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ぼくは占い師じゃない

易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。


私小説である。
私小説も物語だ。

お命ちょうだい」では、物語作者が物語に飲み込まれるリスクについてお話ししたが、私小説を読む場合、その物語にあえて飲み込まれる覚悟が必要だ。その私小説を「いい」と思える要素のうち、大部分は「共感」で成り立っているからである。

最初に見たときは、経緯は知らないけど、お堅い版元から出てるな……くらいで、いったん忘れていたが、その後どうしても気になって、めくら買いした(Amazon)。

喧嘩、親の離婚、万引き、シカト……思春期(とは限らないかも)の現実と同等か、あるいはそれ以上の基盤として併存するPCゲームの世界。

「どうしても気になる」ということは、その時点から「共感」は始まっているということである。


「共感、共振、共鳴」は魔法の基本動作原理。


ウロボロスは最初っから、 ほとんど飲み込まれてしまっていたのだ。


ネットで見つけた本だが、そもそもは、「ライフゲーム(セルが生まれたり死んだりするアレ)」について調べていたときに、タイプミスかなにかで引っ掛かった。

ゲームがライフなのか、ライフがゲームなのか。


この世に偶然はない。

エラーの中にこそ真意がある。

こういうのも魔法の原理ではなかろうか。


活字とカバーが青い理由は、最後まで読めば了解されるが、 「青」は、ぼくの中では魔法の色だ。



 

六十四卦のエッセイ(六十四卦夜話)も一応終わって、いよいよ書くことがなくなりつつある、今日この頃。

このブログも始めてから20年以上。

そうか。

このブログを始めたころ生まれた子は成人。(今は18でしたか)

いきおい、日常雑記が増えつつあります。

   ☆

最終学歴は社会人になってから入った専門学校。
その学校の同級生と10年ぶり以上に会いました。

楽しかったんですが、けっこうショックというか、改めて聞かされて、一寸びっくりしたのは、彼の母上と自分が同い年。

その学校では高校を卒業した若者たちとも机を並べて勉強していましたから、まあね。そういうこともあるか。

   ☆

今作ってる本(私家版。イベント売りしてます。リリース時期は未定です)の定義では(勝手な定義ですが)、魔法とは「目に見えないものすべて」であり、意識に変容をもたらす技術のことです。

時間は目には見えませんが、魔法ではありません。

時間はどちらかというと意識の産物で、魔法によって変容させられる側です。


【詩・エッセイ集。指南書ではありません。作成中。リリース時期未定。】

実のところ、時間なんてものは実在しないと思ってはいるんですが、以前にも似たようなことがあったなあ。

仕事関係の講習会で、若い女性の隣の席になって、いろいろ話しているうちに、その子のお父さんと同い年だということがわかって、なんか知らんけど、えらいガッカリした記憶が……

あ、いや、別に、その子をどうこうしようとか思っていたわけではありません。お父さんにぶっとばされたくはありませんからね。

   ☆

同級生と会ったその日はお酒も入りまして、上機嫌で帰宅。

朝、出がけに、駅でひっくりかえってるオジサン(ナリはマトモ)を見たそうで、かみさんに飲み過ぎるなと注意されました。

たいして効かなかったなあ、お土産のバームクーヘン。

魔法も、効果的に使うには条件があるようです。
 

カバー絵がステキだったので(その日は暑かった)、「プロだけが知っている小説の書き方(森沢明夫、飛鳥新社)」という本を買った。



 

内容はきわめてわかりやすく、きわめて実践的だ。2022年発行で24年には19刷。よく読まれている。


『キャラ設定がちゃんとできていれば、キャラは舞台で勝手に動きだす』のは本当である。


キャラに二人羽織のように入り込んで、動かすのではない。

作者はあくまでキャラの動きを「観察」するのに徹する、というくだりでは、創作の指南ではなく、アクティブ・イマジネーションの説明かと思った。


『疲れる』のもそのとおりで、作者の自我をしっかりと保ったまま、「観察」に徹するという「アクティブ」なステータスを終始維持しなければならないのは、非常に疲れる。

憑依(二人羽織)とか背後霊(観察)のような、書く側の視点には、ふつうに考えるよりも注意を払う必要がある。


物語を紡ぐことがアクティブイマジネーションなら、キャラと同化してしまうことは心理的な(ひいては肉体的な)リスクを負うことになるからだ。

イマジネーション(物語)とは、常にある程度距離をとっておくことが重要で、そうしておかないと、書き手は「物語」に飲み込まれてしまう。(関連記事→「旅する小舟」)

