旅行。
実際にこの身体を別の場所へ持っていく、あの旅行である。
そんな数少ない旅行で、飛行機の窓から晴れた海を見おろしたことがある。
海面はどこまでも陽光に輝き、水平線ははるか彼方で天界と混じり合い、明け方の夢のようにかすんでいた。
あの水面で舟にでも揺られていたら、さぞや気持ちがいいにちがいない。
そんな静かな海である。
まさにその大海原に、小舟が波に揺られている。
飛行機の窓からみおろす小舟は小さなシミにしかみえない。
かろうじて舟とわかる程度。
あなたの自我だ。
「旅する小舟―アクティブ・イマジネーション=能動的想像法」では、無意識を大海にたとえたが、この大海はその無意識だ。
にわかには信じがたいが、この広大な海もあなた(自我)のあずかり知らない「あなた」なのである。
レムの名作に「ソラリスの陽のもとに」というSF小説がある。
惑星ソラリスの海は無意識の海にそっくりだ。
言語を持っている。
コミュニケーションをとりたいという強い意志もある。
それはまちがいない。
しかしその表現は、小舟に乗っているあなたからすれば、まったくもって異質であり、海の反応は、それが「反応」であるかどうかわからない位チンプンカンプンなのだ。
レムのお話では、惑星ソラリスの「海」自体がエイリアンということになるのだろうが、ぼくらはそのエイリアン、少なくともその一部を、各々自分の中にかかえているのである。
易システムの言語は、ぼくらが普段使っている言語と、この大海の言語、おそらくは「イメージ」の……たぶんそのちょうど中間あたりにある。
以前のブログでも紹介させていただいたが、「ユング的悩み解消術―実践!モバイル・イマジネーション」を読んでいて、印象にのこった図版がある。
それは「セルフ」という元型中の元型をコアとした円形の図版で、次のようなものである。

【心の構造(「ユング的悩み解消術」老松克博著 平凡社2011年より)】
これのなにが印象的なの?
と思われるかもしれないが、ユング的な心の図では「波」の図が一般的だと思っていた。海があり波がありその波の先っぽが各個の自我であり、下の方ではみんなつながっている……という、あのオーソドックスな絵しか知らなかったので、円の図が新鮮に観えたのである。

もうひとつ印象的だった理由は、この同心円型のダイヤグラムは、ツイストペア・ホイールと大変よく似ているように想えたことだ。

ツイストペア・ホイールは、一定のルールで六十四卦を環状に並べたダイヤグラムで、「易システム・ハンドブック
このホイールはいくつかの観方ができるが、中心から周辺部へと向かう方向(スポーク)は、微細な根本原理が粗大な森羅万象へとあらわれてくる過程を表現している。
中心で生じた微細なゆらぎはいくつかの段階を経て、最終的に目に見える日常となって私たちの眼前にたちあらわれる。
それはまるで海の一部それ自体が重さと粗さをともないつつ、底なしの深海かから浮かび上がってきて波に揺られる小舟となり、さらにその小舟に乗るあなたという物理的な身体に凝っていくプロセスにも似ている。
小舟とあなたの身体は、無意識の海が物理次元にのばした触手、老松氏の表現でいえば全権大使なのである。
実のところ円いものはなんでもツイストペア・ホイールに似ているともいえるので、ちょっと牽強付会かもしれないが、「ユング的悩み解消術」における「心の構造」図と、ツイストペア・ホイールの対応をとるとしたら次のようになるだろうか。

