてはくれない。そういう人たちと飲んで支払いをさせてもらえるようになってこそ一流の編集者だとも教わった。

もちろん飲み代だけではない。
海外ロケに行くときにはハイヤーが家の前まで迎えに来た。タクシーではなくハイヤー。
あと、クルマは外車に乗れと言われた。
トヨタ、日産、ホンダなどの人たちと仕事をすることもあったわけで、トヨタのロケに行くのに日産のクルマで行ってはまずいのである。外車なら問題はない。
名物編集長のKさんは、昔の縦目のメルセデスとかジャガーに乗っていた。
僕はマセラッティのクワトロだったり、スノーボードをやり始めてからは荷物を積まなければならないので、ちょっと珍しいランチアのワゴンやレンジローバーだった。

とまあ、「よくあるオヤジのバブル自慢」のようになってしまったけれど、何が言いたいのかと言えば、当時の僕は、湯水のようにお金を使って雑誌を作っていたと言うことだ。
これも、尊敬していた名物編集長の故Kさんに言われたこと。
僕のことは「お前は人に好かれる才能はあるかもしれないけれど、ただそれだけだ」と言った。
「人は『美味しいところ』に寄ってくる。お前のような人脈も何もない若造が人に『美味しい』と思われるにはどうしたらいいのか。それは金を払うことだ」

こうして僕は、数千万円の仮払い未精算金をため込んで、新橋のガード下から二人で二桁万円の鮨屋まで飲み歩いた。
ビンボーになった今では想像もできない話だ。
でも、若い頃にそれを経験して良かったと思う。
さまざまな世界の、数限りない人たちに出会い、雑誌を作っていた。

話を少し戻そう。
さっき「エロは悪くない」と書いた。
エロは、エロと言うからエロいのであって、そもそもは人間の基本的な営みである。
僕はそれを、かなり真面目に考え、なおかつかなりセンセーショナルに表現した。
センセーショナルと言っても、それは「消しを薄くする」というような意味ではない。
「消しを薄くする」なんで馬鹿でもできる。
そうではなくて、「消し」は濃いまま、それでもエロをどうエロく表現するかに当時の僕は腐心していたのだった。

1980~90年代はヘアヌードブームの時期で、荒木経惟さんや篠山紀信さんをはじめとする多くの写真家や編集者、出版社が性表現の現場で闘っていた。
もちろん、無修正の裏本とかはあったわけだが、我々の闘いはそれを表舞台ですることだった。
僕も警察といろいろあっておもしろい話もあるのだけれどそれはまた別の機会に。

いずれにしてもこれは、「性の商品化」についての話である。
「性の商品化」というとそれだけで目くじらを立てる人もいるけれど、たとえばある国(どこだったか忘れた)では、当局が売春を取り締まるというので、当の売春婦の女性たちが反対デモをやったという話もあった。

誤解をしないでほしいのだけれど、僕は売春の是非について言っているのではない。
そうではなくて、資本主義というのはあらゆるものを商品化するということである。
資本主義を認める以上、性も商品化されることを認めなければならない。
もちろん、貧しい少女が生きるために売春を強いられる、というようなことは、規制されなければならない。
僕は基本的に、国家によって自由な売買が規制されることを是とする。
そうでなければ、「お金のために売春したい小学生の女の子」がいて、「お金を出して小学生とセックスしたいオヤジ」がいれば、そこに商行為が成り立ってしまうからだ。
でももしも、そんな規制がない(という意味での)純粋な資本主義というものを措定するならば、少女売春でも人身売買でも何でもアリだ。(実際に、かつては奴隷が売買されていた)

ええと。
要するに、資本主義では性は商品化される運命なのだ。
というか、資本主義では性も「商品化されなければならない」のであった。

話をもっと元に戻そう。

1986年にチェルノブイリ事故が起こり、清志郎がロックという武器で原発と闘っていた頃、僕は、湯水のようにお金を使い、性を商品化していた。
毎月第2、第4木曜日には、全国津々浦々の書店、コンビニに、僕の作ったエロ記事が載った雑誌が並んだ。

前回も書いたが、僕は高校生の頃から清志郎が好きで、ずっと聴いていた。そしてもちろん、チェルノブイリの事故のことは知っていた。
にもかかわらず、当時僕は、清志郎に呼応して反原発を訴えるのでもなく、性の商品化をせっせと進めていた。

これはどういうことなのか?

