311以後、しばらくぶりに哲学に戻る【その3】 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

311以後、しばらくぶりに哲学に戻る【その3】

先週の土曜日は「脱東電オフ~うんこの会~」(http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65786472.html )に3次会の途中から顔を出したのだけれど、『ざまあみやがれい!』(http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/ )の管理人、座間宮ガレイさんに、「前回の記事『311以後、しばらくぶりに哲学に戻る【その2】』(http://ameblo.jp/jun-kashima/day-20120207.html )面白かったです」と褒めていただいた。

そこで、読み返してみた。
褒めていただいたのはありがたいけれど、典型的な酔っ払い文章だなあ。
駄目親父が赤提灯で後輩社員に垂れている説教みたいだ。
本人的には言いたいことは一貫しているつもりなのだが、酒の勢いで思いついたことを思いついたままに次から次へと語るので、聞いているほうはうざいだろう。
すいませんでした。

でもまあ、せっかくなのでもう少しこの話を続けよう。

前回も書いたように、
「馬鹿」というのは、「無根拠」を受け入れられない人のことである。

およそ「なにか」の正当性を根拠づけるためには、その「なにか」の外側に、その正当性をジャッジする物差しがなければならない。
たとえば、サッカーのルールの正当性は、サッカーのルールの中にあるのではない。
ルール第一条に「このルールは正当である」と書いてあっても意味がないのである。
そうではなくて、「『我々』がそれをサッカーのルールとして承認する」という外側からの保証がなければ、正当性は決して担保されない。

前回は、あらゆる科学の法則は「これまでこうだった」という、経験に基づくものにすぎないことを書いた。
たかだか、これまでの経験に基づき、我々の「ことば」で語り得ることだけを語ったものにすぎないのである。
ところが、自然科学をやっている人の中には、「世界(全宇宙というような意味で)にはそもそも秩序があって、科学(人間の理性)が、それを一歩ずつ解明しているのだ」などと本気で思っている人がいる。

「世界にはそもそも秩序がある」なんていう突飛なことを、科学は証明したのか?
といえば、もちろんそんなことはない。
ていうか、科学がそれを証明することは原理的に不可能なのである。
なぜならば科学の正当性は、これまでの有限回の経験によってしか保証され得ないからである。

西洋近代科学は「神」という絶対者を捨てることから始まった。
それまでは、「万能で絶対ですべてでもある「神」(すなわち「合理的」でもあるはずの「神」)が作った世界なのだから、そこには究極の秩序(あるいは合理的な法則など)が存在していて当たり前だ」とされていた。
ところが、ガリレオが教会に弾圧されながらも「それでも地球は回る」と言ったように、絶対者を措定するのではなく、経験によって語り得ることしか語らない、という原理を、近代科学は採用したのである。
その時点で「世界にはそもそも究極的な根本原理が存在する」などという考えを「科学では語り得ぬもの」として放棄したのであった。

ところが実際に科学をやっていると「宇宙の究極の法則」のような観念を捨てがたい人も多いらしい。
たとえばオウム真理教の事件には一流とされる大学の理系を出た連中がたくさん関わっていたが、彼らは、科学をやりながらも、科学を超えたもの、科学では語ってはいけないことを求めてしまっていたのだと思う。

彼らは「無根拠」を認められなかったのだ。
はっきり言って、どんなに偏差値が高かろうが、そんな奴らは「馬鹿」である。

科学の話が出たから、数学の話もしておこう。

ちょっと話が外れるけれど、科学で問題になるのは「因果関係」である。
日常の日本語で言うと「だから」とか「ならば」のような接続詞で語ることができる。
「電源を喪失して原子炉に冷却水を送れなくなった」だから「冷却水が蒸発して熱くなりすぎた核燃料が溶けた」という具合だ。

