第六ラウンド | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

第六ラウンド

少し前だが、福島県二本松市のゴルフ場が、東京電力に対して除染を求める仮処分を申し立てる裁判を起こした。
それに対して東電はなんと主張したのか?
知っている人も多いと思うけれど、「放射性物質は無主物、つまり誰のものでもない」から自分たちに責任はないと言い張ったのだった。
これには怒ると言うより呆れてものも言えない。どこまで心根の腐った連中なのだろう。

地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教は「アレフ」と名を変えた。その後、内部対立からオウムで外報部長だった上祐史浩氏がアレフから独立して「ひかりの輪」という宗教団体を立ち上げる。そして、「ひかりの輪はオウム事件被害者への賠償を続ける」と宣言した。

公安当局は「ひかりの輪」を「オウム真理教上祐派」と呼び、危険な連中と言うことになっているが、そのあたりについては僕はよく知らないので何とも言えない。

ただ、言いたいのは

1.
僕はもちろんオウム信者でも「ひかりの輪」信者でもないし、ほんとうにそれができるかどうかもわからないけれど、彼らは「今後も全力で被害者への賠償に努めさせていただく」(教団HP)としている。
少なくとも「ばらまいたサリンは無主物です」などという馬鹿げた主張はしない。
ていうか、当然そんな主張が許されるわけないのである。
言わせてもらえば、ばらまいた放射能を「無主物」などと言い張る東京電力は、「オウム真理教上祐派」以下の倫理観しか持ち合わせていない。

2.
12/3の報道(http://www.asahi.com/national/update/1203/SEB201112030007.html など)によると、「ひかりの輪」は、松本サリン事件被害者の河野義行さんに、教団の活動をチェックする外部監査人就任を要請し、河野さんはそれを了承した。
僕は「ひかりの輪」を褒めたいわけではない。
大勢の人を殺したり傷つけたりしたのだから、もしも本人が当時事件の真相を知らなかったとしても、同じ組織にいた上祐史浩氏は一生責任を負うべきだし、その反省の上に立って新教団をやろうというのであれば、被害者に土下座して「外部監査人になって我々を見張ってください」というのはある意味、筋が通った話である。

ところが、東京電力だよ。
お前らにそういうことをやろうという姿勢はあるのか?

この先多くの人命が福島第一原発の被曝によって失われるわけだけれど、これに対しては「低線量放射能の危険性は科学的に実証されてはいない」などと反論する奴がまだいるので置いておくとしても、避難を余儀なくされ、家も職も失って路頭に迷っているような人々が何万人もいるわけだ。
東京電力は、そんな被害者の人々に自分たちを監視してもらおうなどと考えたことがあるだろうか?

オウムはわざとサリンを撒いたけれど東電はわざと事故を起こしたわけじゃない、と反論する人もいるかもしれないが、「わざと」でなければ罪はない、などということは決してない。
今では、福島第一原発事故は津波以前に地震で配管がやられていたから起こった、という見方が有力だし僕もそう思うが、ここでは東電の言うように津波だけが原因、としておこう。
しかしもしそう考えたとしても、事故以前から大きな津波の危険性は散々指摘されてきたのだ。(たとえば http://www.47news.jp/CN/201103/CN2011032601000722.html

専門家に「ここは津波が危ないですよ」と注意されていたのに、そこにサリンを置いておいたら、ほんとうに津波が来てサリンがばらまかれ人が死んでしまった、としよう。
その人が罪に問われるのは言うまでもない。
こういうのを「未必の故意」という。
「過失」ではなく、あくまで「故意」である。

3.
さて、ここからが本題です。
なんで上祐史浩氏の話をしたのかというと、彼は学年で言うと僕と同じなのだ。
練馬区にある早稲田大学高等学院(早大学院、あるいは学院)から早稲田大学に行ったわけだけれど、彼が在学中の早大学院に、僕も当時、しょっちゅう行っていた。
だからもしかしたら、高校時代の上祐史浩氏に会っていたかもしれない。

今夜は『第五ラウンド』( http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11099924016.html )の続きである。