冒頭に書いたように、
1980年1月1日午前0時00分、沢田研二が生放送で『TOKIO』を歌ったときから、2011年3月11日午後2時46分、牡鹿半島の東南東約130km付近を震源として大きな地震が発生するまで。
僕はいったい、「何を考え」、「何を考えずに」過ごしたのか?
これを問い直さなくてはならない。

ただ、今回書いたのは1980年代後半~90年代前半の出来事である。
つまり、1980年代前半を飛ばしている。
これはまあ、昨日たまたまyoutubeで88年のタイマーズの映像を見たからこの話になったわけだけれど、1980年代前半というのは、じつはとても重要な時期なのであった。
同い年だったのに2年前に若くして亡くなったNHKのプロデューサーH君と、毎日のように議論していたのもその頃だ。

僕とH君とは高校が違うが、前回書いた「生徒会や新聞部の集まり」で高校時代に知り合った。
H君こそ、僕がこの生涯で出会った人物の中で、もっとも頭の切れる人間である。
当然、東大に入った。
僕は馬鹿だから三流大学にしか入れなかったわけだけれど、ある意味H君と共通する問題意識を持っていた。
そして、大変微妙な議論をしていたのだと思う。

「微妙な」というのは、そのときの議論はたぶん、そのときの僕とH君にしか共有できなかったものだからだ。
「していたのだと思う」というのは、僕は人一倍記憶力がないので、何も覚えていないのだ。

けれど、その頃一緒にいろいろやっていたM君(今は電通にいてとても偉い)と昔話をしたりすると、少しずつ思い出す。

ああそうか、その頃僕とH君は、「世界の凡庸さ」に対して憤っていたのだ。

「世界の凡庸さ」。
それこそが、2011年3月11日を経た今、僕が再び直面する問題になっている。

さあもう今日は寝ましょう。
次回きっと、1980年代前半の話を書きます。
また今度。

あと最後にお詫びです。
ペタをしてくれたり、コメントをいただいたりするのですが、全然返せていません。
とても嬉しいのですが、ペタ返しだけでも、その方のブログをちゃんと読まなければ失礼だと思い、もちろん読んでいるもののほうが多いのですが、「誰かにはペタ返して誰かには返さない」というのはよくないので、ペタ返しもしていません。
すいません。

第二ラウンド

「じゃあ、具体的には何ができるの?」
そこからの話であった。

前回の記事「第一ラウンド」http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11091429237.htmlを読んでいない方は、ぜひそちらから。

ええと。
書き始めてみたら「僕の半生を原稿用紙30枚にまとめろ」というような様相を呈してきた。

前回は直近の話を書いたのだった。
僕は、すべての原発は即時停止すべきだし、東電の役員や経産省の役人、政治家も含め、福島第一原発の事故に対して大きな責任を持つ奴らは刑務所に入れるべきだと思っている。
しかし、(大抵はバーで酔っ払っている場合だけれど)それをいうと、
「じゃあそのために、具体的には何ができるの?」
と逆に相手に問われる。

この問いに対する答はじつはとても難しい。
でも、できる限り正直に書こうと思う。
しかし、正直さとは、それと同時に、捉え所のなさでもある。

そんなわけで、酔った頭で考えると、昔のことも書かなくてはならないような気がしてきた。
今夜は、激安居酒屋でビール大瓶一本と樽酒2合飲んで、帰ってから焼酎甲類+梅干し+炭酸割りを、もう5杯飲んでいる。
そうして、いろいろ考えてみれば、やはり一から話さなければなるまい。

