石原慎太郎や橋下徹は、自分が糞野郎だということに気付いているのだろうか | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

石原慎太郎や橋下徹は、自分が糞野郎だということに気付いているのだろうか

いろいろな意味でこの世界に嫌気がさしていたのはもともとそうだった。

「世界」というのは、「世界各国」というような現実的な意味を超えて、まずはあらゆる存在ということ。
そもそもそういう感じでいた上に、現実世界を支えているシステムの、あまりのくだらなさ、凡庸さに対して、僕はかつて、学生時代ていうか17~20歳くらいの間、ものすごく腹を立てていたのだけれど、腹を立てれば立てるほど、自己矛盾に突き当たる。

まあここではこの話には立ち入らないが、ちょうどその頃、つまり1970年代の最後から80年代の頭の日本では、なんというのか、もちろんそれでも頑張っていた人もいたわけだけれど、だけど、戦後の反体制的な運動は、各論ではなく総論として「やっぱ駄目じゃん」ということになっていって、これは僕の記憶だけかもしれないが、モノを書く人たちの多くも、行動ではなくことば遊びをするようになってしまった。

彼らを責めているのではなく、僕自身がそうだった。

記憶が曖昧なので間違っているかもしれないが、80年代の幕開けに

欲しいなら何もかも、その手にできるよ A TO Z
海に浮かんだ光の泡だと、おまえは言ってたね

という、まさにその後の日本を予言した『TOKIO』(沢田研二)の歌詞を書いた糸井重里さんが、当時、「社会主義者って言うことばはあるけれど、資本主義者ってないよね。僕は資本主義者になろう」というようなことを言っていた。

あえて「資本主義者」を標榜する。
そんな闘いしかできないような時代なのかもしれない。
当時の僕はそう思って、たとえば「差異」という当時流行ったことばのように、なにか小さな隙間を見つけて世界を笑い飛ばそう、というような感じでいたのである。

ほんとうは、この前読んだ『科学の限界』(池内了著・ちくま新書)の感想を書こうと思っていたのだった。
読んだ本についていちいち書いていたらきりがないけれど、今月の新刊だし、原発問題の欺瞞について、池内さんが語る以上に、言うべきことがあるからだ。

ところが、なんとなくテキトーに前振りを書いていたら、全然別の話になってしまった。

ということです。

でね。

去年の3月、原発が爆発するのをテレビで見て、しばらくは唖然とするしかなかったのだけれど、次第に怒りがふつふつと沸いてきた。

僕は普段、あまり怒らない。
怒るというのは、くだらないことだからだ。
怒ったって疲れるだけだ。

でも、原発に対して本気で怒ったのは、これはつまり、僕のせいだからだ。

カッコいい言い方をすれば、「これだけの大問題をスルーして生きてきた自分自身に腹が立った」ということにもなろうが、きっと、もっともっと感情的な問題だ。

たとえば、定年退職後に奥さんから三行半を突きつけられて熟年離婚。
このとき奥さんに対して「俺はお前たち家族のために身を粉にして働いてきたんだ! その気持ちがわからないのか!」と本心から怒るのであれば、単純である。馬鹿だとも言える。
ところが、自分が「フリをして」生きてきた場合、つまり、家庭や会社を大切にする、という「大義」に、本気で納得するわけでもなく「まあそれでいいか」と妥協して生きてきた場合。
もうちょっと言えば、自分が愚かでくだらない人間であるが故に、自分でちゃんと考えずに、他人の、あるいは世間的なモノサシをとりあえず是として生きてきた場合。
そいつを否定されると、「ちょっと待てよ。それはないだろ」と、倒錯した怒りが沸いてくるだろう。
奥さんに
「子どもが成人するまでは、と、これまでずっと我慢してきましたが、この先はもうあなたと一緒には生きていけません」
とかなんとか言われたら、でもそれって俺だって「フリ」してただけだなんて言えないじゃん。
つまり、自分の非を認めたくないからこそ、「お前が悪い」と激怒する。

…わかってくれるかなあ。

僕の原発に対する怒りは、正直それに近い。
ほんとうに身勝手な怒りなのである。

でも。

少しだけ自慢させていただくが、僕はそういう、自分の「糞野郎ぶり」については、ちゃんとわかっている。
世の中には、自分が糞野郎ではなく神や正義の遣いのように勘違いしている人たちも大勢いるが、少なくとも僕は、そこまで破廉恥ではない。

今夜はほんとうに、テーマとか何も考えずに、酔った勢いで思いつくままに書いているのだけれど、「自分が糞野郎ではなく神や正義の遣いのように勘違いしている人」といえば、まず思い浮かぶのは石原慎太郎だな。
政局や保身にしか興味のない国会議員の糞どもや、単なる歯車に過ぎないくせにいい気になってる糞官僚ども。
そんな恥知らずな連中に日本は任せられない、というのはよくわかる。
ところが、石原慎太郎自身が恥を知っているようには、僕には決して思えない。

ついでに言っておくと、もっと小粒な橋下徹には、僕には政治的な信念があるとはまったく思えない。
今は追い風だから風向きも読みやすい。それだけに見える。
たとえば、「維新」は石原と組むために「脱原発」を引っ込めたわけだが、つまり「脱原発」は最初からその程度の位置づけだったわけだ。「脱原発」に限らず、具体的な政策については全部そうだろう。

典型的なリバタリアンで、リバタリアンに政治はない。
政治というのは、たとえば国政であれば「この国はどうあるべきか」を考え、県政であれば「この県はどうあるべきか」を考える。つまり「社会」を考える。そういうものだ。
ところが、リバタリアンの頭の中には、「社会の観念」がない。
「個人の観念」しかない。

しかし、そもそも「個人の観念」なんていうのがいかに儚いものであるのか。
頭の回転の速い橋下徹は、直感的に気付いているのではないだろうか。
教師に君が代を強制したりするのは、突き詰めていけば理論破綻するはずだ。
それでも、なんらかのわかりやすいシンボルを後ろ盾にしなければ正当性を担保できない。
そういうことだと僕は思う。

馬鹿一直線の石原慎太郎に対して、二重三重にひねくれた橋下徹。
そんな奴らが人気なのだから、ほんとうに困った。

いずれにしても、「自分の糞野郎ぶりに気付けよ」あるいは「自分の糞野郎ぶりを白状しろよ」といった感じだな。

その点僕は、自分がいかに糞野郎なのかを知っているので気が楽だ。
ファックユー、ファックミー。

じゃあ、あばよ。