「若い小説家に宛てた手紙」の中でマリオ・バルガス・リョサは、物語を書きたいと思う衝動は、体内にサナダムシを飼っているようなものだと表現していた。

書きたい衝動にかられるということは、もちろん自分も飯を食わなければならない上に、サナダムシにも飯を食わさなければならず、その分、疲れる。そして異常に腹が減る。

餌をやらなかったり、飼い方をまちがえると、このサナダムシは、腸管から栄養を横取りするのみならず、宿主を食い始める。これが、リスクだ。


ウロボロスは、自分で自分をシッポから飲み込み始める。完全に飲み込まれてしまうと……そこにはもう、蛇もサナダムシも、いない。


単純に悲しい……というより、遣る瀬ない(いいよね。日本語)気持ちにさせられるような、作者が物語に飲み込まれてしまって、命を散らせてしまったような報道も、ここのところ、ちらほら聞く。

自死でなく病死であっても、実は、物語に飲み込まれてしまっていることも多いのではないかと思う。


たとえば、 物語を書くことに夢中になるあまり、肉体の保守管理が疎かになって体調を崩したりしたとすれば、立派に物語に飲み込まれかけているといえるだろう。


リスクの話はおいておくとして、「~小説の書き方」の中で、ささったのは、

「お金を取ろうが取るまいが、書いたものを読者に読んでもらうということは、それを読む時間という、読者の寿命を提供してもらうことだ」

というくだりだ(表現はちがったと思う)。

けだし。(池田晶子さんのマネ)

となると、ですね、物語に限った話ではなくて、このブログ記事だって同じこと。


というわけで、今回のこの記事も、このへんで、終わりにしましょう。


読んだ本はすぐ売ります。どこかで見かけたら、買ってみてください。創作をしている人は読んで損はないと思います。


サナダムシは、体が切れても、切れたところがまたアタマになります。気をつけましょう。


ブキミなお話で失礼しました。

このブログの記事と絵をまとめた本を作りました。

易の本です。

原文を書写しながら本文を書くのに4年(Essence of Iching)。

各卦に絵をつけましたが、この六十四枚の絵を描くのにその前の4年(六十四卦雑想)かかっています。

もちろん、ずっとそればかりやっていたわけではなく、期間としてということですが、その期間のちょっと前に義父が逝き、絵を描き始めてから父が逝き、経文の書写を始めてから母が逝き、義母が逝き、頼りにしていた先輩も逝ってしまいましたが、まあこれは……私事。

文と絵はこのブログに載っていますので、内容をご確認されたい向きは上記テーマのリンクからアーカイブをたどっていただければ幸いです。

テストショットができあがってきました。


【う~ん隷書体を使うと右から読みたくなるな】

290ページ余のボリューム。

厚さ約2センチ弱。

厚めの文庫本ですが余白が多いので読むのに苦労はしないと思います。中には短い詩で終わっちゃってるセクションもあります。


【汝、余白をおそれることなかれ】

本文は、ほぼ、「Essence of Iching」のテーマで書いていたエッセイのまま。
冒頭に数ページの「おことわり」「占いのやり方」と称するイントロと、最後に資料的な「補遺」と「あとがき」がついています。

とまあ、なんでもない構成の本ですが、実はいまだにちょっと悩んでいます。

この本いったいなんの本?

ぼくは占い師ではありません。
だもんで、少なくともこれは易の指南書じゃあない。
「術」を指南できるスキルも経験もないからです。

じゃ、なんなの?
これで占えるの?

