社会離脱 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

社会離脱

ええと。

特に誰にも心配してもらえなかったのがちょっとさみすぃけれど、約40日ぶりにブログを書く。

twitterも途絶えたし、金曜日の永田町デモも三週間参加していない。
毎月定例である「ざまあみやがれい」さんのオフ会や福島の「てつがくカフェ」も欠席だ。

何をしていたのかと言えば、べつにたいしたことではない。仕事をしていたのだった。
特別な仕事ではない。生活のための仕事。
僕はお金持ちではないので働かなければ生きていけない。言ってしまえば単にそれだけのことである。

ある書籍(原発とかとは関係ない)の編集をしていたのだったが、これが思っていた以上に大変で、週末も含めほぼ毎日、千代田区内のある出版社の小会議室を占拠して、入稿とか校正とか、その他諸々の編集作業をしていたのだった。
金曜の夜も、みなさんが集まっている官邸前や国会議事堂のすぐ近くで、ひたすら作業を続けていた。
そんな感じで一月半を過ごし、先週土曜の朝5時頃、ようやく校了(「これでおしまいですよ」という意味の出版用語)したのである。

考えてみれば、会社勤めをしている人であれば僕と同じ40代後半でも、毎日10~12時間働いて週末も休めない、という人はかなり大勢いるはずだ。
そんな人からしてみれば、「休日なしで毎日12時間働いたからって、だからどうよ?」と言われてしまうのだろう。

だが、僕は基本的に怠け者なのでそんな生活なんかしたことがない。
また、その日の仕事が終わるとすぐに酒を飲み始め、しかも結構いいペースでごくごく飲むから、そんな生活では小さな頭脳的には他のことを考える暇がない。
つまりまあ、仕事後は飲み、仕事の直前まで寝ているか二日酔いで、ものごとをマトモに考えない。そういう生活を送ってきた。
本はもちろん新聞や雑誌も読まない、気になった出来事をネットで追いかけたりもしない(そもそも「気になる」余裕がない)、ということを続けていた。

ようやく一段落した日曜日の朝5時過ぎ、缶ビール片手に永田町付近をふらふらしながらケータイで「フクイチ4号機の燃料取り出し完了」という記事を見て、酔っ払ったアタマで「ああこれで4号機の使用済み燃料プールは空になったんだ」などと思っていたのである。
もちろんこれは誤りで、単に、破損していない4号機の原子炉から燃料を出しましたというだけの話であって、使用済み燃料プールの危機が回避されたわけではない。
ところが、一ヶ月以上仕事に勤しんでいたら、そんなこともわからなくなってしまったのであった。

僕は、会社員とかビジネスの現場的なところでバリバリ働いている人なんかが原発再稼働に賛成する理由は、次のふたつが大きいと思う。

ひとつは、
原発の否定というのは、現在稼働している社会システムそのものに対しての疑問符やアンチであらざるをえないわけだから、「反原発」は己の価値基準の根本に対する否定になるのではないかという直感。
たとえば、会社で働いている人の多くは自分の気持ちよりも組織の論理を優先してしまうのだけれど、それが悪いことだとはあまり思っていない。むしろ、「そうするのがオトナだ」と、都合良く価値をすり替えてしまっている。
ところが、反原発の考え方は根本的にはオトナ的な現状肯定ではなく、コドモ的な素直な疑問や欲求、あるいは正義感だったりもする。
でも、システムの上で生きてきた人にしてみれば、それを認めてしまっては、組織の中でずっと嫌なことも我慢して「オトナとして振る舞ってきた」自分の立つ瀬がない。
なので、それは許し難い。と、直感的に感じるのである。

この話は本を一冊書けるくらいの内容なのだけれど、今回は脇道にそれるから突っ込まない。

もうひとつの理由は単純で、要するに時間がないからそこまで考えていられない。政府が大丈夫だと言ってるのだから大丈夫としかいえないよ。というものだ。
そういう人に出会うと僕らは、もう少し考えてほしいと思う。もう少し考えてくれれば「原発のウソ」は簡単に見破れるのだから、と。

ところがね。
そんなに簡単ではないのだということを、この一ヶ月半の編集部缶詰で、僕は思い知ったのであった。
疲れてしまうと「もう少し考える」なんて真っ平御免なのだ。

地上を走るJRは電波が通じるので、以前は僕は「原発 ニュース」の検索結果をずっと読んでいた。だから、ネットで検索できる範囲の原発関連ニューズは常にだいたい頭に入っていた。
でも、糞忙しいとそんなの見る気がしない。気休めが欲しいのだ。
ここのところ僕が、移動中ずっと何をしていたのかと言えば、無料アプリのソリティアである。

人は(あ、僕だけかもしれないけれど)弱い。
世知辛いこの世の中で、何を優先するかと言えば、社会正義なんていう漠然としたものではない。100年後の子どもたち、あるいはもっといえば、今この瞬間にも被曝させられている福島の子どもたちのことではない
自分や、家族の生活が第一なのだ。
原子力のことなんかマトモに考えはじめたら、それこそいろいろ悩むに違いない。
きっとそこには無茶苦茶多くの問題があるだろう。
そんなことはわかっている。
でもそれ以上に、男たるもの、家族の生活を守れなくてどうするんだ!?

