これまた久しぶり山手線駒込駅から少々歩いたところにある東洋文庫ミュージアムに出かけてみた次第。開催中の企画展は「日本語の歴史」展というものでありました。

 

 

日本語にまつある不思議と「なるほど」がたくさん見つかります…とは、フライヤーの惹句ですけれど、まずは「世界の言語のなかの日本語」がなかなかに独特であることが示されておりましたよ。解説文にはこのように。

実は、日本語の起源についてはまだ分かっていません。現在は、日本語は他の言語と共通する祖語が立証できない言語であるという説が有力です。しかし、沖縄や奄美で用いられる琉球諸語を、方言ではなく別言語として見る場合は、日本語と琉球諸語を同じ系統の言語とみなし、「日琉語族」などと呼ぶこともあります。

日本語の起源としては、かつてトルコ語の近似性からアルタイ語族に属すといった説があったような。さりながら、ひと頃は国語学者の重鎮の大野晋によってタミル語起源説が唱えられたもしたですね。日本列島の北方にはアイヌ民族がいて、アイヌ語との比較では「系統の異なる言語」と位置付けられていることからも、また上記の解説文にあるように琉球諸語とは近似性があるものとすれば、どうやら日本語のルーツは南方にありとも思えてもくるような。

 

ただ、大野先生の著作『日本語の源流を求めて』はずいぶん前に読んでみましたですが、「なるほどなあとは思うものの…」という印象ではありましたですね。こう言ってはなんですが、『土偶を読む』の著者が「こんなこと、思いついてしまいました。ほらほら、どうよどうよ!」と言っているのと似てもいるような。つまり、自身の気付きに関わる傍証はこれもあれもと挙げているものの、ちと観点が偏りすぎなのかも…と思えたりもしたものです。

 

ところで、日本語のルーツに関してはこれ以上深入りせずにおくとして、言葉に関わって文字の方。日本語を表記するためには漢字利用があって、これを万葉仮名(これの研究でも大野先生は知られておりますなあ)として取り入れたことは夙に知られたことながら、その名も元となった『万葉集』は奈良時代の末、8世紀の終わり頃の成立とされておりますなあ。ただし、万葉仮名という文字使用の形はもそっと以前の史料でも確認できるようですけれど、さらに以前、3世紀末の『魏志倭人伝』に見てとれるそうな。

 

 

この史料自体は清の乾隆帝の時代、18世紀に刊行された『魏志倭人伝』ですけれど、昔も今も当然に中国語で記されている中に、万葉仮名と思しき記載(漢字が使われているために日本語をそのまま記したのでありましょう)があるということでして、上の赤傍線部の「卑奴母離」の部分が和語「ひなもり」(「国境を守備する役職」であると)の万葉仮名表記ではないかと言われているようでありますよ。

 

日本では3世紀頃の文字史料は見つかっていないですけれど、上の中国史料に見られるように当時から万葉仮名、すなわち文字が使用されていたとなれば、もしかすると雄略天皇(研究上、ほぼほぼ実在したであろうと考えられている最初の天皇)以前の歴史に大きな発見がまだまだあるかも知れないということにもなりますなあ。

 

ところで万葉仮名は『古事記』にも用いられますけれど、もう一方の歴史書『日本書紀』は漢文で書かれておりますね。これは「慶長勅版」と言われる16世紀末の刊本ですけれど、ご覧のように(当然ながら)漢字だらけです。

 

 

それでも折り目の右側あたり、「素戔嗚尊」(スサノオ)という記載が見られますように固有名詞などは万葉仮名が使われていのは先に見た魏志倭人伝と同様ということになりましょうか。

 

と、上代までの部分ですでに長くなってきてますので端折ってまいりますが、中世の平安期から鎌倉・室町といった時代の日本語の変化をとりあえずざっくりと。展示解説にはこんなふうにありました。

平安時代後期には、平仮名で主に和語(日本語本来の言葉)を用いる和文と、漢文訓読文とを合わせた「和漢混交(混淆)文」の形式が生まれ、鎌倉時代、室町時代に武士の好みにあった力強い文体として発達しました。

文字の見た目そのものには何らの意味も持ち合わせないものと思いますけれど、漢字が武士好みの力強い文体と見られること自体、見た目のイメージというものが普遍的(?)にあるのだなと。角々している漢字の方が質実剛健なるところを想起させ、平仮名はそのまるっとしたようすが柔らかさ、ひいては女性性とのつながりをイメージさせたのかもしれませんですね。その点、カタカナは(漢字ほどではないにせよ)肩肘張ったようすがあって、やはり漢文との親和性の高さがうかがえるような。

中世にあたる鎌倉・室町時代は、古代日本語の語法や文法が変化していった時期にあたります。例えば、強調、疑問、反語を表す助詞(係助詞)が文中にあれば文末を連体形あるいは已然形で結ぶ古典の文法「係り結び」は、中世には使われなくなっていき、主語、目的語といった文の構造上の役割が助詞によって明示されるようになりました。

たびたび触れてはおりますが、言葉は変化するもの。このことはその時を生きる人たちが言葉を使う上での必然として変化したとすれば、それをとやかくは言えないわけで、同じことは現代にも言えることなのではありましょう(それでも、気になって仕方がないところが無いでは無いのですけれど…苦笑)。

 

と、さらにこの後は江戸、明治以降と解説は続くわけですが、いい加減ほどほどにしておくとして、ひとつだけ明治の風潮として知られる「言文一致体」のことを最後に触れておくといたしましょう。

 

「言文一致体」と言ってまず思い浮かぶのは二葉亭四迷でして、ずいぶん前に『浮雲』を読んだもののさっぱり覚えておらないもので「そうだったか…」と思うのは、文章が「~だ」で綴られているということで。現在ではわざわざ「言文一致体」と断ることはしなくとも、一般に綴られる文章は語り言葉と大きな差異はないでしょうけれど、書き言葉としてオーソドックスなのはいわゆる「です・ます調」ではなかろうかと。その「です・ます調」を取り入れたのは二葉亭でなくして、山田美妙だったようなのですなあ。

 

 

これは山田美妙が明治19年(1886年)に出した『嘲戒小説天狗』(展示の刊本は1935年)の一部ですけれど、見る限り「これ、です・ます調?」と。そのこと以上に、一文がやたらに長いこととか、文末が「だとか。」が終っていたりすることとか、あたかもjoshの文章であるかのようですなあ。自分の文体は、微妙調の言文一致体であったのか?!と、笑ってしまいましたですよ。ともあれ、紹介自体はつまみ食い的でしたが、それなりに楽しめた東洋文庫ミュージアムの企画展なのでありましたよ。