占えるとは思います。

各セクションは、キーワードと絵、エッセイと 書写した原文から成っています。「占いのやり方」の説明に従ってサイコロをふれば、なんらか言葉とイメージは出てきます。


【キーワードと絵。剥卦】


そこから回答を導いても別にいいわけでして。

くわしくは「あとがき」に書きましたが、ぼくの易の先生は「最終的にはこの原文だけ見て占えるように」とおっしゃいました。


だから、読み下し文も、現代語訳もありません。
そいつらがあると、いつまでたってもそっちの方をみてしまうからです。

ついでにいうなら、彖伝も象伝もありません。卦の順番を除く、原文が周易以前のものだからです。


じゃあ純粋に、書写した原文だけでもいい……のですが、それじゃマジ、自分専用の覚え書きになってしまいます。

そこで、読み物としても楽しんでいただけるように、各易卦について自分が抱いている「イメージ」を絵や文にしてつけたと。

タイトルは「六十四卦夜話」としました。

鏡リュウジさんの著作、「占星術夜話」(関連記事→)のタイトルをパク……あ、いや、参考にしてつけたタイトルですが、「夜話」を広辞苑で引いてみると、こんなことが書いてあります。

「夜間にする談話。またはそれを筆記した書物。よばなし。転じて肩のこらない、軽い話」

あ、これいいな、と思いました。

そうなんだ、そういうことなんです。

易に絡んだ六十四本の軽いエッセイだと思っていただければ……

内容に特にモンダイがなければ、次回文フリにでも持って行ければと思います。お口に合うかどうかは、現物にてお確かめいただければ幸甚です。

サイコロつけます(予定)。

PS.
文学フリマ大阪13、抽選はナシになり、出店申込者全員出店OKとなりましたので、遊星出版も出店できることになりました。1500ブースだそうです(出版不況は文フリにはカンケーないみたい)。また後日お知らせします。
 

梅雨に入るちょっと手前。
用事があって北品川に行った。

折しも品川神社の例祭で、商店街は飾り付けの真っ最中。
初めて行く場所で、縁日だとは知らなかった。

「いってつ」という蕎麦屋に入った。



蕎麦を食うあんちゃんのイラストが看板。
箸袋にもその絵が描かれていた。



熱燗をひっかけながらも気になって、帰って調べてみたら地元の漫画家さんの桐村海丸さんという人が描いた絵だった。「とんがらし」という単行本が、ひとまわり以上昔に一冊きり出ただけのようだ。



新撰組以前の話だが、斬り合いも打ち首も描かれていない。
もちろん歴史(よく知らない)は背景ではある。

だけどまあ、そういうこっちゃなく……

たぶん、記憶に残るお囃子の響きと重なったのだろう。
読後感は、なんだかもの悲しかった。
 

彼がいっているのを聞いたかい
河を下ったら奴を売ってしまえ
彼等は僕をバカだといった
彼等は雨が降るともいった
けど彼等になにがわかる?



From "Steppin' Out" on ELO's album, Out of the Blue.

   ☆

船から降ろしてくれとたのんだ。
故郷の反対側の[岸|ジャングル]に放り出された。
ではご随意にと、悪意のままに。

正面の、向こう岸に渡りたい。

そこに帰る家がある。
さえぎる急流。

身ひとつで河に入る。

貴方は流される。
貴方は笑われる。

急流を突っ切ることはせず、
あえて流されながら、
少しだけ向こう岸に近づく。

少しだけ。

貴方は根気よくこれをくりかえした。

根気よく。

やがてなんとか向こう岸にたどりつく。
しかしそこは、はるかに下流。
また笑われる。

立ち上がり、歩き始める。
向こう岸を上流へと。

貴方は黙ったまま歩き続ける。

故郷へと向かって。

※オリジナルの歌詞では主人公が船を降りたいといったとは書かれていないが、その後、「君」に出会い、「君」の歌を聴く。歌詞は知っている気がしたが、旋律は滅茶苦茶でキーも外れていた……と続く。
 

前回記事ではタイトルの件がテーマでした。

ちょっとしたエッセイのつもりで、ブログとしては長文だったかと思いますが、この記事を打っている最中に、当のポメラが故障してしまいました。

以前の記事にも書きましたが、ポメラは発売当初からずっと使っています。自宅には数台の歴代ポメラがありますが、故障や不具合というのは一度だけ。それも軽微なトラブルがあっただけです。

