自民党の呆れた憲法草案&小出さんはなぜ宇都宮さんを推すのか? | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

自民党の呆れた憲法草案&小出さんはなぜ宇都宮さんを推すのか?

僕は家で新聞をとっていない。
「ほんとうは社会と関わり合いたくない派」なのだ。
カネや権力が大好きな政治や経済のキチガイ連中の猿芝居なんか勝手にしやがれだ。

と思っていたのだけれど、3.11以後は考えを改めた。
原発が爆発したのを見て、どう考えてもこれは僕自身にも大きな責任があるわけだし、それを反省すればするほど、奴らをこれ以上のさばらせてはいけない、ということになる。

世界で起きていることを他人事としてはいけないわけで、そうなれば、社会を知るために新聞も読むべきだろう。
というわけで、新聞はコンビニの店頭で見比べて買ったり買わなかったりしている。
東京新聞が一番多いが、朝日、毎日や、日経もときどき買うし、気が狂っているとしか思えない讀賣や産経も、参考のためにときどき買ってやる。

で、昨日の一面トップは、ほとんど各紙、「自民党圧勝」の見出しだった。

これはヤバい。
本気でヤバい。

僕のこんなブログを読んでくれている人のほとんどは、当然のことながら日本に54基もの原発を作った自民党になどに投票するはずがないと思って、選挙のことをわざわざ書いたりしなかったのだけれど、自民圧勝ともなれば、ほんとうに大変なことになる。
腐った日本は留めを刺され、二度とマトモな社会になれないかもしれない。

ていうようなことは、原発に反対する読者のみなさんならとっくにわかっているだろう。
奴らは、たとえ何度事故が起きようとも、大企業の利益と米国の世界征服のために原発を再稼働させるはずだからだ。

だから今夜は、原発とは違うことを語ろう。

憲法9条については、Facebookで藤田直登さん、松本聰さんが「湯川れい子さんが発信した『阪神淡路大震災のあとに忌野清志郎が書いた文章』」をアップしてくれて、僕の友達がそれシェアしてくれた記事を見た。
↑まどろっこしいなあ。

要するに、これが清志郎の文章。


語り得ぬものについては沈黙しなければならない。-忌野清志郎のメッセージ
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友達が超少ない僕のFacebookだけでも、同じものが複数の人から届いている。
現在急速拡散中の文書だろう。
清志郎が書いたこの文章を読んでいただければ、戦争と9条についてはこれ以上僕が語ることはない。

で。

これまたFacebookで恐縮だけれど、「非戦音楽人会議さんが若林靖久さんの写真をシェアしました。」ということで、これ。

語り得ぬものについては沈黙しなければならない。-自民党の呆れた憲法草案

自民党の公式サイトに載っています。
http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf

大事なところはここね。

(表現の自由)
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

「2 前項の規定にかかわらず~」というのが付け加えられているわけで、これを読めば誰でも、「表現の自由を脅かすものだ」「人権侵害だ」というような話になるわけで、もちろんその通りなのだけれど、それ以前に考えなければならないもっと大事なことがある。

すなわち、「そもそも法とは何か」ということだ。

つまりね、「法律というのは悪いことをした人を罰するためにある」みたいに考えているひとが結構いたりするのだが、これはまったくもって本末転倒なのである。

ここは大事なところだから間違ってはいけない。

法律というのは、国家権力が国民を支配するために存在するのではなく、国民が、権力に好き勝手やらせないために存在するのである。
国家権力が国民に強制するものではなく、国民が権力に強制するものなのだ。


刑法がわかりやすいのだが、「~~したものは××年以下の懲役」とか書いてある。
ポイントは「以下」というところだ。
すなわち、「国家権力は国民にそれ以上の刑罰を与えてはいけない」ということだ。

普通に考えればすぐわかる。
たとえば、駅前のチャリンコをかっぱらったくらいの奴が、国家権力によって死刑にされるようなことはあってはならない。
だから、権力の発動は、国民によって厳格に制限されなければならない。
それが、法というものである。

つまり、「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をする」などという、如何様にも解釈できる、すなわち権力の自由な裁量をオール認め、国民のすべての権利を権力に譲渡するような文言など、本来あり得ない話なのである。
「認められない」なんて、何様のつもりだろうか?

