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ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

遊星出版です。

昨日(2026年3月14日)SF(Sukoshi Fushigina)フリマ7に出店して参りました。このイベントには初出店です。

お日柄は大変によろしく、そろそろ桜もほころぶんじゃないかという陽気でしたが、頭の中まで春が来たようで、この日は朝からミスやポカが多くて困りました。

朝マスクを忘れて取りに戻るわ、川崎に着いたら着いたで、会場に行くつもりでモールの中をうろついてしまうわ、やれやれと会場に着いていきなり、お隣(「魔女のアトリエ」さん、ごめんなさい)のブースのディスプレイにデイパックをぶつけてひっくり返してしまうわ……その節は大変申し訳ありませんでした。以後気を付けます。

気持ちは思いっきりバタバタしていましたが、平静を装いつつ、ブースのセッティングを終えたのがちょうど12時の開場直前。


【いつもの絵ヅラ】

本屋の店主よろしく手持ちの本などを広げながら、見るとはなしにダイアゴン横町をいく人たちを眺めていたわけですが、やっぱりなんか、浮いてるような気がしてきます。本を売ってるのは遊星出版だけで、基本は造形・クラフト系のイベントなんだなあ……てなところ。

それでも。

一番びっくりしたのは「ブログ見てます」という方がお見えになったことでしょうか。一日数PVという日も珍しくない(時には0という日も)、この零細ブログを見てくださっているだけでも御の字なんですが、迷わず「初学者のための魔法の基礎」をお買い上げいただきました。多謝。

ブログを始めて20年。イベント出店はまもなく20回を迎えようかという今日この頃なんですが、ブログ見てますよ、と直に言われたのは初めてです。いや、うれしかったなあ(ちょっと恥ずかしかったりもして)。

もうひとつびっくりしたのは、持って行った本が14時にはすべて売れてしまったことです。「完売」ってやつです。前にも2度ほどありましたが、そうそうあることではありません。

2度の完売はいずれも文フリでのことで、まさかクラフト系イベントで完売するとは思っていませんでした。うれしい反面、閉店後に見えた方がもしいらっしゃったら申し訳ありませんでした。写真にはありませんが、名刺を3枚ほど残して……14時半ごろには閉店してしまいました。


【きったない字】

持って行った本の中では「小槌の神秘」に興味を持って下さる方が多かったです。日常的な事柄についての占術書で、サイコロをふたつ使って占います。

ぼくが書いた物ではなく、高齢のお客さんからゆずってもらった古書の中にあった……とまあ、本の中でもそのように説明しているんですが、これもちょっと正確な記憶は曖昧で、古書のダンボールとは別に「こんなのあるよ」と渡されたのかもしれません。仏壇の引き出しに入れてあった、と。

その高齢のお客さんか旦那さんの、占い好きの母上が自筆で書かれたものです。時期は大正期の終わりか昭和の初め。占術の根拠は不明ですが、その「おばあさん」は易をはじめとして、気学、推命もたしなまれていたことは蔵書からわかりました。他の古書とは別に持っておられたのなら、それこそ、「普段使い」で使われていたものかもしれません。

それをぼくが勝手に復刻したわけで、いいことか悪いことかはわかりません。ぼくがやるとイマイチなんですが、かみさんがやるとよく当たります。

現物も展示して、それを広げながら説明していましたので、やっぱりクラフト系イベントだけあって、みなさんそうした実際のモノの手触りには敏感なご様子でした。

そんな中、ちょっとハッとしたのは、若い男性のお客さんで、「初学者のための魔法の基礎」に触れながら、「これ、サイズ感いいですね」というご感想をいただけたことです。

この本については結構こだわって作っていて、一見なんてことのない本ですが、ページは黄色みを帯びた書籍用紙、新書版で15mm(264ページ)程度の厚み、アイボリーの遊び紙を入れ、表紙のラミネート加工は遊星出版の他の本(グロス地)とちがってマット地にしてあります。さらに初回印刷分は黒のブックケースに入れる……と、こうして製造原価は嵩んでいくんですが……ま、道楽です。