たぶん、「強い人」でもそう考えるだろう。
僕のように「弱い人」は、そこまで考えるでもなく「暇なときには無料アプリのソリティア」ということになるのだと思う。

さっきまで渋谷の反原発バー「ムーンパレス」でビール、ハイボール、ブラディメアリーから芋焼酎まで、散々飲んでいたのであった。
ちょっと、というかかなり飲み過ぎた。
だから滅茶苦茶な文章は勘弁していただこう。

さて。

ゴールデンウィークや夏休みなどで一週間とか休んだ会社員の人たちがよく使うことばが「社会復帰」である。
連休最後の晩に一緒に酒を飲んだりすると、「明日から社会復帰しなくちゃ」とか、彼らはよく言う。
この場合、彼らが「復帰すべき社会」とは、
「毎朝7時に起きる社会」であったり、「丸く収めるべき社会」であったり、「上司に物言うときも『会社のため』という大義名分がある社会」であったり、「家庭を壊さないようにこっそりフーゾクに行く社会」であったり。
その程度の「社会」復帰だと、僕は思う。
ところがこれが、じつはかなり忙しい。
そういう「社会」生活に、マトモに原発の問題を考える時間などあるはずもない。

要するに、多くの人が言う「社会復帰」とは、「社会のことをきちんと考える」という意味ではなくて、「現存する社会システムの中に自分の居場所を定めよう」ということだ。
バリ島で三日間だらだら過ごしたAさんの「社会復帰」とは、「バリ島だらだら目線」で日本の社会を見直すことでは決してなくて、明日からは日本社会システムの時計に合わせて行動しよう、ということだ。もちろん、社会そのものを問い直すなんて、決してない。

ええと。

そういう人たちを糾弾しようというのではない。
というか、「生活」というのはそうなってしまうのだ。
僕だってこの一ヶ月半、朝の6時まで仕事をして、権野助坂では缶ビール片手に出勤する人たちと逆行しながら口の中では彼らに悪態をついていたものの、結局は社会のシステムに沿った仕事をしてきた。
そうやって仕事をしてお金をもらうからこそ、ご飯も食べられるしビールも飲める。
僕もそんな一員だ。

でもね。
もしも可能であったなら、僕はそんな「社会」に「復帰」なんかしたくはないのだ。
そんな「社会」では、つまりそこでは根本的に今の社会システムを是としているわけだから、その枠を超えて物事を見ることができなくなってしまう。

僕は哲学をやってきたわけだけれど、哲学の基本的な姿勢というのは、みんなが考えもしないような「当たり前」を徹底的に、洗いざらい疑い抜くことである。
もちろんそれは、それを使って考えている「ことば」や「論理」そのものに向かうのだけれど、その全然手前に「社会の常識」というやつがある。
それを疑わないのは、僕的にはどうかしている。

酔っ払い文章だが強引にまとめよう。

ムーンパレスで8杯(アブサンも飲んだ)の前に、渋谷で一番安い立ち呑み冨士屋本店でビール大瓶と日本酒二合、今、家でAsahiDryBlack500ml缶二本目だから、誰も僕の言うことなど信用しないように。

「離脱」は「復帰」の対義語だという。
ならば、「社会復帰」ではなく「社会離脱」をしなければなるまい。
この糞のような社会から、いったん離れてしまうことが必要だ。

夏休み旅行のバリ島から帰ってきたAさんは、「バリ島時間が非日常で、日本の時計に合わせて働くのが復帰すべき日常」だと思っている。
しかし、これは二重の意味で違う。
面倒なのでここには書かない。

長期(といっても10日とか二週間なのでしょぼい)休暇のあとに「社会復帰しよう」という人はたくさんいるが、なにか一段落したときに「社会離脱しよう」という人はあまりいない。
これは、じつは社会にとっても不幸なことだ。

僕は、どうやったら上手い具合に社会離脱しながら喰っていけるか、そういうことを考えているのだけれど、なかなか難しい。