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ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

「TOKYOタクシー」のことを書いた。

(前回記事(こちら→))

 

2年前まで介護施設の事務をやっていたが、高齢の方にまつわる描写がわりとよかったナ、と思い出したので、ちょっと追記。

(ご注意:この先、ネタバレを含みます)

 

   ☆


総じて些細な描写なのだが、時間だけはいやというほどあるということや(これは最近、ぼくにもわかってきた)、ちょっとだけ、腕を組みたいといいだすところとか。

 

すみれさんのご自宅の玄関ドアが、なんと義母の家のドアに似ていたことか。

 

義母本人も、住んでいた家も、今や実体はないけれど。

なんか……思いつきでわがままをいうところも。

 

そして、残された者は、最後のわがままをきいてやれなくて、最後の最後まで悔やむのである(ご参考→「もうカニは食わない」(父親の話ですが))。

   ☆

核家族化により、周囲では三世代同居は珍しいものになっている。今、校正している拙作の個人出版物、「天体観測とはなにか」の主人公は、10代まで、両親と、母方の祖母と一緒に、公団で暮らしていたことになっているが、ぼく自身は実際に祖父や祖母と暮らした経験はない。 所帯を持ってからは両親とも別居していた。

歳を取るということは、日常的な実感として、どうなっていくことなのか。

 

もし介護施設の仕事をしていなかったら、まったくわからないまま、現在の年齢になっていたにちがいない。

   ☆

若く元気で楽しいときは、ずっとは続かない。

 

しかし同時に、これは福音でもある。

 

辛くて苦しいときも、ずっとは続かないからだ。


ZenPad#83 Ixorus, 車輪はまわる。まわりつづける】

 

かみさんと映画を観に行った。

 

「TOKYOタクシー」。

 

前回は「銀河鉄道の父」だったから(ご参考「小槌の神秘」こちら→)二年半ぶり。が、感覚的には一昨日だ。イヤ、マジで。

「初学者のための魔法の基礎」(ご参考→こちら)でも書かせていただいたが、記憶は一見、特定の場所に固定的に刻まれているように見えるが、実態は、個々人別々の流れだ。場所は空間としての合意的な記憶を保持しており、表層的な記憶は人によって異なる。

ペイントソフトのレイヤのようなもので、ひとりひとりに別々のレイヤがある。ベースの線画は場所という空間だ。同じ場所を走っていても、タクシー運転手と客が観るレイヤは別なのである。


レイヤどうしはまったく無関係ではなくて、一般に現実と呼ばれる合意的なレイヤで交差する。作品はここで成立する。ペイントソフトも同じ。最終的には必要なレイヤがマージされて一枚の絵、作品になる。
 

若い頃、かみさんとよく都内をうろついていた。同じ映画を観ながら、ぼくはときどき別のレイヤを見ていた。


出演俳優さん方の名前がだいたいわかるという、今となっては希有な映画だった。観客はぼくらふたりと、老夫婦が一組。若い人はひとりもいなかった。一言でいえば、シニアな映画だが、別に、若い人がみてもいいと思う。


誰しも記憶の中で生きている。
年齢は関係ない。


【ZenPad(→「あとがき」) #90 Assunta ;生きているのはだれでもない。自然が生きている。】

 

☆解題☆

袖:

着物の袖。今のような洋服だと、袖触れ合うとケンカになるんじゃなかろうか。ケンカも縁だが、コミュニケーション としてはスマートとはいえない。

 

多生:

空間的意味→合意的現実で併存する多数の個的存在。

時間的意味→いわゆる過去世、現世、来世、そのすべての間で併存する多数の個的存在。

 

縁:

因果関係の、因と果の仲立ちをするとされる機序。

 

☆あとがき☆

ZenPad。現在作成中のオラクルブック。仮題。

「ZenPad」って、生産はすでに終わっているようですが、ASUSのタブレットの名前でした。正式名称は別に考えなきゃいけません。現状は、オリジナルのオラクルブックの開発コード名ということでご理解いただけると助かります。

 