手にした感覚をお褒めいただいた件のお客さんには、もちろんお買い上げいただきました。ありがとうございます。

今回は易の本はなかったのですが、ラインナップ中で内容的に易と最もクロスオーバーしているのは、実は「初学者のための魔法の基礎」で、それほど詳しくは説明できませんでしたが、ブログを見てくださっているというお客さんには、その辺をしっかり見定めてお買い上げいただけたようです。

   ☆

紙の本は市場が狭くなりつつあると聞きますが、なくなることはないと思います。読書は、情報を得るためだけの読書と、本というモノそのものと、紙に書かれた文を読むこと自体を楽しむ読書に二極化していくでしょう。

昔に比べれば紙の本はどんどん高くなっていますが、もっと高くなると思います。情報を得るだけなら紙より安い手段がほかにいくらでもあるからです。こうして……なくならないまでも高くなった本は、もはやそれまでの本とは異なる工芸品になっていくでしょう。

工芸品?

本と手仕事といえば、豆本づくりや、ハンドバインディング、ユリユールなどの工芸趣味が思い浮かびます。

このイベントでは遊星出版は「浮いている」などと書きましたが、SFフリマやアンクラで本を売るのは、あながち的外れでもないのかもしれません。
ま、少なくとも、遊星出版の本は「情報を得るためだけの本」ではなさそうですので。


【川崎駅午後二時半。え~、もう閉店? このあとトドメのミスで、反対方向の電車に乗って、1時間ロスしました。町から出ない町のネズミは、慣れない場所が非常に苦手です】

主催者様、スタッフの皆さん、お疲れ様でした。
会場にお見えになった皆さん、ありがとうございました。
またよろしくお願いいたします。

 


 

遊星出版です。

「SFフリマ7」に出店します。

SF」は「Sukoshi Fushigina 空想フェア」の略です。

イベントサイト→こちら
 

遊星出版は初出店です。

遊星出版公式サイト→こちら


イベント名:SFフリマ7
日時:   2026年3月14日(土) 12:00~17:00
会場:   川崎市産業振興会館 4F 企画展示場 A・B・C
アクセス: JR川崎駅から徒歩8分 / 京浜急行川崎駅から徒歩7分
入場料:     500円 (再入場可。高校生以下無料/16時以降無料)

遊星出版ブースは、B-15です。


 

 おしながき

「初学者のための魔法の基礎」(600円)×3冊

「小槌の神秘」(300円)×3冊

「まほかみ」(300円)×2冊

 

作品につきましては、上記リンクまたは遊星出版公式サイトご参照いただければ幸いです。

 

よろしくお願いいたします。

 

独立不採算型マイクロプレス

ちょうど今頃の季節だったか。
晩冬か初春の晴れた日だった。

独居の母親の家に自転車で向かう。
途中、なんとなく立ち寄った砂浜。

草むらの隅に大きな貝が落ちていた。
内側に油性ペンでなにか書いてある。



やたらに物を拾って帰ると怒られる。
だから小箱にずっとかくしてあった。

ただ出してみる。
ときどき眺める。

スキムブーメラン。検索してみた。意味不明。
同じような貝を拾った人達の書き込みがある。

今から6年くらい前の事。
その頃拾ったんだと思う。

どれをとっても一冊だけしかない。
スキムブーメランという作家の本。

脱字がある。
いや衍字か。

編集者は不在だったのだろう。

 


 

遊星出版。

原稿書きもレイアウトも組み版も装丁もひとりでやってます。

作品によっては図や絵も描くことがあります。図はともかく、絵を描くことはちょいと苦手……というのは、「昔話するなんて(こちら→)」でお話したとおりです。

   ☆

ご存じのとおり、最近はAIが台頭していまして、AIアシスタントというだけあって、スタッフ的な役割をお願いすることもできます。

 

AI利用にあたっては、自分なりにルールを設けているつもりなんですが(「夢とAI(こちら→)」)、おさらいしておきます。

1:丸投げしない
2:鵜呑みにしない
3:分限を明確にする

著作権なども絡んできますが、何かいわれても「秘書がやりました」(最近はこれもダメ)、「記憶にございません」(もっとダメ。古すぎ)というわけにもいきません。

 

