『決まり』の無根拠と、『強者のための脱原発』などについて | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

『決まり』の無根拠と、『強者のための脱原発』などについて

昨日、一昨日は、大飯再稼働を現場で阻止しようとする勇士たちを追うのに精一杯で、別の話題に触れる時間がなかったのだが、このことも早めに書いておかねばなるまい。

先週、電力9社の株主総会が開かれ、中でも東電と関電についてはテレビでも各局取り上げたので、多くの人が見たと思う。

原発に反対する株主、あるいは電力会社のやりかたに疑問を持つ株主が多数参戦、会場の外でも反原発デモンストレーションが行われて大いに盛り上がったわけだが、反原発株主らからの動議はすべて否決された。

まあこれは、はっきり言ってはじめからわかっていたことだ。
もちろん、会場の外で反原発を訴えた人々や、株主として電力会社を批判した人々の行動はとても意義あるものである。
我々の「反原発」は、そんな、ひとつひとつの行動が積み重ねられた結果としてしか実現され得ないからだ。

でも結局は出来レース。
電力会社は、金融や保険などから事前に包括委任状(いわゆる白紙委任)をもらっていたのだろう。株主総会に何千人来ようとも自分たちの言い分がひっくり返らないことは織り込み済みで、要するに電力は「当日は反原発の連中がやってきてギャーギャー騒ぐだろうが、役員は半日我慢してちょっと神妙に座っていればいい」くらいの気分だったはずだ。

結局のところ、東電に金を貸している大手金融機関や、東電の社債をたくさん持っている保険会社などは、自分たちの利益しか考えていない。
この前の記事(原発推進の「イデオロギー」(泥酔原稿))で、ナチスのアドルフ・アイヒマンはあくまで「職務に忠実に」数百万人のユダヤ人を強制収容所に送ったという話を書いたが、電力の社員はもちろん、金融や保険の社員たちも、つまりはアイヒマンと同じである。
組織に対して疑問を持たず、あるいは疑問を持っても闘おうとはせずに、「いいなり」に飼育されている。

この問題について、適切かつわかりやすく述べているのがこの本。

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ところで。

僕が10代の頃からずっと不思議に思っていたのは
「『決まり』は守らなくちゃいけない、と本気で信じている人が世の中にはなぜこんなにたくさんいるのだろうか?」
ということだった。

「それをやっちゃいけない」という人に「なぜ?」と問うと、「『決まり』だから」と言う。

え!? ええええ?

僕にははっきり言って意味不明だ。
「『決まり』を破って、投獄されたり罰金を取られるのは御免だ」という理由であれば僕も多いに納得する。
だけど、単に『それが決まりだから』守らなくてはいけない、という意見の人が結構大勢いるのだ。
「それでは、そもそもなぜ『決まり』は守らなくてはいけないのか?」と問うても、「それは『決まり』だからだ」と答える。
答になっていない。
堂々巡りで、理由がない。
カルト信者に「なぜ神の教えを守らなくてはいけないのか」と問うたときと、まったく同じレベルである。

そんな人たちとは話も出来ないやというのが僕の基本的な考えで、だから面倒くさいので、「決まり主義者」とはなるべく関わらないように生きてきた。

でも、昨夜大飯で再稼働に反対し命がけで闘った人たちに対して
「逮捕されなかっただけマシと思え」「非合法では主張は通らない」「恥を知れ」などのtweetをした奴らがたくさんいるらしい。(http://togetter.com/li/330851

大抵は取るに足らないネトウヨのような連中だとは思うが、ある意味、出てきやがったな「決まり主義者」ども、という感じでもある。

「決まりは守るべきだ」という考えを無条件に認めるのは、アイヒマンと同じである。
彼も、ドイツ国民から正当な選挙で選ばれた政府組織の一員として、「決まりを守った」のであった。
『決まり』に従って、何百万人もの人々を虐殺したのであった。

『決まり』に従わなければ社会の秩序が保てない、という人もいる。
一般論としてはそれはその通りではあるが、『決まり』なんかよりも大事なこともある。
実力行使をしてでもそれを勝ち取って、新しい『決まり』を作る動きにつなげなければならないこともある。

「決まりに従わなければいけない理由は、それが決まりだから」などというのは、幼稚園児にいうのであればともかく、大のオトナがそう信じているのであるとすれば単なる馬鹿だ。