ところが、日常語の「だから」や「ならば」などには、まったく違う使い方もある。
論理学の教科書の最初のページに書いてあるような例。

A)すべての人間は死ぬ
B)ソクラテスは人間である。
C)ゆえに(だから)ソクラテスは死ぬ。

大変初歩的な話になってしまうけれど、これは「因果関係」ではない。
「論理関係」あるいは「理由関係」とでもいうべき関係である。
「因果関係」と「論理関係」はまったく違う。

因果関係というのは文字通り、原因と結果である。
原因があって結果があるのだから、原因が先で、結果が後だ。
原因と結果が同時、ということがあり得るのかどうか、僕にはよくわからないけれど、時間軸のない因果関係は基本的にはない。
というか、原因である事象と結果である事象は別の事象なのである。
それを結びつけるのが「因果関係」であり、我々は通常、「時間的に、まず原因があって、だから結果が生まれる」と考える。
因果関係の外側に(ある意味それを支えるものとして)「時間」があるのだ。

またまた話が脱線するが、因果関係において原因と結果の前後が逆転する可能性を考えられるのか、というのも哲学的には興味深い話である。
たとえば、「祈り」によって世界が変わるという宗教的な因果関係を信じている人が、津波のニュースを聞いたとする。
彼は、沿岸部に住む親戚や友人たちが無事であることを祈るであろう。
でもそれは「すでにもう起きてしまったこと」、つまり通常の時間軸で言う「過去」に対して「こうあってほしい」と祈っているのだ。
現代の日本で生きている大抵の人は、宗教的な因果関係に基づく彼の信念を馬鹿馬鹿しいと思うかもしれない。
ところが、実際に津波が起きたとき、それでも我々は、「親戚や友人が被害に遭っていませんように」「なるべく多くの人が助かりますように」と「過去」に対して祈りはしなかっただろうか?

話を元に戻そう。
「因果関係」には時間軸があるが、「論理関係」はそうではない。
「a=b」で、「b=c」ならば「a=c」
というときに、そこには時間の流れはない。
この関係は、ただちに成立する、というより、すなわちただ端的に「イコール」なのであって、「ただちに」というような時間軸が入り込む隙間すらない。

一応付け加えておくけれど、論理関係の「中」に、「時間のパラメータ」を入れることは可能である。
たとえば「t」というような表現で、論理の中に前後関係を入れたりだとか。
でもその場合も、その論理がどんなに長い式で記述されていようが、「t」はその論理の中の問題であり、論理全体は「すなわち」という時間軸のない(その外側に時間軸を措定できない)ものである。

そしてようやく、数学の話になる。

数学は「因果関係」ではなく「論理関係」である。
最終的には「これまでこうだった」という経験の中から因果関係を見つけ出したに過ぎない科学とくらべれば「論理関係」である数学は信用に足る、と思うかもしれない。

でも、そんなことは決してない。

現代の科学にとって(あるいは経済学などの文系の分野にとっても)、数学は欠かすことはできない。
まあそれ以上に、我々の日常的な感じ方では「右側にリンゴが2つあって、左側に1つあるなら、全部で3つ」というのは自明のことのように思える。
しかしながら、このように「実際に1つずつ数えていく」というのは数学の中でも非常に特殊な例であり、しかもそんな特殊な例も含めて、あらゆる数学の考え方は「無定義語」や「公理系」といった、仮定に基づいている。

たとえば「線」とは何だろうか?
幅が0.00000001ミリでもあったら、それは「純粋な線」ではあり得ない。
「線」の概念には「幅(太さ)」が存在してはいけないのである。
ところが、「幅のない線」などというものを、我々が想像することはできない。
つまり「線」とは、「幅のない線は存在するか」などといった形而上的な問いをしてはいけないものとして、数学の論理の中に措定(簡単にいえば仮定)されたものなのである。
だから、数学的な「線」を根拠づけるものはなにもない。
にもかかわらず、我々は「線」の存在を前提として、数学を組み立て、それを科学や経済学などに活かしているのである。

