第二ラウンド | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

第二ラウンド

「じゃあ、具体的には何ができるの?」
そこからの話であった。

前回の記事「第一ラウンド」http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11091429237.htmlを読んでいない方は、ぜひそちらから。

ええと。
書き始めてみたら「僕の半生を原稿用紙30枚にまとめろ」というような様相を呈してきた。

前回は直近の話を書いたのだった。
僕は、すべての原発は即時停止すべきだし、東電の役員や経産省の役人、政治家も含め、福島第一原発の事故に対して大きな責任を持つ奴らは刑務所に入れるべきだと思っている。
しかし、(大抵はバーで酔っ払っている場合だけれど)それをいうと、
「じゃあそのために、具体的には何ができるの?」
と逆に相手に問われる。

この問いに対する答はじつはとても難しい。
でも、できる限り正直に書こうと思う。
しかし、正直さとは、それと同時に、捉え所のなさでもある。

そんなわけで、酔った頭で考えると、昔のことも書かなくてはならないような気がしてきた。
今夜は、激安居酒屋でビール大瓶一本と樽酒2合飲んで、帰ってから焼酎甲類+梅干し+炭酸割りを、もう5杯飲んでいる。
そうして、いろいろ考えてみれば、やはり一から話さなければなるまい。

こういう僕みたいなのをうざい奴というのだろう。
一から話さなくても要点だけ言えばいいのに、そうしない。回りくどい。
ていうか、原稿料いただいて書くのなら簡潔にぴしゃりとやりますけれど、ブログですから許してください。

第五ラウンドくらいまで続く長い話になりそうだけれど、馬鹿馬鹿しいのでこれまで一度も書かなかったことも含めて、
「じゃあ、具体的には何ができるの?」
という問いに対する答、
すなわち、反原発までの道のりを綴っていこう。

さて。

2011年3月12日。
僕の借りている中目黒のマンションは耐震構造もへったくれもなくとてもぼろいので、8階の部屋の中は、地震で大量の本やCDが散乱していた。
でもそんなことよりも、地震と津波の凄まじい被害を、点けっぱなしのテレビで見ながら呆然としていたのだった。
僕はNHKを見ていたのだけれど、記憶に間違いがなければ、生中継でアナウンサーが、「あれ?」というふうに「原発の建屋が骨組みだけになっていませんか?」と指摘したのだった。
まさかそんなことはないはずだ、と僕は思った。
だがすぐに、事実1号機建屋が爆発したことを知る。
そしてその後数日のうちに、3号機、4号機も建屋が爆発した。

じつは、3月11日からの約一ヶ月間のことは、具体的なことはほとんどすべて忘れてしまっている。
何しろ僕は混乱していた。
しかし、そのとき自分が何を思ったのかは、はっきりと覚えているのだ。

僕は怒っていた。

たかが48年間の人生だが、こんなに腹を立てたのは生まれて初めてだった。
東京電力に対して怒っていたのはもちろんである。
政府(現政権の民主党も、原発を推進してきた前政権の自民党も)に怒っていたのも当然だ。
テレビで安全デマを垂れ流す御用学者や、それに突っ込まないマスコミに対して怒っていたのも当たり前だし、たとえば斉藤和義の「ずっとウソだった」をtwitterで批判するようなエコノミストもどきどもにも腹を立てていた。

でもやはり、はらわたが煮えくりかえった一番の理由は、自分自身のことだった。

つまり、仮にもメディアの世界にいながら、原発について何も知らなかった自分に対して、猛然と腹が立っていたのだった。

遡って1986年4月、僕は大学を卒業してある出版社の編集部に入った。
だから、職業的なメディア人としても、もう四半世紀を過ごしている。
ただ、この業界にいる多くの人と同様、学生時代からメディアと接点をもっていた。だからもう30年以上だ。
それにもかかわらず、原発の爆発など想像だにしてこなかったのだ。
もちろん、スリーマイルもチェルノブイリも知っていた。
でも、「日本の原発は安心です」という連中のことばに、まんまと騙されていたのだ。