テキストで書けば、
【TPホイール】------------------【心の構造】
リム48卦上卦-------------------意識(自我)
リム48卦下卦-------------------無意識(個人的無意識)
ファウンデーション-------------無意識(集合的無意識)
先天図レベル-------------------諸元型(集合的無意識)
四象レベル---------------------セルフ、中心の元型(集合的無意識)
両儀レベル---------------------セルフ、中心の元型(集合的無意識)
中心---------------------------セルフ、中心の元型(集合的無意識)
といったところ。
外側からたどってみよう。
ツイストペア・ホイールを外側から中心へとたどるこの方向は、ぼくらが普段自覚している粗大な日常生活から、その元因である微細な領域へと降りてゆくことである。
○ リム
周辺部にある48の大成卦は、個人であり、日常生活における事象であり、見て触って感じることのできる物理的な次元である。日常的な時間はこのレベルにある。この領域が小舟だ。
ファウンデーションから中心までの広大な領域には通常の意味での時間はない。この領域が「海」だ。
○ ファウンデーション
先天大成卦と純卦からなるこの領域は、集合的無意識に相当する。
先天大成卦は個性化がなしとげられた個人の象徴で、ツイストペア・ホイール上では8パターンある。
今回のこの記事では大成卦はひとりの人間と観たてているが、人間であるということと、個性化がなしとげられるということの間には根本的なジレンマがある。それは「旅する小舟」に書いたとおりだ。
純卦は元型イメージである。
元型ではない。
よく言われる「老賢者」だとか「父」「母」だとかいうのは、元型が誘発するイメージ、元型イメージであり、元型そのものではない。
○ 先天図
ファウンデーションのレベルのさらに内側は先天図レベルである。
先天図は八卦を数理に従って配列したダイヤグラムだ。
八卦は元型レベルに相当する(*1)が、元型そのものは決して直接知覚することはできない。
意識から観るとイメージは無意識の言語だが、この言語には因果関係も、時系列的な脈絡もない。ソラリスの海の所行やぼくらが普段みる夢が支離滅裂に思えるのはそのためだ。だが、意識が元型を識る手段はこの「イメージという言語」しかないのである。
というわけで、八卦は元型そのものではない。
八卦も元型イメージのひとつということになるのだが、これは元型は8種類しかないということを意味しているのでもない。
8とか4とか二倍進数があらわれるのは易システムの特性である。
陰と陽という「2」つを基調としている易という言語では、そういうパターンになるというだけの話で、元型自体は集合的無意識のレベルに「無数に」潜むイメージまたは衝動という結晶の種である。
とはいえ、「心の構造」の図にある「諸元型」の円も8個あるのはおもしろい。老松氏はなにかを意図して諸元型の円を8個描いたのだろうか。それとも単なる偶然だろうか。
○ 四象、両儀、そして中心
元型でさえ直接知覚することはできないというのに、さらにそれより深い言語化以前の層がこのレベルである。
周辺部から観て元型が神のごときものであるとするなら、それより深いこの海の底はどのように表現したらいいのだろうか。
いや、そもそも表現することなどできないのだろう。
セルフは元型の中の元型ともいわれるそうで、真我などともよばれるものにも相当するそうだ。
このレベルが間接的に夢などにあらわれるとそのイメージは神仏などの宗教的イメージになるという。
あるいはまったくとらえどころのない非常におおきななにか……
ただただ解釈できないという印象だけを残すとてつもなく偉大な得体の知れないなにかとして映る。
それがなにに似ているようにみえるかはその人の経験や知識、その人が属する社会的・文化的文脈による。
経験や、社会文化的文脈にまったくこれにひっかかる枠組みがなければ、把握不能だ。かすりもしない。認識されないのはもとより、おぼろな雰囲気として感じることすらできない。
こうなると存在しないのと同じだが、認識できようとできまいと、このレベルからの通奏低音のような影響は常に日常生活に影を落とす。
意識できなければ、ぼくらはいつまでたってもこの巨大な黒子に操られる人形でしかないことになる。
リムより中心に近い部分は程度の差こそあれ非個人的な領域である。したがって「時間」も「個人」も通常の意味で考えることはできない。
工業製品などの人工物は、もともとカタチはなく、まずはそれらを考えた人のアタマの中にあったイメージだったというのは、よくいわれる話だが、もう少し話をひろげて考えてもいいのではないだろうか。
今この世に存在するすべては、まずはイメージだった……というのはあまりに素朴な想いだろうか。
しかし、まず物質があり、物質がなければなにも存在できないと考えるのは物質至上主義にすぎるような気もする。物質より前に心/ポテンシャルがあってもいいのではないか。
物質にはかならず寿命がある。
寿命があるということは生と死というリズムがあるということだ。寿命、それにともなう生死という現象は、リム・レベル特有の属性である。海のそれより深いところにいくと、個人(分節(*1))というフレームはますます希薄になっていく。
自我は、リムでそうであったようには、自身の構造を保っていることがむずかしくなる。
潜れば潜るほど、寿命=生死の概念も薄らいでいく。
ついには海=無意識に、死はなくなる。
死がなければ生もない。
死がないなら不死という概念もない。
すべては、おそらくは物質をも含むすべては、この深く、底なしで、かぎりなく女性的な、「玄牝の門」からたちあらわれてくるのだ。
戦争も、技術も、文化文明も、自我も。
そしてたぶん、朝食の味噌汁も。
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(*1)「意識の形而上学」 井筒俊彦 岩波文庫
(この著作においても、「八卦」は元型レベルの象徴としてあつかわれている)