まさにテーマそのもののことが、そのことを書いている最中に起こったということで……こういうのをシンクロニシティといいます。

ついでにいうと、連絡をくださったメーカーの方が、珍しいお名前の方でした。これも「ありえないことではないが、ふだんはあまりないこと」です。前回記事の「兆し」リストには入っていませんが。



【入院したポメラ。付属のステッカーなんか貼っちゃって、喜々として使っていた様子が丸出し。スイッチの抽選販売に当たった小学生と一緒】

あ。

内蔵メモリ初期化するの忘れてセンドバックに出しちゃった。
執筆中の次作の原稿が入っていますが……ま、いいか。
商業ベースにのってるモンでもないし。

 

多くの人はたったひとつきりの現実しかないと信じ込んでいるが実はそうではない。現実はミルフィーユのように薄い無数の[層|レイヤ]に分かれていて、そのレイヤ一枚一枚が独立した現実である。レイヤは現実を生きる各個人の分だけある。個人個人は、それぞれが別々のレイヤに住んでいる。

   ☆

手垢のついた例だが、水が入ったグラスがあって、このグラスの中の水を見て「こんなにたくさんある」と思うか、「これだけしかない」と思うかで、ふたつの[現実|レイヤ]があることになる。
もうひとつ例をあげれば、あなたが完全に没交渉にしたかつての友人、知人は、決してあなたの現実の層にあらわれることはない。あらわれたように見えたとしても、あなたはその人を以前のようには認識しない。

ミルフィーユの層どうしは完全に分離していて、層がちがえば完全に無関係というわけでもない。あるところでは分離して、あるところでは密着して、あるところでは重なりあって、またあるところでは融合してひとつの層を共有していたりもする。
しかも現実の層はミルフィーユの層のようにじっとしていない。常に流動している。ひどく食べにくいデザートなのだ。

この無数の[層|レイヤ]の広がりの中で一般に「ひとつだ」と信じられている領域が合意的現実であり(唯識でいう器世間。けだし、適切な述語である)この「合意的現実」こそバーチャルなのである。実態は個人個人別々の層の重なり合いの流れといったほうが正しい。

これら無数のレイヤのうち、特定の個人がどのようなレイヤに位置するかは、その個人の思考が忠実に反映される。いいかえれば、あなたはあなたの思ったとおりの世界に住んでいる。思考の傾向を変えれば、別のレイヤに乗りかえることができる(このようなお話に興味がある人はトランサーフィン関連の書籍((*1)(*2)など)を参照のこと。同著者による邦訳は過去にも何冊か出ているが、入手しづらくなってしまったので省略)。

   ☆

自分がいるレイヤが切りかわったどうかは、「兆し」を読むことによって判断することができるのではないか、というお話をしてみたい。

「兆し」とは新しいレイヤで新しい現実の流れが始まるという兆候、シルシであり、具体的にいえば「ありえないことではないが、ふだんはあまりないこと」である。
この定義をかみ砕くなら、「ふだん」というのが以前にいたレイヤで、「あまりないこと」が新しいレイヤでのイベントである。

乗りかえる前のレイヤと、乗りかえた後のレイヤの間には「距離」がある。
「ありえないことではないが」の意味は、極端に離れたレイヤに、いきなりジャンプはできないということだ。

水が入ったグラスの例でいえば「こんなにたくさんある」という[現実|レイヤ]と、「これだけしかない」という[現実|レイヤ]とは、レイヤとしては別だが、ものの観方がちがうだけで、その間の距離は小さく、ほとんど密着しているといってよい。

もうひとつの例である没交渉にした人物があなたの世界に二度とあらわれないというケースでは、その人物が位置するレイヤとあなたが位置するレイヤが、水の入ったグラスを観察するふたりがそれぞれ位置するレイヤ間の「距離」よりも、はるかに離れている。