株主総会の話であった。

ご存知の通り、注目を集めたのは、東電筆頭株主である東京都の猪瀬直樹副知事と、関電筆頭株主、大阪市の橋下徹市長である。

東電や関電は、疑いようもなく「悪」なのであるから、「悪に対してモノ言う人=正義」とイメージされがちだ。

ところが、そんなに簡単な話ではないことは、「自民党(悪)にNo!と言って選挙で大勝した民主党が結局悪だった」ということでもわかるとおり。

ここでは、関電株主総会後の橋下徹のこの発言に注目してみたい。


橋下徹・関電株主総会(12)後の記者会見の一部

「役所組織というか行政組織というか、市場原理にさらされずに、倒産することがないと言うことを前提に経営している」

と、橋下徹は関電を批判した。

一見すると、なんだか正しいことを言っているように聞こえる。

橋下徹は一貫して大阪の公務員の問題を取り上げ、大きな支持を得た。
もちろん、大阪に限らず、国政も地方行政も、腐った組織、腐った役人どもが大勢いることは事実である。
原発事故後、経産省や文科省がどれだけ犯罪的なことを行ってきたのかを考えると、僕も、経産省なんかは一度全員クビにすれば良いのにと思う。
また、地域独占の電力が、一生安泰な楽勝経営をしていることは大問題であって、たとえば、リアルに倒産の危機感を持って会社を経営している中小企業の人たちが、橋下徹の意見に「その通り!」と思うのも無理からぬことだろう。

でも、ここではっきりさせておきたい。

もしも、電力会社が「市場原理」にさらされていたのであれば、福島第一のような事故は起きなかったのであろうか?

僕はそれは、まったく違うと思う。
これは、「原子力というのはとにかく危ないのだ」という議論ではない。

原発が国策とされ電源三法のような形で立地体にカネがばらまかれるようなことがなく、つまり地元には直接的な雇用くらいしかメリットがなくて、しかも国策ではないので「安全神話」がなくとも、それでも「市場原理」にさらされた民間企業が原発に参入するかどうか?
これは、リスクをコストに算入した場合、不可能だと思われる。

あるいは、原発が国策で、国が安全神話を流布してくれ、立地自治体に国からカネも落としますよ、と言う場合。
「国策に乗っかろう」という「市場原理にさらされた民間企業」が出てくるのは当然で、原発も作られていただろう。
でも、「市場原理にさらされた民間企業」にとっては、利益を上げることこそが最優先課題であり、福島第一原発事故後、東電の「安全よりも経費削減」体質が明らかになってきたが、もしもこれが東電のような「利益が約束された会社」ではなく、「市場原理にさらされた民間企業」であったならば、もっと激しく安全軽視のコストカットが行われていたのではないかと思うのだ。

もちろん、「市場原理にさらされた民間企業」でも、徹底的に安全にこだわる会社はあるだろう。
でも、この場合の前提は、「市場原理にさらされていること」すなわち、電力の地域独占という状況ではないと言うことだ。
その場合、たとえば東京都民であれば、東電だけではなく「B電」「C電」「D電」…というような選択肢があることになる。
サービス競争や価格競争が始まることになる。

僕は「レバ刺禁止」に大変憤っているのだけれども、これはそもそも、安全よりもコストカット(金儲け)を優先する「えびす屋」というサイテーの企業が起こした食中毒事件が引き金だった。
僕は生肉大好きなので、これまで何十年も、レバ刺はもちろん、熊、鹿、山羊の金玉まで刺身で食ってきた。
もちろん、僕の行く店なんかは大衆店だ。安い価格で出してくれる。
でも、僕自身はもちろん、他のお客さんでも、もしかしたら「次の日下痢した」くらいはあったかもしれないが、深刻な問題になんかなったことがなかった。
どこも、地元で長く親しまれてきているお店だった。
ところがそこに、安全よりもコストカットを優先する「市場原理にさらされた民間企業」が参入したから、死者を出す食中毒事件と言った問題が起こったのだった。