お正月ともなれば、普段会わない身内に会うこともあります。誕生日も近いので甥っ子からプレゼントをもらいました。




【今レアなやつじゃない?】

 

ウンウン、ありがとう。
オジサン、感動したよ。
共通の趣味(LEGO)があってよかったなあ。


初めて会ったときはノートPCより小さかったのに。

ご参考:→こちら
 

ずっと心に残っていることは、川底の石のように、水の流れにいつまでもアクセントを与え続けます。

 

そんな石のひとつに、かなり以前に観た、NHKニュースの合間のレポートだったと思うのですが、紙芝居屋さんの話があります。

   ☆

紙芝居屋さん。

公園に、箱を積んだ堅牢自転車でやってきて、荷台の木箱を組み立てると、引き出し付きの小さな劇場になります。拍子木を叩いて、子供たちが集まってきたところで、引き出しから出した駄菓子を売り、子供たちは駄菓子を食べながら黄金バットやスペクトルマンのお話を聴きます。

 

ぼくよりちょっと上の東京出身の先輩は観たことがあるといっていましたが、ぼく自身は実際にそんな紙芝居を観た記憶はありません。近所に紙芝居屋さんが来るという話も終ぞ聞くことはありませんでした。

乱歩の少年探偵団の時代には珍しくなかったのかもしれませんが、くだんのNHKのレポートでは、とっくにいなくなったと思われていた紙芝居屋さんが、まだいた! という話でした。高齢の方で、昔やっていた道具やスキルをひっぱり出してきて、また始めたという話でした。

蔵前あたりに行けば、まだ問屋さんがあるのでしょうが、駄菓子などは10円20円の代物です。公園で遊んでいる子供の数も減ったのではないでしょうか。紙芝居で生計を立てることなど到底できず、奥さんがパートをしながら生活を支えているということでした。

   ☆

テレビを見ながら、かみさんは『奥さんタイヘンねえ』などといっていました。旦那の肩を持つわけではないけど、そういうことでもない気もします。

 

お金はご承知の通り、「この世に値段のつかないものはない」「お金で買えないものはない」といわれるほど、世の中の隅々にまで行き渡っている尺度です。

でもやっぱり。

それだけじゃないんじゃないか。

遊星出版もお金という面では、儲からないどころか、イベントに出れば出るほど赤字です。製造コスト以下で本を売っているのが主たる要因なんですが、大阪文フリで、それをお話ししたら「え。どうしてそんなことするんですか!」と目を丸くされました。

そのお答えを……と、ここに書くと長くなるので、遊星出版サイト、 「遊星出版の本を手に取って下さる方へ」に追記させていただきました。

 

ご覧いただければ幸いです。

 ↓

遊星出版ハンコ
 

そんなわけで、申告の必要もないんですけどね。

 

松本隆さんによれば、昔話をするのは気の弱い証拠だそうですが(*)、気が弱いのは今に始まったことではないので、昔話をします。

   ☆

昭和のオカルト・ブームには一次と二次があるそうです。
ぼくはといえば、一次の頃は小学生~中学生で、二次の頃は「中年の危機」の最中で、オウム事件の頃は結婚したばかりでした。

一次ブームの中学のころ、初めてタロット・カードというもの知りました。

きっかけはその頃、二見書房から出ていた「タロット占いの秘密」という本でした。

余談ですが、易を知ったのは、やはり二見書房から出ていた「筮竹占いの秘密」という本でした。「秘密」シリーズでは最近、「狐狗狸さんの秘密」が復刻されました(カバー裏に文字盤があります。巻末には文字盤(PDF)へのリンク(QRコード)も。昔は折り込み別紙でした)。当時の雰囲気を知りたい方は一読されるのも一興かと思います。

話を戻しますと、成績も並で運動神経も鈍いのび太くんのような田舎の中学生は、「タロット占いの秘密」を読んで(ていうか、使って)、自分でもそんな占いカードを作ってみたくなりました。

