久しぶりのデモ。そして、右と左。ことばとそれが示す実体 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

久しぶりのデモ。そして、右と左。ことばとそれが示す実体

この前久しぶりにブログを更新したら、初めての人からコメントをいただいた。

特に誰にも心配してもらえなかったのがちょっとさみすぃけれど、約40日ぶりにブログを書く。

と泣き言を言ったので慰めてもらいました。
僕もちょっとは人気があったのかなあ…。
ほっとしました。個別にレスは返せませんが、どうもありがとうございました。

さて。

昨夜は約一ヶ月ぶりに金曜夜の永田町デモに行った。
と言っても午後6時は到底間に合わなくて、8時過ぎに友達が参加している自民党本部前の抗議行動に合流したのだった。
聞いたところだと、右デモ(右から考える脱原発ネットワーク)の(関係者の??)方々が主催らしい。
「麗しき山河を汚し、子どもたちを危険に晒す原発は許せない」
「保守本流を名乗るのなら、自民党は原発を推進してきた自らの過ちを謝罪せよ」
「国民の生命・健康よりも己の政治生命を優先する政治家は去れ」
と、まさしくその通り。至極真っ当な訴えである。

このブログでは何度も書いてきたけれど、「右」とか「左」とかは、もうどうでもいいことだ。
「脱原発・反原発に右も左も関係ない」というのはもちろんのこと、21世紀の日本を考えるに当たって、右だ左だという枠組み、そんな思考のフレーム自体が、もはや百害あって一利なしだ、と僕は思う。

結局、有楽町ガード下のやきとり屋→キャッシュオンのパブ→激安チェーン居酒屋と、デモ仲間と始発まで飲み歩いてしまったのだけれど、いろいろ話をする中で、ある女の子は「右、左というのは、天皇陛下に対する考え方や姿勢の問題だ」と言っていた。

なるほど。
「自分は右だ」と自覚する人にとってはそうなのかもしれない。
ただ、その場でも話したのだけれど、ご存知のように右だ左だというのは、そもそも昔、フランスの議会で、右側に保守的な人たちが座り左側に革新的な人たちが座った、というのが「ことば」の発祥で、つまりそのときたまたまそうだったと言うことに過ぎない。

左と言えば国家転覆を目指す共産主義者のイメージがあるのかもしれないけれど、共産主義よりもある意味もっと過激な考え方がアナキズムである。国家の存在自体を認めないのだ。
ところが、「国家の存在自体を認めない」というのは、現代の右派、保守勢力、すなわち資本主義の徹底を是とするリバタリアニズムの究極の形でもある。
「小さいな政府」を訴える現代の保守勢力が思い描くのは、国家による一切の規制なしに、金儲けの自由を認めよ、と言うことだからだ。
要するに、昔の見方での「左の究極」と「右の究極」は、結局同じような国家観(ていうか国家なき社会、あらゆる権力から解放された個人という理想像)を描いている。
つまり、どっちもどっち。似たようなものなのである。

そんな意味で、古い意味で言う右だ左だというのが今や通用しないのは当然だけれど、であれば、天皇や民族、国土、風習などをキーワードとした左右の分け方が都合良いかと言えば、そうでもない。
左翼勢力の中には昔から「民族解放戦線」的な闘いがあったわけだけれど、そういうのを全部すっ飛ばして、未だに「世界同時革命」を訴えるような左翼なんかいるのかなあ。これはよく知らんけど。
僕からすれば、いわゆる「左」の視点に立って考えてみると、目指すべきものはその土地土地に根ざした土着的な革命しかないと思う。

左翼が天皇制を否定するのは、それが権力装置として働いてきたという歴史観、すなわち天皇制の名の下に権力者が国民を搾取してきたという歴史観を持つからであろう。
ところが、いわゆる「右」の人たちの歴史観においては、天皇制(あるいは天皇)は、一部の権力者のために存在するのではなく、国民のために存在するのである。

