反原発デモ/警視庁/安保世代批判/北海道/長丁場 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

反原発デモ/警視庁/安保世代批判/北海道/長丁場

11日は永田町・霞ヶ関(国会周辺)の原発抗議行動(11.11反原発1000000人大占拠)に参加。
東京都が日比谷公園の使用許可を出さなかったのでデモ行進は中止となったが、裁判所も認めたその理由は「ネットとかで呼びかけているから何人集まるかわからないので管理できない」みたいなことらしい。
いったいなにを考えているのだろうか?
憲法で保障された表現の自由よりも、役所の都合のほうが大事だということだろうか。
ほんとうに困った連中だ。

7月の国会包囲の時には参加者が国会前の車道を占拠するという歴史的な展開になったのだけれど、今回警視庁は「メンツにかけてそれだけはさせまい」という方針だったようだ。
僕も、国会議事堂正門のすぐ前、場所的には最前線の鉄柵の外、つまり車道に1メートルくらい入ったところにいたのだが、警察官が何重にもスクラムを組んで、誰ひとりたりともそれ以上出すまいとしていた。

もちろん、今回に限らず、警察の警備方針には疑問アリアリだけれど、敵は目の前の警察官ではない。
だから僕は「歩道に戻ってください」という警察の指示には聞こえないふりをして一切従わなかったけれど、だからといって、そこにいる警察官にわざわざたてついたりはしない。

でもさあ、原発の抗議行動で警察官と本気で小競り合いしている場面もよく見かけるが、60代以上と思われる人がとても多い。
要するに、60年、70年安保闘争の世代だ。
昔を思い出しているのだろうか?

僕は桜田門の本社は最近は行っていないけれど、以前、マイクロバスに載せられて連れて行かれたこともあった。もちろん、被疑者としてである。
そのときは幸いにして起訴猶予となったので、犯罪歴ではないけれど、映画のように、顔の正面、右側、左側から写真を撮られ、両手10本の指のすべての指紋を、指をぐるっと270度回して、ぬかりなく採取された。
だから、今後もしも僕がコソ泥とかして、ちょっとでも指紋を残したら一発でバレる。

桜田門の二階は「取調室フロア」になっていて、というのも、以前は一課なら一課、四課なら四課がそれぞれに取調室を持っていたのだけれど、それだと違法な取り調べが生まれやすい。
なので、取調室はそれぞれが管理するのではなく、何課だったか忘れたけどどこかが一括して管理することになったらしい。

だから、殺しの被疑者も、マル暴の被疑者も、経済事件の被疑者も、すべて二階フロアにずらっと並んだ個室で取り調べが行われる。
すると、隣の声とかも聞こえてくるのだ。
いろんな被疑者がいるんだなあ、と結構面白かったのだけれど、連日、朝から晩まで同じことを何度も聞かれる取り調べにはうんざりだった。

事件の詳細はごめん、秘密にしておくけれど、誰かを傷つけた(肉体的、精神的、あるいは経済的にも)というわけではないよ。
僕は、私生活や仕事では、いろいろな人を苦しめてきて申し訳ないと思っているけれど、桜田門の件では、誰ひとりとして苦しめていない。
だから、ふざけんなという感じもあって、でもまあ、実際に取り調べに当たったひとりひとりの警察官はきっと悪い人ではなく、彼らに反抗してもしょうがないし、それよりも桜田門のことをもっと知りたいと思ったのですね、そのときは。

「家に帰って良い」ということになって、そのころちょうどピーポ君が流行っていたので、「売店を見ていいですか?」と聞いたら、渋々(つまり駄目だと言える理由がない)承知したものの、取調官が売店までついてくるんだよ。「さっさと帰れ」オーラ満載で。

で、ここから先は詳細は言えないけれど、その後は、桜田門に勤めているいろんな人たちと仲良くなって、よく遊びに行ったりもしていたのでした。
今だったら持ち込めないようなものをお土産で持っていったし、当然、ちゃんと正規に受付を通って入るので、ひとりで売店に行ってピーポ君グッズを買ったり、彼らの勤務時間のあとは、その業界の人たちが集まる飲み屋に連れて行ってもらったり。
お客の7割が警察官!
本社だけではなく、彼らは異動も多く都内にくまなく同僚がいるので「××署の××さん」とか紹介してもらって楽しく一緒に飲んでいたのでした。

話を戻そう。

たとえば米倉弘昌や山下俊一などは、僕は正真正銘の「悪者」だと思っている。(野田佳彦は悪者と言うより、むしろ気が狂っていると思う)
でも、ひとりひとりの警察官が悪者だ、などということはない。
ところが、どうも安保世代の人たちは「目の前の警察官と闘うことが正しい抗議行動だ」と思っているフシがある。

確かに、「権力装置」という概念を使うのであれば、権力すなわち政治家や役人、原子力ムラの連中どもに仕えるのが権力装置の一部としての警察官であり、闘うべき対象ともなろう。
でも、それってどうよ?

