カバー絵がステキだったので(その日は暑かった)、「プロだけが知っている小説の書き方(森沢明夫、飛鳥新社)」という本を買った。

内容はきわめてわかりやすく、きわめて実践的だ。2022年発行で24年には19刷。よく読まれている。
『キャラ設定がちゃんとできていれば、キャラは舞台で勝手に動きだす』のは本当である。
キャラに二人羽織のように入り込んで、動かすのではない。
作者はあくまでキャラの動きを「観察」するのに徹する、というくだりでは、創作の指南ではなく、アクティブ・イマジネーションの説明かと思った。
『疲れる』のもそのとおりで、作者の自我をしっかりと保ったまま、「観察」に徹するという「アクティブ」なステータスを終始維持しなければならないのは、非常に疲れる。
憑依(二人羽織)とか背後霊(観察)のような、書く側の視点には、ふつうに考えるよりも注意を払う必要がある。
物語を紡ぐことがアクティブイマジネーションなら、キャラと同化してしまうことは心理的な(ひいては肉体的な)リスクを負うことになるからだ。
イマジネーション(物語)とは、常にある程度距離をとっておくことが重要で、そうしておかないと、書き手は「物語」に飲み込まれてしまう。(関連記事→「旅する小舟」)
「若い小説家に宛てた手紙」の中でマリオ・バルガス・リョサは、物語を書きたいと思う衝動は、体内にサナダムシを飼っているようなものだと表現していた。
書きたい衝動にかられるということは、もちろん自分も飯を食わなければならない上に、サナダムシにも飯を食わさなければならず、その分、疲れる。そして異常に腹が減る。
餌をやらなかったり、飼い方をまちがえると、このサナダムシは、腸管から栄養を横取りするのみならず、宿主を食い始める。これが、リスクだ。
ウロボロスは、自分で自分をシッポから飲み込み始める。完全に飲み込まれてしまうと……そこにはもう、蛇もサナダムシも、いない。
単純に悲しい……というより、遣る瀬ない(いいよね。日本語)気持ちにさせられるような、作者が物語に飲み込まれてしまって、命を散らせてしまったような報道も、ここのところ、ちらほら聞く。
自死でなく病死であっても、実は、物語に飲み込まれてしまっていることも多いのではないかと思う。
たとえば、 物語を書くことに夢中になるあまり、肉体の保守管理が疎かになって体調を崩したりしたとすれば、立派に物語に飲み込まれかけているといえるだろう。
リスクの話はおいておくとして、「~小説の書き方」の中で、ささったのは、
「お金を取ろうが取るまいが、書いたものを読者に読んでもらうということは、それを読む時間という、読者の寿命を提供してもらうことだ」
というくだりだ(表現はちがったと思う)。
けだし。(池田晶子さんのマネ)
となると、ですね、物語に限った話ではなくて、このブログ記事だって同じこと。
というわけで、今回のこの記事も、このへんで、終わりにしましょう。
読んだ本はすぐ売ります。どこかで見かけたら、買ってみてください。創作をしている人は読んで損はないと思います。
サナダムシは、体が切れても、切れたところがまたアタマになります。気をつけましょう。
ブキミなお話で失礼しました。