こういう僕みたいなのをうざい奴というのだろう。
一から話さなくても要点だけ言えばいいのに、そうしない。回りくどい。
ていうか、原稿料いただいて書くのなら簡潔にぴしゃりとやりますけれど、ブログですから許してください。

第五ラウンドくらいまで続く長い話になりそうだけれど、馬鹿馬鹿しいのでこれまで一度も書かなかったことも含めて、
「じゃあ、具体的には何ができるの?」
という問いに対する答、
すなわち、反原発までの道のりを綴っていこう。

さて。

2011年3月12日。
僕の借りている中目黒のマンションは耐震構造もへったくれもなくとてもぼろいので、8階の部屋の中は、地震で大量の本やCDが散乱していた。
でもそんなことよりも、地震と津波の凄まじい被害を、点けっぱなしのテレビで見ながら呆然としていたのだった。
僕はNHKを見ていたのだけれど、記憶に間違いがなければ、生中継でアナウンサーが、「あれ?」というふうに「原発の建屋が骨組みだけになっていませんか?」と指摘したのだった。
まさかそんなことはないはずだ、と僕は思った。
だがすぐに、事実1号機建屋が爆発したことを知る。
そしてその後数日のうちに、3号機、4号機も建屋が爆発した。

じつは、3月11日からの約一ヶ月間のことは、具体的なことはほとんどすべて忘れてしまっている。
何しろ僕は混乱していた。
しかし、そのとき自分が何を思ったのかは、はっきりと覚えているのだ。

僕は怒っていた。

たかが48年間の人生だが、こんなに腹を立てたのは生まれて初めてだった。
東京電力に対して怒っていたのはもちろんである。
政府(現政権の民主党も、原発を推進してきた前政権の自民党も)に怒っていたのも当然だ。
テレビで安全デマを垂れ流す御用学者や、それに突っ込まないマスコミに対して怒っていたのも当たり前だし、たとえば斉藤和義の「ずっとウソだった」をtwitterで批判するようなエコノミストもどきどもにも腹を立てていた。

でもやはり、はらわたが煮えくりかえった一番の理由は、自分自身のことだった。

つまり、仮にもメディアの世界にいながら、原発について何も知らなかった自分に対して、猛然と腹が立っていたのだった。

遡って1986年4月、僕は大学を卒業してある出版社の編集部に入った。
だから、職業的なメディア人としても、もう四半世紀を過ごしている。
ただ、この業界にいる多くの人と同様、学生時代からメディアと接点をもっていた。だからもう30年以上だ。
それにもかかわらず、原発の爆発など想像だにしてこなかったのだ。
もちろん、スリーマイルもチェルノブイリも知っていた。
でも、「日本の原発は安心です」という連中のことばに、まんまと騙されていたのだ。

騙すほうが悪いのはもちろんだが、騙されるほうも悪い。それがメディアの人間ならなおさらである。知りませんでしたではすまされない。

1970年代後半の話をしよう。

60年安保闘争、70年安保闘争で盛り上がった学生運動も、70年代後半にはすっかりおとなしくなっていた。
多くの人々がその不毛さにうんざりしていたのだった。

ところが、当時の僕の周りには学生運動の残党が案外たくさんいた。
これは、僕が高校の新聞部や生徒会にいたからである。

僕の高校は男子校だったのだけれど、新聞部や生徒会にいると、女子校の女の子たちといろいろ集まりがあったりした。
都内はもちろん、関西や全国の名だたるお嬢様女子校の女の子たちと仲良くなれる。
恋をしたり酒を飲んだり、まあ、楽しいわけだ。