再三脱線して申し訳ないのだけれど、自然数論というとても基礎的な数学の中にもとんでもない問題が潜んでいたということを証明したのが、ゲーデルの不完全性定理である。
自然数というのは「リンゴが1つ、リンゴが3つ」の1や3のように、我々が自明と捉えるものであるが、それを論理的に組み立てていくと、その論理の中で「その論理自身が矛盾しているかしていないか、その論理自身では証明できない」ということが証明されてしまったのだ。これをいうと専門家から怒られるかもしれないけれど、乱暴な言い方をするとまあ自滅的である。
僕は詳しくは語れないので、これまで読んだ中で入門書としては『ゲーデルの哲学 (講談社現代新書)/高橋 昌一郎 』など。興味のある方はどうぞ。

ときどき、数に人知を越えた神秘を見いだす人がいる。
たとえば、素数の並び方が宇宙の星の並び方に似てるみたいなやつ。
オカルト的な思考をする人はこう言う話が大好きだが、これは正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。
というか、もし正しいにしても正しくないにしても、数学とは関係ない。
数学とは、根拠なき無定義語や公理系から演繹した体系に過ぎず、もしも素数の並び方と星の並び方が一致していて、それに何らかの意味があるとすれば、それはもはや数学が語る問題ではない。

念のために言っておくけれど、自然科学は数学を用いるが、それはたとえば物の位置や運動量を計算するために取り入れているのであって、科学が数学の正当性を証明する、ということはない。
もしも、自然界に存在する何か(たとえば星)の位置が素数の並び方と完全に一致した、ということが科学的に実証できたとしても、科学的な実証というのはそもそも実験、観測に基づいて「これまでそうだった」ということに過ぎないのだから、それは数学に根拠を与えることになどならない。

いずれにしても、数学でさえ無根拠である。

科学と数学をやっつけたから、理系はこれで良いだろう。
文系でも、経済学や社会学なんかは、「社会科学」といわれるくらいで、科学の方法論、すなわち経験則に基づいている。
所詮、それだけの話で、問い詰めればもちろん、それらも無根拠である。

経済学など、根拠がないばかりか間違えまくる。
2008年に世界的な金融メルトダウンが起こるまでのこの20~30年ばかりの間、新自由主義や市場原理主義を唱える経済学者たちは、自分たちが主張する経済思想はまったく正しく、この考え方で世界経済はノープロブレムだと言い続けてきた。
高度な数学テクノロジーで証券化されたサブプライムローンも、「貧乏人は金を借りれてハッピー、金持ちや金融屋は証券で儲けてモアハッピー」と考えられていたのだった。

ところが、破綻してしまった。
2008年11月、英国女王エリザベス二世は、世界でも屈指の頭脳が集まるといわれるロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを訪問した際、
「なぜ誰も予測できなかったのですか?」
と、素直な質問をした。
それに対する経済学者たちの答はこうである。

「内外の頭脳明晰たる多数の人々の集団的想像力が、システム全体にたいするリスクを把握しそこなったからです」
(『世界経済を破綻させる23の嘘/ハジュン・チャン 』より)

「想像力」とは呆れたものだ。
『世界経済を破綻させる23の嘘』著者のハジュン・チャン氏が

「私はこの20年間経済学を教えてきたが、経済学で想像力について論議されているのを見た覚えはあまりない。集団的想像力についての論議はとりわけ覚えがない」

と語るのはもっともである。
金融屋が儲けるために勝手な金融商品を作るのも「市場における自由」であり、それこそが経済を成長させる、というのが、市場原理主義者どもの「想像」ではなく確固たる「理論」であったはずだからだ。
ちゃんちゃらおかしい。
馬鹿な日本では今でも、市場原理を信仰する信者たちが規制緩和だとかTPPだとか言っているけれど、いい加減にしていただきたい。

市場原理主義経済の悪口を書き始めるときりがない。
法律の話をしよう。

中目黒の駅の近くは、外で煙草を吸ってはいけないことになっている。
たぶん、区の条例で決まっているのだろう。
つまり、「区はそういう条例を作ってもよろしい」という、その条例を根拠づける法律が国にはあるはずだ。

というように、法律の根拠という話をすると、その法律のさらに上位の法律が根拠である、という話になりがちだ。
そうすると、最後には憲法ということになる。
では、憲法には根拠があるのか?

