語り得ぬものについては沈黙しなければならない。 -15ページ目

後日談(原発と髭面と清志郎のピースサイン)

ここ3~4日、どうもだるくて調子が出ないなあと思っていたら、じつは風邪を引いていたようだ。
今年の風邪は咳が続くとニュースで言っていた(らしい。バーの女の子から聞いた)。
昨日は天麩羅屋のカウンター席で会食だったので咳止めをガバガバ飲んでいたのだけれど、僕の場合煙草の吸いすぎで普段から喉の調子が悪いので、風邪のせいだか煙草のせいだか区別がつかない。
でも、なんだか頭の回転も思わしくないので熱を測ったらちょっとある。微熱がだらだら続いて、しばらく調子が良くならないのも今年の風邪の特徴だそうだ。

で。
なぜ風邪を引いたのかと考えると、先週のある日、酔っ払って朝方帰って、布団も掛けずに寝たからだ。あまりの寒さに目が覚めたのだけれど、そのときはもう手遅れだったのだろう。

で。
飲んで朝方帰るのは珍しいことではないけれど、身体が震えて凍えそうになるまで目を覚まさなかったのは、いつになく飲み過ぎたせいだ。

で。
なぜ飲み過ぎたのかというと、ここからが話の本題だ。

この前、何年かぶりに行ったバーで、初対面の原発推進の人と意見が真っ向対立してちょっとヤバそうなことになった話を書いたけれど、その後日談である。

たいそう飲んでベロベロで論争したりして、バーのマスターには悪いことをしたなと思い、謝りに行ったのだった。
平日の夜中の3時頃で、他にお客さんはいなくて、マスターとその奥さんがいた。
僕はこの前のことを謝って、今夜はさくっと一杯飲んで素面で帰ろうと思っていた。
ところが、マスターが意外なことを言い出したのだ。

「来年の2月か3月に、店を閉めようと思ってるんですよ」
「え? なんで?」
「自分は原発に反対してるのに、こんな店をやってちゃいけないと思うからです」
「ええ? なんで?」
「後輩で飲食やってる奴が、原発推進だって言うんです。飲食業界は、景気がよくて世の中にお金が回ってこそ成り立つものだからって。それを聞いて一理あるなと」
「えええ? でも、原発全部止めたって日本の電気は足りますよ」
「それでも、口では原発反対っていいながら、原発に支えられた世界でバーを経営するって言うのは、自分としては矛盾しているんです」
「ええええ? そんなこと言ったら、どんな仕事だって同じじゃん。『原発に反対なら電気を使うな』的な考えは間違ってると思うけど…」

正直言って僕にはマスターの考えは理解できない。
店をやめる必要なんてないし、堂々と原発反対バーをやればいいのにと思う。

でも、なんだかわからないがマスターはものすごく真剣なのだ。
奥さんもこの話はその日初めて聞いたという。
普通のサラリーマンが「原発に反対だから会社を辞める」などと言い出したら怒る奥さんも多いと思うが、マスターの奥さんはさすが彼の人柄をわかっているから、止めたりはしない。
でも、店を閉めたあと何をするかも決まっていないという。
世界の子どもたちのためになにかやりたいというようなことを言っていた。

僕はマスターは馬鹿だと思う。
この場合の馬鹿とは、respectすると言う意味だ。
原発に反対なのにバーを経営してはおかしいというマスターの理屈はよくわからないが、それでも、腐った連中の薄汚い犯罪がまかり通るこの腐ったシステムに乗っかって商売をすることを潔しとしないその姿勢は、凄いと思う。

世の中にはそういうのを「若造の考え」「甘ったれた考え」「負け犬の考え」などと悪口を言う馬鹿もいる(この場合の馬鹿とはほんとうの馬鹿)。だけど、権力に尻尾を振るのがみっともないのは当然のことだが、何もしないというのも、事実上腐った連中を認めると言うことになる。
マスターは自分がそんなふうに生きていくことを許さなかったのだろう。

このブログでは何度も言っているが、僕は、反原発とは「生き方」の問題だと思っている。
たとえば、小出裕章さん然り、山本太郎さん然り。
子どもを含めたたくさんの人が被曝してしまったこの期に及んで、犯罪者ども(政府、役人、電力など)が是とするこのシステムを認めて生きるのか、否か。

もちろん僕は、小出さんや山本さんのような立派な生き方はできない。
せいぜい意思表示をするくらいだ。
(小出さんと黒部さんの本を編集したときには、巻末に署名原稿を書かせてもらった。ふつう、編集者が署名原稿を書くことはないのだが、電力会社の「マスコミブラックリスト」に名前を載せてもらうためだ。彼らは原発や電力に関するメディアをチェックして「敵」と「味方」のリストを作っている。連中にとってはもちろん僕など取るに足らない存在だろうが、それでも僕は「俺はお前らの敵だよ」としっかり宣言したかったのだ)
それくらいしかできない僕が、偉そうなことを言える筋ではないのだけれど、fukushima以後の日本人に問われているのは論理やビジョン以上に、「生き方」なのである。

マスターは人生設計、生活設計そのものを変えてしまった。
僕と同い年の48歳だ。
この歳になって、原発を是としないために新しい仕事に就くのはほんとうに大変だと思う。
ほんとうに凄いと思う。

そんなわけで我々は、清志郎を聞いた。
マスターも清志郎支持者であることはいうまでもない。昔から店を訪れるたびに清志郎をかけてもらっていた。
その晩は、タイマーズとカバーズと、あとはよく覚えていないけれども、いろいろ聴いていたら、案の定酔っ払った。

清志郎はライブでイマジンを歌うとき、
夢かもしれない
でもその夢を見てるのは
君ひとりじゃない
仲間がいるのさ
のあとに、
「ほら、ここにいるぜ」
と、ピースサインをしてくれた。

反原発を貫くために人生を変えていこうとしているマスターの髭面を見ていたら、清志郎のピースサインと重なって涙が出そうになった。
僕は一応物書きなので、ことばというものにどれくらいの底力があるかは他の人よりもわかっている。
けれど、別に全然たいしたことばがなくても、また、「反原発だからバーをやめる」などというロジックが全然意味不明でも、それでも、「生き方」の問題として反原発を貫こうとする姿勢に打たれる。
原発に賛成する人でいろいろ理屈を言う人は言うが、「生き方」のレベルで考えている人には出会ったことがない。
髭面のマスターはきっと文章は上手じゃないだろうし(読んだことがない)、話もロジカルではない。プレゼンテーションも下手だろうし、口が達者なわけではないからディベートも駄目だろう。
でもそんなことはどうでもよい。
アクションがある。
それで充分だ。

そして、僕は思うのだけれど、たぶんきっと、そんな「偉大なる普通の人」が日本にはもっとたくさんいるはずだ。

彼らに力を。
僕には酒を。

そんなわけで風邪を引いて、今は中目黒の居酒屋のカウンターでゲホゲホ咳をしながらこの原稿を書いているというわけだ。
咳止めをビールで流し込む。

おっと、アメブロがメンテナンス中だ。
あとでアップしよう。

…と思って、ごちゃごちゃ細かいことをしていたら、いたらいつの間にかメンテナンス時間が終わっていた。
さっきコンビニに買い物に行ったら、通勤の人たちがたくさんいて、ああもうそんな時間なんだと気がついた。

東京新聞を買ってきた。
都内で買える、唯一、まともな新聞である。
すべての原発は、原子力損害賠償法で義務づけられて保険に入っている。
ところが、福島第一原発については、1月15日で契約が切れたら、保険会社がもう更新はしないと言っている。
これが本日の東京新聞一面トップ記事だ。

