東電国有化の前に、責任のある奴は責任を取れ | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

東電国有化の前に、責任のある奴は責任を取れ

東電国有化の議論が始まっている。

「国有化」というと、マイナスイメージを持つ人も多いと思う。
「規制緩和」「何でも民間へ」「小さな政府」みたいなスローガンが大手を振っている時代だからだ。

確かに、たとえば昔の国鉄は赤字垂れ流しだった。
鉄道で言えば中国の鉄道省(だったっけ? まあいずれにしても社会主義国の国有組織)はあまりにもゆるゆるで、新幹線の大事故を起こしたのに、事故後証拠隠滅のために車両を埋めてしまったりした。とんでもない話だ。

あとたとえば郵便局。かなりだらしない。
僕は、郵政民営化で選挙に勝った小泉政権よりもかなり前、郵便局の配達員がマンションの郵便受けに勝手に名前を書いたので目黒郵便局と大喧嘩をしたことがある。言っておくが、匿名の単なるクレーマーではない。なにしろ、住所も名前も郵便局には全部バレているのだ。連中に嫌がらせをされる危険性はあっても、僕のほうは配達員の顔も知らないのだ。
「お前らはたるんでる。民間の、たとえばクロネコヤマトが勝手に人の家の郵便受けに名前を書くか?」と言ってやったら、平身低頭謝りに来た。

それはさておき、話を戻そう。

国有会社というのは駄目駄目な体質になりがちだ、ということは僕もその通りだと思う。

しかし、だからといって民営こそすなわち善というわけではない。

民営化したJR西日本は100人以上の死者を出した福知山線脱線事故を起こしたが、コスト削減、利益優先という方向に一気に舵を切るからこういうことになったのだと僕は思う。

「それはJR西日本固有の問題、つまり安全対策を怠ったからであり、一度事故を起こせば企業にとってどれだけの損失になるかを考えていなかったのがいけない。そういうことも含めて、みんなが合理的に考えて商売をすれば、世の中は上手くいく」
と、市場原理主義の人たちは思っているみたいだけれど、それは、まったく間違っている。

ここでその話を始めるときりがないのでやめておくが、ひとつだけ言っておくと、リーマンショック以前の金融資本主義は、みんながハッピーになれる仕組みのはずだった。
ウォール街の連中は腹黒いが、それでも「ビンボーな人たちは家を買えてハッピー、俺たちは金融商品でうまいことボロ儲けしてモアハッピー」と思っていた。
誰も、こんな世界恐慌になるなんて思っていなかった。
みんながそれぞれ、市場での利益を合理的に追求すれば、世界はノープロブレムだと思っていた。
ところがそれは大間違いだった。

ええと。
市場経済の話をしたいのではない。

東電国有化の話である。

僕としては、基本賛成だ。

国有化した後に、発電と送配電を分離し、まず発電部門は新会社として民営化する。
送配電に関しては、まあ水道管のようなものだから、しばらくは国有でも全然問題ないだろう。
要するに、どんなに赤字でも続けなければならない仕事なのである。
送配電というのは、「都会では利益が出るけれど、田舎では儲からないからやらない」というようなことが許されない事業であり、もし誰も手を上げなければ国がやらなければならないのだ。

もちろん、発電についても、もしも誰も手を上げなければ国がやらなければならない。
送配電同様、社会的インフラの問題だからだ。
でも発電は、政策で民間の産業を育てられるし、そうするべきだと僕は思う。

ちょっと原子力の話をしよう。
核燃料サイクル実用化に向けた原型炉「もんじゅ」は、何兆円だか何十兆円だか使ってまだ1kwも発電していない。
そもそも「原型炉」というのは実用目的ではないのだ。
原子炉が実用化されるまでには、まず、理論の基礎的研究のための小型の「実験炉」が作られ、それが成功すると、少し規模を大きくし技術的な問題の洗い出しやコストなどを試算するための「原型炉」が作られる。
で、そこで問題ないということになると、大型プラントの技術全体を検証する「実証炉」が開発され、そんな段階を経て、その後やっと「実用炉」が建設される。
「もんじゅ」なんかたかが原型炉に過ぎない。
そのくせ事故続きで、動いていなくても毎日5500万円の経費がかかる。

なにが言いたいのかというと、できもしない核燃料サイクル構想のためにどぶに捨てていた税金がもの凄くあるわけで、なぜそんなことが許されていたのかと言えば、それは「国策」だからだ。
何十万年何百万年も無毒化できない核のゴミを産み出すだけの原子力発電のために、それだけ無駄なカネが使われていたのだ。