どちらの歴史観が正しいのかは、僕にはまったくジャッジする見識はない。
しかしこれだけは言えるのは、右にしても左にしても、一部の権力者(政治家や金持ち、役人どもなど)の利益のために働く社会システムはけしからん、という点、すなわち社会正義についての根本的な認識にはそう違いはないということだ。

もちろん、天皇、天皇制についての考え方は、いわゆる右、いわゆる左の人たちにとって決定的に埋めがたい亀裂であろう。
でも、それはひとまず置いておいて(というと左右両側から糾弾されそうだけれど…)、共闘の道を探れないのかなあ、と僕は思う。
(そんな意味でも「右デモ」の人たちの行動は立派だと僕は思う。僕は考え方的には左翼上がりだけれど、知る限り左翼のほうが駄目だ。了見が狭い)

まあ、いずれにしても、右とか左とか言うのはもうやめて、別のことばを探すときだろう、と、僕は思うのだった。

その話の流れで脇道にそれる。
昨夜も一緒に飲んでいたデモ仲間のA君に「その考え方だけは決定的に違う」と延々話したことがある。

左翼右翼の話からマッハ3で(←古くさいレトリック)飛ぶけれど、よく、中学生とか高校生とかが「愛と恋とはどう違うの」というようなことを語り合っている。
「彼女に対する自分の思いは、愛なのか、恋なのか」などと悩んでいるヤングもいる。
これがね、考え方としてまったく転倒しているのである。
で、何人かの人とこの話をしていて驚いたのだけれど、考え方の転倒に決定的に気づいていない人がじつに多い。

愛なんて言うのは明治時代に入ってきた外来語だ、というようなことはここでは横に置いておこう。論点はそこではないからだ。

「愛」、「恋」に限らず、感情や感覚で言えば「痛い」とか「嬉しい」とか「ウザい」とか、なんでもいい。
そんな「ことば」は、なぜ、どのようにして使われるようになったのだろうか?

答から言うと、社会の中で、ことばを共有する必要があったからだ。

転んで頭を打てば、日本語を知らない人でも「ウォ!」とかなんとか叫ぶであろう。
その現場を見た人がいるとする。
彼は、「痛い」ということばを知らなくとも、自分にも似た経験があるから、感覚を共有することができるはずだ。
ところが、その事態を第三者に伝えたいとする。
身振り手振りで「ウォ!」とやってもたぶん伝わるとは思うけれど、それでは要領が悪い。
そんなときにこそ、「ことば」が必要となってくるのだ。
「痛い」という、その社会の中でみんながわかる「ことば」が必要なのだ。

「嬉しい」でも同じ。
いったい、「嬉しいとはなにか」と問われて答えられる人がいるだろうか?
「嬉しい」とは「嬉しい」のである。それ以上分析することはなかなかできない。
ヒトゲノムを知らない人から「ヒトゲノムとは何?」と問われて「それはヒトゲノムです」と答えても、答えたことにはならない。
こう言うのをトートロジーという。何も語っていない意味なき文章。

同様に「嬉しい」とは「嬉しい」ことです、などというのは、文章としてまったく意味がない。
でも、そうとしか言いようのないことばがなぜ存在するのかと言えば、多くの人が「そのことばは、今の気持ちにぴったりだ」と思ったからである。
自分の感情と他人の感情が同じであるという証明は誰にもできない。
でも、「たぶん同じような感じだろう」という「ことば」があれば、それを頼りに人はコミュニケーションをとることができるし、逆に、そんな「ことば」がなかったら、人々は自分の気持ちをなんとなくでも人に伝えることができない。
そんなコミュニケーションが成立しなければ社会は成り立たない。
だからこそ、「嬉しい」という「ことば」が流通していったのである。
身振り手振りでウォッと言って伝えるのではなく「痛い」という「ことば」があったほうが都合が良いのと同じで、「嬉しい」という「ことば」があればみんな都合が良いのである。