こう書くと、まるで僕が色事のために新聞部や生徒会にいたかのように思われるだろうけれど、それは半分は正しいかもしれないが半分は間違っている。
今では死語なのだろうが、当時は「学校の自治」というのが大きなテーマだった。
そう、学園紛争時代には大学生が「大学自治」について考え、闘ってきたように、高校生だった僕たちも、「学校の自治」を考えていたのだった。

高校の学校新聞というと、「なんとか部が都大会で何位に入りました」とか、「学食に新メニュー登場!」とか、そういう紙面を思い浮かべる人が多いのかもしれないが、僕はそれはまったく違うと思っていた。そんな話題を一週間遅れで報じても何の意味もない。
矛盾を掘り起こし鋭く問題を提起するか学校当局と闘うか、それしかないと思っていたのである。

大人になれば、というか今の僕もきっと、親に養ってもらってるたかが10代のガキが生意気を言うな、ということになるのだろうけれど、当時の僕は真剣だった。
親同伴で学校に呼び出しとかもあったが、今考えれば可愛いものだ。
ほんとうに反体制的な高校生であれば、親と一緒にのこのこ学校に謝りに行ったりなどしない。
要するに、はっきり言えば私学の少しは名の知れた高校の生徒にありがちなちょっとした「おいた」なのであるが、当時の僕は子どもだったので、とにかく一直線に走っていった。

おかげで、マルクス主義者たちと一戦交えることもできた。(これだけのことをさせてくれた親や母校に感謝しなければなるまい)
他校の新聞部や生徒会には、マルクス主義の人たちがいろいろいたのである。
そこで僕もマルクス主義を勉強して、なるほどなあと思ったのだけれど、どうしても納得がいかないところがあった。

今では「マルクス主義=自由よりも平等の重視」、「資本主義(自由市場主義)=平等よりも自由の重視」と捉えている人が多いけれども、マルクス主義にとっても「自由」は重要なテーマである。
なぜならば、抑圧され、搾取されている人々は、抑圧、搾取から自由にならなければならないからである。

この点は正しい、と僕は今でも思う。
でも、マルクス主義がレーニンの実際の革命論になったとき、それは「党」を必然とする。
革命的な党が前衛となって組織的に闘わなければならない、ということになってしまうのだ。

ちょっと待てよ。
党、つまり組織と命令系統をつくるということは、権力を作るということじゃないか?
僕らは、権力から自由にならなければならなかったのではないか?

そう考えたとき高校生だった僕は、マルクス主義(というかマルクス・レーニン主義)は、決定的に間違っているのではないかと考えるに至った。
今ではマルクス主義(というか社会主義)は、現実の「東側」諸国の失敗を例にとって間違いだという人が多いけれど、僕にとってはそれ以前の問題として、たとえ過渡的であったにせよ、「自由や平等」を実現するために「自由や平等」を抑圧するシステムを作らざるを得ない、というのが納得いかなかったのだった。

しかし、そういうことを言うと、マルクス主義者たちは猛烈に反発してくる。(かつてシュティルナー(…知ってる人いますか?)が、マルクスから過剰なほどの反論を喰らったように)

で。
僕も、「××派」と呼ばれるような左翼の人たちから総攻撃を食らったのであった。
当時はガリ版刷りに「闘争文字」だ。
(「闘争文字」って、Googleでも出てこないな。僕の言い方が間違ってるのかなあ? 要するに今でも一部の大学の立て看にあるような角張った文字)
つまり、「反革命分子鹿島君(僕のこと)を徹底糾弾する!!」とか、そんな調子の僕の実名入りのビラが撒かれるのである。

やれやれ。

そのとき僕が思っていたのは、「この社会において人が保証されるべき価値として自由と平等を措定するのであれば、いかなる場合もそれを侵してはならない」ということであった。
マルクス・レーニン主義は残念ながらそれに反する。
「党の独裁」なんて考えた瞬間にもう駄目だ。
であるから、彼らからなにか言われたときには徹底抗戦しなければならない。
そう考えていた。

しかし。

いったい、自由とは、平等とは、何だろうか?