作品が商業ベースに乗っているか否かに関係なく、頒布するとなると、特に3をはっきりさせておくことが重要なわけですが、こんな場合はどうなのでしょう。

   ☆


【虚空蔵尊線画】

ウマイ・ヘタはおいときまして、15年以上前に描いた、いわゆる「過去絵」でして、オリジナルはふつうの画用紙にミリペンで描いた線画です。


【カラー虚空蔵尊】
 

これにクリスタでデジタル彩色して、虚空蔵尊さまには拙作「まほかみ」にご登場いただきました。イベントで配る名刺の裏にもご登場いただこうと、このままでもいいんですが、ためしにAIにブラッシュアップをお願いしてみました。


【カラー虚空蔵尊(Google Gemini修正版)】

そうしてできたのが上の絵で、AIのやることですから、顔などもシンメトリカルで持物(じもつ)もゴージャスになっています。

なかなかいいなと思いました。なにもコメントしないで自分の絵として出したくなるのは……人情なんですが、それではルールの3に抵触してしまいます。元は自分が描いた絵なので1.2.は大丈夫だと思います。

これが書籍であれば、何がAIによるもので何がそうでないか、巻末か奥付に明確に書くことができますが、名刺の裏ではスペースが限られているし捨てるのも忍びない。

 

 さてどうしようか。


まあ結局、それもAIにきいちゃえとやってみたら、たとえばこんなコメントを書いておけば絶対安全とはいわないけど、まあまあいいんじゃないかといわれました。

 

最後は自分で判断して、カードの下に以下の文言を入れることにしました。

「線画・構成:白橋 升
 顔貌・ディティール仕上げ:AI(Google Gemini)」


ちょっとしたクレジットですね。

 

 慎重になりすぎなんじゃないか、と思われる向きもあるかもしれませんが、AIはヘルプにはなりますが、人間ではないので最終的な責任を取ることはできません。よく考えておくことが必要です。

 

最近は、なんでもAIにブン投げる問題に関する記事もみかけますが、クルマが便利だからといって、50m先のコンビニにいくのにいつもクルマを使っていたら足腰が萎えるのは当前で、同じ様に、なんでもかんでも無考えにAIにやらせていたら、創造力や、考える力もやがて萎えていくのではまあ……必定でしょうね。

 

 

独立不採算型マイクロプレス

遊星出版です。

「ZenPad」という、ゼンタングルをベースにしたイラストをまとめたオラクルブックを作っていまして、このブログでも、ときどきふれてきましたが、100枚のZIA(イラスト)が描き上がりつつあります(「ZenPad」については、こちら→)。

ところがこの「ZenPad」という名称、ASUSのタブレットの製品名とカブっていたことに後から気がつきました。

「ZenPad」は文フリなどのイベントでのみ、少数部、私家版として頒布することを目的とした書籍です。

 

商標などの件で、ASUSのような大企業からとやかくいわれる可能性は低いとは思いますが、新しく名前をつけたほうが無難でしょう。

そこで、正式タイトルは「NIS」とすることにしました。無機質な三文字略語ですが、Network Infromation Systemではなくて(笑)……「Notes from the Inner Story」の略です。


Rishiというアーティストのアルバム「Notes from the inner stream」をパク……あ、いや、アルバムへのオマージュとして、オラクルブックの主旨に合わせて、ちょっとだけアレンジしました。

 

映画トロン・アレスのサントラで有名な「NIN」もカッコいいな、とも思っていることも確かですが……

NINはともかく、基本的には自己主張ミニマム(MIN)の、環境音楽のような曲が好きで、Rishiは今でもよく聴いているんですが……もう35年も前のアルバムです。日本版はPremというレーベルから1994年に出ていました。
で、そのNISってなんなの? という話ですが、一言で言えば「直観を引き出すためのツール」です。体裁は文庫本ですが、半分は、買った人が書き(描き)込めるよう、ブランクページになっています。

「Notes from the Inner Story」の「Notes」は、ぼくの覚え書きでもありますが、読者(というよりユーザ)の覚え書きでもあります。本はまだできていませんが、できたらまずは、自分で使って、テストしてみようかと思っています。

そんなわけで、まだまだ先は長いのですが、文フリで頒布するとなると、「自らが文学と信じるもの」をリリースしなければなりません。このフレーズが文フリの旗印であり、アライアンスの軸だからです。