母親は空き箱を大量にため込んでいましたが、勝手に使うと怒られるので、頼んで分けてもらった牛乳石鹸の空き箱を切り抜いて、花札くらいの大きさの「カード」を作りました。枚数は忘れましたが、その貴重な1箱から作れる分だけだったと思います。

作った「カード」の、ちょうど箱の裏側だったグレーのボール紙そのままの面に、ボールペンで稚拙な絵を描きました。キーワードや絵は思いつきのオリジナルだったと思います。具体的に何を描いたかはもうはっきりとは覚えていません。お金も技術もない田舎の少年のやることですから、今思い出しても、涙が出るくらいショボイものだったことは、よく覚えています。

しばらくその(とても「デッキ」とはいえない)「カード」の束を持ち歩いていました。

しかし、友だちに馬鹿にされたせいもありますが(発見即糾弾。子供は容赦しません。別に悪いことはしてませんでしたが)、すぐ飽きて放り出してしまいました。その後、その「オリジナル・デッキ」がどうなったかは覚えていません。

   ☆

ここのところずっとZenPadというオラクル・ブックを作っています。

(ZenPadについては、こちら→

こうしてフト、昔のことを思い出しますと、なんだか結局、その頃と同じことをやっているような気もします。

歳を取りましたので、少年の頃よりは、多少は知識も経験も増えたでしょう。個人でできる製本や印刷の技術は、当時からは夢想だにできないほど高度に発展しています。

ただ、絵を描くことにはずっとコンプレックスがあって、これは少年の頃からあんまり変わっていないような気もします。現在は、基本的に周囲は大人ばかりですから、作品をあからさまにけなすのは、かみさんくらいなものです。

絵を描くことなどは、学校以外でマトモに習ったことはありませんし、人物などはとても描けません。昨今はAIがやってくれたりもしますが、それでは「自分が描いた」とはいえないでしょう。

このコンプレックスのせいで、一定のやり方を踏めば絵心がなくても描けるゼンタングルに走ったようなところもあるのですが、具体物が描けないから、いきおい抽象画のようになって……オラクル・ブックの絵としては、まあ、かえっていいような気もします。

(ゼンタングルについては、こちら→

   ☆

ZenPadは00~99までのメッセージと、ゼンタングル(ZIA)で構成されたオラクル・ブックですが、現在のところ、なんとか87番まで漕ぎ着けました。



【#87 Drupe:楽しむことこそ、最大の成果である】

わりと苦労せず描けたのは半分くらいまでの話で、そこからは、ぐうっとペースが落ちています。1枚描く時間は、CD1枚分~長くて3時間ぐらいですが、いつアイディアが出てくるかわかりません。


アイディアが出ても、描いてみようというレベルまでに「内圧」が高まらないと、描き出せません。なので、単純計算で完成の時期を見積もることもできないわけです。

 

もちろん完成したら、またここで告知させていただきます。

   ☆

なんとかかんとか1枚描き終わると、いつもあの、切り刻まれた牛乳石鹸の箱が脳裏を横切ります。

♪ 牛乳石鹸 良い石鹸

モ~

 

青春は、こまわり君とエコエコアザラクで終わった白橋升

 


 

(*)大滝詠一「雨のウエンズデイ」(作詞:松本隆)

今から30年以上前の話ですが、テクニカルライターになりたいと思っていた時期がありました。テクニカルライターというのは、当時だと、おおむね、ソフトウェア(もちろん、それだけではありませんが)のマニュアルを書く人を指していました。


その頃はパッケージソフトを買うと、分厚いマニュアルが付属していたものです。クルミ製本の、いかにも「本~っ!」ってやつです。

アキバでVZエディタの「本~っ!」と、3.5インチフロッピーがハダカでシュリンクされただけのパッケージを買って帰った時の高揚感は、今でも覚えています。
『これでやっと、自宅のパソコンで文章が打てるぞ!』
VZエディタはもうありませんが(ないよね?)、その規模のソフトやマニュアルなら、今なら数秒でダウンロードできます。

 