原発は経済的だ、コストが安い、経済発展のためには欠かせない、などと未だに寝惚けたことを言っている人たちがいるが、保険屋に拒否されものが経済的だったり発展に不可欠だったりするわけがない。
細かいことは書かないけれど、債権やリスクを金融工学で上手に計算して誰かが儲かるようにする、あるいは損をしないようにするというのが資本主義を支えるひとつの思想である。
最近ではデリバティブだとか証券化だとかがいろいろ言われているけれど、その最初の形はいうまでもなく保険なのだ。
保険会社はさらに別の保険会社と契約してリスクを分散し、そういう保険が網の目のように張り巡らされて、それが資本主義のシステムを安定させている。
そこに拒否られたということは、すなわち「資本主義のシステムの中で面倒見切れませんよ」ということだ。

「スタントマンは生命保険に入れない」というような話はよく聞くが、福島第一原発はまさに保険に入れないスタントマンが高層ビルの間で目隠しで綱渡りをしているようなものなのだ。
さらに悪いのは、落ちたスタントマンは自分が死ぬだけで自業自得だが、原発の被害に遭うのは電力会社の連中ではない、ということだ。
被曝するのは近隣の人たちだし、賠償するのは税金なのである。

今更ながら、難しいと思うこと。

僕は毎日飲んだくれているのだが、ときどき飲み過ぎるとちょっとよくない。

先週の土曜日はモツ焼き屋で濃いめのサワーをがばがば飲んだあと、よく知っているバーで十杯くらい飲んで(領収書から推測するとそんな量)、そのあと数年ぶりに訪れた別のバーで、知らないお客さんと原発や放射能の話をしたのがいけなかった。

そのバーのマスターは清志郎支持者だから、震災後に店に行くのは初めてだったがマスターが原発に反対していることはわかっていた。
だから安心して反原発をぶち上げてしまった。
ところが、そのときに店にいた見知らぬお客さんのように「反・反原発」の人もじつは大勢いるわけだ。

正直言って僕はそのとき「ほんとうの泥酔状態」だったので、ほぼ覚えていない。
ちなみに今夜は最初の店でビールを二杯、次の店で二人でワインのボトルを二本、三軒めで梅干し焼酎を5杯飲んで、帰ってからさらにこのように飲みながら書いていて、かなり酔っ払っているのだが、まだ文章が書けるくらいにはまともである。
ところが先週のその晩のことは、ほとんど覚えていない。
年に一度くらいの「本格的泥酔デイ」だったのだ。

たぶん僕が、その見知らぬお客さんに対して失礼なことも言ったのだと思う。
僅かな記憶をたぐり寄せると、彼が自分の職務上「家族の生活を守るために自分は反原発であるわけにはいかない」というようなことを言ったのを、「それは卑怯だ」というようなことを僕が言ったのだと思う。

僕は、泥酔で前後不覚なおかつ膝を痛めているし本格的に喧嘩になったらボコボコにされるだろうなとか、メガネを壊されたら嫌だなとか、そんな断片的な記憶がある。
一触即発。酔っ払いの喧嘩というのはこういう風に起こる、という実例のような光景だったのだと思う。
でもその後、なぜが仲直りして肩を組んで歩いていた記憶があるのだが、気がついたら家で寝ていた。メガネも壊れていなかった。

いずれにしても翌日、僕は思った。
彼は電力の社員でも経産省の役人でもないが、それでも、東電を認める今のシステムがあってこそ、家族を養い、生きている。
自分や家族の人生に対してきちんと責任を持っている。
人の生き方として、極めてまっとうだ。
僕のように、誰を養うわけでもなく、ビンボーだが将来のことなどまったく考えずに、金があったらあっただけ飲んでしまうような駄目人間に、「お前は違う」みたいに言われたらムカつくのは当然だ。

文科省の放射線量マップ(http://ramap.jaea.go.jp/map/)を見ると、ものすごいことになっているのがわかる。
たね蒔きジャーナルで小出裕章さんが言っていたように、本来であれば1平方メートルあたり4万ベクレルを超えるような場所は放射線管理区域であり、そこでは食事はもちろん、水を飲んでもいけない。そこで眠るなど論外、そこからは何も持ち出してはいけない、という汚染地域である。

こんな「放射能マーク」を表示しなければならない場所だ。
当然、意味なく子どもを連れ込むなど許されない。

でも、そんな地域が、福島はもちろん、北関東一帯にわたって広がっている。

僕は、避難すべきだと思う。
大人が自分の意志でいるのならいいが、今からでもいいから子どもだけは避難させて欲しいと思う。
このブログでも5月、6月頃にはずっとそう訴えていたが、今でもその思いは変わらない。

しかし一方で、線量の高い福島の地域を、復興させようとしている人たちがいる。
土建屋や政治家が金儲けのために企んでいるのであれば、ただ単に糾弾されて然るべきだが、そうではなく、故郷と自分、家族の人生を背負って、汚染地域を汚染されたまま復興させようとしている人たちが大勢いる。
だが、除染などできないと言うことは今更いうまでもない。

それでも、僕には彼らを責めることはできない。
そんな権利はない。
でも酔っ払ったら、この前の晩のように喧嘩寸前になるかもしれない。

ほんとうに難しい。

どうしたらよいのだろうか?

酔った勢いで「お金」の話

今夜は、というか今夜も酔っ払ったはずみで書かせてもらおう。

お金というのはいったい何だろうか?

子どもの頃教わった話。小学校の先生はこう言っていた。
昔々、お金がない時代には人々は物々交換をしていた。
魚五匹と米一袋、とか、まあ何でもよいのだけれど、それは等価交換だった。
「私にとって魚五匹は米一袋と同等の価値がある。だから交換しよう」というわけだ。
で、そのうちに、そんな等価交換の媒体としてお金ができたのです。
そんな風に聞いた。

今でもそんなお伽噺を信じている人がいる。
新自由主義の人たちはよく、「誰にとっても1万円は1万円。金持ちにとっても貧乏人にとっても。つまり、お金の前では人は平等なのです」などという。
そうやって、市場こそが公正であると言おうとする。

もちろんこれは、ちゃんちゃらおかしい。
目の前の一万円札が、人によって千円札に見えるはずはなく、誰の目にも一万円札であることは事実であり、誰もそれを否定しない。
しかし、アジアとかアフリカとかのどっかの国でバスの運転手をしているAさんの「月給」が、円に換算すると1万円で、東京でバスの運転手をしているBさんの「日給」が1万円だとしたら、それを等価と言うことはできない。

つまり、Bさんの仕事の質がAさんの30倍優れているなどと言うことは決してなくて、この場合の30倍の格差は、主にAさんの責任でもBさんの責任でもなく、たまたまそのときシステムが決めたものにすぎないのである。
全然等価ではない。

今夜は高校の同級生だったM君と飲んでいた。
M君は大阪で仕事をしているのだけれど、出張で東京に来ていたのだ。
新橋のモツ焼き屋で飲んでいたら奥さんから電話があって、可愛がっている犬が緊急手術だという。
M君は会うたびにiPhoneで犬の写真を見せるような犬煩悩なので、慌てふためいていた。
ペット保険に入っていると言っていたが、もしも入っていなかったとしても、犬の手術代を惜しむようなことはしないだろう。

動物の医療はとても高い。
M君のように民間企業のペット保険に入ってでもいない限り、定価で請求されるから人間の医療の何倍もする。
僕はかつて、犬の手術費用として、中古車なら普通に買えるくらいのお金を払ったことがある。
その頃は組織のそれなりの地位にいたから払うことができたけれど、ビンボーな今だったらどうだろうか?
サラリーマンの平均月収以上の手術代を、躊躇なく出せるだろうか? というかそれ以前に、捻出できるだろうか?
でもきっと、お金をかき集めるんだろうな。

津波で全財産を失った人たちがいる。
原発事故で故郷を追われ、仕事をなくした人たちがいる。
もちろん、見せかけだけの報酬カットや、ボーナス削減で良しとしている東電は論外だ。
そうではなくて、今ここに家族同様に大事な愛犬の手術代として用意した何十万円かがあって、でも目の前には(たとえば)引っ越しをさせなければ被曝してとんでもない健康被害に遭うかもしれない小さい子どもが現れた。
愛犬の手術はやめて、手元のお金でその子どもを引っ越しさせるべきなのか?