だったらそんなくだらないことに金を使わずに、「国策として」新しいエネルギーの開発に舵を切るべきである。
たとえ今すぐには儲からなくても、「もんじゅ」で毎日捨てている5500万円を再生可能エネルギーの開発に向けたほうがはるかにマシである。

要するに、発電に関しては、「国策として」原子力に代わる新しいエネルギー政策を打ち出して、国が支援しながら民間に参入してもらうべきなのだ。

と、まあここまではまったくまともな話だ。

ところがここで、「いやまてよ」と言う人がいる。
「国策とすることによって、これまでの原子力ムラのような、新しい「再生可能エネルギー利権構造」ができてしまうのではないか?」

残念ながらその通りだ。
このままの日本では、新しい国策は新しい利権構造を産んでしまう。

では、そうならないためにはどうしたらよいのか?

これはとても難しい問題なのだけれど、僕としては「責任を問わない日本の体質」というのを変えなければならないと思う。

たとえば、「もんじゅが毎日5500万円どぶに捨てるってどうなのよ?」と言った場合、それが私企業の経営者だったら到底許されない。
大王製紙の前会長はカジノで会社のカネを百何十億円だか使って逮捕された。
百何十億円というと僕のような貧乏人にはもちろん一生縁のない金額だが、「もんじゅ」はたった一年足らず、しかもまったく動いていないときのランニングコストだけでそれを使ってしまっている。

なぜ、誰も「もんじゅ」の責任を問われないのか?
経産省の役人で、判子をついた奴がいるはずだ。
なぜ、逮捕されないのか?

もちろん、責任を問うと言うことでは、福島第一原発事故に関しての東電経営陣も同様である。

放射能による健康被害については議論が分かれることだから面倒なのでここでは言わない。
今後何十年にわたって、福島第一原発事故の低線量被曝のせいで死ぬ人がたくさん出るが、今はそれは置いておこう。

でも、たとえ健康被害がゼロだとしても、現実に多くの人が土地や仕事(財産、お金)を失った。

補償すればそれでいいのかと言えば、そうではない。
泥棒は盗んだ金を返せば無罪になるわけではない。
盗んだ金は返し、なおかつ、刑務所に入らなければならないのである。

さて。
例によってずいぶん酔っ払ってきたので、まとめに入ろう。

東電は国有化し、送配電と発電を分離する。それは良い。
ただしその前に、責任者に責任を取らせなければいけない。
「人の金を盗んでも返せばそれで無罪放免」というような既成事実を作ってはいけないのだ。

責任のあるやつは責任を取れ。
今それができないとすれば、この国は、また同じ過ちを繰り返す。

つまりこういうことだ。
株主にも責任があるというのが資本主義のルールなのだから、東電の株券は紙屑になる。
「老後のためにこつこつと株を買っていたお年寄りを守らなければならない」などと言った政治家がいたが、ふざけるなと言う話だ。じいさんだろうがヤングだろうが、株を買うと言うことはリスクを負うということである。
貸し手には貸し手の責任がある。銀行が東電に貸した金は返ってこない。
もちろん、過去に遡って東電の経営者は、刑事裁判にかけられなければならない。
被害の大きさを考えれば、刑務所行きが当然だと僕は思う。
東電社員も全員「自分は知らなかった」ではすまされない。会社が潰れるのだから、何万人かの社員は、もちろん失業者だ。ハローワークに通って社会の厳しさを知るが良い。
核燃料サイクル構想を推進した役人は会社法で言う背任のような罪状で起訴されるべきだし、政治家も同様である。
どういう責任の取り方が良いのか僕にはわからないけれど、メディアや御用学者の責任が重いのも言うまでもない。
四半世紀もメディアに関わっていながら東電を許してきた僕自身の責任も免れはしないだろう。

国有化というのは、全面的な税金依存なのである。
僕はそれでも良いと思う。
けれど、その前に、責任のあるやつは責任を取れ。
刑務所行きなのか、失業なのか、破産なのか、土下座なのか、それはいろいろあると思う。
でも、誰も責任を取らないまま、ずるずると国有化するなどというのは許されないことだし、もしそれを許してしまうようであれば、日本国民というのは、残念ながらほんとうに情けない馬鹿の集まりだということになろう。