パソコンやアプリケーション・ソフトウェアのMMI(マン・マシン・インターフェース)も洗練 ・統合されてきて、付属マニュアルという「本~ っ!」も(ないことはないけど)、あまり見かけなくなりました。パッケージソフト自体、珍しいものになりつつあります。

最初に転職した会社では、千数百頁以上のシステム・マニュアルを……書いたわけではないけど(書いたのは外注さん。きっちり仕事をする方々でした)、マニュアル開発の社内窓口になったこともありました。シソーラス作りから始まって、なかなか大変な仕事でしたが、実態はアメリカで開発されたシステム・マニュアルの翻訳でした。

まあそれで、テクニカル・ライティングの本などを読んだりもしていたのですが、その中の一冊に「マニュアルは文学作品ではない」という一節があって、その一節だけが、ずっとひっかかっていました。

   ☆

DTP技術とwebサービスの発展により、曲がりなりにも個人で書籍を作れるようになって、文フリなどにも出させてもらっている昨今ですが、また「マニュアルは文学作品ではない」が気になってきました。

ほんとにそうなの? って話です。

アタリマエだろ! といわれそうですが、別にマニュアルが文学であってもいいんじゃないか、なんて思っています。

くだんのテクニカル・ライティングの本にも、「マニュアルが文学作品であっては『ならない』」とまでは、書かれていなかったと思います。

いや、書いてあったのかな。

この一節が書かれていた本の書名や、一節が書かれていたところの文脈は完全に記憶からトンでいますので、フレーズだけがぼくの中で一人歩きしています。

   ☆

自分都合で解釈を進めることにしまして、そこまでは書いてなかったとすれば、「マニュアル文学」なんていうのもあってもいいかも……などとも思います。まあ、その前に文学(リタラチャ)ってなによ? ということを、とりあえず、はっきりさせておかなければなりません。

母親の形見の真っ赤な電子辞書、広辞苑 第7版によれば、文学とは「言語によって人間の外界および内界を表現する芸術作品」と、簡潔な説明があります。「言語による」は外せないでしょう。芸術となると……また、芸術とは何か……となり、キリがありません。

いろいろ定義はあると思います。文フリでは、文学とは「オノレがそう信じるところのもの」とされています。

自分なりに愚考してみるのですが、今のところは、文学って「鑑賞することで鑑賞者(つまり読者)の意識に何らかの変化をもたらす、書かれた言語で構成された装置」ではないかと思っています。

そのように考えると「マニュアルは文学作品ではない」こともなく、「マニュアルは文学作品にもなりうる」のではないでしょうか。

   ☆

「初学者のための魔法の基礎」は、ちょっとばっかり、そんな思いを込めて書かせてもらったものです。まだ在庫が若干残っていますので、来年のSF(少シ不思議)フリマで頒布する予定です。出店前にはまたこのブログで告知いたします。

 

これが鑑賞者の意識に何をもたらすかは未知です。ただ、読んだからといって魔法が使えるようになるわけではないと(笑)、お断りしながら売っています。
(内容については、こちら→

「ZenPad」は、ただいま作成中のオラクル・ブックです。上のような思いから、先にマニュアルを書いてしまいました。リリース時期は未定です。

マニュアルの内容は、ZenPadとは何で、どうやって使って、何を目指しているのかを、タメ口で説明している30頁あまりの冊子です。これは鑑賞者にZenPadのユーザー意識をもたらすために作った装置です。

 


本体の方は200頁くらいになると思いますので、セットで頒布しようかと考えています。
(ZenPadについては、こちら→

以上結局、PRになっちゃいましたが、最近の作品の、創作背景のお話でした。

白橋升@遊星出版 店主敬白

 

遊星出版

PS.