「等価」というのは、そんなことまでも想像しなければならない概念なのである。

日曜は実家に帰っていた。
父は病気で衰弱している。
介護をしている母もかなり疲れており、そのせいでいろいろなことを自分でジャッジできなくなってくる。
疲れ果ててときどき、僕ら兄弟を招集して、入院や手術などをどうしたらよいかと相談する。
心身が弱ると、判断ができないのだ。
僕はフリーランスでこうやってだらだら生活しているが、他の兄弟は組織にいるので時間を作るのが大変だ。
それでもみんな集まってくる。
老いた父母に対して、それぞれの責任の取り方を考えているのだと思う。

ところが。
実家は金持ちでは全然ないけれど、それでも都内(と言っても市部)に自宅を所有している。
そんな両親の生活を支えている年金は、若い人たちから徴収されているのだ。つまり、今時なかなか都内に家を持つようなことはできないような人たちからも容赦なく取り上げているのだ。

お金というのは、そういうものである。
そういうシステムの上に流通しているものである。

そういえば2~3日前、金融工学とかについて記事を書いたのだけれど、酔っ払ってちょっと朱を入れようと思っていたら、記事を削除してしまった。

ええと。
言いたいことはこういうことです。

アジアとかアフリカのどこかのバス運転手Aさんの1万円と、東京のバス運転手Bさんの一万円は等価なのか?

四人家族の1ヶ月半の生活費と、犬の手術代は等価なのか?

土地家持ちの病気の年寄りの生活費と、何人もの若い人たちから毎月取り上げる年金は等価なのか?

「YES」とか「NO」とか、答を出せといっているのではない。

事実として我々は、そんなシステムの中で生きているのであるから、そのシステムをきちんを見据えたほうが良いのではないか、ということだ。


「価値」を「カネ」に変えるのが資本主義だが、新興の新自由主義者などカネに卑しい人たちは、本来価値などありそうもないところに計算上の差異を作って、それを増殖させるという手段に出た。
ただし、そんなイカサマはバブル崩壊やリーマンショックで底が割れた。
(それでも未だに、米国をはじめとするグローバリズムのイカサマ師たちは、たとえばTPPとかいう手を使って金儲けを企んでいる)


日本的な昔ながらのイカサマ師。たとえば東電などの犯罪者集団は、システムの中枢とがっちり「握って」、オイシいところを離すまいとしている。

僕たちはAでもBでもない。
今夜も泥酔で支離滅裂だが、要するに僕らが握りしめた千円札は、これでビールとつまみを買ったら何百円残る、というリアリティがあるわけで、馬券買ってもパチンコ打っても風俗行っても良いけれど、そこには確かに「お金」のリアリティがある。
「等価交換」のせめてもの名残だ。

もちろん、昔ながらの等価交換だけでは経済は成長しないというのだろう。
でもいいじゃんかと、僕は思う。

「経済を成長させなければいけない」と言っている人が多いが、どういうつもりで言っているのだろうか?
1960~70年代の日本のように、それでみんなの暮らしが豊かになるとでも思っているのだろうか?

いやあほんとうに論旨不明の滅茶苦茶な文章だが、まあいいや。

出来レース

でき‐レース【出来レース】
あらかじめ示し合わせて、勝負が決まっているのに形式だけ行う競争。八百長。
【広辞苑 第六版】


日本の社会システムでは、かなりの部分で「出来レース」が公然の秘密として存在している。
そんなことは以前からみんな気付いていた。

たとえば、
「信用できる順に並べてください」というアンケートをとると、「政治家」は「天気予報」よりも下になる。
これが、日本人の普通の感覚だ。
政治家がこっそり裏金を作っていたとしても、違法だが誰も驚かない。
で、金を使える奴が選挙で勝つ。

開業医の息子はちょっとした馬鹿でも医大に潜り込んで医者になる。
きっと何か裏があるはずだとみんなわかっているのだが、別に咎めない。

土建屋が談合をして公共事業を落札しても、まあ仕方ないかと思ってしまう。

昔のことは知らないけれど、少なくとも僕が世界という存在に関心を持ち始めた1970年代中盤以降の日本では、すでに出来レースの仕掛けはしっかりできていた。

みんながそれについてあんまり気にしなかった理由はいろいろあるだろう。

経済が成長を続けて暮らしがどんどん豊かになっていった時代には、「そんなことどうでもいいじゃん」という気分だった。
また、60年、70年安保闘争の敗北というのは、人々がシステムに対していかに無力であるかを知らしめたというだけではなく、そもそもシステムに異を唱えること自体の不毛さ、馬鹿らしさ、あるいは正当性のなさというようなものを露呈した。

同時に、個人主義が急速に台頭した。
これは、「倫理や正義などといった価値は個人のレベルでしか語れない」という一種の信仰にすぎないのだが、グローバル化、市場原理主義、金融資本主義を正当化するのには大変都合の良いイデオロギーであったため、徹底的に流布された。

人は放っておいても「自分第一」に考える生き物なのかもしれない。
しかし、イデオロギーとしての自分第一個人主義は、普遍化され、「他人の自分第一も認めるのが筋だ」ということになる。
こうなったときに、「出来レースはアンフェアなので許せない」という方向ではなく、「まあ仕方ないよね」というのは、きっと日本的な何かがあるのだろうけれど、僕はそれを語る言葉を持っていない。

いずれにしても、「自分第一個人主義」と「出来レースの許容」の両立というねじれた思想が成立し、おかげで、90年代、00年代、貧しい時代に突入してからも、多くの人は「自分の生活をそこそこ楽しんだらいいんじゃないの」という風に生きてきてしまった。

若い子たちは、かつて贅沢の象徴でもあった「いいクルマ」に興味を示さなくなり、美味しいものを食べるでもなく、ファストフードやコンビニ弁当に旨いと感じ、なんとなくではあるけれどこれから再び贅沢な時代がやってくることはないと悟って、まあ当たり障りなく小さな人生を生きていけばいいや、と思うようになってしまった。

「自己責任」なる無責任なことばがもてはやされたのも、小市民たちの「こっちは節約してちまちまやってるのに、変わったことをしようとしたお前が悪い」というルサンチマンが背景にある。
小市民は出来レースは許すのである。システムがこうだから多少のズルは仕方ないと思うのである。
それはつまり、「これは自分が容認しているシステムだから」である。
「お前が容認しているシステムには不正がある。それはお前の責任でもある」というふうに言われたくないのである。
ところが、紛争地域に行った人がテロリストに捕まると「それは自己責任だから仕方ない」と攻撃した。
ルサンチマンにはスケープゴートが必要なのだ。

時々ガス抜きもあった。
小泉純一郎人気なんかが良い例で、「自分第一個人主義」を擁護、積極的に肯定し、「怠けている役人はけしからん」と、上手に小市民のツボにはまることを連呼したため、人気者になった。
もちろん、小泉政権が残したのは「市場での勝者が人生の勝者になる」というシステムである。
おかげで、派遣労働者のような「市場での敗者→貧困層」を大量に生み出したが、不思議なことに、敗者が勝者を肯定したりしている。
たとえば堀江貴文。
奴は今でこそ刑務所の中にいるが、「資本主義ゲーム」で大金を手にした。
それを、「資本主義ゲーム」の敗者たちが礼賛していたりするのだ。