騙すほうが悪いのはもちろんだが、騙されるほうも悪い。それがメディアの人間ならなおさらである。知りませんでしたではすまされない。

1970年代後半の話をしよう。

60年安保闘争、70年安保闘争で盛り上がった学生運動も、70年代後半にはすっかりおとなしくなっていた。
多くの人々がその不毛さにうんざりしていたのだった。

ところが、当時の僕の周りには学生運動の残党が案外たくさんいた。
これは、僕が高校の新聞部や生徒会にいたからである。

僕の高校は男子校だったのだけれど、新聞部や生徒会にいると、女子校の女の子たちといろいろ集まりがあったりした。
都内はもちろん、関西や全国の名だたるお嬢様女子校の女の子たちと仲良くなれる。
恋をしたり酒を飲んだり、まあ、楽しいわけだ。

こう書くと、まるで僕が色事のために新聞部や生徒会にいたかのように思われるだろうけれど、それは半分は正しいかもしれないが半分は間違っている。
今では死語なのだろうが、当時は「学校の自治」というのが大きなテーマだった。
そう、学園紛争時代には大学生が「大学自治」について考え、闘ってきたように、高校生だった僕たちも、「学校の自治」を考えていたのだった。

高校の学校新聞というと、「なんとか部が都大会で何位に入りました」とか、「学食に新メニュー登場!」とか、そういう紙面を思い浮かべる人が多いのかもしれないが、僕はそれはまったく違うと思っていた。そんな話題を一週間遅れで報じても何の意味もない。
矛盾を掘り起こし鋭く問題を提起するか学校当局と闘うか、それしかないと思っていたのである。

大人になれば、というか今の僕もきっと、親に養ってもらってるたかが10代のガキが生意気を言うな、ということになるのだろうけれど、当時の僕は真剣だった。
親同伴で学校に呼び出しとかもあったが、今考えれば可愛いものだ。
ほんとうに反体制的な高校生であれば、親と一緒にのこのこ学校に謝りに行ったりなどしない。
要するに、はっきり言えば私学の少しは名の知れた高校の生徒にありがちなちょっとした「おいた」なのであるが、当時の僕は子どもだったので、とにかく一直線に走っていった。

おかげで、マルクス主義者たちと一戦交えることもできた。(これだけのことをさせてくれた親や母校に感謝しなければなるまい)
他校の新聞部や生徒会には、マルクス主義の人たちがいろいろいたのである。
そこで僕もマルクス主義を勉強して、なるほどなあと思ったのだけれど、どうしても納得がいかないところがあった。

今では「マルクス主義=自由よりも平等の重視」、「資本主義(自由市場主義)=平等よりも自由の重視」と捉えている人が多いけれども、マルクス主義にとっても「自由」は重要なテーマである。
なぜならば、抑圧され、搾取されている人々は、抑圧、搾取から自由にならなければならないからである。

この点は正しい、と僕は今でも思う。
でも、マルクス主義がレーニンの実際の革命論になったとき、それは「党」を必然とする。
革命的な党が前衛となって組織的に闘わなければならない、ということになってしまうのだ。

ちょっと待てよ。
党、つまり組織と命令系統をつくるということは、権力を作るということじゃないか?
僕らは、権力から自由にならなければならなかったのではないか?

そう考えたとき高校生だった僕は、マルクス主義(というかマルクス・レーニン主義)は、決定的に間違っているのではないかと考えるに至った。
今ではマルクス主義(というか社会主義)は、現実の「東側」諸国の失敗を例にとって間違いだという人が多いけれど、僕にとってはそれ以前の問題として、たとえ過渡的であったにせよ、「自由や平等」を実現するために「自由や平等」を抑圧するシステムを作らざるを得ない、というのが納得いかなかったのだった。

しかし、そういうことを言うと、マルクス主義者たちは猛烈に反発してくる。(かつてシュティルナー(…知ってる人いますか?)が、マルクスから過剰なほどの反論を喰らったように)

で。
僕も、「××派」と呼ばれるような左翼の人たちから総攻撃を食らったのであった。
当時はガリ版刷りに「闘争文字」だ。
(「闘争文字」って、Googleでも出てこないな。僕の言い方が間違ってるのかなあ? 要するに今でも一部の大学の立て看にあるような角張った文字)
つまり、「反革命分子鹿島君(僕のこと)を徹底糾弾する!!」とか、そんな調子の僕の実名入りのビラが撒かれるのである。

やれやれ。

そのとき僕が思っていたのは、「この社会において人が保証されるべき価値として自由と平等を措定するのであれば、いかなる場合もそれを侵してはならない」ということであった。
マルクス・レーニン主義は残念ながらそれに反する。
「党の独裁」なんて考えた瞬間にもう駄目だ。
であるから、彼らからなにか言われたときには徹底抗戦しなければならない。
そう考えていた。

しかし。

いったい、自由とは、平等とは、何だろうか?