「愛」や「恋」も同じ。
多くの人が、その「ことば」にしっくりくるから、そのことばが流通する。

で。
ここからが非常に重要なのだけれど、
これは、世界のどこかに(あるいは世界の外側の神の国にでも良い)、「愛」や「恋」の実体が存在して、人々は、そんな実体と自分の気持ちとを比較して、「これは愛だ」「これは愛ではなく恋だ」などとジャッジして話しているわけでは、決してない。
ということだ。

「ヤバい」ということばは、数十年前は「危機的状況」を表していた。(「ヤバい!逃げろ!」というニュアンス)
ところが今、若い子たちが「超ヤバいすよ」というとき、それは多くの場合、絶賛である。
そんな意味での「ヤバい」という「ことば」の使い方は、以前はなかった。ありえなかった。
そう考えるとはっきりするように、「ヤバい」ということばに対応する不動の実体がどこかにあったわけではないのだ。
単に、多くの人がしっくり来るようにそのことばを使っていたら、いつの間にか意味が変わってきたのであって、これはすなわち、ことばに実体なんてない、ということである。

「愛」や「恋」も同じ。
そこには、「今みんながそんなことばにしっくり感じている」という以上の意味はない。
(ことばにはそれに対応する実体があるなどと言うのは、端的に宗教である)

だから、「彼女に対する自分の思いは愛なのか恋なのか」などという問いは、単にことばの使い方として「愛というのが相応しいのか」「恋と言うことばのほうが良いのか」という問題に過ぎない。
どこかに「真実の愛」の実体があって、それと比べると自分の気持ちはまだまだ真実とは言えないのではないか、なんていうのは、考え方そのものが間違っている。考え方が転倒している。
「真実ありきのことば」ではないのだ。
ことばありき。以上おしまい
というだけなのだ。

話を戻そう。

右とか左とか言うことばの使い方が混乱している。
「真実の右翼」「真実の左翼」といった実体がどこかにあるわけではない。
だから、この混乱した状況の中で、「俺のほうが真の右翼だ」などというのは変な言い方だ。そういう議論をしても袋小路に嵌まるだけである。
何度も言うように「真の~~」なんて、どこにも存在しないのだから、それと照らし合わせての比較なんて不可能なのだ。

新しいことばが必要なのである。
これは、僕が勝手に造語をつくって提唱しても駄目だ。
みんなが受け入れて、しっくりこなければことばとして流通しない。
でも、明らかに新しいことばが必要なのだ。

ええとですね。
この話はまだまだ先がありますが、きりがないのでやめますよ。

昨夜は女の子ふたりのうち、ひとりはまったくお酒が飲めないのでリンゴジュースとか頼んでいて、まあそれは仕方がないのだけれど、飲めるほうの女の子も飲めないほうに合わせたのか後半ソフトドリンクで、でも僕はお構いなしに、瓶ビールから始まって、ギネスのpintを2杯と日本酒を三合、サワーを一杯と、生中2杯といったペースで飲み続けてきたので、いよいよ陥落寸前ですね。

前回の記事についてある女の子からtwitterで「ほんとによっぱで書いたのかねえ」と言われたけれど、ほんとに「よっぱ」だぞ。
文章は公開できるが、実際に今会ったら嫌われるでしょう(笑)。

あと、昨夜は経産省前抗議行動で、ずっと同じモチベーションをキープしているテツさんや、僕の顔を見て「おお!」と言っためぐさん(昨夜はばっちりメイク)を見て、頭が下がる思いでした。
みんな一生懸命やっているなあ。すごい!

でも僕としてはこの先、どういう展望で何をしたら良いのか、悩みちゅうです。

あと、関係ないけれど、Facebookで友達申請をしてくれる方々がいらっしゃるのですが、「ブログ見た」とか「反原発」とか、なんでも良いのでひと言書いてください。
基本どなたでもウェルカムなのですが、出会い系のサクラみたいなのは避けたいので、ひと言だけでもお願いします。

一応読み返そうと思ったのだけれど、酔っ払って目がちらちらして駄目だ。
おやすみなさい。