ここで言いたいのは「米国に押しつけられた憲法には根拠がない」といった問題ではない。
そうではなくて、どのような成立過程にせよ、そもそも憲法が根拠を持ち得るのか、という話だ。

たとえば、国民投票で成立した憲法であったとしても、それが正当であるというためには、
「国民投票という方法が憲法の定め方において正当である」ということの根拠が必要となる。
「直接投票での多数決というのが民主主義の基本だから」と言えば、では民主主義を正当化する根拠はどこにあるのか、という話になる。

もう面倒くさくなってきたのでいちいち書かないが、法律だって、所詮そんなものだ。

このように考えていくと、科学も数学も法律も、何事も無根拠だと言うことになる。
(さらにいえば、「道徳」や「倫理」の問題、慣習やことばのような「規則」「ルール」の問題も大いにあるのだけれど、今回は書かない)

僕がそういうことを言うと、多くの人が「お前は極端だ」という。
「それを言っちゃあおしまいじゃないか」
というわけだ。

でも、それは、まったく逆だ。
「それを言っちゃおしまい」ではなく、「すべてはそこから始まる」のである。

「無根拠のくせして、現に、このように、ある」
ということ。
同時に、
「現に、このように、ある。けれど、所詮は無根拠だ」
ということを、受け入れること。

そこから、我々はようやく出発できるのだ。

前回も書いたけれど、無根拠を受け入れられない人(馬鹿)が、安易に何かを受け入れてしまう。
たとえば、人生や世界には究極の目的があるはずだと、くだらない宗教に走ったりする。
「ほんとうの自分探し」みたいなのも同類だ。
今の自分は「ほんとう」ではなくて、どこかに「ほんとう」があるはずだ、という考えはカルト信者と同じようなものだ。
「自己啓発」みたいのが好きな人も多いけれど、これもたぶん、目的論的に人生を捉えるという意味では宗教と似たようなものだろう。
市場原理主義者が財産権を絶対なものとみなすのも、なんの根拠もない話なのであるから、一種の信仰だ。

最初に書いたけれど、およそ「なにか」の正当性を根拠づけるためには、その「なにか」の外側に、その正当性をジャッジする物差しがなければならない。
ところが、あらゆる物事を突き詰めて考えれば、「そのさらに外側」に物差しを想定することはできないのだ。

じつは今の時代、「何事も無根拠だ」と言うことを頭で理解している人、あるいはなんとなく気付いている人はとても多い。
でも、もし彼らが「何事も無根拠」であることをわかっていたとしても、「だから何もしないよ」ということであれば、彼らは今現実のシステム(法、秩序、体制、ルール、力関係など)を追認している、ということになる。

ここから先は「正義論」の話だ。
「すべては無根拠だ」ということを前提として、敢えて語る「正義論」の話だ。

ほんとうに何もしたくないのであれば死ぬしかないのであって、この世界に生きていて「何もしない」というのは、「何もしない」という選択肢を選ぶことによって世界に関わっていることであり、「この現実が正しいのだ」と認めていることにほかならない。

もちろん、弱ってしまった人たちはいるだろう。
原発事故で家を追われ仕事をなくし希望を失って「何もしたくない」という人たちに、「何もしない奴にも責任がある」とは言えない。
弱っている人を責める資格など、誰にもない。

これは他人事ではなく、システムの強大さに対して、我々の力はあまりにも小さい。
だから僕も、正直かなりへこたれてはいるのだけれど、それでも、時間はかかるかもしれないけれど、戦略を考えようと思う。

ええと。

哲学の話をしていたのに、いつもながら酔っ払って筆が走った。

最近読んだ哲学関係の本とかのことを書こうと思っていたのだが、それはまた今度ね。