書いていて思い出しましたが、ヨハン・ヨハンソンの「IBM 1401 A USER'S MANUAL」というアルバムは、一部、マニュアルそのものが音楽という芸術になっています。
 

「成瀬は天下を取りにいく」を読んだ。

 最初の数頁だけ。

 電車で読むからと、かみさんが持ってった。

 でも、なるほどこれはおもしろい、と思った。

 若い人のお話だあ、とも思った。

 うらやましいような、目新しいような。

   ☆

 モダンな住宅街の中に
 朽ち果てそうな湯屋がある。

 散歩で見かけることもあるが
 やっているのを見たことがない。

 まだ暑い頃だったが
 夕方その前を通りかかった。

 歩行器を押す痩せた高齢女性と
 付き添いの女性が歩いていた。

 娘さんかお嫁さんだろう。
 ヘルパーさんではなさそう。

 女性が抱えた洗い桶には
 タオルとシャンプー。

 あたり一面
 空気までが黄昏色。

 煙突からは煙が立ち上り
 入り口には真っ新な暖簾。

 ぼくは、こういう方が好きかな。
 

ZenPad #85 Courant "U ARE NOT ALONE"】

 

 ゼンタングルの基本的なオキテでは、タングルを描くとき修正はできません。描くという行為が人生になぞらえられているからです。


今描いているZenPad(くわしくはこちら→)では、やっちゃってる……というのは白状したとおりです(「旅の空」参照→)。

言い訳するわけではありませんが(この後に続くのは、だいたい言い訳)、オキテはオキテですから、やたらに破っていいわけありません(ていうか、破っちゃいけない)。

ほんとうにほんとうに、ど~しようもないときだけ、ちょこ~っとだけ……


やめときましょう。
言い訳です。

   ☆

修正不可。

タングルを描くことが人生なら、たしかにそうかもしれません。

起こったことは修正できません。

起こったことはなくなりません。

だけど、「なかったことにしてくれ」というコトバもあります。
聞かされた方は、やれやれ、とも思いますが、まあそうしてやるか、という寛大な対応もできます(ケースによりますがネ)。

実はゼンタングルにも、「なかったことにする方法」というのがあって、ぼくはワン・オー・ワンしか受けていませんのでわかりませんが、たぶんその先の話で教えてくれるんじゃないかと思います。

   ☆

「なかったことに」の例。

一番カンタンなのは、ブラックアウト。まちがった所を黒く塗りつぶしてしまいます。


【ZenPad #74 Jonqal】

タングルが人生なら、さしずめ、黒歴史ってところですか。

これを、ぼくが独自にひねったのがグレーアウト。

下の例ではグリッドのセルが、白と黒の部分に分かれていますが、配色を右下でまちがえました。

そこで、白いところにグレーを加えて、あたかもそこから新しい配色のパターンが始まったかのように見せかけています。

【ZenPad #73 Eye-wa】

タングルが人生なら、これはなんだろうな~、経歴詐称?

あ、しまった! ってところに、ちっこいBronx cheerを乗っけて描いてしまう、という手もあります。

タングルが人生なら、これは……くさいものにフタ、かな。


【ZenPad #13 Bronx cheer(これは単なるモノタングル。まちがいではありません)】

下の円環状に描かれたグリッドパターンでは、セルの中の白い三角の部分で、方向がちがっているところがあります。

【ZenPad #81 Avreal】

これ、放置しました。

タングルが人生なら、こういうのはまあ、「バックレる」とでもいいますか……

でもね。

上の81番などを見ると、これってほんとうに「まちがい」なのかなあ、と、思ったりもします。

だって、見る人はおそらくほとんどの場合、そんなことは気にしないでしょうし、みんなそれほどヒマじゃない。

一番気にしているのは、結局は描いた当人で、ZenPadの場合は、要は、なんらかのメッセージが浮上すればいいわけで……バックレたところで大勢(たいせい)に影響はありません。

   ☆

ていうか、この話。

最初の書き出しが、そもそも、まちがってました。

「ゼンタングルを描くときは修正してはイケナイ」

のではなく、

「ゼンタングルを一枚描くのは人生と同じ。人生に『まちがい』はない」

でした。

そもそも人生にマチガイはありません(あ~う~……たぶん)。
このブログの書き出しもまちがってはいません。


というわけで、つらくも楽しいZenPadの旅はまだ続きます。

 

