旅する小舟―アクティブ・イマジネーション=能動的想像法 | ぼくは占い師じゃない

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易経という中国の古典、ウラナイの書を
使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう!
というただそれだけのブログ……
だったんですが、
最近はまた淡々と経文に向かっております。

(*1)
無意識と出会う
ユング派のイメージ療法
―アクティヴ・イマジネーションの理論と実践1

(*2)
成長する心
ユング派のイメージ療法
―アクティヴ・イマジネーションの理論と実践 2

(*3)
元型的イメージとの対話
ユング派のイメージ療法
―アクティヴ・イマジネーションの理論と実践 3

(*4)
ユング的悩み解消術
―実践!モバイル・イマジネーション

(*1)~(*3):トランスビュー
(*4):平凡社新書601

   ☆

のっけから、書名の羅列で恐縮だが、いずれも私家版のコピー本「風と羅針盤」を書き終えた頃に読んだ本だ。
著者は老松克博氏という阪大の先生でユング派の臨床家である。

周知のようにユング心理学と易との関係は深い。

ではあるけれども、ぼく自身は、元型とか集合的無意識とかの概念のアウトラインをなんとなく知っているだけで、ユングの著作もあまりまともに読んだこともなかった。

上記の本を読むことになったのは、古本屋でみつけた「エイリアンの夜明け(角川春樹事務所)」、「ユング―地下の大王(河出書房新社)」(いずれもコリン・ウィルソン)を読んだのがきっかけだった。

ユングは、無意識を探求するツールとして、アクティブ・イマジネーション=能動的想像法という手法を主にもちいていたらしい。
手持ちの本でいうと、「オカルトの心理学(1989サイマル出版)」に収録されている「霊への信仰」という論文にも「30年以上用いている」と書かれている。

ところが、ユング自身は具体的なそのやり方というのは著作としてはほとんど残さなかったらしく、コリン・ウィルソンの「ユング―地下の大王」でも、そのことに関して、半ば嘆きととれる表現とともにふれられている。「ユング―地下の大王」では、巻末に付録としてその方法の概説がのせられているが、手法の説明としてはやはり不充分な感は否めない。

気になって調べていたら、(*1)~(*4)の本に行き当たった。

最初に読んだのは「ユング的悩み解決法(*4)」だった。

一般向けの本で、この本には(*1)~(*3)および、「サトルボディのユング心理学(同著者、トランスビュー)」のエッセンスが凝縮されている。
もし、アクティブ・イマジネーションにご興味をもたれるのなら、この本を最初に読むことをお勧めする。これを読めばとりあえずアクティブ・イマジネーションを行ってみることはできるからだ(この本では手順を簡略化して「モバイル・イマジネーション」と呼ばれている)。

「やってみることができる」ということはきわめて重要である。

あたりまえのことだが、やり方がわからなければできないし、とくにこういう実践的な領域については、やってみなければわからないことだらけだからだ。

易もおなじである。占的を設定して、サイを振って、解釈してみなければ、要は、システムを「使ってみなければ」、いくら抽象的な理屈をこねくりまわしても、それより先にはいけない。

このような「実践の領域」に関することを明文化して、それを読めば完全に伝わるドキュメントを残すのは……おそらく不可能である。
ピンでとめられて標本にされたチョウは、生きて、ライブで飛んでいるチョウではないからだ。

誤解されてうまく伝わらないことがあるのはもとより、弊害をもたらすことすらあるだろう。ユングはそれをおそれてその手法をドキュメントとして残すことにあまり積極的ではなかったらしい。

しかし、その手法を伝えることに、誤解・弊害をおぎなってあまりある価値と意義があるとその著者が確信し、かつそれに、書こう・残そうという情熱がともなったたときにのみ、こうした希有な著作は生まれる。

書くと決めたのなら、誤解されるのをおそれずに、できる範囲で極力、明晰・明確に書かなければならない。この意識的な態度がアクティブ・イマジネーションの「アクティブ」であるということである。
ヴィパサナー瞑想をやったことがある人ならわかるかもしれない。極端にいえば逐一サティが入っていなければならないのである。

これは疲れる。多大なエネルギーを消耗する作業だ。

逆に、ココロもクルマもオートマチック(パッシヴ)はラクである。

どう評価するかは人それぞれだが、記録に残されている歴史、そして現在ぼくらが暮らしている社会は、みんなでそのオートマチックにまかせてきた結果だ。

老松氏の著作は(若干の心理学用語をのぞけば)具体的でわかりやすい。明晰であろうとしすぎて、つばぜり合いのような緊張感が全体的にみなぎっているようにも感じるが、誤解・弊害をミニマムにおさえようとするのであれば、それぐらいでちょうどいいのかもしれない。

ユングのモデルによれば、普段わたしたちが自分であると認識している領域はごくごく限られていて、それはまさに大海に浮かぶケシ粒程度の小舟のようなもので……

大海はいわゆる無意識であり普段思っているよりもはるかに広大な自分の中で共存している「他人」だ。

小舟は常に大海のうねりに翻弄されている。
この小舟の造りがしっかりしていないと、すぐに浸水し、あっと言う間に沈没してしまう。無意識に飲み込まれてしまう。

このモデルでは、自分というものの大半を占める実体である無意識は、この小舟=自我を通じて物理的な次元と接触している。

そんなわけで、小さくても無意識にとっては大切な舟なのだが、自我がしっかりしていないと、アクティブ・イマジネーションを実践しても、元も子もなくなってしまうというのだ。

「自我がしっかりしている」とはワガママということではなくて、人格的に成熟しているということだ。
ことさら立派である必要はないが、経済的に自立し、まっとうに社会生活を営み、社会的責任を果たしていることがひとつの指標になるだろう。

必然的にある程度年齢を重ねていたほうがいいということになるが、年齢と人格の成熟度は必ずしも相関しない。
ぼくのように、とるにたらないことにハラをたててみたり、おちこんでみたり、いともカンタンに白日夢に飲み込まれたりで、しょっちゅう自分を見失っているようでは、いささか心もとないのである。

それでも舟をこぎだしてみようかとは思っている。

なんのためにそんなことをするかといえば、ユングの言葉でいえば「個性化」をはかるためだ。ひとことでいうなら「個性化」はばらばらなものを統合することである。

ところがここに矛盾がよこたわっている。

人間は本来、多重的、多層的、複合的(そして期間限定的な)存在だからだ。もしこれが完全に統合されたとすると、その存在は「人間」ではなくなってしまう。
つまり、人間でありつづける限り「個性化」には決して到達しえない。
ではなぜ到達しえないと最初からわかっているものをめざそうとするのだろうか。

いまのところは、こんなふうに思っている。

「個性化」の完成はおそらくめざす場所ではなく、ひとつの指標なのだ(易システムでは8パターンある先天大成卦がそのシンボル。参考→「魂のテンプレートから、ただのテンプレートへ」の「N」」)。

丘をいく旅人が見上げる北極星。
沖を行く舟がたよりにする灯台。

しかし、

旅人の行き先は北極星ではない。
舟の行き先は灯台ではない。

では、旅人は、舟は、どこをめざしているのだろうか。

それはわからない。

しかし、わからないからこそ、
旅に、航海に、出るのではなかろうか。

そんなふうに思う。