平等のほうがまだわかりやすい。
こんにちの自由市場主義者たちがよく言うように「誰にとっても1万円札は1万円札」というような、誤魔化しも容易だ。
ところが、自由となるとさっぱりわからない。
考えれば考えるほど、謎は深まっていった。

僕はアナキズムを勉強した。
歴史的に見ても、アナキズムは「反国家・反資本家」という立場こそマルクス・レーニン主義と同じながら、マルクス・レーニン主義が資本家から労働者を解放するといいながら、結局のところ共産党独裁という「別の権力」を作るだけだ、という点に関して、断固異議を申し立てていた。
(Wikipediaのアナキズムの項目は結構面白いからぜひどうぞ。ダニエル・ゲラン、大澤正道など、懐かしい名前が載っている)

そしてそのうち、ニーチェを読み始めた。

そんなことをしているうちに1970年代は終わる。

1980年。
1月1日。
午前0時0分。
パラシュートと体中の電飾というとんでもない衣装で、沢田研二が「TOKIO」を歌った。
僕の記憶では、民放の年越し番組の生放送、新年の時報に合わせてだ。

これを見た僕は、体中に電流が走ったような気がしたのを覚えている。
糸井重里さんという類い希なる才能が、「その先の10年」を完全に見越して書いた詞である。

そうか、そうだったのか。
そういう時代になったのか。

欲しいなら何もかも
その手にできるよ A TO Z
夢を飼う恋人に
奇跡をうみだすスーパーシティー

そしてほんとうに、東京は、その通りの街になる。
世界一クレイジーな街になる。

1980年1月21日。RCサクセションがシングル『雨上がりの夜空に』を発売。
僕の高校は、チャボ(仲井戸麗市)の母校でもあったし、なにしろ清志郎が愛して(?)きた街、国立にある。
だからその年6月の学園祭でも多くのバンドが『雨上がり』を歌った。
バンドのノリで、高価なギターが池に投げ捨てられた。
これも今にして思えば、ニッポンのクレイジーな80年代を予言する出来事だった。

同年12月8日。
5年ぶりのアルバム『ダブル・ファンタジー』を発表したばかりのジョン・レノンが凶弾に倒れる。

こうして、1980年代が始まったのだった。

「東側」諸国の崩壊。自由市場主義の圧倒的台頭。
誰も「正義」を語らなく(語れなく)なった時代。
しかし、今思えば、日本のバブルとその崩壊と同様に、2008年の国際的な金融危機も、1980年代に埋められていた地雷だったような気がする。
ちょうど、放射能被曝によって数十年後に癌が発症するように。

では、
その当時、僕は「何を考え」、「何を考えず」にいたのか。

続きは第三ラウンドへ。

僕の中ではマルクス主義とアナキズムが先鋭的に対立していた時代。糸井重里さんはどう切り込んで、こんな天の邪鬼な僕にさえ「時代というもの」をわからせたのか?
『TOKIO』で沢田研二が体中に着けていた電飾はとても重かったときくが、それは、80年代に実際の東京で消費される膨大な電力を予言していたのか?
清志郎はなぜ、「世界は少しはマシになっている」と考えられなかったのか?
ジョンレノンの『imagine』は、資本主義それ自体を否定している。『HappyChristmas』は反戦ソング、もっと厳格に言えば当時の「西側」諸国(とくにアメリカ)の自国の経済的利益を守るための戦争(比喩的な意味においても)に絶対反対する歌であったにもかかわらず、今でも(もちろんこのクリスマスでも)アメリカの属国である日本でヘビーチューンになるのはどうしてなのか?