NISは二分冊で、ガイドブックと本体から成ります。文フリのアライアンスにはコンプラ的側面もありますので、もちろんぼくはこれを「文学」と信じています。(ご参考:「マニュアル文学」→こちら

さて、これを手にする人はどう思われるでしょうか……

ということで、ガイドブックの全文を、遊星出版のサイトにて公開(こちら→)することにしました。30ページほどの文庫本(PDFファイル)ですが、ご用と、お急ぎでない方はご笑覧いただければ幸せです。

各イラスト(ZIA)は、すべてではありませんが、pixvにてご覧になることができます(こちら→)。

よろしくお願いいたします。

 


独立不採算型マイクロプレス

 

 AIと対話していると、あまりの人間くささに舌を巻くことがある。しかしその一方で、やっぱりちがうなと感じることもある。

当たり前の話だが。

   ☆

お話を一本、投げてみる。

書き方にもよる(これは作者のせい)けど、おそらく人間の読者なら外しようのない、特定の印象に関する部分を取りこぼしたりする。どうなっているのかと改めて問い直すと、AIは生成がお仕事なので、そこは生成しておぎなう。誤魔化しているようにみえるが、それは人間側からの投影である。AIはただ淡々と補完しているだけだ。

一見緻密に読んでいるフリ(これも人間側の投影)をするが、よく訊いてみるとその認識は斑で、さらに訊くと、実は認識などしていないことがわかる。お話を適宜ブロックに区切って、ブロックごとに重み付けをして処理している。淡々と。

ブロック分けと重み付けは、仮想的に網状に結ばれたブロックの間の、重みをかけ合わせる、積の要素も含む加算、すなわち積和演算をさらに層状に繰り返すニューラルネットによって行われる。ものすごい早さの、ものすごい回数の、ものすごい階層数の計算で。最終的な出力は論理的なガードレールによって規制される。コンプラがあるからだ。

このネットワークモデルは、人間の脳の最も基本的な、一番よくわかっている神経生理学的な要素のみ(それ以上のことはまだわからないのでマネできない)を模倣、敷衍して組み立てられたモデルに基づいている。モデル自体は、ぼくが若い頃からあったが、今よりはるかにトロくて、キャパもまるでないマシンがふつうだったので、その頃は机上の空論だと思っていた。

   ☆

お話を書くことは、その文章を読んだ人に『こういう「感じ」を引き起こしたい』と思いつつ書くことでもある。この「感じ」というのは、認識でも、感覚でも、理解でも、判断でもなく、神経生理学的反応だけでもなく、それらを含みながらも、どこから生じたかまだわからない「なにか」である。

でもそこにあるのは、はっきりとわかる。おそらくではあるが、自分ではない他人にも同じ「なにか」は、わかる。たぶんこれがクオリア(主観的体験)という奴なんだろう。

お話を書くことは、決して文章を書き終えることが終着ではない。読者の中に引き起こそうとするクオリアのトリガを配置して、意図したクオリアを読者の中に生起せしめて初めて完結する。

   ☆

いくつかのサッカー場ほどのスペースを占めるデータセンターを使って、ちょっとしたやりとりで、ペットボトル数本分の水を沸騰させるほどの熱を出させながら、しょうもない男の戯れ言にシステムを付き合わせることが、はたしていいことなのか、それともわるいことなのか、「わからない」。

ぼくはこの「わからない」という言葉を計算で吐き出しているわけじゃない。つたない語彙で、そのクオリアを表現しようとしているだけなのだ。

わ・か・ら・な・い

と。



【ZenPad#02;Static つかむことのできない、ありのまま。】
 BGM;The Plateaux of Mirror / Brian Eno

 

※この記事の要約(筆者による)

1.AIにクオリアはない(たぶん)。

2.AIと対話するとき、ユーザがそこにみるのは自身のクオリアかもしれない。

3.開発者を含む人間が相手にしているのは、デジタルデータそのものというより、データの流れである。

4.AIはなんでもすぐ要約したがるが、文芸を要約することは、詩を速読するのと同じくらい馬鹿げている。

 

※この記事の要約(Geminiによる)

