第五ラウンド | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

第五ラウンド

昨夜は成り行きで、ほんとうに久しぶりにカラオケボックスに行った。
僕は基本、カラオケは歌わない。
歌うのはたとえば忘年会がそういう場で断るのもオトナゲないというようなときだけ。
つまり一年に一度歌うかどうか、というレベルである。
なぜならば下手だからだ。

だけど昨夜は、『タイガー&ドラゴン』をかっこよく歌ってる子を見て、俺も歌えたらなあと思ったのだった。
しかし、声がまったく出ない。
10代の頃は、ピアノをやっていてコード(和声)もわかったから、誰かが歌っているのに2音上げてハモることもできた。
今はそんなことは到底不可能だ。

少し前だけれど、楽器とか置いてあってみんながテキトーに鳴らしたりしているという類いのバーで、ついつい乗せられてキーボードの前に座ってしまった。
すると、驚くべきことに『Let It Be』すら弾けなくなっている。
上手に弾けないのではなく、まったく弾けないのだ。
キーボードをやっている人であればわかると思うけれど、これは何も弾けないのと同じだ。『ねこふんじゃった』も今の僕には無理だと思う。

歌も歌えなくなったしピアノも弾けなくなった。
ほんとうに人生というのは、いろいろなものを失う過程なのだった。

で、カラオケを歌えないのは、声が出ないのもそうだし、曲も知らないからだ。
流行歌というのは時代に敏感である。
僕のようなオヤジにとっては、5年前の曲も「全然新しい」のだが、若い子にとっては半年前でも「古い曲」だろう。
僕はこれまで一度だけ、メジャーレーベルでシングルの歌詞を書いたことがあるが、ジャンルは「ムード歌謡」である。
オヤジには、1970年代、80年代ふうの歌しか書けないのだ。
なぜならば、知っているのがそういう音楽ばかりだからだ。

1970年代、高校生だった僕は、酒場にあった8トラのカラオケで歌っていた。
今の子は8トラなんて言っても知らないだろうけれど、そういう規格のカートリッジテープがあって、カラオケで使われていたのだ。
僕が好きだったのは阿久悠さんが書いた歌。

前説が長くなったが、そんなわけで、
1980年1月1日午前0時00分、沢田研二が生放送で『TOKIO』を歌ったときから、
2011年3月11日午後2時46分、牡鹿半島の東南東約130km付近を震源として大きな地震が発生するまで。
僕はいったい、「何を考え」、「何を考えずに」過ごしたのか?
それを問い直すために書いてきた
『第一ラウンド』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11091429237.html
『第二ラウンド』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11095230025.html
『第三ラウンド』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11096150776.html
『第四ラウンド』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11097043506.html
の続きである。

なので1980年代の話に入りたいのだけれど、その前に、1979年の話をしよう。
というのも、その年は僕にとって、非常に重要な年だったからだ。

村上春樹さんが処女作『風の歌を聴け』で群像新人賞を獲ったのが1979年。
当時僕は毎日一冊のペースで小説を読んでいたのだけれど、その頃「若手」と言われていた日本の小説家たちの文章にはほとんど何も感じなかった。「なんでこんなこと書くのだろう?」と思っていた。
ところが、『風の歌を聴け』が『群像』6月号に受賞作として掲載されたのを読んだとき、僕は、上手くは言えないけれど、なにかが腑に落ちた。
当時の論評は、多くが「アメリカっぽい青春小説」というような感じ。
確かにその通り、と僕も思った。
しかし、そういう捉え方は、きっと一番大切な何かを見落としているに違いない。
そんな気がしてならなかった。

そして僕は、2ヶ月後くらいにもう一度読み返した。
高校生だったので一応学校には行っていたけれど、授業中は小説を読み、放課後はこの前書いたように新聞部や生徒会の活動(いろんな学校の集まりなど)に熱中し、夜は酒を飲むか音楽を聴いていた。ときどき家でピアノを弾いたり、後述するように文章を書き散らかしてもいた。
そんなわけでそれなりに忙しかったので、小説はフルスピードで読み、決して読み返したりしなかった僕が、なぜか『風の歌を聴け』だけは読み返した。
2回読んでやっとわかった。
日本にものすごい小説が、その上もしかしたらものすごい小説家が現れたのだ。
そんなふうに思って背筋がぞくっとしたのを、今でもはっきりと覚えている。

今でこそ酔っ払ってブログにこんな駄文をそれこそフルスピードで書き散らかしているが、僕は、小説を書きたいと思っていたのだった。
そして、実際に高校生の頃も、そこそこの量の文章を書いていた。
たぶん段ボールで数箱分、原稿用紙何千枚か。下書きみたいなのを含めるとその何倍か。

で、僕は悩んでいた。
「何を書いたらよいのかわからない」
もちろん、高校生であろうとも、世界には小説のテーマはいくらでもあることは知っていた。若いから経験していないことのほうが多いわけで、年を重ねるに従い「書けること」が増えていくだろうこともわかっていた。
しかし。
たぶんそれらは、誰かがすでに書いているだろうし、他の誰かが今後も書くだろう。

じゃあいったい僕は、何を書いたらよいのか?