今では早実とかからも普通に早大に入れるようだけれど、当時は(多少の落ちこぼれを除く)大半が早大に進める高校は学院しかなかった。
僕は、前に書いたように新聞部とか生徒会つながりでいろんな高校に出入りしていて、早大学院も僕の母校も私服だったし、だから普通にふら~っと入って行けたのであった。
他校だから具体的には書かないけれど、早大学院の新聞部の部屋でいろいろ悪いこととかしてたのだ。

ご存知のように、今ではかなり脆弱になったとは言え早稲田大学は革マルの拠点であり、学院の新聞部にも当然、Z(革マル)の洗礼を受けた人がいた。
しかし僕が知る限り、学院の子たちはマルクス主義者であっても頭が柔軟で、そこらへんが大学受験のためにヒーヒー言っているような受験馬鹿とは違う賢さがあるんだなと思っていた。
(人生の中でもっとも多感な15~18歳のときに受験のための暗記しかしなかったような奴はろくな人間にならない、と僕は思う)

「受験馬鹿」という意味ではなく頭も良く、ある意味とても恵まれた環境の中にいた上祐史浩氏が、なぜ、宗教に走ったのだろうか?
僕は、本人と話をしたわけでもないし、ウォッチャーでもないから事情もわからないし、もし書くとしたら『第×ラウンド』が1995年まで進めばだが、今はやめておく。

ではなにを言いたいのかというと、上祐史浩氏が早大学院から早稲田大学に在学していた1970年代後半~80年代前半、「僕ら」も「宗教でも作ろうか」と話し合っていたのである。

いつの時代にも宗教心などないくせに宗教を作ろうという人たちはいる。
その多くが、権力志向か金儲けが目的だ。
人の弱みにつけ込んで、カネを巻き上げたり、威張ったり。そういうのははっきり言ってクズだ。

では、信心など微塵もない「僕ら」が、なぜ「宗教を作ろうか」などと話していたのか?

それは、そうやって世界を壊せないかと思っていたからだった。

これを読んでくれているような人が「壊す」というのを、テロや戦争をやったり原爆落としたりすることだと誤解するようなことはないと思うけれど一応言っておく。
暴力に依らず世界を壊すとしたら、宗教というのもアリなんじゃないか、という意味だ。
この場合の「世界」というのは、システムとほぼ同義である。

この原稿もようやく、沢田研二が生放送で『TOKIO』を歌って幕が開けた1980年代の話にさしかかった。

やすらぎ知らない遊園地が
スイッチひとつで
まっ赤に燃えあがる
『TOKIO』(詞:糸井重里)

そんな時代が始まった。
モノとカネはガンガン流通し、そんな意味で日本人は豊かになった。
多くの人が「ああ、我々の戦後の努力が報われたんだな」と思っていた。

「必要なモノ」が出揃ってしまうと、次は「差異」を探すようになった。
たとえば、洗濯機はすべての家庭で必要であるが、すべての家庭に供給されてしまった時代においては「ここだけは違う」という、「差別化」(今、出来の悪い会社員とかが好んで使うことばだ)が必要になるのだ。
些細な「差異」に「価値」を見いだす。
そういう時代に、本格的に突入したのだった。

「資本のルール」が勝利したように思われた。
もはや必要なモノは充分に足りていたが、それでも市場が「差異」を求めていたのである。
コピーライターが活躍し、「差異」を素敵なことばで語り、そのことば自体も商品として流通する。
生活に余裕ができてきた人々は、それに惹かれモノを買う。

モノばかりではなく、情報も溢れだした。
今ではインターネットの情報は無料という感覚があるが、当時は情報も当然、有料だった。
「ライフスタイルを提案します」系のカタログ雑誌が何十万部も売れた。
僕は当時『ビックリハウス』という雑誌に投稿して賞をもらったりしていたのだけれど、これなんかもある意味その時代性。
「豊かだったから遊べた」というのがその一面だし、もう一面は「すべてが均質に無価値なんだから遊んじゃえよ」というアイロニー。