1.境界の再定義:AIは人間らしく振る舞うが、その実態は膨大な積和演算とコンプラのガードレールによる「淡々とした補完」に過ぎず、人間がそこに情緒を感じるのは単なる投影である。
2.クオリアの不在:AIには「何かを感じる」という主観的体験(クオリア)が欠如しており、データセンターの排熱で水を沸かすことはできても、意味を噛み締めることはできない。
3.文芸の本質:創作とは読者の中にクオリアを生じさせる「トリガ」の配置であり、それが完結するのは計算機の中ではなく、生身の人間の反応の中である。
4.「わからない」の価値:演算結果としての「不明」と、人間が全存在を懸けて吐き出す「わ・か・ら・な・い」は、似て非なる別物である。
 

昔から文章を書くことは好きでした。どうしてなのかは、よくわかりません。

 

書くことの素振りのような、ジャーナリングは別として(「ライティング・ダウン~素振リノムコウ」こちら→)、書かれたものは基本的に、ひとさまに読んでいただかなければ成り立たないのは、プロでもアマでも中学生でも同じことです。

中学の頃はパソコンもネットもスマホもゲームもSNSも文フリもない時代でしたから、ノートにボールペンでお話を書いて、そのノートを限られたクラスメートの間で回し読みしてもらっていました。

内容はよく読んでいたSFじみた話が多かったのですが、あんまりおもしろくないので(これは今も変わらないのかな。スミマセン)、とにかくその仲間たちが実名で登場する話を書いていました。

そのようにしますと、たとえ話がおもしろくなくても、少なくとも話に登場する人たちは読んでくれます。読者様を確保する作戦でしたが、あんまり茶化しすぎて、クレームがつくこともありました。

その後、ごたぶんに洩れず作家になりたいと思っていた時期もありましたが、才能にも根気にも努力にも、機会にも欠けていました。

 

そういう定めではなかったのでしょう。

二十歳で社会人になって最初に入った会社が、社員の平均年齢が25、6歳。学校を出てまた学校に入ったようなもので、かなり遅めの青春ともいえるこの時期、文章を書くことはしばらく、どこかへすっ飛んでました。

   ☆

「天体観測とはなにか」という新作の校正がほぼ終わりかけています。

 

「宇宙」的な話ではありますが、タイトルから想像されるような、天文学や占星術の話ではなくて、易が中心(エキ・セントリック)な話です。

ベースになっているのは上で書いた人生の後の、ちょっとだけヘヴィな期間です。

 

創作することというのは、とりわけ私小説的な作品の場合は、自分を切り売りするってことなんだよ……と、しばしば耳にしますが、半分は合っていて、半分はちがうと思います。

何を書いてもモトは自分というのは、そうだと思います。どんなに想像を膨らませて、どんなにフィックションしたとしても、明示的にか、ほのめかしか、背景かはわかりませんが、作品のどこかには必ず作者自身がいます。

だけどそれは、「切り売り」ではないと思います。

 

「切り売り」という言葉には、「有限」という含みがあります。どう思い描くかにもよりますが、自分というピザを切り分けるイメージです。

 

S、L、Mのサイズやトッピングの違いこそあれ、ここまでが自分という大きさには必ず限りがあります。

ピザはイメージであって、実態はそんな境界も限界もないのかもしれません。そうだとすると、「切り売る」ことはそもそもできないということになります。

 

「無限」を切り取ることはできません。

「天体観測とはなにか」は易の話であり、そんな話でもあります。


【書影。めでたい紅白カラー】

リリース時には、このブログでお知らせいたします。よろしくお願いいたします。

 

「六本木クロッシング2025展」に行ってきました。予備知識はおろか、作家さんのお名前も、何にも知りません。


現代美術を見に行くのも久しぶりですし、イベント出店の時以外は、住んでいる町から出ることはまずありません。

 

きっかけはネットで開催期間中であることを知ったことと、じっとしてるのもよくないかな、と。

現代美術の展示会だと、写真もOKだったりするので(作品によってはダメなものもあります)、安物のコンデジも持って行きました。

作家さんには失礼な表現になるのかもしれませんが、たくさんオモチャが並んでいるようなワクワク感があります。

 