まず問われなければならないのは「ゲーム(ルール)はこれでいいのか?」と言うことなのに、そこが深く問われることはない。
逆に、微妙にルールが違う「既得権益者」との対立の構図の中で、「堀江は立派だ」などと賞賛されたりする。
しかし、既得権益者と堀江のようなリバタリアンのルールの違いは、ある角度から見ればピッチャーが打席に立つセ・リーグと、指名打者制のパ・リーグの違いくらいしかない。
「俺は野球ではなくラグビーをやりたいのだ」
「俺はスポーツなんかやりたくないのだ」
というような、システムを揺るがす根源的な問いは、残念ながら力を持ち得なかった。

「終わりなき日常」と言うことがよく言われていた。
だらだらと、のっぺりした日常が死ぬまで続く、ということである。
出来レースを今更問題視しても仕方がない。他人事だ。正義感ぶっても意味がない。命を賭けるほど立派な価値のある者なんて何も存在しないし、だったらそんな価値の束縛から自由に生きたほうがいいよね、的な思想だ。

「だって、世界はガラッと姿を変えたりするはずないのだから」

そんな時代には「終末の物語」が流行る。
結構多くの若い子たちが「世界が滅びる」という物語に夢を託した。
もちろん、ほんとうに世界が滅びるなんて思っていない。終わりなき日常が続くだけだと知っている。
だからこそ、「世界があと半年で滅びるとしたら、きっと楽しいだろうな」と思うのである。すべてが木っ端微塵になって世界がリセットされないかな、と密かに願うのである。

もちろん、その極端な例がオウム真理教であった。
終末思想は終末願望の裏返しである。
(オウムの話を始めると長くなるのでここでは書かない)

いずれにしても、多くの日本人が「終わりなき日常」を生きていた。
退屈だけれど、これは仕方がない。
明日も、今日と同じような日常が続くのである。明後日も、来週も、来月も、来年も。
「まあいいか」

そんな僕たちが、
2011年3月11日を迎えたのであった。


この日、「今」と、明日、明後日、来週は、決定的に断絶させられた。

津波や原発災害の直接的な被害に遭われた方はもちろんのこと、被災地から離れた東京でも、電車が止まり、コンビニの棚から商品がなくなった。

あり得ないことだった。

コンビニから商品が消えるなんて、いったい誰が想像できただろう?

よく考えれば、365日24時間欲しい物は何でも手に入る、という事態のほうが異常なのである。コンビニの商品だけではない。その気になれば東京で手に入らない物はない。
そんな、過剰な都市を支えてきたシステムが、その日ダウンした。
為す術もなく時間が流れた。

つまり、「終わりなき日常」なんて、幻想だったのだ。
しかも、みんなが自分で作って自分を縛るだけの幻想だったのだ。
システムなんてじつは、「たいしたことなかった」のである。
それを信用していた僕らが間違っていたのである。

さて。

酔ってきたのでさくっとまとめに入ろう。

世界はガラッと姿を変えた

にもかかわらず、未だに「出来レース」で誤魔化そうとしている連中がいる。

電力、原子力ムラの奴らである。

正直言って僕も、311以前はここまでひどいとは思っていなかった。
ここまでイカサマ、インチキがまかり通ってきた業界だとは思ってもいなかった。
なおかつそれは、電力会社だけの問題ではなく、政治家や役人、財界、マスコミなどをも巻き込んだ、巨大で醜悪なシステムであることが誰の目にもはっきりした。

端的に言えば、1万人の子どもの命よりも自分の退職金のほうが大事だ、という腐った人間が、この国を支配していると言うことである。
何万人もの人たちを裸で家から追い出したくせに、自分は裸になったことがないから、裸になるのが怖いのだ。

ここから先は「生き方」の問題である。「責任」の問題である。
「犯罪を見てしまったのに、許して良いのか?」ということだ。
「六法全書が許すかどうか」という次元の問題ではない。
「僕は奴らを許していいのか」という問いである。
「なんとなく出来レースを認めてきた己」にも重大な責任があるのではないか」ということである。

システム側の連中は、これまで通り、日常をだらだらと続けさせたいと思っている。
なぜならば、日常がだらだらと続くことによってシステムは維持され、彼らの利益は保証されるからだ。
だから、土地や食品がどれだけ放射能で汚染されても、「検査しているから大丈夫です」、「故郷に帰って復興してください」と、無責任な発言を続ける。

一番問題なのは何かというと、東電の勝俣恒久などのほんとうの極悪人を除き、「こうしたほうがみんなのためになる、日本のためになる」と信じてやっている連中が多いと言うことだ。
要するに、彼らが見ている社会とは、単に「腐った仲良しクラブ」の仲間内だけなのにもかかわらず、「それこそが社会だ」と信じ込んでしまっているのである。

おっと文章が散漫になってきた(最初からだけど)。

今日はここまで。

東電、市場、TPP、経団連米倉、そして自由についてなど

最近ずっとバタバタしていて更新できていないのだけれど、原発・放射能問題と同様に大きな問題が、原発・放射能問題と同様に、政府や役人、財界、マスコミがグルになって進めてしまおうとしているので、そのことを書こう。

東京電力を解体しなければならないことは当然で、どんな形にせよ発電と送電は分離しなければならない。
発電、送電、配電をひとつの会社が地域独占で牛耳っていることが、福島第一原発事故をはじめとする多くの東電の犯罪を許してきた原因のひとつだからだ。

誰もが自由に発電事業に参加でき、消費者は好きな電力会社を選べるようにする。
もちろんそうなれば、これまでの電力会社の総括原価方式のような馬鹿なやり方は通用しない。
原発建設費や高額な人件費によって、世界一高くなってしまった東電の電気料金なんか、だれも払いたくないからだ。

つまり、ここでは市場の開放ということが、とても重要な課題なのである。

ところで、市場の開放とは、市場原理主義、新自由主義の人たちが掲げるスローガンのひとつだ。
彼らにとって、「自由競争」というのは、端的な「善」なのだ。
複数の企業による自由な競争があってこそ、消費者は価格や内容を検討し、安くて質の良いモノやサービスを選ぶことができる。
そして、そんな優れた商品、サービスを提供する「消費者の支持を得た企業」=「競争に勝てる企業」が成長していくことこそが大変望ましい、ということだ。

また、これは、「自由競争」の勝者がお金を儲けるのは当然の権利だ、という考え方にもつながっている。
だって、良いものを売って儲けたのだから、そんな人がお金持ちになって当たり前じゃないか、ということだ。

一見するとこれら一連の考えは、とてもまっとうに思える。
なんとなく、みんなが得をするように見えるからだ。

ところが、じつはそんな単純な話ではない。

競争力をつけるには企業はコストダウンが必要なので人件費が削られる。
日本では小泉政権のときに派遣社員についての法律が変わって、企業の都合の良いように派遣社員を使い捨てることができるようになり、ビンボー人が急増した。

また、金融市場も拡大し「金で金を増やす」ことも良しとされたので、株を買う、金を貸す、為替を利用する、その他さまざまな金融商品が作られていった。
その結果、世の中に実質的に存在する価値の総体をはるかに超えた「数字だけのお金」が流通し、結局、日本のバブル崩壊やアメリカのサブプライムローン問題のように、あるとき一斉にシステムがダウンした。