今から思えばそれは、僕だけでなく、また文学だけでなく、「時代」のテーマでもあった。
外国のことはよく知らない。でも少なくとも日本に限って言えば、1970年代後半というのは、戦後日本人が目指してきた目標の多くが達成され(あるいは達成の目処が立ち)、しかしその達成のために築き上げられた巨大なシステムが、社会正義を求める運動をほぼ根元から押さえることに成功した時期である。
もちろん、そんな時代でも(というかいつの時代にも)、社会正義を求める運動はあった。
しかし、彼らの前に立ちふさがったのは、システムの強化と70年安保闘争の惨敗を経て日本中が感染していた「相対化の病」だった。
要するに「何が正しいかなんて、考え方次第」「善悪は単に法律による約束事」「正義を振りかざすのは押しつけだ」等々。正義や真実はすべて相対化されたのだった。

僕は今ではその考え方は間違っていると思う。
しかし、当時はそう考えていた。
すると、何を書いてよいのかさっぱりわからなくなる。
今更書く価値のある物事なんて、もう存在しないんじゃないか、という気持ちになる。

そこに現れた『風の歌を聴け』は衝撃的だった。
つまり、「何を書くかではなく、どう書くか」というその時代の最先端の問いを、物語の内容と言うより小説の存在それ自体で示したのである。
それに気付いた僕は、まさに目から鱗だった。

「完璧な文章などといったものは存在しない」から始まる冒頭が素晴らしいのはもちろんである。

「……ねえ、いろんな嫌な目にあったわ。」
「わかるよ。」
「ありがとう。」
彼女は電話を切った。

「わかるよ」と言った主人公の「僕」に、彼女がどんな「嫌な目にあった」がわかるわけない。
そんな登場人物のコミュニケーションの不在なら、もちろん多くの作家が書いていた。
それよりもっと重要なことは、彼女がどんなに嫌な目にあったのかはこの小説に書かれていない、ということだ。
というか、書いてはいけないのだ。
これがすなわち、「何を書くかではなくどう書くか」ということである。

さらに、デレク・ハートフィールドという架空の小説家を作り上げ、小説のあとがきでさえその嘘を貫き通す。(たしか群像新人賞掲載誌の選者座談会では、選者の誰ひとりとしてデレク・ハートフィールドを知らなかったが(当たり前だ)、それでもみんな、実在の小説家だと信じていた)

圧巻としか言いようがなかった。

1979年というのは『ジャパン・アズ・ナンバーワン』がベストセラーになった年でもある。
多くの人が「日本はこれでいいのだ」と信じていた。
だから、切実な小説のテーマなど、もはや存在しないように思われた。
『風の歌を聴け』は、ある意味、そんな「テーマの不在」を、メタ的にテーマとして取り上げたのでもあった。

ええと。
文芸評論を書こうとしているわけではない。

1979年というのは、テレビドラマでは『金八先生』や『必殺仕事人』、歌謡曲では『いとしのエリー』とか沢田研二のいろんな曲とか。
カラオケで「1979年の曲」を検索すると、名曲がずらりと並ぶよ。

そんなわけで、我々は「ある意味満たされた」世界にいて、だからこそ優れたテレビ番組や歌謡曲もたくさん作られた。

それが1979年。

僕は、上段に構えて「社会正義を語ること」自体が不誠実なような気がしていた。
社会を語るために「正義論」は必要ではない。さらにいえば正義論そのものが邪悪でさえある。そんな気持ちすらあった。

思想的に言えばニューアカデミズムが台頭してきた時代である。
正直言って僕はほとんど読んでいない。
ニューアカの源泉であるいわゆる大陸系、フランス語とかの哲学は、僕はどうも駄目なのである。
なので読んでいないから正確ではないかもしれないけれど、要するに「世界はどう成り立っているのか」を「比喩」によって語っているのがニューアカのような気がしている。
また、『風の歌を聴け』と同じような意味で、「言っている内容」よりも「それを言うという行為」も含めて、そのテキストが世界に投げ出されたときの様相をメタ的に問題にしているものもあったように思う。
ただそこでは、「権力の構造」は問題にこそされたが、正義論としてではなく、世界の読み方としてその言説が流通していた。

なにかが違うな、という気がしていたが、僕は流されていた。
前回、一世代上の全共闘世代のことを最低だと言ったが、前述したように僕も然りである。

さて。

昨夜はカラオケで『ヘビーローテーション』のPVを初めて見た。

カワイイじゃんか…。

昔、青年誌の編集部にいたときは、仕事柄アイドルの情報とかもチェックしていたのだが、基本は興味ないので、最近はそういうのは見たことがなかったのだった。
いやいや、僕は子供はいませんが、もしいたら自分の娘の年齢だけれど、これは正直言ってカワイイ。
本人たちの資質もあるだろうが、衣装とか振り付けとか映像編集とか、大変優れている。ああこれがこの時代の若い女の子たちの可愛さなんだなと思い知るのであった。

で、秋元康氏と言えば、多くの人が「おニャン子クラブ」を思い出すはずだけれど、おニャン子=女子高生より前にCXが仕掛けたのが、女子大生のオールナイトフジであった。
オールナイトフジが始まった1983年というのは、まさに僕が大学生だった時代で、一緒に遊んでいたオールナイターズの友達もいたし、それよりなにより、当時僕は、オールナイターズに絡んだイベント(といっても学園祭)を企画、主催していたのだった。

当時東大生で卒業後はNHKの優秀なプロデューサーとして活躍しながら若くして亡くなってしまったH君と僕が、居酒屋で飲みながらイベントのコピーについて延々と議論していたのを、当時早稲田で今は電通でかなり偉くなったM君が同席して、「なるほど、ことばって言うのはこういうふうに産み出されるんだと思った」と言っていた。
人一倍記憶力のない僕はすっかり忘れてしまっていたが、そういわれればそうだった。

で、この前同年代のみんなで飲んだとき、M君がみんなにクイズを出した。
「オールナイターズのイベントをやったときに、鹿島(僕)とH君が最終的に決定したコピーは『これはたんなる★★だ』というものでした。さて、なんでしょう?」

この答はまた次回。
じつはこれは、我々が80年代前半の学生時代、何に対してどう闘おうかという問題において、とても重要なことなのであった。