戦略的に言っても、現場の警察官の人たちに「我々の抗議行動は暴力的な反権力ではない」「原発問題について平和的に声を上げている」と感じてもらったほうがよい。

で、それ以上に、少なくとも今の日本の原発問題を考えたとき、現場の抗議活動に「権力装置」概念を持ちだして「オマワリは全部敵だ」みたいに捉えるのは、ヤングな暴走族じゃあるまいし、見当外れだと思うのだ。

もちろん、繰り返すけれど僕は、警察のやりかたが適切だなどとは思っていない。
車道を解放しないのは違憲だとも思うし、それに対して「否」の声を上げるのも当然である。

だけど、現場の連中に言ったって意味ないじゃん。
闘うべきは制服を着た軍隊や治安部隊ではなく、政界、役人、財界といった「スーツを着た極悪人」どもであり、そいつらをほんとうに成敗するというのであれば、僕は制服の人たちと団結するね。

おっと、不穏な発言をしてしまった。
例によって結構酔っているからごめん、と言うことにしておこう。

いずれにしても思うのは、60年70年安保当時の闘争論というのは、結局敗北しただけでなく、その後半世紀に渡る日本人の政治的無力感はもちろん、不毛感の土台となったに過ぎなかったわけだし、あれから半世紀、しっかりお金を貯めて今は隠居している老人が、ヤングな日々を思い出して気分が盛り上がりデモに参加するのはいいのだけれど、当時のことばで言えば「自己批判」をしてもらわなくては困る。
警察官を殴ったって何も変わらないことをきちんと思い出して「総括」していただきたい。
自分の息子より若い目の前の警察官に文句垂れたりするのではなく、時間も小銭もあるのなら、もっとマシなやり方を考えて欲しい。

僕の50年の人生が決定的に間違っていたのと同様に、あなたの60年、70年の人生も決して正当化できない間違い(だらけではなく、間違いそのもの)であり、なんの価値もなかったのである。
それを肝に銘じていただきたい。

ええと。

先週の木曜金曜は北海道出張だったのだ。

金曜18時過ぎ。
諸々一段落して札幌の街をひとりで歩いていたら、どこからか聞こえてくるお馴染みの「再稼働反対!」コール。
駆け足で向かった道庁前には、数百人の人たちが集まっていた。
官邸前に呼応して、もちろんここ札幌でも、毎週金曜夜には抗議行動が行われているのである。
帰りの飛行機の時間があったのでずっとそこにいることはできず、僅かな時間だけだが僕も参加して声を上げた。
参加している北海道の人たちとも話をした。

で、聞いたのだけれど、泊原発再稼働を目論んで、北海道のテレビでは一時間に一本くらい「電気が足りない」CMが流れるそうだ。
つまり、東京や大阪などと違って北海道は冬の暖房需要が大きいので、それを煽って脅しているというわけだ。
この夏の関電だって、結局は大飯原発が動かなくても電気が足りていたことは報じられたとおりだけれど、電力の奴らの、人の弱みにつけ込むようなやり口は相変わらずだ。ほんとうに薄汚い。
さすがに今や東電はCMなんか流せないので、東京にいると電力関係のCMからご無沙汰しているが、東電以外は相変わらず同じようにやっている。
溜息が出るばかりだ。

先週金曜夜の札幌は雨だったので「そのせいでいつもより人が少ない」ということだったが、それでも、冷たい雨の中、みんなが大きな声を上げていた。
日曜日、11.11の東京も雨だったけれど、たくさんの人が永田町に結集した。

これは長丁場だ。

僕も一年くらい前は、ドラスティックに世の中が変わることを期待したりもしたけれど、今、それは残念ながら無理だと思う。
9月に小出裕章さんと温泉に行ったとき(温泉オフ会のとき)、露天風呂の中で二人で缶ビールを飲みながら、
「小出さんが生きている間に、原発全廃の祝杯を挙げられたら嬉しい」とお話しした。
もちろん小出さんは、「ほんとうにそうなったら素晴らしい」とおっしゃってくれたけれど、その困難さもよくわかっているようだった。

原発問題というのは、原発に留まらず、日本のシステム、いや、現在稼働中のグローバル資本主義システムのアキレス腱であり、それを変えることは、場合によっては現状のシステムの根幹を黙らせる、ということにならざるをえないからだ。
システムはそう簡単にはそれを許さない。

だから僕は、焦ることなく楽に反原発で生きていきたいと思うし、みなさんにもそう願っている。
3.11から一年半、つまり小出さんとの温泉までは、駄目なところはたくさんあるけれど、僕もそれなりにハイスピードを目指して動いてきたつもりだ。
でもそのあと、仕事がバタバタして、デモやオフ会などにも出られなくなり、そうなると、普段真面目に働かない僕でも、普段真面目に働いている世の中の大多数の人たちが反原発で生活していくことの難しさを実感したのだった。

長丁場です。明日、明後日に世の中がガラッと変わるわけではない。
不摂生で出鱈目な生活を続ける自分の寿命を考えると、一回り歳が違う小出さんとも、僕はたぶん余命は同じくらいで、それまでに決着がつくというのは難しいのかなという気がする。

でもまあ、これは、ガラッと根本から変わらなくとも、ちょっとでもマシになったのかと言うこと、そしてそれ以上に、つまり結果論以上に「生き方」の問題であるのだから、そういうふうに余生を送りたいと思う。

今夜はものすごいだらだら文章。