などなど。

読むのは簡単だが書くのは大変。
ちょっと疲れてきた。

なので、続きは第三ラウンドへ。
謎解きは全部はしませんが。

第一ラウンド

今夜はビールを3/4pintと、ターキーのダブルの炭酸割りと、ハバナクラブのダブル。家に帰って焼酎甲類を梅干し&炭酸で二杯。
これくらいがちょうどよい。
まだ頭は冴えているので、思っていることをだらだらと書いていこう。

前回(それからたしかその前も)の泥酔ブログで僕は、飲んで原発反対とか言うと、「じゃあ現実的にはどうしたらいいんですか?」と言う人と議論、下手すると喧嘩寸前になることを書いた。

僕は思うのだけれど、東電の言ってることは正しいとか、政府の原発事故対応はこれがベストだとか、そんなふうに考えている人なんてほとんどいないんじゃないかと思う。

「プルトニウムは飲んでも安全」とか言うキチガイは別として(一応書いておくけれど、プルトニウムを「飲んでも」ほぼ排出されるのは事実だが吸い込んでしまったら大変なことになる)、「放射能は有害である」ということは日本国民のコンセンサスだと思うのだ。
だから大抵の人は、政府や東電はよくない、と思っているのである。

もちろん、事実をちゃんと知らない人も多い。
でもたとえば、文科省がwebsiteで発表している汚染マップのレベルと、チェルノブイリ事故で旧ソ連が指示した強制避難などのレベルを比較すれば、日本という国が、国民の生命、健康のことなど旧ソ連ほども考えていないのはすぐわかるし、東京電力がどれほどの犯罪を犯したのかも一目瞭然だ。

でも、それを知っていても「では、現実的には何ができるんですか?」と切り返してくる。

つまり、ちゃんとした大人は、日本がどれだけ駄目なのかくらい、とっくにわかっているのだ。
東電は明らかな債務超過なのであるから、本来なら潰れるべきだということもわかっている。
それでも、政治家と官僚と財界、マスコミはもちろん、原発立地地域の人たちや、電力会社と関わりのあるあらゆる産業のひとたち…要するにすべての利害関係者が複雑に絡み合ってこの日本のシステムを成立させているわけだから、そう簡単にガラガラポンとひっくり返すことは不可能だ、というわけだ。

ところで。
話は少し脱線します。

このブログはどこにも宣伝していないし、酔って好き勝手書くだけだから、読んでくれている人もほんとうに少ないのだけれど、それでもペタとか見ていると、女性の読者が多いのが最初はちょっと意外だった。
以前は、「子どもに対する放射能の影響」という話題が、男性よりも女性のほうがリアリティあるのかな、とか思っていた。

ところが、最近は違うような気がしている。
こういうことだ。

女性よりも男性のほうが「社会化」されてしまっている。
こう書くともしかしたら女性の社会参画を訴える人たちは怒るかもしれないので、誤解のないように言っておくが、ここで言う社会化というのは、一般論として社会性があるかどうかだとか、男のほうが女より仕事ができるだとか、そういう意味ではない(むしろ最近の若い人は女性のほうが男性より仕事ができると思う)。

つまり、少なくとも戦後の日本社会の中では、男性は社会に出たとき、まずはじめに「組織というもの」の理解を強いられる。
「理解」というのは、頭でわかるだけでなく身体に叩き込まれる、ということだ。
今でこそ優秀な女性管理職も多いが、それでも、無能な男性管理職のほうがもっと多い。
新橋とかで飲んでいると、明らかに無能な上司(男)が若い奴に説教をたれている光景を今でも見かけるが、そういう社会生活の中で、女性よりも男性のほうがここで言う「社会化」、つまり、「組織があって、社会がある。お前らはそれに支えられて生きているんだ」ということを教え込まされるのだ。
はっきり言えば男は、「社会人というのは、『黒』だと思っていても『白』と言わねばならないときがある」と、植え付けられるのである。
日本の戦後65年の「男社会」を、引き継がされるのだ。
歴史的に(つまり長い男性社会の弊害を受けていないという意味で)そうなのか、あるいは別の要因なのかはわからないけれども、いずれにしても僕の経験では、そんな男性に比べて、女性のほうがずっと自由だ。