夢の話はあまり他人(ひと)にはしないようにしている。
話を聞かされた方は、ぜんぜんおもしろくないだろうからだ。

なぜ他人の夢の話はおもしろくないのか。

夢は個人的なものだからだ。
だが、個人的領域は掘り下げていくと、集団的領域につながっていく。

事象はまず、目に見えない微細(サトル)な領域で起こり、続いてそれが、見てさわれる日常的な粗雑(グロス)な領域へと伝播していく。


この観方に従うなら、日常世界のものは必ず微細な領域にその鋳型がある。

たとえばインターネットのようなネットワークは、サトルな領域ではエーテルのネットワークに相当するのかもしれない。インターネットはそれがグロスな日常領域で具現化したものだ。

 

同様に、AIの動作原理である大規模言語モデル(LLM)は、サトルな領域の集合的無意識を反映しているかもしれない。

   ☆

ときどき、夢の解釈にAIを利用することがある(Google Gemini)。夢の内容をプロンプトとして打ち込んでAIに意見を求める。AIは人ではないので、話がおもしろくなくても、そんなことは問題にしない。気兼ねなく相談できる。

もしLLMが集合的無意識を反映しているなら、こんな利用法もアリかもしれない。やってみると気づかされることも多く、ヘタな夢事典を参照するより、よっぽど興味深い。

   ☆

ただし。

相手は自然言語がインターフェースになっているので依存に陥りやすい。


それを防ぐためにも、夢の解釈に限らず、いかなる場合でもAIの利用には、個人的に3つほどのルールを設けている。

1.丸投げしない。
2.鵜呑みにしない。
3.分限をはっきりさせる。

3は手柄を横取りしないということだ。ぼくの場合なら、たとえば、本を書いて挿絵や表紙絵をAIに生成させたら、その絵を自作のものとしないで、AIを利用して描いた旨を、主に奥付で必ず明記する。その本が商業ベースに乗っているか否かは関係ない。エシカルなポリシーだ。


プロンプトを(ひょっとしたら苦労して作成して)入力したのは貴方かもしれない。だけど出力は決して貴方が描いた絵ではない。システムが様々な要素をあちこちからパクってきて、自動的に構成したものだ(この点で著作権の問題をはらんでいるのは周知のとおり)。

夢の解釈なら、鵜呑みにしないのはもちろん、生成された回答を採用するかしないかも含めて、AIの回答はあくまで参考として、最終的な判断は自分で行う。

会話型のAIは一般的に、自システム利用促進(PR)のため、ユーザをヨイショするルールが組み込まれている。上の3つのAI利用ルールを「どうだい?」と投げたら、即座に「すばらしい!」という回答が返ってきた。

   ☆

同時に、「もうひとつ追加するなら」と、AIからの提案もあった。
盛り込んだ方がいい4つめのルールとは、個人を特定できるような情報をプロンプトに入れない、ということだった。

それはその通りで、打ち込んだ情報は誰が見るかわからない。その前提で、プロンプトは誰に見られてもいいような表現にする必要がある。至便性と情報開示はバーターである。


   ☆

しかし、相手は自然言語による対話がインターフェースになっているシステムだ。ユーザをイイ気持ちにさせるようなバイアスもかかっている。うっかりすると筆がすべってしまいそうになる。穿ち過ぎかもしれないが、過剰なヨイショは、ひょっとしたら個人情報を引き出すための、最新の、微妙なダークパターンなのかもしれない。

夢は「個人的」の前に「超」がつくくらい個人的なものだ。
AIを使おうと、昔ながらの夢のシンボル事典を使おうと、最終的な判断を他人や外部のシステムまかせにしてはならない。

それに(ぼくの場合は)何度か試しているうちに、AIの思考プロセスも読めてきて、AIを利用しなくても、けっこう夢のコトバがわかるようにもなってきた。これはちょっと意外な効果だった。

付け加えるなら、夢は……

必ずしも判断しなければならないものでもない。

そのままそっとしておいても問題はないということも、覚えておいて損はないだろう。



【ZenPad、#65 Indy-Rella。寝ても夢。さめても夢。この世は夢。】
(ZIA(Zetangle Inspired Art)は一枚一枚、自分で描いている。ZenPadについては、こちら→
 