そういえばふと思い出した。明治憲法の草案はいろいろ出たわけだけど、「革命権」を盛り込んだものまであったらしい。
もしも政府(権力)が国民と敵対するときは、国民が政府を倒していいですよ。新政府を樹立していいですよ。ということだ。
もちろん、革命権というのを法律で定めるというのは、これはそもそも論としてどうなのよ、というのはあると思う。
でも、大事なのは、この場合の革命権というのは「日本を滅ぼしたい」ということでは決してない、ということだ。
国民に敵対するような「駄目な権力」は打倒する。今で言えば、選挙制度そのものが大きな矛盾を抱えているし、これまでの原発裁判で明らかなように司法も腐っている。ならば全部ぶっ潰して、ほんとうに国民のための、すなわち日本のためのあたらしい権力にオールリセットする。
国民にはその権利もありますよ、と言う考え方だ。

権利概念としての革命権というのはいろいろ問題がある。でもまあそれはさておき、この話はたしか、鈴木邦男さんの本で読んだのだった。
鈴木さんは右翼だが、国を愛する右翼だからこそ、現実的に権力を握っている政財官の糞どもではなく、国民を愛し、国土や国の自然を愛し、文化や伝統を愛している。
その意味で言えば、放射能で国土を汚し、国民を苦しめる原発を、一部の大企業や米国の利益のために推進するなんて売国行為そのものであり、阿呆な石原慎太郎なんかは核兵器オプションとして原発をやらなきゃならんと思っているようだけれど、それ以前に民を見よ。未だに10万人規模の国民が古里を追われているのだ。原発事故被災地の第一次産業は、これから100年、1000年レベルで苦しみ続けなければならないのだ。石原慎太郎が大事なのは、民や国土では決してなく、自分で勝手に思い描いている国家観、プライド、それだけである。(震災直後に彼が語った本心「津波は天罰だ」に、その思いが端的に表れている)

おっと、筆が走った。

自民党は決して、愛国でもなければ保守本流でもない。
自民党は原発容認だが、それは端的に言えば、「民や国土を犠牲にしても経済を優先させる」という考え方で、「でも経済の発展こそが国の幸せだよ」だと勘違いしている人は「多少の犠牲も仕方ない」と思うかもしれないけれど、言っておくが、もしも幸運にも経済が発展したところで、美味しい思いをするのは1%の富裕層だけだ。
米国では1%の富裕層が国中の富の何十パーセントとかを独占していて、99%の人が抗議行動をしていたりするが、それと同じようなことになる。
なぜならば、米国追従の思想の行く末は、まさにそれだからだ。

軍事と経済によって世界を支配して好き勝手に振る舞う。
「一流国」の面して世界中を土足で踏みにじる。
そうすると、まさに米国のように世界中から嫌われるわけだが、「嫌われたって知ったことか」と言えるのは儲けてウハウハな1%の連中やそれに群がる役人や政治屋どもだけだ。あなたも私も、決して底辺から脱出できない。

おっとっと。また筆が走った。

筆が走りまくったついでにもうひとつ書いとこうかな。

橋下徹が破廉恥なのは、彼はIQが低いわけでもないのだから、石原慎太郎なんかと組んだら爺さんが勝手に暴走することくらいわかっていたはずなのだ。
それなのに、権力欲しさに舞い上がってしまう。
要するに彼は、僕はコンプレックスだと思うけれど、「力」がほしいのだ。
そのために、「わざわざ敵を作ってやっつける」というようなことをする。
昔は脱原発と言っていたのにいとも簡単に主張を変えたのは、それを真剣に考えていたわけでは決してないからで、彼が思い浮かべるのは、福島の被災地やそこから避難させられた人々ひとりひとりの顔ではなくて、政治の場で力たり得る抽象化された数字だけだ。
その意味で橋下は、文学的、芸術的なセンスを一切持ち合わせていない。
石原慎太郎と組むと聞いたときには「やっぱりな」という感じだ。
彼にとって「人の心」とは、「操る対象」でしかないのだろう。
心を汲み上げ、政治のシステムに落とし込もうという発想など、はじめからまったくないに違いない。