これは、そのとき用いていた金融工学が間違っていたから、とか、そういう小手先の問題ではないと僕は思う。
市場原理主義の根本的な誤りとしか考えられないのだ。

で、さらに悪いのは、日本でもアメリカでも、破綻した金融機関など大企業に公的資金、つまり税金が投入された。

「おいおい、自己責任の自由競争じゃなかったのかよ」と厳しく突っ込みを入れなければならないところなのだが、「大きすぎて潰せない」「こうしなければ経済が崩壊する」というような言い訳で、国民の税金が大企業の救済に使われたのだった。

これらの「崩壊」は、経営者が悪かったとか、そのときの計算が間違っていたとか、そういうレベルの問題ではない。
市場原理主義というイデオロギーが本質的に抱えている矛盾が噴出したものなのだ。
「自由競争」を標榜するイデオロギーが、税金で民間企業を救わなければならなくなってしまうということは、「そもそもその考えは間違えだった」ということにほかならないのである。
だからそこで、「このままでは駄目だ」と大きく舵を切らなければならなかったのである。

にもかかわらず、政府や既得権者はもちろんのこと、多くの人々も「自由な市場競争」に異を唱えなかった。

それはなぜか?

「自由」という考え方が、あまりにも無批判に是とされているから。というのがひとつの答だ。

「自由」というのはものすごく難しい概念だ。
「人間は自由である」あるいは「自由であるべきだ」というのはみんなが軽々しく言っているが、ほんとうにそんなことが言えるのだろうか?

いろいろな反証が可能だが、ひとつだけ。
モノは物理法則に支配されている、とすると。
もちろん量子力学では古典力学のような単純な計算ではなく、確率のような概念が用いられるわけだが、確率さえをも踏まえた上で言えば、モノは自由ではない。
人間の脳もモノにすぎないのだから、現代の科学では、神のような超越者を措定しない限り、脳の働きにも物理法則があり、その意味で人間は、その意志や思考においても自由ではあり得ない。

あと、言語と自由とかね、いろいろあるのだけれど、いずれにしても「人間は自由である」なんて、軽々しく言うべきではない。

では、どういう場合に人は「自由」という言葉を使うのか?

「表現の自由」「うるさい奥さんからの自由」「出所して自由の身になる」などなど。
自由という言葉は、なにか別の言葉(表現とか、奥さんとか、刑務所とか)と対になって使用される場面において、はじめてちゃんとした(他人に伝わる)意味を持つ。
(逆に言うと「自由意志」のような曖昧な言葉は、厳密に定義しようとすると自家撞着してしまう)

でも、囚人に「表現の自由」が与えられていたとしても、かれは塀の外に出ることはできない。
要するに、「自由」ということばは、限定的にしか使えないのだ。
究極の自由、などというのはあり得ない、もしくは言葉としてきちんと成立しない。
というのか、文学や芸術の世界では「自由」を非限定的に使うことができるが、経済や論理の世界で「自由」といった場合、それは、限定的なものでなければならない。
極めて限られたものにすぎないことを自覚して使わなければならない。
「1+1=2、2+1=3、3+1=4、とやっていくと最後は無限になります。では、『無限+1』は何でしょうか?」という問いに答えられないのは、「問い」そのものが間違っているからである。
もちろん、ここで言う「無限」と「自由」は等価である。

問題はここだ。
それにもかかわらず、多くの人々が「自由」という言葉を無反省に信奉してしまっている。
「自由=良いこと」だと思っている。
しかし、そんなことは決してない。
「表現の自由=良いこと」
「うるさい奥さんからの自由=良いことなのか要検討」
というように、個別に価値判断されなければならない問題なのである。

「自由競争」とは「市場における自由」のことであり、これは文字通り、ただ単に「市場における」自由にすぎない。
たかだか「市場における自由」にすぎないものが、「みんなが目指すべき究極の自由」のように歪曲されて理解されてしまっている。

だから話がおかしくなるのだ。

「誰でも市場に自由に参加して良いですよ。年齢も性別も家柄も国籍も問いません。ハンディなしですよ」
というのは
「誰でも徒競走に自由に参加して良いですよ。年齢も性別も家柄も国籍も問いません。ハンディなしですよ」
と言っているのに等しい。
足の速い奴が徒競走で勝つのと同様に、市場での立ち回りの上手い奴が市場で勝つ。
徒競走での体格のように、資本が大きいものはそれだけ有利だ。
で、徒競走と市場が決定的に違うのは、徒競走で一番になっても実生活ではほぼ何のお得もないにもかかわらず、市場で上手くやれた、というそれだけで実生活は豊かになる。

つまり、往々にして市場での勝者が人生の勝者になってしまうのだが、これは、市場原理主義者や新自由主義者が言うようなフェアな闘いなどでは決してなく、「それによって得をする人たちが提唱しているルール」にすぎないと言うことだ。

ええと。
ここからが本題です。

TPP(環太平洋戦略的経済連携協定Trans-Pacific Partnership)。

この、最悪の協定締結に向かって、日本政府は動いている。

僕は右翼ではないが、まさに亡国の協定だ。

詳しいことは、webをいろいろ見ればわかる。
たとえば、ここ。
「サルでもわかるTPP」
経済誌『週刊ダイヤモンド』を出しているダイヤモンド社のwebサイトにも載っている。「米国丸儲けのFTAからなぜ日本は学ばないのか」
こんなページもある。「考えてみよう!TPPのこと」

要するにTPPに参加してしまったら、今後日本の産業は、すべてアメリカ資本の思うとおりにされてしまう
と言うことだ。儲けるのはアメリカ資本だけ。
日本人は、ほんの一部の資産家を除けばビンボーになる。
失業者も増えるし、お金のない人は病院にも行けなくなる。
原理的に、「国民主権」という日本の憲法理念や国内法以上に、アメリカ大資本の利益が優先されるからだ。

1995年、沖縄で、小学生の女の子が3人の米兵に集団レイプされた痛ましい事件があったが、「起訴に至らなければ、関与が明らかでもアメリカ兵の身柄を日本側に引き渡すことができない」という取り決めがあったため、実行犯が引き渡されなかった。
その取り決めが「日米地位協定」だ。
言ってしまえば、TPPは、それくらい侮辱的な、「日本は経済もアメリカの言いなりになります」協定である。

僕は右翼ではないが(と繰り返しますが)、こんな協定を結ぼうという野田佳彦は国賊以外の何者でもない。

ひとつには、震災のどさくさに紛れて進めてきた官僚や財界の狡賢さがあるが、原発事故同様に、国民のことなどこれっぽっちも考えない新聞、テレビの報道姿勢もある。
その上に、さっき書いたように
「グローバルに市場が開放されるのは良いこと」「自由競争原理は正しい」と疑わない無反省な日本人が多いから、こんな出鱈目なことが進んでしまうのだ。

経団連会長の極悪人、米倉弘昌は、「TPPをさっさと進めろ」と言っている。
経団連に入っているような一部の大企業は、もしかしたら得をするかもしれないからだ。
にもかかわらず東京電力を擁護している。電力の地域独占を守りたいと思っている。

こいつの腐った脳味噌の中には「市場の自由は是か非か」という議論さえない。

市場の(グローバルな)自由を是としてTPPに賛同するのであれば、すべての電力会社の発電送電分離を訴えるべきであるし、東電を守りたいのであれば、TPPには断固反対すべきなのである。
米倉弘昌が、こんなまったく筋の通らない主張を展開するのは、自分たちの利益のことしか考えていないからだ。国民のことを考えていないのはもちろん、日本の経済についてもまったく考えていない。ただただ仲間内で儲けることしか頭にないのだ。
ほんとうに、骨の髄まで腐りきった糞ジジイである。

