さてはて、6月下旬に訪ねた函館では(何度もの繰り返しで誠に恐縮ながら)とことん雨に振り込められてしまったですなあ。されど五稜郭から一時、ホテルに退避・休息をしておりましたが、ざざっと来たり小降りになったりというようすは相変わらず。それでも「まあ、もうひといき出かけてみますか…」と、今度は「元町・ベイエリア周遊号」というバスに乗り込んだのでありますよ。
雨模様は変わらずだものですから、元町散歩といいましてもそぞろ歩いていられる状況でもなさそうですので、元町の中心も中心と思しき元町公園までダイレクトに到達できるのは、このバスだけだったのですなあ。おかげで濡れは最小限で済んだものと思っておりますよ(やっぱりここでも函館バスの回し者ふうになってますが、帰りには市電も使いました。笑)。
ただし、通常の路線バスよりも観光ポイントに近接した停留場を巡って走る分、あちこち寄り道して(お天気的に誰も乗り降りしないロープウェイ山麓駅とか)行くので、元町あたりにたどり着くには結構時間が掛かるのですけれどね。まあ、車窓観光と考えれば「これもまたよきかな」とはなりましょう。
ともあれ、元町公園にたどり来ました。相変わらずの天気です。ところで、元町はその名のとおりに函館、でなくて箱館が開かれて最初の中枢地になったところでありますね。港から背後の山に向けてだらだらと登る斜面にへばりつくように広がっています。元町公園もまた階段状になっておりますな。でもって、山側を振り返りますと、かように異色な建物が。どうしてもそちらの方へと行ってしまいますなあ。
ガイドブックには必ず載っているこの建物、「旧函館区公会堂」ということですけれど、いち早く外国との窓の開かれた函館だけあって洋風建築なのはなるほどとして、彩色が独特でありますね。個人的には色覚に多少の差しさわりがありますので、そのせいで健常者の方とは異なる印象になるのかどうか。異彩の放ち方にいささか戸惑いを感じるところです。
と、公会堂を正面に見て左手方向に少々下りますと、洋風建築物がもうひとつ。こちらは「旧北海道庁函館支庁庁舎」であると。正しく元町が函館の中心地だったことを偲ぶ建物でもありますですね。
さすがに役所となりますと無難な色調を外観に採用しているわけですが、こちらの庁舎は明治42年(1909年)に、先の公会堂は(1910年)に完成したそうで、市民の集会所として民間人(豪商の類ですな)が資材を投じて建てる公会堂の方は「役所に優るものを!」てな気負いがあったのかもと思ってしまうところです。
元町公園のあたり、ぶぎょうの函館の中心地と言いましたですが、元々はここらには松前藩の番所が置かれ、幕府直轄となった際には箱館奉行所が(五稜郭に移るまで)置かれていたのだそうでありますよ。その名残はもはや「箱館奉行所跡」と書かれた標柱がひとつあるだけで…。
公園のところからは海へと直結する幅広の坂道がありまして、この基坂、前に港を望み、振り返れば函館山と、本来は絶景ポイントでもありましょうに、このときばかりは鉛色に包まれた印象ですなあ。
でもって、この基坂を下っていく右手にあるのが「旧イギリス領事館」。すでに営業は終わっている時間でしたけれど、ここでは英国風にアフタヌーン・ティーを楽しむこともできるとか。どうも函館には漁港のイメージも付いて回りますが、元町あたりは横浜と擬えるべきなのでありましょうね。
そのまま坂を下りきれば、市電の通る広い道に行き当たりますが、その交差点のところにはこれまた何らか由緒ありげな建物が立っておりましたよ。ガイドブックには相馬株式会社社屋とありまして、米穀商を皮切りにさまざまな事業を手掛けた相馬哲平という人物が興した会社であると。ちなみに、先ほど見た公会堂の建設に私財を投げうったのがこの人であったようですなあ。
もしかすると、この豪商の気概が役所の建物を凌ぐものを我らの手で!てなことで、あの公会堂が誕生したのかもしれませんですね。ともあれ、雨降りの中では気ままに元町周辺を散策することも叶いませんでしたが、基坂のあたりだけでもさまざまに異国情緒に溢れ、また歴史的な建物を垣間見ることが出来ました。つくづくお天気に恵まれていたならば…と、考えても詮無い思いを抱いてしまったのでありましたよ。
基坂を下りきるちょいと手前には、港の方に向いてこんな彫像が置かれてありました。「異国への夢」というタイトルのようですけれど、いち早く外国との窓口になった函館に馴染む作品でもあろうかと。ちなみにこの像が向いている港のあたりには、未だ海外渡航が禁じられていた元治元年(1864年)に日本を抜け出し米国に学んだ新島襄の渡航を表した碑が立っているそうな。これを見にはいけませんでしたが、「異国への夢」で新島の心のうちに触れた気にもなったものなのでありました。