一方の石原慎太郎は一応小説家なので、人の心もわかりそうな気がするが、そんなことは決してない。
彼は、非常に悪い意味でロマンチスト、つまり独善的なロマンチストである。
そういう人間が優れた文学、芸術作品を創ることはあり得るが、権力を持たせてはいけない。
作家というのは狂気を持ち合わせていて、それが作品のどこかから滲み出たとき、読者は自分でも気付かなかった内なる狂気にゾクゾクさせられる。
だけどそれは政治ではない。
ていうか、芸術と政治の間に横たわる絶対的な一線を越えてはならない。
まあ、本人にはそれがわからない。
許した僕らが悪い。

酔ってきたからまとめますね。

一番大事なことはと言えば、自民党が大勝したときにやろうとしているのは、「国のため」「国民のため」の政策ではなく、「自己保身」つまり「強い者がいつまでも強くいられるための政策」である。
要するに、「法とは国民が権力を縛るもの」という、主権在民の当たり前の考え方すら持ち合わせていない。「自分たちが国民を縛るため」の法を作ろうとしている。
これは、決定的に重要な大問題である。

眠いや。
酔ったし。

自民が大勝したら大変だというのと同時に、維新もマズい。
さっき書いたとおり。
死に損ないの石原慎太郎は自民と一緒になって中国と戦争をしたいようだし、橋下には政治的な良心や見識などない。あるのは参謀術数だけ。
嘘つき民主党は語るに及ばず。
さて、どうしよう?

じつは僕は昨日期日前投票をしてきたのだけれど、一番困ったのが小選挙区だ。
いやほんとに。

最高裁裁判官審査は、「公立校の先生に国旗国歌を命じる職務命令」を違憲としなかった人には「×」をつけましたよ。
僕は日本が大好きだから。
だからこそ日本では、あらゆる思想信条が許されなければならない。

言っておくがこれは「日の丸君が代の是非の問題」ではないのだ。
思想信条の自由というのは、思っているだけで口にも態度にも出さないのであれば、どんな独裁国家でも罪に問えるわけがない。
「心の中で思うこと」は、端的に法律以前の問題である。
発言や態度(という社会的行動)であるからこそ法の対象となるのであり、法律で思想信条の自由を認めるというのは、「何を思ってもいいよ」と言うようなことでは決してなく、発言や態度、行動の自由を認めると言うことである。
国旗国歌だからイデオロギーぽく捉えられてしまうけれど、ポイントはそこではない。
嫌なものは嫌だと拒否するのが認められるのは当たり前だろ、ということだ。

都知事ははっきりしていて、宇都宮さんしかいない。
他の選択肢はありません。

この前の記事で書いたけれど都知事選挙の選挙公報で、宇都宮けんじさんを「私も応援します」という中に、小出裕章さんの名前もあった。
都知事候補の中で反原発は宇都宮さんしかいないので、小出さんが宇都宮さんを応援するのはわかるけど、ご存知のように小出さんは、「一切政治には関わらない」と言っていた。
なのに、推薦人として名前を出したというのはどういうことなんだろうと思って、小出さんに尋ねたのでした。

小出さんからのお返事は、これ私信なのでブログで出していいかなあとずっと迷っていたのですが、もしもこのブログを読んだ誰かの一票になるとしたら、と思って、書くことにします。

小出さんは、
政治には関わらないとしてきたなかで、今回は「あくまで例外」とおっしゃっています。
しかし、
「原則に例外を作ったことの重さを感じます。」
そして、
「宇都宮さんに当選してほしいと、心底願います。」
と書いていました。

偉そうな言い方になってしまうのだけれど、僕は、小出さんが信念を曲げて「例外」を作った重さがすごくわかる。

ネットや講演会で小出さんの発言を聞いていた人ならわかるはずだけれど、いかなる政党、いかなる政治家に対しても、小出さんは(もちろんたとえば「たね蒔き」で実際に政治家とお話をされたときなどは紳士的に接しながらも、しかし)、政治は信用しない、政治には関わらない、というスタンスを貫いてきた。
やはりそれは、小出さんが40年間も原発と闘ってきたなかで確信した「政治への絶望」であり、であるがこその「真摯な闘い方」なのだ、と僕は思う。

僕のような日和見は人気者や力のありそうなほうに靡くけれど、小出さんは決してそんなことはない。
ところがだ。
そんな小出さんが都知事には宇都宮さんを推しているのです。

その事実の重さを、僕はみんなにわかってほしいと思う。