つまり、市場原理のもとでは、もしも99%の企業が安全性を第一に考えていたとしても、「えびす屋」のような悪徳企業が一社あっただけで、大事故になる。

電力会社も同じことで、「市場原理」を導入した場合、事故が起きたときのコストなんか考えずに、安全を軽視して「原発は当面のコストが安いからどんどんやろう」という民間企業がでてきても全然おかしくはない。(それが市場原理と言うものだ)

でも、「えびす屋」事件の被害者の方々には大変申し訳ないのだけれど、焼き肉屋が事故を起こしたときと、原発が事故を起こしたときとでは、その被害は、まったく別物である。
福島県を中心にこれから多くの健康被害が出てくると僕は思うが、たとえそれを差し置いても、何万人もの人々が故郷を追われているのだ。
ほんとうに多くの人たちが、実際に苦しんでいるのだ。

金儲けのことしか頭にないfuckな経営者が世の中にはたくさんいて、僕はそんな連中を心の底から軽蔑するのだが、彼らが大好きな「金額に換算」というやり方をすると、原発事故は何十兆円、何百兆円という国家的な損失になる。
経営者は自己破産すれば許してもらえるが、放射能汚染で奪われた土地は数百年、数千年単位でしか戻ってこない。

要するに。

橋下徹は、「電力会社も市場原理にさらされるべきだ」と言っているのだと思う。
僕ももちろん、電力の地域独占構造には反対だ。また、発電と送配電は分離すべきだと思っている。
でも、「市場原理=善」ということであれば、僕はその考えは根本的に間違っていると思うし、どうも橋下徹にはそういうニュアンスがある。

多くの人が「競争が善だ」と思っている。

もちろん、「ゆとり教育」のときに、徒競走をしても順位は発表しないで全員「頑張りました賞」みたいな話もあって、そんなのはまるで馬鹿だ。
足の速い人はそれだけで賛美されるに値するし、数学の出来る人も、絵が上手い人も同様だ。
だけどそれは、「賛美されるに値する」というだけのことであって、彼(あるいは彼女)の、人間的な(または人格的な)価値の優劣をつけるものではない。

そもそも、誰かに対して人間的・人格的な価値がつけられるか、人間的・人格的な価値なんか存在するのか、というのが大問題なのである。

ここまではきっと、リバタリアンの人たちも同意するだろう。
でもその先は違う。

「競争」ということばは、それ単独では意味がなくて、「100メートルを何秒で走れるか」とか「英単語をどれだけ記憶しているか」とか、まあそういった基準、ルール、ジャッジメント、物差しがなければならない。
それぞれの「ルールの上での競争の勝者」を賛美するのは良いだろう。
でも、そんな勝者も、別のルールでは敗者になる。そういうものだ。

ところが、現実はそうではない。
今のシステムでは、「どれだけ金を儲けられるのか」というルールだけが幅をきかせている。

たとえば、どんなにギターが上手くても、現実的には食っていけない人がいて、彼は「敗者」と見なされる。

「競争原理は正しいよね」なんて問われても、決して「そうだよね」と頷いてはいけない。
「競争」ということばは、それ単独では意味がないのだから。

ええと。

朝の7時半で今夜も泥酔だ。

まとめよう。

橋下徹が「市場原理」を言うとき、それは彼のイデオロギーの表明であると、僕は思う。
すなわち、市場競争こそ是とする新自由主義的な考え方だ。
でも、さっきも書いたように、僕はその考え方には断固反対する。

これまでのブログでも何回も書いたが、イデオロギーというのは、個別の問題についての意見ではなく、社会の在り方そのものについての考え方、理念である。
「市場原理」というのがまさにそれだ。
「自由や競争に意味がある」というふうに、一見誰もが納得するようなことを言っておいて、その実、彼らの言う自由とは「金儲けの得意な奴がいくらでも金儲けできる自由」だし、競争とは「どれだけ金を儲けられるか」というたったひとつの、(くだらない)ルールに基づいた競争に過ぎない。

もしそれを認めてしまうと、たとえ原発がなくなったとしても、新しいエネルギー利権において、今の腐った政府、役人、財界が自分たちの利益のためだけに国民の生命、財産を軽視しているのと同じ形で、「強い者たちの好き勝手」がまかり通る社会が続いてしまうだろう。
つまり「強者のための脱原発」になってしまうのだ。

そろそろ限界。
飲み過ぎて血の気が引いてきた。
おやすみなさい。