原発危機と「東大話法」 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

原発危機と「東大話法」

家に帰ったら郵便受けにamazonから『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語』(安冨歩:著)が届いていた。
原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―/安冨 歩
¥1,680
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読みかけの本が何冊もあるので今夜は前書きだけ、と思ってページをめくったのに、一気に読み終えてしまった。

僕は熱力学第二法則やエントロピー、ガイア理論などについてはまったくわからないのでそれらについては何とも言えない。
だから特に、第5章(終章)に書いてあることについてはコメントできないし、著者の安冨さんが言わんとしていることの核心を大きく掴み損ねているかもしれない。

でも、この本は面白いよ。

「東大話法」ていうか、「原子力ムラ話法」の欺瞞について書いてある。
なぜあいつらは、平気で嘘をつくのだろうか?

僕はこれでも物書きなので、ことばの使い方についてはそれなりに神経を使っている。
ええもちろん、今も酔ってますよ。
今夜はこの本を読みながらウィスキーハイボール一杯と缶ビール500ml、梅干し焼酎を4杯飲んで、今は8杯目。良い気分だ。
だがしかし、どんなに酔っ払っていようとも、物書きとしての矜持というようなものがある。

どういうことかというと、「これはこう言う」「こんな言い方は決してしない」という最低限の線引きがあるのだ。

ブログは原稿料もらえないので、構成考えないし推敲もしない。酔って書いているので、翌日「ちょっと暴走したかなあ」などと思うことはよくある。
でも、基本的に、過去のブログを修正したりしない。
ことばが足りなかったり、逆に過剰だったりはするけれど、言ってはいけないことは言っていないはずだからだ。
明らかな数字の間違い(ここ←でもありました)とかは直すけれど、修正したらその旨書いておく。
どういうことかというと、偉そうだけれど、自分のことばには責任を持つべきだと思うのだ。
それがせめてもの誠実さだと思うからだ。

だから、原発事故を巡る東電や政府の記者会見とか見ると、「こいつらはなんでこんなに不誠実なのだろう」とつくづく思う。
再三宣伝のようで申し訳ないけれど、僕が編集した『原発・放射能 子どもが危ない』 (文春新書) のあとがきで書かせてもらったが、原発事故後、テレビで見る御用学者連中が嘘つきだと言うことは一目瞭然だった。
そんな中、youtubeで見た小出裕章さんは、なによりも「誠実なことば」を語っていた。
真偽の問題以上に、大事なのは語ることばの誠実さなのだ。
だから、当時はマスメディアに取り上げられなかった小出さんの「誠実なことば」を、ネットを見ないような人たちにも伝えたくて、この本を作ったのだった。
原発・放射能 子どもが危ない (文春新書)/小出 裕章・黒部 信一
¥798
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『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語』の話に戻ろう。
たしか古賀茂明さんだったか(違ったかな?)が、官僚がどんな行程を経てどんな無責任な文章を作るのか書いていたが、本書を読むと、なるほど原子力ムラの連中は、東大在学中からこんな「東大話法」を叩き込まれてるんだな、と、腑に落ちるのである。
なによりも、日本の権力中枢にいる連中が、こんな思考回路なのかと思うとかなり怖い。

僕は15年くらい編集者をやっていたが、もしも作家やライターが、『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語』で例として取り上げられている「東大話法」原稿を書いてきたら、必ず書き直しか、もしくは「没」である。
奴らの書くことばは、それだけひどい。
本書は、その核心に迫っていく。

あとは、日本人にとっての「立場」ということば(あるいは観念)についての考察はとても鋭い。
つまり、原子力ムラの連中は、「自分のことば」ではなく「自分の立場のことば」しか言わないのだ。
これは本書には書いてなかったけれど、もっと端的に言うと、奴らは一人称では話さない。
東電や、政府、経産省の連中が原発関係で「私は~」から始まる発言をしたのを聞いたことがあるだろうか?
つまり、すべて三人称の他人事(本書では傍観者と言っている)なのだ。
今の日本というのは「立場主義」である、というのが本書の核心だと思うのだが、ほんとうにまったくその通り。
奴らのこの無責任さはいったい何なんだろう、と思っていたのだったが、本書の「立場主義」ということばに、ああなるほど、と大きく頷いたのであった。

ついでだから言っておくと、以前、バーで酔っ払って原発容認の人と喧嘩になりそうになった話を書いたけれど、なぜそんなことになったのかといえば、僕が彼の「立場」そのものを否定しようとしている、と彼が感じたからなんだな、と思うのであった。

それから(念のため言っておくがここから先は、著者安冨さんのことばではなく僕のことばだが)、考え方、思想、主義、主張などというのは、たかだかことば「でしかない」。
言い換えれば、ことばにならないようなものは、そもそも考え方、思想、主義、主張ではない。

たかがことば、である。
でも、されどことば、だ。

ことばが、我々の考え方を規定しているのだ。

だからこそ、311以後、我々には「あたらしいことば」が必要だろう。
…ということを以前宮台眞治さんにお話ししたら、宮台さんは「ことばだけが変わっても、『悪い心の習慣』(宮台さんのことば)が変わらなければどうしようもない。終戦で『民主主義』という『あたらしいことば』が入ってきても、結局根本的には変わらなかった」とおっしゃった。
その通りだと思うけれど、たぶん、同じことを言いたいのだと思う。

酔っているので話が飛ぶけれど、僕は「絆」ということばが震災以後流行したのがとても薄気味悪い。
だって、「絆」なんて、一生のうちでそんなに何回も言うことばじゃないよ。
安売りしてはいけないことばが、安売りされているのだ。

被災地に行って惨状も見たし、被災者の人たちの姿には涙が出た。
でもそれでも、僕は「絆」なんて言えない。
ほんとうに絶望している人を目の前にして、「絆」なんて言って、何になる?

論理や科学ではなく、ただただ正直に語ること。
僕は、それだけだと思うのだ。

『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語』の前書きには、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の最後の一節
Whereof one cannot speak, thereof one must be silent.
という命題が取り上げられている。

おお、このブログのタイトルでもある。

安冨さんは「(語り得ないことについて)語ろうとすることは、無意味であるばかりか、それ自体が、冒涜なのです」と書いているが、僕はちょっと違うと思う。
ウィトゲンシュタインはたしか、「梯子を取り払ってしまわなければならない」と書いたが、梯子はかけておくべきだし、ウィトゲンシュタイン(僕的には20世紀最大の哲学者)を乗り越える(もちろん僕には到底無理だけれど誰かが)ための次の梯子が必要なのであり、おっと、梯子というとちょっと違うな、あたらしいレイヤーで、語り得ぬことを語ろうとしなければならない、と思うのである。(もちろん、オカルトとかではない)

読み返したらかなりの悪文だが、まあいいか。

最後はベタな曲。