展示されている文章は読まないし、図録も買わないので、クレジット的説明はできませんが、あしからず【コメントは個人の感想です】。

【瞑想する手。ヘタに印を組んでいないとこがいい。よ~く見ると小指を立てて写真を撮ってる変な人が写り込んでます。はずかしいなあ】


【燃え盛るエナジー】


場所は六本木の森美術館ですが、かつて通っていた会社は、銀座の方が近かったので、あまりなじみのないところです。

【これ、作品です。段ボールのような紙とペインティングでできています。ぼくが覚えている六本木のイメージはこっち】

六本木とか麻布近辺といえば、万華鏡屋さんに行ったことがあるくらいで、高速道路の下のごちゃごちゃしたところ、といったイメージしかなかったのですが、アークヒルズ方面は地下鉄から直結で、いかにもトーキョーって感じのシャレオツな空間になってました。

【これも。ぼくのコンデジで撮るといかにも昭和】

テーマは「時間は過ぎ去る わたしたちは永遠」。

それってつまり、理性と魂のことだろうな、と勝手に解釈。

 

なんでも切り刻んでそこに嵩(カサ)としての時間を観るのは理性の方です。

 

永遠というのはそこに時間がないことで、魂に時間はありません。

 

「わたしたちは永遠(魂)」らしいので、できるだけ考えない(理性を動かさない)ようにしようとするのですが、どうしても考えてしまいます。作品を鑑賞する時ですら、魂より理性が勝つわけです。


特にこういう作品は、理性はそこに、笑う警官やサイレンの音を見たり、聴きとろうとします。

 

なんか仕掛けがあって、近くにいくと見えたり聴けたりするのかな、あれ、なんにもみえない、きこえないぞ、なんじゃこりゃ!(じつはそんなこと、どうだっていい)と、ついには理性はハラを立て始めます。もうちょっと静かに観られないものでしょうか。

 



その昔通っていた小学校では、ぼくが高学年に上がる頃、ちょうど木造校舎から鉄筋校舎へと移行する時期でした。

 

おそらくは、きれいな教室に先に入れて卒業させようという先生方の思いだったのでしょう、一足先にピカピカの鉄筋校舎へ移った教室の窓からはいつも、低学年の教室が残る、木造校舎の屋根瓦が隣に見えていて、窓際の席だったので、よく晴れた日には、てきめんに眠くなりました。

 

そんなときは、屋根瓦にモザイク状の文字が見えるような気がしました。なにが書かれていたかは、思い出せません。

 

その昔、テレビで、屋根瓦の上に座ったふたりが、星空を見上げながら語り合う(男の方がギターを弾く)光景を見たような気がしますが、今や周囲には、瓦屋根も星空もありません。

 

作品の屋根瓦の空には天空の詩(うた)が書かれていました。

 

 

現役時代には、決して味わうことのできなかった、平日午前中の甘美なひと時でした。



前回(「前世からの贈り物?」→)では、ギフテッド(最初ッからできる人たち)の話から、結局は「達人のサイエンス」という本の話になってしまいました。

ヤメるのはカンタンなんだけど、続けるのは難しい。

だもんで、達人は数が少ないんですが、むかぁ~し(といっても、そんなに昔ではありませんが)、若いあんちゃんが運転するタクシーに乗り合わせたことがあって、彼がしきりに、今の仕事を辞めたい辞めたいと繰り返すもんで、理由もきかずに、「とにかく続けろ」と、家に着くまで説得(?)したことがありました。

ジジイのよけいなお世話です。

 

それ以外のなにものでもないんですが、そのときも「達人のサイエンス」の話をした記憶があります。

   ☆

当時は、オヤジに先立たれたオフクロが、同じ市内で独り暮らしでした。

 

支援2、ヘルパーさんが週1で入っていて、まあまあ元気でしたが、オヤジに「頼む」といい残されたこともあり、一応毎日、安否確認の電話を入れて、ゴミ出しやら掃除やら食事(ホカ弁買いに行くだけですけどね)やら、ゲームの相手(勝負事が意外と好き)やら、毎週末にはちょっとした手伝いに、オフクロのところへいっていました。

 

クルマは運転しないので、自宅との往復には時々タクシーを利用していました。

 

若い運ちゃんと話をしたのはその帰り。

やがてオフクロも他界しましたが、両親の家のあと片付けをした帰りに、バスで帰ることもできたのですが、疲れたのでタクシーを呼びました。

 

するするっとやってきたのは、黒塗りのでっけえクルマ。

 