で。
話は少し戻る。

僕は社会性がない。
もう上司も部下もうんざりだと思ったからいい歳で後先考えずに借金してフリーランスになってしまったような人間だ。
だから、組織の中にいる男性にしてみたら、幼稚なことを言う、と思われるのだろう。

まともな社会人は、初対面の人の政治と宗教、病気の話はしない。
相手と意見がまったく違ったり、相手を傷つけてしまうことがあるからだ。
ところが僕は、酔った勢いで初対面の人にまで原発批判、東電批判をふっかける。
もちろん僕は、その人本人のことを悪く言ったりはしない。
それでも、原発を否定し、システムを否定することは、遠回しに、そのシステムの上で生きている人を否定することになる。
だから、「じゃあ具体的にどうすればいいんだよ?」ということになる。

ここで話はもう少し戻る。
いつのまにか、焼酎甲類を梅干し&炭酸は五杯目になっているので、かなりいい感じだ。

腐りきった東電役員どものような、人として最低の連中というのは、じつは世の中にはそんなに多くはいない。
多くの人は、日本という国がどれほど駄目でシステムがどれだけ腐敗しているのかわかっている。
しかし、もうがんじがらめなのだ。
特に、「組織の男」の呪縛はひどい。
でも、このシステムの中で、上司や取引先に頭を下げ、馬鹿な部下をなだめ、一生懸命働いて税金を払い子どもを育て、人生を全うしようとしているのだ。
僕のような何も背負っていないい加減な人間が酔っ払って理想論を語ったりするのに、ムカつきもするだろう。
偉そうに、未来に対する責任を語るのなら、子どもを作ってちゃんと育てろ。
僕はそう言われても仕方がない。

ええと。
構成とか全然考えずに書いているので、話が行ったり来たりになるのだけれど、さっき、女の人は男よりも自由なんじゃないかと書いた。
僕が思うにたぶん、「システムというのがアプリオリ(まず最初にというような意味)にあって、そこに自分が組み込まれる」というようなイメージから、女の人は自由なのではないかと思う。
きっと男性とはそこが違う。
(ちなみに男性も「アプリオリに(少年時代から)『組織というものがアプリオリに存在する』と思っている」わけではない。宗教を信じると、信じる前に遡って「あらかじめ神はいたのだ」と思うのと同様、世界がきっと変わってしまうのだ)

焼酎甲類を梅干し&炭酸は六杯目なので、まとめに入ろう。

たぶん、女性のほうが、色眼鏡をかけずに正義をジャッジできる。
「組織の男」の理論など、とてもくだらないものなのだが、そこには生活や、家族に対する責任もかかっている。これは、人生にとってとても大事なことだ。
さらにいえば彼らは、「ちょっとやそっとじゃ世界は変わらない」、あるいは「システムに口出しすることは俺の人生に口出しすることだ」とさえ思ったりする。
ところが僕が、「幼稚な理想論」をふっかける。
なので、「だったら具体的に何ができるのか?」と、僕は彼から問われることになる。

今夜はほぼ素面で書き始めたはいいものの、読み返す気にもならない悪文の見本のような文章だな。
僕が僕の担当編集者だったら、書き直しを命じるだろう。

まあいいや。

このブログが女性にも支持してもらえるのは、良く言えば幼稚だけれど素直に書いているからだろう。
とはいえ僕は、朝の五時に泥酔してバーに入って反原発でくだを巻いたりする駄目人間なので、そんな奴に偉そうなことを言われたくないと思われても仕方がないのであった。

で。
「じゃあ、具体的に何ができるの?」
と言われる。

ここからが第二ラウンドだ。

では僕には、具体的に何ができるのか?