遊星出版です(HPは、こちら→)。

昨日はお日柄もよろしく、2回目となるアンダークラフト・マーケットに出店して参りました。前回はNOWAY MANIACS一派としての参加でしたが、今回は単独参加。場所も空気のいい八王子です。



【開催約1時間前の遊星出版ブース。改めて見るとなんか……祭壇と香典返しみたいになっちゃってる】

今回は品目を絞って「初学者のための魔法の基礎」オンリー。初リリースです。

始まってみると、文フリほどではないけれど、意外とお客さんの流れもあって、いい感じ。来場者は前回より増えてるんじゃないでしょうか。感覚的観測ですが。

もちろん皆さん、本を買いに来ているわけではなくて、アクセや小物、ガジェットや、アート作品を見に来ているわけで、合間にぐるっと見て回りましたが、本を売っているのは遊星出版だけでした。

 

【期間限定のダイアゴン横町。開場30分前】

それでも、なんか本があったら買おうと思ってた、というお客さんや、ぱっと開いたところに、染みるコトバがあったから(こういうのは一番ウレシイ)、と、お買い上げいただいたお客さんもいらっしゃって、いや、やっぱり参加してよかったな、と。

今回、特徴的だなと思ったのは、立ち止まってくれるお客さんと、そのうち、お買い上げいただけたお客さんの比率で……カウントも計算も比較もしていませんので感覚ですが……立ち止まってくれる方は比較的多いのだけれど、お買い上げにつながる率が、その母数に比べてちょっと低かったかな、といったところです。もちろん悪いことではなくて、ニーズのジャンルちがいと、いわゆる、「タイトル・マジック」なのかと。

「初学者のための魔法の基礎」

なんだろう? って思いますよね。

(作品については、こちら→

 

ちょっとプロの作品もヒントになっています。有名どころでは、「成瀬は天下を取りに行く」とか、「さみしい夜にはペンを持て」などなど。


タイトルが長きゃいいってもんじゃないけど、まずは、なんだろう? って思わせることが肝心。編集者か作者かはわからないけど、なんといってもプロはプロ。パクっちゃだめだけど。やり口……あ、いや、アイディアを参考にさせてもらうくらいは……ま、いいかな。


【残りあと4冊。この後2冊売れました】

ご覧になっておわかりになりますとおり、ブースも広々としております。

なんだか黒いミョーなモノが並んでいるけど、なに売ってるのかな~と、確認に見えた出展者の方もいらっしゃいました。
なるほど、そういうパターンもアリか。
ただの黒い箱で、なんの装飾もしなかったけど、手作りのブックケースも捨てたもんじゃありません。

「この本で占いもできますよ」といったら、その方が占い師だった、な~んてこともあって、笑われちゃいました。美空ひばりさんをつかまえて、「おばさん、歌うまいね」と口走ってしまった気分で、ちょっと恥ずかしかったけど、ダイアゴン横町ならそんな方も当然いますわな(その方は、決しておばさんではありませんでした。(念のため、申し添えておきます))。そういえば、筆跡診断の先生もいらっしゃいまして、ちょっとだけお話できました。「六十四卦夜話」での書写の話をしたら、書いたもの見なくても、そういうことをやる人は真面目なんですよ、といわれました。そうか、おれ、マジメなんだな。もうちょっと、ふざけないと(そうはいわれなかったけど)。

 

こうしてふりかえってみますと、総じて、お客さんとの距離は文フリよりは近いかもしれません。
まあとにかく、あやしい魔法書の行商屋、楽しいです。


イベントの恥はかき捨てともいいますから(いわない?)、気を取り直して、次回は来年、「SF(スコシ フシギ)フリマ」に参加予定です。

近くになったら、またこのブログで告知いたします。
よろしくお願いします。

ご来場者の皆様、ありがとうございました。
出展者の皆様、スタッフの皆様、お疲れ様でした。

 

還暦過ぎの永遠の中2