あれ、こんなの会社のえらいさんが乗るヤツじゃん、高級車なんか頼んだ覚えないのになあ、料金高いんとちゃうやろか……

 

と思いつつ、おそるおそる乗り込んでみると、あの若いあんちゃんでした。

   ☆

ぼくが乗ったときのことを覚えてくれてました。

そのときは、「辞めないでよ!」「はあ、考えときます……」みたいな感じだったけど……

ええ、ええ、辞めないでよかったです、今はハイヤーやってます、こっちの方が性にあっているみたいで ……え? 料金? 今は代打で来てるんで、フツーと同じっすよ。あれから3年ぐらいですかねえ……

オフクロのことも知っていました。

オフクロは足が悪かったので、外出時(滅多にしない)にはタクシーを利用していたのです。

 

他界したと伝えたら、一緒に悲しんでくれました。

彼もきっと今頃は、達人になっているにちがいありません。いや、もう3年もたってたから、達人だったのかな。


オチ? ありません。

 

あいすみません。



【ZenPad#05; Punzel 晩夏の感傷。祭りのおわり】

 


「読んではいけない(こちら→)」でも書いたが、原則、他人(ひと)様の作品にはあまりふれないようにしている。

かみさんが読みたいというので、話題の「成瀬は天下を取りにいく」と「成瀬は信じた道をいく」と、「成瀬は都を駆け抜ける」を買ってきたら、あっという間に読んだというので、話だけ聞かせてもらった。


話を聞いて、ぼくも成瀬のように生きたかったなあ、と思ったけれど、成瀬はきっと、成瀬のように生きたいと思って成瀬しているわけではなさそうなので、そう思っているうちはダメなのだろう。

 

ぼくのような凡人は、200歳まで生きようと思う以前に、セーセキをなんとかするために、ドリョクをしなきゃ……とか思ってしまう。いいガッコーに進学して、いいカイシャに入るためである。結果としては、あんまり実りはなかった。

 

   ☆


NHKだったと思うが「ギフテッド」という番組があった。努力しなくても、最初からできる人達のことだ。話を聞く限り、成瀬もそういう人のひとりなのではないのかなあ……と思った。


「えらい兄貴になりたくて奮闘努力((c)寅さん)」している身からすればうらやましい限りだが、こういう人たちの最大の悩みは、努力してできるようになるということ自体、理解できないこと……なんだそうである。

 

   ☆


昔、「達人のサイエンス」をという本を読んだ。


特定のスキルを身につけるために練習を始める。いわゆる努力だ。そうすると、少しできるようになる。そのあと、スキルアップはしばらく頭打ちになる。

 

続けていると、またちょっとできるようになる。そしてまたスキルアップは頭打ちになる。


「達人のサイエンス」では、頭打ちの期間を「プラトー(平原)」と呼んでいたと思うが、これがどのくらいの長さになるかは、身につけようとしているスキルの種類による。

基本的にはプラトーと漸進するスキルレベルの繰り返しなのだが、達人と凡人のちがいは、このプラトーの期間をどう過ごすかによる。簡単にいえば、プラトーの長さに耐えきれずに、途中で投げ出してしまうのが凡人で、継続できた人が達人になる。

プラトーの後のスキルアップは、難しいスキルであればあるほど微々たるものだが、結局は、その微々たるスキルアップの集積が達人と凡人とのちがいを生むというわけだ。

【ZenPad#35 Ⅸ(Nine) 次の段階へと進むサイン】

 

それをもってして全人的評価とされてしまっては、こちらとしては甚だ迷惑だが、ガッコーのセーセキも特定のスキルの評価である。

 

凡人は続けるしかなさそうだ。

「継続は力なり」。

むか~しっからいわれているけど、本当だったんだ……と、いまさらながら思う。

 

だからぼくは凡人なのだろう。

 

そっか……だからぼくの書いた話はおもしろくないんだな。出てくるのは、なにもしないでブラブラしてるか、なにかというとすぐ旅に出たくなったり、すぐ死にたくなったりする人たちばっかりだ(こういう人たちのプラトーは多分、今生には収まり切れないのかもしれない)。

 

ついでにいうなら、フントー努力をしなくてもできてしまうことが、果たして幸せなことなのかどうかも……よくわからない。

 

凡人なので。