現実的 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

現実的

今夜ももちろん泥酔だ。

原発などについてまとまった意見は書きません。
もう朝ですから、身体は眠りたがっていますが、とにかくなにか書いておかなくちゃいかんよね、という意味合いの、単なるメモです。
興味のない方は無視してください。

最初は恵比寿のやきとり屋で、反グローバリズムの経済の本を読みながら磯自慢を飲んでいたのだけれど、カウンターで隣に座っていた30代で同じ会社らしいカップルは、やきとり屋ではお互い敬語で話していたくせに、僕がタクシーでふたりを追い越したときには手をつないでいたぞ。
やきとり屋では終電の時間も、彼女がわざと忘れているふりをしていた。
いいなあ若いって。

その後、目黒のバーで日本語の達者なデンマーク人と話をして、それから、件の「反原発だからバーやめます」バーに辿り着いたときには夜中の三時をとっくに回っていて、店に入るとお客はもちろん、マスターまでもが泥酔状態だった。

で。

見るからにまともそうで、ほんとうにまともな人と、ちょっとした議論になりかけた。

「じゃあ、具体的にどうしたらいいんですか?」

僕が、「日本はもう駄目だ。なんとかしなくちゃいけない」というと、そう問われるのである。

素面のときのディベートであったら僕は負けない。
なぜならば、「底の底の底の底の…」まで永遠に語れるからだ。(これが簡単そうに見えて、場合によっては哲学史総動員というふうになったりするのだけれど…)
であるが、酔っ払ったときはなるべく相手の話を聞くようにしている。
何が問題なのかを見極めたいからだ。

「今の日本がおかしいのはわかっています。でも、それを変えようとしたって現実的に無理でしょう」

彼がそういったとき、僕は何となくわかった。

「現実的か否か」

それが彼らにとってはものすごく重要なのだ。

この前、原発推進の人とあわや喧嘩になりかけたことを書いたが、そのとき相手の言っていたことばも「現実的に~~」だった。

特にそれが、相手に投げかける質問のときに多くある。

「そうはいうけれど現実的に~~~はどうなんですか?」
という具合だ。

僕は、そのときも酔っ払っていたし今も酔っ払っているのでちゃんとしたことは言えないが、少なくともディベートであればお話にならない問いである。(ほんとうはここもちゃんと書きたい欲望に駆られるが、今は泥酔なので書きませんよ)

いずれにしても、
とても大雑把に言ってしまうと、原発を含めた今の日本のシステムを是とする人、あるいは仕方ないかなと思っている人は「では現実的に~~?」という質問をする。

面白いのは、「日本の政府が基準にしているICRPの研究でも、今の福島では『現実的に』、××××人以上の子どもが癌で死ぬんですよ」という話をすると、相手は何も言えなくなってしまう、あるいは独自の理論を展開して逃げに走るかなのであるが、まあそれはどうでもよい。

要するに「現実的に」ということばを、多くの日本人が「これがすべてだ」とばかりに振りかざしていると言うことだ。

日本人の糞のような思考回路は今に始まったことではないが、
福島の今の子どもたちがもしクラス会をやれば、「一クラスに何人かf何十年後かに放射能のせいで死んでいる。そして、その数倍~数十倍が放射能の後遺症に悩まされている」

この、ものすごく大事な問題を
『真正面から自分のこととして』
受け止めている人はほんとうに少ないのだ。

「現実的に」というくだらないことばを使うことによって、何万人もの子どもたちの健康・命を見殺しにしているのである。

Fuck現実的!

まあそれはいいや。

僕にとって重要なのは
「ではお前はどうするのか?」
という問いに、どう答えていくか?
それだけである。

俺もお前も、福島の子どもたちを今犠牲にして将来癌で死なせるのだ。

あと。
今夜はものすごい泥酔で目も開けていられなくあってきたので寝ますね。

「現実的に」ということばが、実際どれだけくだらないものなのかというような話も、また、次回。