「ではお前はどうなのか? 東電は解体すべきだがTPPには反対、と言っているがこれも逆の意味で米倉弘昌同様の矛盾ではないか」といわれるかもしれないが、それについてはまた今度、機会があれば書きましょう。

いずれにしてもTPP、これはかなりヤバい。

僕が「忙しい」などと言ったら、毎日早朝に起きて満員電車に揺られ深夜まで働いている人たちには怒られるかもしれないが、僕は基本的に暇が好きなのだから仕方がない。
ここで言う暇というのはどういうことかというと、単に時間があると言うことではなく、精神的にも追い立てられない、ということだ。

避難所や仮設住宅で暮らしている人たち、放射能から逃げて新しい場所に移り住んだ人たちの中には、時間はたっぷりあるけれど精神的には追い詰められている人が多いと聞く。
こういうのは、「俺用語」では「暇」ではない。

「仕事中はアドレナリンが出っぱなし」という人もいる。
それは、とても幸福な状態だ。
次から次へと襲いかかるトラブルに対しても瞬時に的確に対処し、切り抜けていく。
僕はスノーボードをやっていたのだけれど、一番気持ちがいいのはパウダーだ。
重力と遠心力に身を任せるのがとてもとてもとても気持ちいい。
しかも、木とかにぶつからないようにしなければならないので、アドレナリン出っぱなしだ。
これと似た気持ちよさを、仕事中感じる人がいるわけで、そういう人たちは力強い。
結果、成功体験が積み重ねられていくと、ますます力強くなる。
発言のひとつひとつが力を帯び、「彼(彼女)が言うんだったらそうだよな」と、人々に思わせることになる。

現実の社会で成功する人たちというのは、そういうのが多い。
アドレナリン→気持ちいい→成功→アドレナリン…
という「好循環」だ。
「カリスマ性」とか「社長の器」とかいうのも、多くの場合そういうことだ。

ところが。
世の中には「悪循環」の人たちもたくさんいる。
自分に自信がなくビクビクしながらやるものだから他人は言うことを聞かないしその結果失敗する。そうやって嵌まっていってしまう。

では、「好循環」の人と「悪循環」に人は何が違うのか?
育ちや家柄でもなければ、知能指数や学歴でもなく、性格やものの考え方は少しはあるのかもしれないけれども、「前向きな奴は常に好循環になる」というような単純なものでもない。
要するに、運がよかったのだ。

ここで大切なことは、「運」というのはサイコロの目ではない、ということだ。
社会(関係)が要求する方角にぴたっと収まった、ということである。
もっと端的に言うと、それがたまたま「市場の物差し」で測れただけ、ということだ。

で。

ウォール街のデモが続いている。
「悪循環」の人たちが「好循環」の人たちに対して怒っている。
なぜならば、「好循環」の人たちは社会的な力があるから、自分に都合のよいようにルールを決めることができる。
つまり、「好循環」の人は「好循環」が続く。
ところが一方で、今の社会というのは結局「配分」の問題であるから、「好循環」の人たちが「好循環」を続ける限りにおいて、「悪循環」の人たちはさらに「悪循環」に陥る。
それに対して多くの人たちが腹を立てている、というわけだ。

この話を続けると市場主義イデオロギーに対する批判になって長くなるので今はやめた。
酔っ払って書いているので、きちんとした論旨を求めないでね。

とはいえ、米国でも欧州でも、破綻した大企業に対して「大きすぎて潰せない」という理由で公的資金が投入された。
大企業は税金で救済され、経営者はものすごい額のギャラをもらっているにもかかわらず、なにかのはずみで「悪循環」に陥ってしまった人たちは惨めな暮らしをしなければならない。
「国」が「企業」を救済するというのは、「税金」つまり多くの人々から広く薄く集めたお金が、一部の人に集中的に回されるということだ。
にもかかわらず、金融資本主義をでっち上げ、なおかつ破綻させた犯人である金融屋が、なぜ大きな顔をしていられるのか?

で、だ。
ウォール街のデモのニュースを見て、遠い国の話だと思う人もいるかもしれないけれど、同じことが今、日本でも起きている。

東京電力。

いろいろ小細工をした数字が発表されているがそんなのに騙されてはいけない。
どこからどう見ても債務超過である。
彼らが則ってきた規則(ルール)に従うのであれば、潰れるべき会社である。
役員はもちろん、社員も全員クビ。
すべての資産を売却して賠償に充てる。
それでも足りない分だけを国が払う、つまり税金が充てられる。
これが筋だ。

にもかかわらず、東電の連中は経産省の役人らと結託して会社を存続させようとしている。
役員も居座ったままだ。
我々が支払う世界一高い電気料金が、原発事故の犯人である東電役員・社員の法外なギャラになるわけだ。

これはおかしいだろ?
被害者がギリギリの生活を強いられているにもかかわらず泥棒は豪遊。
どこの世界でこれが許されるというのだろうか?

「暇」についての話であった。

「生きるために働く」と「働くために生きる」が等価になってしまうような人生、生活、価値観、システムは、もういい加減にすべきだと僕は思う。
「成長」「発展」といった幻想は捨てるべきである。

放射能に関して、夫婦の間でも意見が対立する、という話をよく聞く。
たいていの場合、旦那は「××ベクレルくらい食べたって、癌になる危険性は0.0X%上がるだけだ。道を歩いていても交通事故に遭う確率は~~」と、数字と論理性を信念の根拠にしている。
なおかつ、「女ってやつは非論理的だから駄目だ」と思っていたりする。

でもそれは、旦那が「暇」じゃないから騙されるのである。

ひとつには、「暇ではない自分の生き方」を正当化するために、その依って立つシステムを是としたいという気持ちもあるだろうし、もうひとつはやはり、「暇」じゃないからあんまり考えていないのだ。

「暇」が大事である。

あ~酔っ払った。

またまた文科省の安全デマ

経産省とともに原発を推進してきたのが文科省であり、本来であれば子どもたちの健康を守らなければならないはずの立場であるにもかかわらず、一貫して原発事故や放射能被害の過小評価に努めているのはこれまで何回も書いたとおりである。

僕もちょっとバタバタしており、原発・放射能関係の情報も三日に一度まとめてチェックのような状況で、このブログを読んでいただいているようなみなさんは最新の情報を収集しているはずだから、忙しいのとまあ今更書くこともないやというわけで最近はほとんど放置状態なのだが、ちょっとしたことだけれどこれは書いておこうと思う。

文科省が「放射線等に関する副読本」というのを作った。小学校~高校の生徒用と教師用である。http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/detail/1311072.htm

10/19の「たね蒔きジャーナル」の小出裕章さんのコーナーでその話をしていた。

以前の文科省のエネルギー関係の小学生向け副読本は『わくわく原子力ランド』という、かなり痛いタイトルだ。

まあタイトルのセンスはどうでも良い。
いずれにしてもお察しの通り、原発は安全だと謳っていたわけだが、福島原発事故以後、そうもいかないだろうと作り直したらしい。
これ。タイトルも下手に小知恵を働かせていないぶんだけ苦笑しなくてすむ。

で、小出さんの言うとおり、一番大切なことが書いていない。
小出「はい。でも、一番今大切な事は福島第一原子力発電所の事故で、放射性物質が子どもたちの周りにも飛んできてるわけですし。それでこれから長い間被曝をしながら危険を負うということになってるわけですから。そのことについてこそ私は書くべきだと思うのですが」
(YOUTUBEへのリンクと書き起こしはここ

