311以後、しばらくぶりに哲学に戻る【その1】 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

311以後、しばらくぶりに哲学に戻る【その1】

基本的に本は借りずに買う。
なぜならば、折り目をつけたりラインを引いたり、あるいはバーや居酒屋で飲みながら読んで、焼き鳥のたれをこぼしたりするからだ。

しかも、今ではネットで簡単に本を買えるので、読んでいる本の中に別の本が紹介されていて面白そうだったり、この著者のほかの本も読みたいと思うと、勢いで注文してしまう。
そうしていると、読むスピードより買うスピードが上回ってしまい、常に未読の本が部屋に転がっているという状態だ。
ただし、興味の方向というのはあまりぶれることはなかったので、転がっている本もそのうち読む、というふうにやってきた。

ところが、311以後、読む本がガラッと変わってしまった。

原発、放射能から始まって、政治、経済などなど。

正直言って、そういう「現実的な本」は、高校以来ほとんど読んでこなかった。
なぜならば、興味がなかったからである。
たとえば、政治家は嘘つきだし役人は小狡い、財界はカネのことしか頭にないことはわかっていたけれど、それ以上考える気にはならなかったのである。
小泉政権やライブドア事件などがあった00年代前半には、新自由主義や市場原理主義は完全に間違っていると思ったので関連する本を読んだりはしたけれど、まあそれくらい。
しかもその問題意識も、政治や経済というよりリバタリアニズムの思想、というほうに向いていた。

つまり、僕が関心のあるのは哲学や思想(このふたつは違うものだ)であり、現実のくだらない政治や金持ちどものことなど、どうでもよかったのである。

なので、小説とか哲学の本とか、あとは文芸論とか、そんな本ばかり転がっていたのだけれど、原発が爆発して事の重大さに気づき、政治家や役人、電力の連中が思っていたよりもはるかに悪質だと知り、なおかつ僕自身も当事者としての責任を全うしたいと考えるに至り、その後、原発から始まって、「けの字」も知らなかった経済まで、「現実的な本」ばかり読むようになったのであった。

そうして10ヵ月。
僕はやっと哲学に戻ってきた。
もちろん、原発のことがどうでもよくなったからではない。
そうではなくて、ほとんど直感だけれど、「そろそろ哲学の出番だろう」という気がしてきたのだ。

ひとつには、このブログでは何度も書いてきたが「反原発はイデオロギーではなく『生き方』の問題である」というテーゼである。
これは、小出裕章さんに教わった。
去年の夏は本を作るために小出さんについて回っていたのだが、いろいろお話をさせていただく中で、原発問題の核心は「放射能は怖い」という次元などではなく「どう生きるか」ということだと思い知らされた。

「生き方」というのは哲学の大きなテーマでもある。
大昔、ソクラテスは「だた生きるのではなく善く生きよ」と言ったが、そういうことである。

真善美というのが、西洋思想に脈々と流れる三つの価値だ。
西洋思想というのは基本的に二項対立なので、対義語を考えると意味がわかりやすい。
すなわち、
「偽」に対する「真」。
「悪」に対する「善」。
「醜」に対する「美」。

日本語にするとちょっと紛らわしいところもあって、たとえば「『1+1=2』は正しい」の「正しい」は、「偽」に対する「真」である。それに対して「正しい行い」の「正しい」は「悪」に対する「善」(倫理的価値)である。

「反原発は『生き方』の問題である」というときにまず立ち上がるのは、「善」(善い生き方の善)の問題である。

僕はじつは、真善美でいうと、一番関心があったのは「真」であり次に「美」。
「善」のことはあまり考えなかった。
ニーチェはキリスト教を「奴隷の道徳」と言ったが、キリスト教に限らずあらゆる道徳は、善人面した奴隷道徳なのではないか、と密かに思っていたからだ。
ある意味これは、僕がこれまで平穏無事に生きてきたからだろう。

ところが、「善」を考えなければならない時がきた。
すなわち、「悪」の存在が明らかになったのだ。

あとは、この前の記事でも書いたけれど、安冨歩さんの『原発危機と「東大話法」』を読んで触発されたというのもある。
安冨さんは哲学と言うよりもっと横断的に研究している方だが、彼の言葉を借りれば「魂」を脱植民地化しなければならない。これはすなわちRock'n'rollのことであり、同時に哲学の問題でもある。
原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―/安冨 歩
¥1,680
Amazon.co.jp
さらにいうと、我々、21世紀の日本人は、くだらない個人主義とニヒリズムに侵されてしまっている。

確かに、個人主義というのはある時代、システムに対する強力な武器であり得た。歴史的に見れば、近代個人主義で獲得された自由は大きい。
だけど、少なくとも僕の見聞きする限り、21世紀の日本で「個人主義」などという時代遅れのことばを使う、あるいはそんなふうに考えている、さらにはそれを資本主義的リバタリアニズム(市場における個人の自由こそ最も尊いとかいう考え)にしてしまうなどというのは、ろくでもない。

また、ニヒリズムというのは有り体に言えば、諦めと判断放棄で良しとする考え方、生き方である。

このようなくだらない個人主義とニヒリズムの根っこには、相対主義がある。
「絶対的に正しいものなんてない→ニヒリズム」、「だから、俺は俺、君は君→個人主義」というわけだ。

ところが、ここではっきり言わせていただくが、今時個人主義やニヒリズムが導き出されるような薄っぺらい相対主義などというのは、ガキの妄想だ。
相対主義なら相対主義で良いが、それを貫徹させれば、決してくだらない個人主義やニヒリズムにはならない。(同様に、個人主義だって存在論的に突き詰めれば、「俺は俺、君は君」などという愚かな結論には至らない)

下衆な個人主義と腐ったシステムが結びついたとき、政府や役人、電力に見られる嘘、隠蔽体質や、排他的同調主義を生み、ニヒリズムが「どうにでもなれ関係ねえよ」という無関心を生む。
だから原発はなくならない。

以前にも紹介したと思うけれど、ロッキング・オンの渋谷陽一さんが作っている季刊誌『SIGHT』2011秋号は「私たちは、原発を止めるには日本を変えなければならないと思っています」がテーマであった。
SIGHT (サイト) 2011年 11月号 [雑誌]/著者不明
¥780
Amazon.co.jp
これは、まったく正しいと思う。
ただ僕は(もちろん渋谷さんもそう思って本を作っているはずだが)、日本を変える=システムを変える、という単純な話ではないと思う。
システムを変えなければならないのは当然だけれど、そのためには哲学、倫理、生き方が変わらなければどうしようもないと思う。

ええと。

書こうと思っていた本題はこれからなのだった。

さっきも言ったように、真善美といえば、311まで僕の一番の関心は「真」であったのだが、原発事故後はもっぱら「善」のことを考えるようになった。
でも、いろいろ考えたのだけれどやはり真善美はばらばらにできるようなものではなく、「善」のためにも「真」や「美」も考えなければならない、と事故から10ヵ月経って思うのである。
そこで、311以前に買ったものの読んでいなかった本を読んでいる。

入不二基義著『相対主義の極北』(ちくま学芸文庫)
相対主義の極北 (ちくま学芸文庫)/入不二 基義
¥1,470
Amazon.co.jp
この本ももつ焼き屋で読んだので、レバ刺しの胡麻油がページに垂れてるし。

それはともかく、今、日本人の多くが無意識に信じている表層だけの「相対主義」を論駁し、それを突き詰めるとどのようになるのかを「示して」いる。

そのことを書こうと思っていたのに、前説だけで長くなりすぎた。
今夜は寝ます。あ、もう朝か。
また今度。