ほんとうは今夜はそれをメインに書こうと思っていたのだけれど、前口上だけで長くなってしまった。
いつもそうだ。

また今度。

現実的

今夜ももちろん泥酔だ。

原発などについてまとまった意見は書きません。
もう朝ですから、身体は眠りたがっていますが、とにかくなにか書いておかなくちゃいかんよね、という意味合いの、単なるメモです。
興味のない方は無視してください。

最初は恵比寿のやきとり屋で、反グローバリズムの経済の本を読みながら磯自慢を飲んでいたのだけれど、カウンターで隣に座っていた30代で同じ会社らしいカップルは、やきとり屋ではお互い敬語で話していたくせに、僕がタクシーでふたりを追い越したときには手をつないでいたぞ。
やきとり屋では終電の時間も、彼女がわざと忘れているふりをしていた。
いいなあ若いって。

その後、目黒のバーで日本語の達者なデンマーク人と話をして、それから、件の「反原発だからバーやめます」バーに辿り着いたときには夜中の三時をとっくに回っていて、店に入るとお客はもちろん、マスターまでもが泥酔状態だった。

で。

見るからにまともそうで、ほんとうにまともな人と、ちょっとした議論になりかけた。

「じゃあ、具体的にどうしたらいいんですか?」

僕が、「日本はもう駄目だ。なんとかしなくちゃいけない」というと、そう問われるのである。

素面のときのディベートであったら僕は負けない。
なぜならば、「底の底の底の底の…」まで永遠に語れるからだ。(これが簡単そうに見えて、場合によっては哲学史総動員というふうになったりするのだけれど…)
であるが、酔っ払ったときはなるべく相手の話を聞くようにしている。
何が問題なのかを見極めたいからだ。

「今の日本がおかしいのはわかっています。でも、それを変えようとしたって現実的に無理でしょう」

彼がそういったとき、僕は何となくわかった。

「現実的か否か」

それが彼らにとってはものすごく重要なのだ。

この前、原発推進の人とあわや喧嘩になりかけたことを書いたが、そのとき相手の言っていたことばも「現実的に~~」だった。

特にそれが、相手に投げかける質問のときに多くある。

「そうはいうけれど現実的に~~~はどうなんですか?」
という具合だ。

僕は、そのときも酔っ払っていたし今も酔っ払っているのでちゃんとしたことは言えないが、少なくともディベートであればお話にならない問いである。(ほんとうはここもちゃんと書きたい欲望に駆られるが、今は泥酔なので書きませんよ)

いずれにしても、
とても大雑把に言ってしまうと、原発を含めた今の日本のシステムを是とする人、あるいは仕方ないかなと思っている人は「では現実的に~~?」という質問をする。

面白いのは、「日本の政府が基準にしているICRPの研究でも、今の福島では『現実的に』、××××人以上の子どもが癌で死ぬんですよ」という話をすると、相手は何も言えなくなってしまう、あるいは独自の理論を展開して逃げに走るかなのであるが、まあそれはどうでもよい。

要するに「現実的に」ということばを、多くの日本人が「これがすべてだ」とばかりに振りかざしていると言うことだ。

日本人の糞のような思考回路は今に始まったことではないが、
福島の今の子どもたちがもしクラス会をやれば、「一クラスに何人かf何十年後かに放射能のせいで死んでいる。そして、その数倍~数十倍が放射能の後遺症に悩まされている」

この、ものすごく大事な問題を
『真正面から自分のこととして』
受け止めている人はほんとうに少ないのだ。

「現実的に」というくだらないことばを使うことによって、何万人もの子どもたちの健康・命を見殺しにしているのである。

Fuck現実的!

まあそれはいいや。

僕にとって重要なのは
「ではお前はどうするのか?」
という問いに、どう答えていくか?
それだけである。

俺もお前も、福島の子どもたちを今犠牲にして将来癌で死なせるのだ。

あと。
今夜はものすごい泥酔で目も開けていられなくあってきたので寝ますね。

「現実的に」ということばが、実際どれだけくだらないものなのかというような話も、また、次回。