念のため付け加えておくと、ふたりが通う学校、所属するクラス、勤め先が、べつだとか同じだとか、住まいが近いとか離れている、とかいうことではない。それは器世間、合意的現実における社会制度的あるいは、三次元空間的距離だ。そういった時空連続体内における物理感的、時空間感的な距離ではなく、レイヤとレイヤの間という形而上学的な「距離」が大きいのである。この「距離」が大きければ、たとえ隣の家に住んでいても、会わない人とは会わない。住んでいる「現実」がちがうからだ。

   ☆

仮説だが、「兆し」の性質を観察することによって、自分がもといたレイヤから、どのくらい離れたレイヤにジャンプしたのか、ある程度うかがい知ることができるのではないだろうか。くりかえすと、「兆し」とは「ありえないことではないが、ふだんはあまりないこと」である。
起きた[事象|イベント]の曖昧さの度合いは、乗り換えたレイヤ間の距離に相関しているのではないか。

ふたたび、水が入ったグラスの例をあげるなら「こんなにたくさんある」「これだけしかない」というレイヤは、きわめて主観的な感覚であり、どこがレイヤ間の分水嶺になるのか不明確で、ここでお話ししている仮説に沿って[現実|レイヤ]を乗りかえたのだ、とは[他人|ひと]対して説明しづらい。


他方、「あいつに会わなくなった」というレイヤと、「しょっちゅう一緒にいた」というレイヤが、それぞれが別の現実なのだということは、水の例よりも比較的容易に説明できる。
つまりこの例におけるレイヤ間の距離の方が、水の例におけるレイヤ間の距離よりも「大きい」「離れている」と考えられるのではないだろうか、という仮説である。

偶然にしろ意図的にしろ、レイヤを乗りかえた際に発生する「兆し」=「ありえないことではないが、ふだんはあまりないこと」を、たとえば、次の尺度に沿って観察することによって、もといたレイヤからどの程度離れたレイヤにジャンプしたか推測することができるかもしれない。

1=他人に説明できない。
2=他人に説明することはむずかしい。
3=まあまあ他人に説明できる。
4=他人に説明できる。
5=容易に他人に説明できる。

上のリストではジャンプした距離は1~5の五段階評価だ。数が大きいほどジャンプした距離が大きい。「ありえないことではないが、ふだんはあまりないこと」を主観的に認識したこと自体、たとえわずかでもレイヤ間の移動があったことを示すと仮定しているため、ミニマムは1だ。

0はない。

0は「そういうことはない」ふつうの状態を指す。
0というのはつまり、あなたはあなたの時間……人生ラインに沿って粛々と同一レイヤ上を移動している状態である。

   ☆

試みに実際に自分が経験した30の[兆し|サイン]を、上記五段階に分けてみた。

1(他人に説明できない)
・空に光るものをちらっと見る。
・ワンカット、ワンシーンのデジャヴを経験する。
・象徴的な夢を見る。
・見慣れた風景がいつもとちがって見える。
・珍しい形の雲を見る。
・診察券を拾う。

2(他人に説明することはむずかしい)
・誰かの言葉に癒やされる。
・誰かのTシャツに自分へのメッセージを見る。
・ベランダに落ちた一枚の鳥の羽を見つける。
・霊柩車を見る。
・だれもいないのに近くに人がいる気がする。
・線香の匂いがする。

3(まあまあ他人に説明できる)
・遠くの神社のお守りを拾う。
・宅配便が誤配される。
・老人に道をたずねられる
・めったに便りをくれない人から便り(手紙、はがき、メール、DM、SM、ファボ、コメント等々)がある。
・目にしたチラシの中に気になる講座をみつける。
・使っていた道具が壊れる、故障する(デジタル・ガジェットは反応しやすい)。

4(他人に説明できる)
・外国人に道をきかれ目的地まで案内する。
・スマホを忘れた見知らぬ女性に時間をたずねられる。
・100円玉を拾う。
・正面から歩いてきた男と、すれちがいざまに肩がぶつかる。
・[楽団員|オーケストラ]の会員証を拾う。
・本屋で目の前に本が落ちてくる。