「無価値なAと無価値なBを比べると、5㎜ばかり差異がある。それが価値なんだよ」
ということがもしも真実であるならば、経済というのは無限に発展することとなる。
僕は今でこそそんなことは大嘘だと思っているけれど、当時は「そうなのかな」という気がしていた。
だからもう、「社会正義」について語るなんて、無価値の極致かと思っていた。
「正しい資本主義者」であるしかない、とも思った。

ところが。

そういうのはじつをいうと、かなり苛々する。
みんながハーメルンの街の人々のように誰かに騙されていくからだ。

当時はカタログ文化だとか言われた。
もちろん、「雑誌に載った~~というブランドの~~はいい」とか言う話はそれ以前からあったわけだけれど、ごくごくくだらないもの(無価値なAと無価値なBの5㎜の差異)に途方もない値段がついたりして、馬鹿なんじゃないのと思ったりしていたわけだ。

1980年。
(今酔っ払っていて度忘れしてるけど、かなり以前に誰だったかが言ったように)資本主義が進むに従って、支配はソフトになる。首根っこひっ捕まえて無理矢理刑務所に入れるというような乱暴な真似をしなくても、真綿で首を絞めるように、システムというのはじわじわと人を廃人にしていく。

「僕ら」はそんな状況に苛立っていた。
しかし「僕ら」にとって、「社会体制を覆そう」というゲームは終わっていた。
そんなゲームはもう無効だ。
参加しても意味がない。
だって己自身が「資本主義者であろう」と思ったではないか。

その結果「僕ら」の前に姿を現したのは、80年代の巨大な「凡庸さ」だった。
市場は「無価値なAと無価値なBの5㎜の差異」に価値を作り続けていたが、それもが予定調和的な世界だった。
「無価値なAと無価値なB。でもそのたった5㎜の差異に価値がある」というのは一見真新しい話に聞こえるけれど、まさにシステムのルールそのものであって、次から次へと出てくる「5㎜の差異」や「5秒の差異」「5グラムの差異」など、新しくも何ともない。
人を馬鹿にしたようなその「凡庸さ」。
そこに腹が立ってくるのだった。

それでも僕らは、システムの恩恵を享受している。
いまどき日本で革命なんて言う奴らは馬鹿だ。
でも、いったいどうしたらよいのだろう。
と、当時の「僕ら」は思っていた。
しかしなんとかして、世界の「凡庸さ」を木っ端微塵にできないものか。
だって、つまんないじゃん。

そう考えていた「僕ら」は、
「そうだ、宗教やろう」
という話になったのであった。

もちろん、ほんとうに宗教法人を立ち上げたりはしなかった。単なる子どもの思考実験だ。
でもそれでも、もしも宗教に、この糞のような世界の「凡庸さ」を叩き潰すような力があるとすれば、やっちゃおっかな、くらいの、なんというのかやんちゃな心意気はあった。

オウム事件についての原稿はまた今度機会があれば書くとして、同じ年齢で似たような境遇だった上祐史浩氏と「僕ら」だが、上祐史浩氏がオウムに入信したのに対し、「僕ら」は宗教をでっち上げようかと話していた。
ずいぶん違うのかもしれないが、似たようなものだという気もする。

そして、「僕ら」が世界に凡庸さに苛立っていたのと、もしかしたら上祐史浩氏も同じような思いだったのかもしれない、と今は思う。

ええとなんだったっけ?

そうだ、前回クイズの話で終わったのだった。
もともとはH君の同級生で、学生時代には一緒にいろんなことをやり、今は電通の偉い人になっているM君が、この前飲んだとき、当時を知らないみんなにクイズを出したのだった。
「オールナイターズのイベントをやったときに、鹿島(僕)とH君が最終的に決定したコピーは『これはたんなる★★だ』というものでした。さて、なんでしょう?」

今夜はその答まで書こうと思っていたのだけれど、辿り着けないね。

でも、まあまったくヒントにならないけれど、当時の僕とH君のテーマは「世界の凡庸さといかに闘うか」であった。
そんなとき『オールナイトフジ』を見て「おおおお!?」となったのだったが…

酔ったので寝ますね。