小出さんは、「ウソはついていないが、必要なことが書いていない」と言っていた。
まあその通りだし、小出さんは忙しいのでそんなに深く突っ込んでいないのだと思う。僕も酒飲みながらざくっと見てただけなのだけれど、いかにも文科省らしいセコい誤魔化しはすぐに発見できた。

文科省が「高等学校教師用解説書」の中には、こう書いてある。

■放射線の規制値
 我が国における放射線被ばくの規制は、国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告に基づいて制定され、公衆の被ばくは、年間1ミリシーベルトを超えないように原子力発電所、病院、工場などの事業所ごとに事業所の境界での線量限度が決められている。この線量限度は、適切な施設の設計や防護の計画を立て、認可された条件の下での規制値であり、これらの限度を超えれば、健康影響が現れるというような安全と危険の境界を示すものではない。


そこで、ICRPの勧告(2007)を見ると、「放射線防護の生物学的側面_確率的影響の誘発」という項目に、こう書いてある。

A
(64)認められている例外はあるが,放射線防護の目的には,基礎的な細胞過程に関する証拠の重みは,線量反応データと合わせて,約100 mSVを下回る低線量域では,がん又は遺伝性影響の発生率が関係する臓器及び組織の等価線量の増加に正比例して増加するであろうと仮定するのが科学的にもっともらしい,という見解を支持すると委員会は判断している。

文科省の管轄であるはずの高校入試の国語の問題です。

<問>
上記Aは、どちらの意味が正しいか?

1)約100 mSVを上回っても、健康被害が出るとはいえない。

2)約100 mSVを下回っても、健康被害が出ないとはいえない。


ICRPというのは原発推進の御用団体であるが、そのICRPでさえ、低線量でも「臓器及び組織の等価線量の増加に正比例して」癌などの健康被害が出ると「仮定するのが科学的にもっともらしい」と言っているのだ。
にもかかわらず文科省は、
「これらの限度を超えれば、健康影響が現れるというような安全と危険の境界を示すものではない」
と、まったく逆のことを言っている。

文科省は1mSvの話をしているのにICRPは100mSvの話をしている、といった数値の大小が問題なのではない。
要は、「放射線防護」の基本的な考え方のことを言っているのだ。

ICRPは「これより下でも被曝線量に比例して健康被害の危険があります」と言っている。
それに対して文科省は「これより上でも危険だというわけではありません」と言っているのである。

実際には放射能の健康被害は確率論的に現れるので、1mSvだろうが100mSvだろうが、健康被害が出る人もいれば出ない人もいる。
だから、文科省の言うように「~~mSv浴びても健康被害が出ない人もいますよ」というのは間違ってはいない。
しかし、「どんなに低線量でも危険はある」というのがICRPの基本的な考え方であるにもかかわらず、文科省はICRPの名を借りながらもまったく逆のことを言っているのだ。

繰り返すがICRPというのは原発推進の御用団体である。
そんな連中でさえも、「被曝量は○○以下なら安全だ、ということではない」と言っている。
つまり、「安全な被曝量などない」と言っているのだ。
にもかかわらず文科省は、ICRPから都合の良い数字だけを持ってきて、安全デマを学校で教えようとしている。

それが、今の日本の現実だ。

rock'n'roll!

泥酔である。
焼酎甲類にポッカレモンを垂らして炭酸水で割ったものを際限なく飲み続けている・
何も考えずにキーボードを叩いているだけだ。

「酔っ払ってよく原稿が書けますね」と言われるがこれでもプロの物書きである。
それくらいはできる。

2時間半くらい前に寝ようと思ったのだけれど、斉藤和義の『ずっとウソだった』をどうしても聴きたくなって、聴いていたらボロボロになってしまった。

斉藤和義が、自らのシングルリリース曲『ずっと好きだった』のメロディに乗せて『ずっとウソだった』を歌ったを歌い、それがyoutubeなどの動画投稿サイトで流れ話題になったのは4月7日。
斉藤が所属するビクターエンターテイメントは、「プライベート映像」であり、「本人や弊社の許諾がなく動画投稿サイトに公開された。意図しない形でアーティストの映像が公にされたことは誠に遺憾に思います」とコメントし、「削除依頼をさせていただいている」と言った。
ビクター側の「反原発を揉み消したい」という意図がバレバレだった。

しかし、翌4月8日20時からのUstream『空に星が綺麗』で、斉藤和義は生放送中に『ずっとウソだった』を披露するのだ。
ところが、演奏中に配信システムがダウン。

しっかりと思い出してみよう。

3月4月。

原発建屋が三つも爆発したのにもかかわらず(そんなことは人類史上初めてだ)、テレビでは枝野が「ただちに健康になんとかかんとか」と言い、御用学者どもはしたり顔でウソを並べていた頃だ。
斉藤和義が、システムダウンは国家権力の妨害かもしれないと思ったのは、まったくまっとうな考えだった。
何しろそのときは、すべてのメディアが声を揃えて「原発は安全」と言っていたのである。
僕が斉藤和義であったとしても、やはり歌い抜かなければならないと考えるだろう。
そしてもし僕でも、斉藤和義がやったように、システム復旧後は、はじめから歌い直すだろう。
みんなが聴いてくれるように。

我々は、革命を起こさなければならないと感じていた。
保身しか考えない嘘つきどもを、ただちに退場させなければならないと感じていた。
そのために闘わなければならないと感じていた。

結局、Ustreamの回線ダウンは、3万人以上が同時にアクセスした負荷によるものだったとわかった。
国家権力の介入ではなくてほんとうに良かった、と僕は思う。
しかし同時に、斉藤和義も、僕も、そしてその他の多くの人々も、「今の日本の政府ならそれくらいやりかねないな」と感じていた。
僕は、起訴猶予になったので前科こそついていないが、出版関係の事件でなにからなにまで警察にはバレバレの身分なので別に今更どうでも良いのだが、「立ち上がろう」と思っていた人の中には、自分のこれからの社会生活を犠牲にしてででも、今闘わなければならないんだ、と決心した人も多いと思う。

さて。

「LIVE福島 風とロックSUPER野馬追」は、9/14~9/19、福島県内各所で開催されたロックコンサートである。

斉藤和義が会津若松で歌った「ずっとウソだった」の動画がある。

Ustream『空に星が綺麗』では伏せていた、電力会社の固有名詞もしっかり歌った斉藤和義。
福島で反原発ソングを歌うというのは、思ったほど単純な話ではない。
この話を始めると長くなるのでここでは書かないが、いずれにしても斉藤和義は「システムに飼われる芸者」ではなく、表現者としての立場を貫いた。

ずっとウソだった
作詞作曲:斉藤和義


この国を歩けば原発が54基
教科書もCMも言ってたよ安全です

俺たちを騙して言い訳は「想定外」
懐かしいあの空 くすぐったい黒い雨

ずっとウソだったんだぜ やっぱバレてしまったな
ほんとウソだったんだぜ 原子力は安全です
ずっと嘘だったんだぜ 牛肉が食いてぇなあ
ほんと嘘だったんだぜ 気づいてたろうこの事態
風に舞う放射能はもう止められない
何人が被曝すれば気がついてくれるの? この国の政府

この街を離れてうまい水見つけたかい?
教えてよやっぱいいや もうどこも逃げ場はない

ずっとクソだったんだぜ 東電も九電も関電も北電も
もう夢ばかり見てないけど
ずっとクソだったんだぜ それでも続ける気だ
ほんとクソだったんだぜ 何かがしたいこの気持ち