5(容易に他人に説明できる)
・じゃれあって歩く男の子ふたりの上に飛んできたカラスが、くわえていたカップ麺の空容器を、ふたりの上に落とすのを見る。
・エスカレータ前で困っている老婦人の手を取り(先方が手を出してきた)、エスカレーターの終わりまで同行する。
・知らない誰かが、知らない誰かに宛てたハガキを拾う。
・人の死に目に会う。
・封筒に入った一万円札を拾う。
・目の前で人が倒れたので救急車を呼ぶ。

   ☆

定性的所感だが、距離が近いレイヤへの乗りかえはしょっちゅう起きていると思う。単純にいえば人生が長ければ長いほど、もといたレイヤからは少しずつ離れていくということだ。場合によっては逆に、年齢をいくら重ねてもレイヤ間の移動幅がさほど大きくない人生を送る人もいるだろう。この場合は「ふだんはあまりないこと」自体が、その人の人生にはあまり起きていないということになる。もちろんどちらがいい、わるいという話ではない。人生行路に優劣などない。

より意義のある調査にするには1~5における典型例をモデル化して、標準化されたイベントそれぞれの、単位期間中における「兆し」の出現頻度を測る必要がある。

とはいえ……

「典型例を標準化する」といってもむずかしい。たとえば、「モノを拾う」というイベントひとつとってみても、そもそも「モノを拾う」ことが「ふだんあまりない」ことかどうか人によって異なるだろうし、そういう文脈も含めて、どのような状況下で、いつ、どこで、なにを拾うかによって、他人に説明できる容易さはちがってくる。
「他人に説明できる容易さ」とは、要するにそのイベントが起こる珍しさであり、そこにはどうしても、それを語るもの、聴くものの主観が入り込む。

とはいえ……

物語は、おもしろいにこしたことはない。

とはいえ……

「おもしろさ」こそ、主観そのものではないだろうか。


……というようなお話、「おもしろ」かったでしょうか。

お楽しみいただけたならよかったのですが。

ご清聴ありがとうございました。

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(*1)「タフティ・ザ・プリステース 世界が変わる現実創造のメソッド」 ヴァジム・ゼランド 成瀬まゆみ モリモト七海 SBクリエイティブ 2023

(*2)「78日間トランサーフィン実践マニュアル 量子力学的に現実創造する方法」 ヴァジム・ゼランド 成瀬まゆみ モリモト七海 SBクリエイティブ 2025
 

よくいくコーヒー屋の近くに本屋がある。


アマゾンばっかしてると、そのうち本屋というものがなくなってしまいそうなので、ときどきそこで本を買う。

高野文子さんの「るきさん」が平積みなっていたので、思わず買ってしまった。



時代は古いが

(すげ。初出は結婚する前だ)

このふわふわ感がたまらない。

本は読むけど他人様の「作品」は、まず読まない。


読んでしまうと、これいいなあ~と思って、すぐマネしてしまうからである。

でもこの作品なら大丈夫。
絶対にマネできないからである。
 

カオス。
無秩序。あらゆる可能性。
リセット。白紙状態。
母体、マトリクス。

   ☆

すべての爻の陰陽が不正な状態にある。

前述の「秩序」と正反対の卦だ。秩序の卦を倒置(リバース)しても、陰陽反転(インバース)しても、上下卦を入れかえても、この卦の[象|かたち]になる。

つまり、秩序の卦からは最大限にかけはなれている。

秩序の卦を意識とするなら、この卦は、通常の意識からはまったく認識できない「なにか」だ。

すべてが「のびしろ」であり、起こることが予想できない。
裏を返せば「あらゆること」が起こる可能性がある。

そういう意味ではすべてのもの一切の母体でもある。

[母体|マトリクス]。

あらゆる事象は例外なく「ここ」から現れる。
そして再び「ここ」へともどっていく。
そもそも「それしかない」ところのもの。

宇宙の基盤である「混沌」と、それを経験する意識ともいえる「秩序」。このふたつの[視座|パースペクティブ]の間で、私たち人間複合体には、ありとあらゆることがゆるされている。

天地(乾坤)に始まって、最後から二番目が秩序、そしてこの混沌の象が六十四卦の最後に配置されたのは、意味のないことではないだろう。

こういって易は終わる。

煮てもいい。焼いてもいい。

この先は、どうぞご自由に。