東京・西国分寺にあります東京都公文書館の展示を見に行きまして、本編の前のミニ展示『幕末から明治初期の小笠原諸島』にひっかかってしまいましたが、いよいよメインの企画展『伊豆諸島~歴史・文化、そして今』の展示室の方へ。

 

伊豆諸島には北から順位に大島・利島・新島・式根島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島・青ヶ島の九つの有人島があり、さらに居住の見られない島や岩礁として、八丈小島・ベヨネーズ列岩・須美寿島・鳥島・孀婦岩と続いています。

というのっけの説明に「??」となりましたのは、伊豆諸島、伊豆諸島と言ってはいるものの、かつては「伊豆七島」という言い方が普通にあったような。それが実は、人の住んでいる島だけでも9つあるとは?…となったわけですが、説明はこう続きます。

江戸時代には伊豆七島という呼称があり、大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島を指していました。式根島は新島に属し、青ヶ島村は八丈島の属島として扱われていたのです。

ほえ?伊豆七島という呼び方は江戸時代のものでありましたか。昭和世代でも使っていたような気がするのですが…と、それはともかくしてこの伊豆諸島、やはり小笠原諸島よりはまだ近い分、それなりの往来はあったのでしょう。江戸時代は幕府の直轄領として韮山代官(あの江川太郎左衛門の家系が担った役職ですな)の支配下になっていたと。

 

 

天保十三年(1842年)刊行されたという『増訂 伊豆七島全図 附 無人島八十嶼図相武房総海岸図』は、「増訂」というくらいに情報の追加・更新が為された結果でしょう、地図も詳細なら周りを埋め尽くす文字情報も実に豊富なようで。ですが、伊豆の島々といって真っ先に思い浮かぶのは流人の歴史でしょうかね。江戸期初期には関ケ原敗軍の将であった宇喜多秀家が八丈島に流されていたりしますし。

徳川政権のもと、法制度の整備に伴い、伊豆諸島が流刑地として位置づけられました寛政8年(1796)になると、流刑地が八丈島・三宅島・新島に限定されます。
地元出身で現地の支配を担った地役人らによる流人管理を徹底する過程で、流人の到着確認、配属する村々への割り渡し、死亡や赦免といった曲面で、多様な帳簿が作成・保管されていきました。

とまあ、江戸幕府の官僚機構らしい一端をこのあたりに見ることもできるわけですが、帳簿や文書などは「流人アーカイブ」とも呼ばれているそうな。例えばこれは「流人証文」という流罪者リストであると。

 

 

左の方に(矢印付きで)近藤富蔵という名前が見えます。最上徳内らと共に北方探査で行ったことで知られる幕臣・近藤重蔵の長男ですが、殺傷事件を起こして文政十年(1827年)、八丈島へ遠島となったのだとか。ただ、探検成果を著作に残した父親譲りの文才があったのか、「文筆にすぐれた富蔵は流刑の地で八丈島をはじめとする島しょ地域の歴史・風俗・習慣を調査し、その集大成とも言える『八丈実記』をまとめ」たという。こうした著作も「流人アーカイブ」を成しているようです。

 

 

全7巻に及ぶ大著である『八丈実記』は実に多彩な内容はを含んでおりまして、これは「黄八丈」について詳述した部分ですな。「黄色、鳶色、黒、白を主体とした縞、格子柄の絹織物」ですが、八丈島名産の黄八丈は「江戸時代には租税として上納され」たりもする関係で、「小裂(こぎれ)を貼った帳面により柄決めされてい」たそうですから、ブランド管理がきちんとなされていたのでありましょう。本書には「着物の模様50パターン、帯の縞柄6パターンが記録されてい」るということです。結果的に親子で北方と南方と、その習俗や文物を描き分けることなるとは、不思議なめぐり合わせであるような。

 

江戸期を通じて韮山代官の下に置かれた伊豆諸島は、明治になって代官が韮山県知事となっても引き継がれますが、明治4年(1871年)に韮山県が足柄県へ編入されるに伴い移管、明治9年には静岡県管轄となり、明治11年にようよう東京府へ移管、現在の東京都の一部になるという変転を経るも、この間の経緯はどうも詳らかならず…。ではありますが、島々に対するさまざまな調査は断続的に行われたようですな。明治の近代的目線でもって、各島の状況を把握しようととしていたのでしょう。

 

 

そんな調査の中で興味深いもののひとつは、明治11年の調査結果に基づく『伊豆七島記』記載にある「言語」の各島比較でしょうか。伊豆諸島でもっとも距離の近い大島が「頗ル内地ニ同ジ」とあるのに対して、だんだんと離れるごとに言語的な乖離が見られるようで、八丈島に至っては「下等の者ニ至テハ言語不通、再三問テ初テ通ズ」と。(展示の表下部には「当時の社会情勢を反映した差別的な用語や不適当な表現が用いられている場合がありますが、歴史的史料として原文を尊重し、そのまま引用しています」と注があります。念のため)

 

 

一方で、これまた興味深いのは明治初年と令和6年との人口比較ですなあ。全体として明治の初めと現在とで人口増減がさほど無いですし、島によってはむしろ増えているとは…。日本各地で地方の人口減少がクローズアップされることの多い昨今、伊豆の島々には異なる傾向があるようです。そのひとつが島々の個性的な側面が見えるようになって一定の移住者がいたのだろうと想像されますですね。

 

明治22年(1889年)に東京湾汽船株式会社(現在の東海汽船)が設立されて、伊豆諸島への就航便をだんだんと増やしていったわけですが、これは物資の輸送という生命線の確保から国策的に進められた面があるも、就航する船会社としては儲けなくてはなりませんから、観光振興にも力を入れたのではなかろうかと。やがて流人の島の印象も薄れ、昭和初年には大島に一大観光ブームが到来したといいます。

 

 

活火山である三原山の荒涼たる斜面を利用してかように巨大なスライダーが設けられたり、モンゴルからラクダを連れてきて観光客にラクダ乗りをさせたりとさまざまな誘客措置が講じられたようでありますよ。1960年代の半ばからは離島ブームといった動きもあったようで、ひと頃、夏に新島に行かないのは若者に非ずてな風潮もあったように記憶しますなあ(行ってませんが)。そんなこんなの結果、観光で島を訪ねた人たちの中には、独特の魅力に感じ入って移住なんつうことになってもいったかと。

 

個人的には八丈島に一度行ったことがあるきりで、およそ現地の記憶も無い状況ですけれど、現在の島々を紹介するパネルでもって、例えば神津島の海がこんなにきれいなのだと見せられますと、行ってみたいような気にもさせられますなあ。

 

 

ま、取り分け神津島に目を付けたのはパネルに見る海がきれいというばかりでなくして、縄文人もわざわざ渡海した黒曜石の島だったというあたり、個人的には興味の弥増すところでもあるところでして。ともあれ、東京都にあって区部とは区別(差別?)して「都下」と呼ばれることもあった(今でも時折見かけることに驚いたりも…)多摩地域と島嶼部だけに、些かの仲間意識が働いたりもするところでして、伊豆諸島のことをもそっと知っておいてもいいかもしれんと思ったものなのでありました。