平等のほうがまだわかりやすい。
こんにちの自由市場主義者たちがよく言うように「誰にとっても1万円札は1万円札」というような、誤魔化しも容易だ。
ところが、自由となるとさっぱりわからない。
考えれば考えるほど、謎は深まっていった。

僕はアナキズムを勉強した。
歴史的に見ても、アナキズムは「反国家・反資本家」という立場こそマルクス・レーニン主義と同じながら、マルクス・レーニン主義が資本家から労働者を解放するといいながら、結局のところ共産党独裁という「別の権力」を作るだけだ、という点に関して、断固異議を申し立てていた。
(Wikipediaのアナキズムの項目は結構面白いからぜひどうぞ。ダニエル・ゲラン、大澤正道など、懐かしい名前が載っている)

そしてそのうち、ニーチェを読み始めた。

そんなことをしているうちに1970年代は終わる。

1980年。
1月1日。
午前0時0分。
パラシュートと体中の電飾というとんでもない衣装で、沢田研二が「TOKIO」を歌った。
僕の記憶では、民放の年越し番組の生放送、新年の時報に合わせてだ。

これを見た僕は、体中に電流が走ったような気がしたのを覚えている。
糸井重里さんという類い希なる才能が、「その先の10年」を完全に見越して書いた詞である。

そうか、そうだったのか。
そういう時代になったのか。

欲しいなら何もかも
その手にできるよ A TO Z
夢を飼う恋人に
奇跡をうみだすスーパーシティー

そしてほんとうに、東京は、その通りの街になる。
世界一クレイジーな街になる。

1980年1月21日。RCサクセションがシングル『雨上がりの夜空に』を発売。
僕の高校は、チャボ(仲井戸麗市)の母校でもあったし、なにしろ清志郎が愛して(?)きた街、国立にある。
だからその年6月の学園祭でも多くのバンドが『雨上がり』を歌った。
バンドのノリで、高価なギターが池に投げ捨てられた。
これも今にして思えば、ニッポンのクレイジーな80年代を予言する出来事だった。

同年12月8日。
5年ぶりのアルバム『ダブル・ファンタジー』を発表したばかりのジョン・レノンが凶弾に倒れる。

こうして、1980年代が始まったのだった。

「東側」諸国の崩壊。自由市場主義の圧倒的台頭。
誰も「正義」を語らなく(語れなく)なった時代。
しかし、今思えば、日本のバブルとその崩壊と同様に、2008年の国際的な金融危機も、1980年代に埋められていた地雷だったような気がする。
ちょうど、放射能被曝によって数十年後に癌が発症するように。

では、
その当時、僕は「何を考え」、「何を考えず」にいたのか。

続きは第三ラウンドへ。

僕の中ではマルクス主義とアナキズムが先鋭的に対立していた時代。糸井重里さんはどう切り込んで、こんな天の邪鬼な僕にさえ「時代というもの」をわからせたのか?
『TOKIO』で沢田研二が体中に着けていた電飾はとても重かったときくが、それは、80年代に実際の東京で消費される膨大な電力を予言していたのか?
清志郎はなぜ、「世界は少しはマシになっている」と考えられなかったのか?
ジョンレノンの『imagine』は、資本主義それ自体を否定している。『HappyChristmas』は反戦ソング、もっと厳格に言えば当時の「西側」諸国(とくにアメリカ)の自国の経済的利益を守るための戦争(比喩的な意味においても)に絶対反対する歌であったにもかかわらず、今でも(もちろんこのクリスマスでも)アメリカの属国である日本でヘビーチューンになるのはどうしてなのか?

などなど。

読むのは簡単だが書くのは大変。
ちょっと疲れてきた。

なので、続きは第三ラウンドへ。
謎解きは全部はしませんが。