ずっと嘘だったんだぜ ほんとクソだったんだぜ
ずっと嘘だったんだぜ ほんとウソだったんだぜ


さて。

「LIVE福島 風とロックSUPER野馬追」は多くのロックンローラーが参加しているのだが、このことだけは書いておかなければならない。

サンボマスター。

正直言って僕は、「I love you & I need you ふくしま」は嫌いだった。
歌詞があまりにも馬鹿っぽいのではないかなということだ。
ところが、「LIVE福島 風とロックSUPER野馬追」での動画を見て、
「そういう次元の話なんかじゃない」ということがよくわかった。

ともかく、福島の人たちは人生、生活、仕事、家庭、すべて滅茶苦茶にされたのだ。
家を追われ、住む場所を追われ、田畑は汚染され、津波で人が流されても原発事故のせいで助けることができたはずの命さえをも救えなかったのだ。

東京の人間にコメントする資格などないといわれれば、もちろんその通りだろう。
しかし、福島県出身の山口隆が泣きながら「I love you ふくしま、I need you ふくしま」と唄う姿を見て何も感じないとすれば、そいつは頭がおかしい。

山口隆は、「rock'n'roll!」「love & peace!」と叫び続けていた。
闘いの宣言である。
それは、東京に住む我々の闘いとはまったく違うかもしれない。
というか、違って当たり前だ。

それでも僕らは、山口隆とともに闘わなければならない。
一緒に喪に服し、そして、立ち上がらなければならない。

電力や経産省の役人ども、政治家や御用学者、御用マスコミ。
そういった「最低」の連中を片付けなければ、亡くなった人、苦しんでいる人々に会わせる顔がないではないか?

最後に沖縄。

BEGINの「島人ぬ宝」。
僕はこれを聴くと泣く。
以前、脚本の先生から「人の『泣きボタン』を書け」と教わった。
残念ながら僕には脚本を書けるほどの器はないと自覚しているのだけれども、それでも『泣きボタン』ということばはいつも忘れないようにしている。

僕が泣くのは、単なる感傷だと言われてもまったく反論はできない。
でもそれでも、
ほんとうに良くしてくれた沖縄の人たちの笑顔、それに対して、あの美しい海に米軍の基地があるという嫌悪感、と同時に、この歌で唄われているように、「教科書に書いてあることだけじゃわからない」「テレビでは映せない、ラジオでも流せない」といういろいろ抱え込んだ矛盾。
そんな思いが一気に押し寄せてくると、僕はもう、泣くしかないのだ。

泥酔の朝8時半。
寝ます。

rock'n'roll!

今日は原発の話ではなく単なる近況報告

ええと、ちょっとバタバタしていました。

昨日までは大阪にいて、柄にもないのですが、子ども向けのクリスマスイベントのコピーライティングの仕事をしていました。
で、大阪の福島(大阪市福島区)の高架線路の下に僕がよく行くバーがあるのだけれど、そこのご主人がいつの間にかこのブログをチェックして、『原発・放射能 子どもが危ない』を買ってくれていた。
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どうもありがとうございます。
我々はかねてより忌野清志郎の支持者であるので、その夜は『COVERS』を聴いて泣いていたのであった。

清志郎が「ほら、ここにいるぜ」というのを聴け。

あと、GIRLSもNEWALBUMを出したね。
僕的には『Broken Dreams Club』のほうが好きなんだけどね。

それから本屋で、311後に校了した(最初の鬼界彰夫氏の原稿に震災のことが書いてある)『ウィトゲンシュタイン』(KAWADE道の手帖・河出書房新社)という本を見つけたのでぱらぱら読んだりしていたのだけれど、あらあらもうすっかり忘れちゃってる。

大事なことを思い出した。『論理哲学論考』を書いたウィトゲンシュタインが編集者に宛てた手紙の一文だ。

「この本の意義は倫理的なものです。私はかつて、今実際にはないある文を序の中に入れようと思っていました。それを私はあなたに書きます。なぜならその文はおそらくあなたにとって、鍵になるでしょうから。私が書こうとしたのは、次の文です。『私の本は次の二つの部分からなる。つまり、ここにある部分と、私が書かなかった部分のすべてとから、である』。そしてこの第二の部分こそが重要なのです。というのも、倫理的なものは、私の本によっていわば内側から限界づけられているのです」

この前飲んでいたときに酔った勢いで「311以後語られるべき正義というのは、公共の言葉でなければならない」と言ったら、「俺は公共なんて大嫌いだ。俺は個人主義だ。俺には俺の正義がある」とか言った人がいたが、高校生でもないのに困ったものだ。
私的言語を肯定するのであれば、「個人主義」などと言ってはいけない。

いずれにしても、新しいことば、新しい物語が必要だ。
もちろん、新語じゃなくてもよいのだけれども、にもかかわらずそれは、我々が新しく手に入れなければならないものである。

まあいいや。

やっと落ち着いてきたので、新しい活動をスタートさせます。
Fuck'n TEPCO Project。

ふざけた卑怯者たち

短い文章のほうが書くのに時間がかかるから、twitterはほぼやらない。
だいたい酒を飲んでいるので、原稿料をもらえない文章は書き飛ばすのである。
(自分で言うのも何だが、前回のブログの「冷温停止」の文章なんてひどいね。プロの物書きとしては最悪だ)

とはいえ、さくさく書いたほうがいい場合もある。

東電は自分たちが悪いのにもかかわらず、損害賠償を求める人たちに分厚い書類を送りつけ、全部書けといって大顰蹙を買っているが、「合意書・示談書の中に『一切の異議・追加の請求を申し立てない』という文言があり、(被害者に)それに署名をさせようとしている、署名をさせている」ということが明らかになった。
http://www.nikkei.com/news/headline/related-article/g=96958A9C9381949EE0E4E296988DE0E4E2EBE0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;bm=96958A9C93819481E0E4E2E2998DE0E4E2EBE0E2E3E39790E3E2E2E2

ほんとうに骨の髄まで腐った組織である。

↑このことは、マス・メディアでも報道されているので知っている人も多いと思うけれど、昨日の『夕刊フジ』では、賠償にあたって東電が、こっそり社員向けの「裏マニュアル」を作って、賠償上限額を策定していたことがスッパ抜かれている。

「秘密情報 目的外使用・開示厳禁」と書かれたその資料には、東電が被害者の事情を無視して勝手に策定した「賠償限度額」が載っているというのだ。

『夕刊フジ』紙面でも、枝野幸男官房長官(当時)が4月、「上限があるからこれ以上被害補償しませんということは、とても考えられないし、許されない」と述べていることを報じているが、まったくその通りである。
社員は全員解雇し、役員の報酬はもちろんゼロ、私財を充ててでも賠償するのが犯罪者の責任というものだ。

夕刊紙というのは、読む人しか読まないので、ここに『夕刊フジ』に掲載された表を掲載する。

語り得ぬものについては沈黙しなければならない。


たとえば、宿泊費は1万円まで、などと偉そうに言っているが、おい東電役員、お前たちはいつも、一泊1万円の安いホテルになど泊まっているのか? お前たちが野宿をしてでも1円でも多く被害者に賠償するのが筋である。

あと、話は変わるけど「冷温停止」について。
小出さんは「圧力容器の底が割れて溶けた核燃料がどうなっているのかわからない状態で『冷温停止』なんて言っても意味がない」と言っているが、そんな鋭い指摘を受けてたじろいだ原子力関係者たちは「いわゆる冷温停止状態と言えるような基準をこれから作る」と言っているそうだ。
つまり、現時点で測定できる数値を追認して、それを「冷温停止」と言おうとしているのだ。
今起きている事態に対して、後付けで自分たちの都合の良いようにルールを変更するというのは、20mSv問題でもそうだが、卑怯、恥知らずというものだ。
これはまさに、泥棒をした奴が刑法を作るのと一緒である。
ほんとうにふざけた連中だ。

今日はさくっとここまで。